「nur_wer_die_sehnsucht」さんのページ

総レビュー数: 23レビュー(全て表示) 最終投稿: 2018年08月09日

[ネタバレあり]

私が『ローゼンメイデン』をいいと言うのは、「モノがモノでない」ということなんだよ。
「人形が動くわけがない」っていうのは正しい見識だよな。でも本当にそうであれば、こんなに人気が出るはずがないのな。

ジュンは何もしない現代の象徴的な人間であり、ひきこもりじゃない。家族の愛情さえ受け付けない意固地な孤立した存在だよな。いつまでもウジウジと殻に閉じこもっていたわけじゃない。
そういう「人間が人間ではない」という状況がまずあったわけ。
そこに「人間ではない物質が動く」という挿入があったんだよ。この構造が物語の骨子なのな。
まあ、私なんかは人形について特別な思いいれもあるから。人形という物が人の形をなぞることで生命を得ることを知っているからな。だから一層分かるんだと思うよ。

でも人形の文化を研究すれば、古代から人間が「物が物でない」ということを感じていたことがわかるんだよ。物質を貫通するエネルギーを感知して理解していたんだな。
だから物質をある形にすることで、貫通するエネルギーを利用できることを知ったんだな。
日本刀って人を斬るための道具だよなぁ。でもそういう存在とするために、様々な研究と努力があったわけだよ。そうして「人斬り包丁」としてのエネルギーを貫通させて日本刀というものが完成されたの。

こういう言い方をするとわかるだろ?
でも全部の物質がそうなんだって。その実存を為すエネルギーが貫通している、ということ。
その観念が『ローゼンメイデン』では命のある人形として在るわけ。
日本刀を為したように、命のある人形を作る術を完成させた「お父様」と呼ばれる存在を創造したんだな。それは日本刀と同じ延長線上にある創造なんだよ。そういう「物の実存」を表現した物語なんだよな。
もちろんそこにゴスロリなどの魅力ある要素なんかを盛り込んでもいるよ。でもそれはあくまでも装飾の魅力だからな。そこじゃないんだよ、売れる本質は。

で、ジュンが動き出すのは何がそうさせたのか、ということだ。
それは人形たちが「闘う者」だったからなんだよ。姉妹で殺し合わなければならない宿命だよ。つまり、最も人間的な要素である「闘い」というものによって、物語が躍動することになったんだな。

闘う存在だからこそ、彼女らの友情も悲しみも非常に美しくなるわけ。
もしもあれがただの愛玩の人形が喋った、なんてことだったら、そんなもの全然人気なんか出ないんだ。闘わねばならぬ、という人間に普遍のものがあったからなんだよな。人間はいつだって闘わねばならないんだから。運命とな。
その宿命が貫通したからこそ、キャラが非常に魅力あるものとなっているわけ。
まあ、言い換えれば、あのジュンという存在は現代人に通ずるものがあるからな。理屈で何でも自分の都合よく解釈したがる、というな。そして自分は何もやらない、という。
そういう存在が闘う者によって躍動を始めるから面白い、ということだな。

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[投稿:2018-08-09 22:25:18] [修正:2018-08-09 22:25:18] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

『イレブンソウル』はいいよなぁ。断然いい。
真の崇高というものが、命を擲つことにある、ということが分かっているんだよな。
「志」というものを体現した乃木こそがあの物語の中核なんだ。
その乃木は罪深い人間であったわけ。その罪こそが乃木を崇高な人間に仕立て上げた。
伊藤は生きたかった人間だった、ということだな。自分が生きる場所を常に求めていた。だから崩壊したんだな。
いおりんもいいよなぁ。本当にいい女だよ。五六八も円ももちろんいい。
自分が死ぬことを決する者は美しいよなぁ。

人間とは何なのか、という問題なんだよな。
だからあの乃木が全ての中心なんだ。
それは即ち、自分以外の何かのために死ぬ、ということなんだよ。
万にはそれがあり、奈々には無かった、ということだ。
だから万の死は他の人間に展開し、「人間」としての尊厳を創造したんだよな。
奈々には無かったから。自分だけしか大事なものがねぇだろ? だから欲しがるだけの怪物になったんだよ。
裏切られたから自分も裏切っていいっていう理屈よな。
万には兄貴がいて、自分と同じ境遇のタケチーがいたわけじゃない。大事な人間がいたんだよ。
自分以外の大事なものを持てば、それが自分をどこまでも支えることになるんだよ。それが「人間」というものなのな

フランソワ・ヴィヨンの『バラード』の冒頭に
「泉の畔に立ちて 喉の渇きに我は死す(Je meurs de soif auprès de la fontaine.)」
と書かれているんだな。
喉が渇けば水が欲しいんだよ。それは動物である人間の生命の発露なの。正しいことなんだ、生くる生命としてはな。
でもヴィヨンは飲まない、と言っているわけ。飲まずに自分は死ぬのだ、と。
何故なのか、ということだよ。飲まない理由があるんだよな。
「人間」というのはそういうものなんだよ。死ぬことを自ら選べるんだ。
現代の生きたいだけの動物にはわからんよな。三島の死だって全然わかってないバカもいるわけじゃない。なんか一生懸命に人気を欲しがってるバカよなぁ(笑)。
ヴィヨンのこの詩の「泉」とはキリスト教のことだよ。自分は神にすがらない、ということだよな。そこまで強烈なものを抱いていたから、ヴィヨンは多くの近代の人間を魅了したんだよな。
欲しがる奴はダメなの。自分が何かの価値観のために死す者こそが「人間」というものなんだよ。

まあ、『マブラブ』も似た設定だけど、どうにもこうにも『イレブンソウル』の方が崇高だよなぁ。
それは人間の強さと弱さというものがちゃんと描かれているからなんだよな。「正しさ」なんてものではないわけ。「強さ」なんだよ。
その「強さ」が数々のカッチョイイ台詞を生んでいることに気付かないといかんぞ。「カッチョイイ」って「強い」ってことなんだからな。

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[投稿:2018-08-09 22:21:38] [修正:2018-08-09 22:21:38] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

一本貫いていることでキャラが立って非常に魅力的な作品になっているんだ。
でも『無限の住人』というのは、本質は「仇討ち物」なんだよ。
昔からあるジャンルで、弱い者が自分の背負った「義」によって強気悪を斬る、というな。
そこに現代らしい面白い味付けをしたわけだよ。不死身の肉体だの異様な武器だのを。でも中心軸は「仇討ち物」なんだよな。
「仇討ち物」で何が重要かと言えば、もう仇討ちをする義と力との相克なわけ。通常は仇は悪くて強い。対して討つ側は弱くて正しい、という構図なんだな。だから「仇討ち物」というのは、不可能を義によって為す、という所がいいんだよ。
実際は強い味方が討つ側に助太刀に入って、何とかなる、というパターンが多いよな。『決闘鍵屋の辻』って言ったら、もう荒木又右衛門の英雄譚になっているじゃない。
『無限の住人』も凛という弱い娘に万次が味方についているのだから。もう「仇討ち物」の定番のパターンだよ。

だけど沙村はこの構造を捻って見せたわけ。仇が真っ黒な悪ではなく、また討つ側も真っ白な善ではない。
善と悪が錯綜する中で、物語が躍動して行くようにしたんだな。
何故躍動するのかと言えば、それは登場人物がみんな一本貫いているからなんだよ。
逸刀流は個の強さを誇る流派であり、各々の生き様は一本貫いているよな。個々を見て行くと、何が善で悪なのか、正しいのか間違っているのかがわからなくなるんだよ。
更に吐率いる無骸流が乱入し、物語は一挙にクライマックスに達するよな。
あの無骸流というのは、二者で混沌となった仇討ちの物語をもう一つの力によって強制的に動かす要素なんだぞ。

まあしかし、非常に魅力的なキャラが多いよなぁ。そうは思わんか。それは全部「一本貫いている」ということなんだよ。人間の魅力ってここだからな。このことは覚えておけよ。
一本貫いていることを鮮明に見せるために、ド変態キャラが多いわけだからな。「こんなことを一本貫いちゃってます」と読者に衝撃を与えるんだよ。
常識的な奴ってつまらないんだぞ。
最初の段階からそうじゃない。黒衣鯖人だろ? 強烈だよなぁ。
以後ロリコン剣士だの、隠密絵師だのって、みんな異常だろうよ。
極めつけは尸良だよなぁ。もう明確に邪悪な男でありながら、やっぱり一本貫いてるんだよ。
まあ、オズハンあたりになると、もう流石の私も解説出来ないよ(笑)。一体何を貫いてんのかわかんないよな。
この作品の成功は、明らかにキャラが立ってることだ。一本貫くことによってだよな。そこに異常さを加味することで、日常を乗り越えた燃えるものがあるわけだ。
でも最後はきっちりと「仇討ち物」になっているだろ?
「あ、そうだったっけ」と思い出した読者も多いと思うよ(笑)。それだけキャラの魅力に引っ張られて、力強い作品だったからなぁ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:43:56] [修正:2018-08-09 10:43:56] [このレビューのURL]

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