「やじウマ」さんのページ

疑問なのだが、なぜ誰もエディ・キャンベルのアートのすばらしさについて語らないのか。

 登場人物の顔ははっきりと見えない。目や口や鼻といったパーツは描かれたり描かれなかったり、しかも時々変わっていることもある。
 だから読んでいる人間には登場人物の名前と顔を結びつけることが困難になっている。主役のウィリアムやアバーラインでさえそうだ。娼婦達に至ってはほぼ同じでセリフによってやっと判別がつく。
 終始こんな感じだから登場人物達に感情移入することも相当難しい。こんな絵日本の少年漫画誌に載せたらそっこくたたき出されるはずだ。

 だがそれのなにが問題なのか。登場人物の顔が落書きのようになりころころと変わることは問題ではない。
 読めばわかるだろう、ここで描かれる世界は貧困によって正常な判断を失い日々を暇つぶしの酒と性でつぶし、さらには陰惨な殺人事件でさえ話の種、飯の種にしてしまう人々が住まう、つまりは地獄なのだ。
 そして住まう人々はそこになんの疑問ももたず自分達が地獄に暮らしていることも気づきはしない。それは100年たっても変わらないことも作中では明言される。
 そして唯一その事実に気づき抜け出そうと試みたのは幼い頃より残虐性を兼ね備えた人間であり、とった手法は連続殺人であるという皮肉。
 
 そんな地獄に顔が必要だろうか?だいたい闇の中から観たらどれが誰の顔かなんて見分けがつくわけがないのだ。
 色彩だって必要はない。血の色。流血シーンが多いこの世界では血をよく観るがすべての色はこの血の色で大丈夫だ。服の色も血の色で大丈夫だ、煉瓦の色も血の色で大丈夫だ、木々も血の色で大丈夫だ、海も血の色で大丈夫だ、空の色でさえ血の色で大丈夫だ。ここではトップ10で描かれたような見事な夕焼けなんてものは存在しない。そこには叙情という逃げ場はないのだ。エディ・キャンベルのアートは間違いなくそれを理解したうえで描かれている。素晴らしいとしか言いようがない。そして同時にとてもアブナイことでもある。
 
 例えば下巻で長々と書かれる殺人シーン。
 これを書いたのがデイブギボンズのようなアーティストや新井英樹のような漫画家だったらどうなのか。被害者の顔も取り出される臓物ももっとはっきり書かれるだろうし、なによりもっと感情的になっていたはず。そしてそれへの嫌悪感はもっと大きなものとなっただろう。
 だがしかし、それでは「嫌悪感」だけが付随されただけで終わってしまうはずだ。そこで終わってしまう。
 対してエディ・キャンベルによって描かれる世界でははっきり描かないことによって多重の意味の解釈が可能になってしまう。もちろん嫌悪感をもったまま読むということも可能だ。
 しかし本を2度3度読み、物語が最初から最後まで見事に繋がったそれこそ本文でも言及されたような関係のないと思われた様々な出来事が組み合わさってできた建造物のようなものになっていると気づいたときどうなるだろうか。
 博士が自分の連続殺人を正当化させるための理論が完璧であるかのように、まるで本当に神の意志が関係しているかのように思え始めた時エディ・キャンベルのアートはどういう効果を及ぼすのだろうか。
 「嫌悪感」や「否定」以外の感情を導き出すことも可能なのではないだろうか。自分は幸いにしてそういった感情を覚えていないがそのような感情を憶えてしまう人も少なからずいるのではないだろうか。考えすぎではない。だってムーアは本書で明らかにこの殺人者を肯定しているのだから。

 そういった点も踏まえてもう一度言うがエディ・キャンベルの絵はすばらしい。物語ありきで絵はあくまでオマケという意見は本書に対してとても多いが(ムーアに対しての比重が置かれた後書きからもしかして訳者ですらそう思ってるのではないか、という節はある)そんなことは決してないはずだ。
 今回はアラン・ムーアの物語、コマ割り、時代考証が素晴らしいなんて当たり前のことだから言及しなかった。(あとめんどくせえしな!)

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[投稿:2012-08-14 18:16:10] [修正:2012-08-15 12:36:13]