「景清」さんのページ

 漫画家は医者を創った。医者は漫画家を救った。

 “漫画の神様”と呼ばれ、今もなお新たな読者を獲得し続けている巨匠・手塚治虫だが、70年代初頭の手塚はよく知られているように公私共にどん底に喘いでいた。
 劇画やスポ根漫画のブームに乗ることができずヒットも途絶え、もうひとつの夢であったアニメスタジオ経営も頓挫、このまま過去の人として忘れられかねなかった手塚が再浮上するきっかけとなった作品が、73年に週刊少年チャンピオン誌上で連載が始まった『ブラック・ジャック』(以下BJと略称)なのであった。
 現在でではBJは『鉄腕アトム』や『火の鳥』と並ぶ手塚治虫の代表作の地位を確立しており、おそらく我々リアルタイムの手塚治虫をあまり知らない比較的若いファン層には最も多く読まれている作品だろう。この作品のヒットを受けて復活を遂げた手塚治虫は死の寸前まで旺盛な創作活動を続けることになる。まさに医者は漫画家を見事に救ったのだ。

 今回紹介する『ブラック・ジャック創作秘話』は、BJ連載当時の手塚治虫の仕事ぶりやその周辺模様を関係者のインタビューなどを踏まえて描いたドキュメント漫画である。2009年の週刊少年チャンピオン創刊40周年記念企画の一環として読み切りとして掲載されたが、その後好評を博したのか翌年、翌々年と不定期に続編が掲載され、このたび単行本としてまとまって刊行されることとなった。
 手塚治虫は“漫画の神様”、“現代漫画文法の確立者”、“ヒューマニスト”として死後もむやみに神格化され続けてきたが、近年の漫画研究では次第にその神話も解体されつつある模様である。本作がチャンピオンに掲載された時も、最初は「ああ、またいつもの手塚先生万歳漫画が始まったのか」くらいの気持ちで読み始めた。

 ところが。何か明らかに従来の手塚ドキュメンタリーとは違う異様な雰囲気、情念が本作にはみなぎっていた。
 作画を担当した吉本浩二の絵柄は青木雄二の流れをくむ非常に泥臭さが強調されたもので、「なんでまたこんな古臭い絵を…」と最初は思ったが1話を読み終えた頃にはそんなことはどうでも良くなった。むしろ飾り立てられた手塚神話を解体し、そこから更に新たな手塚治虫伝説を立ち上げるにはこの絵しかなかったのである。

 ここで描かれた手塚治虫は全知全能の天におわす現代漫画の創造神ではない。

 とても「神様」なんていうキレイで差し障りのない言葉では形容しきれない手塚治虫の怪物的な描写の連続。

・締め切り過ぎても出来栄えに納得できなければ全く新しい話に書き直す手塚治虫。
・原稿の督促に対して「マネージャーに言ってください…」とのらりくらりな手塚治虫(でも最終的には描く)。
・目覚まし時計のスヌーズ機能の「スヌーズ」の意味についてアシスタントににじり寄る手塚治虫。
・「世界初」という言葉や流行りものにやたら弱く、またしてもアニメ制作に乗り出す手塚治虫。
・そしていざアニメ制作を始めたたら納期採算度外視でリテイクを連発する手塚治虫…。
・どん底時代、経営上のトラブルを巡り関係者に苦しい言い訳をする手塚治虫(貧乏神が!)。
・自分の名刺の裏に書いた言付けだけで予約もない飛行機にアシスタントを乗せることに成功する手塚治虫(まさに神通力)。
・原稿を放置してアメリカに出掛け、電話越しに背景処理についてスタッフに指示を飛ばす手塚治虫(自分の過去の原稿や参考資料を丸暗記していた)!

 神は神でも時に疫病神、ある時は貧乏神だった手塚治虫のケッタイな一面が青木雄二の門下生の手で描かれていくのである。だが、それらに増して何より凄まじかったのは、

・8時間で原稿を一から仕上げると宣言し、空調の止まった蒸し暑い部屋に篭もり、トレードマークであるベレー帽も眼鏡も外し鉢巻を締め、全身汗だくになり貧乏ゆすりを繰り返しながら目で喰らうように原稿を仕上げる手塚治虫。

 そこには、漫画の鬼神としての手塚治虫の姿が強烈に刻みつけられていた。


 本作は手塚治虫の畏るべき一面・笑える一面を色々と伝えてくれるが、手塚に劣らぬ重きをもって描かれるもう一人の主人公が存在する。当時のチャンピオンの編集長である壁村耐三だ。
 藤子不二雄の『まんが道』などにも登場する名物編集だった壁村はBJの連載に大きく関わり70年代のチャンピオン黄金期を築いた人物として漫画ファンの間では知られているが、本作を読むと彼もまた手塚治虫に勝るとも劣らぬ怪物だった事がわかる。まるでヤクザのような風貌、人気漫画家でも甘やかすこと無く原稿のためなら手段を選ばない恐るべき執念。間違っても一緒に働きたくはないがこういう豪傑がいたからこそ手塚治虫も復活することができたのである。
 締切を過ぎてでもギリギリまで作品のクオリティを上げようとする漫画家。漫画家の尻を叩きながらもどうにか原稿を回収し、読者に届ける役目を担う編集。漫画への思いを同じくしながらも方法論と立場の違いは越えがたい両者を結びつけるほぼ唯一の絆としての原稿。

 最近は漫画家と編集部をめぐるあつれきの話をあちこちで聞くことが多いので、だからこそ漫画家と編集部が共に妥協することなくそれぞれの道を全うする姿には感動を覚える。既に手塚治虫と同じく壁村編集長もこの世にはいないが、一度現世に復活させて『ブラック・ジャックによろしく』の作者と死闘を演じる姿を見てみたいww


 『ブラック・ジャック創作秘話』を銘打ちながらBJそのものに関する話題が少なかったり、最終話がほとんど永井豪物語と化していたりと構成上の気になる点もあるけれどエピソードはどれも非常に興味深く、手塚ファンのみならず表現を志す人間であれば読んでおいて損はないと思う。ありきたりな手塚神話は解体されようとも伝説は死なず。手塚治虫はやはりどこまでも唯一無二の手塚治虫なのだ。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2011-07-24 13:56:33] [修正:2011-07-24 14:02:36]