「nur_wer_die_sehnsucht」さんのページ

総レビュー数: 23レビュー(全て表示) 最終投稿: 2018年08月09日

[ネタバレあり]

荒木というのは、初期の頃から読んで行くと分かるわけだけど、人間の深さというものに非常に興味を持っている男なんだよな。
今時の感覚ではないんだよ。昔の人間が持っていた名誉心とか誇りというものに価値を置いているわけ。初代ジョジョは貴族の子弟だったじゃない。だから他のマンガとは一線を画するんだよな。
私は『ジョジョ』シリーズでは、「ゴールド・エクスペリエンス」の第5部か。あれが頂点だと思うな。マフィアという最底辺の人間存在を主人公とし、人間の最も崇高な何かを描こうとしているよ。

何が崇高なのかと言えば、それは「命懸け」ということなんだよ。ただ優れた能力を持っているとか、そいういう事ではないの。どんな存在であっても、命懸けで何事かをやることに「崇高」があるわけよ。
その命懸けの行為こそが古今東西のノブレス・オブリージュや帝王学の要諦であり、歴史上の偉人たちの共通点なんだから。
そこに人間存在の意義があるわけだから、それを「人間賛歌」と呼んでいるんだな。
その「崇高」を際立たせるために、反対概念としての卑しさもちゃんと描いているんだよ。また色んな価値観に生きる人間を次々と登場させているよな。
よく観れば、みんな一本通っている人物が多いことに気付くよ。それが大事なんだよ。
あの吉良だって一本通っている部分があるわけ。だから読者にも人気があって、死んだ後も活躍してるじゃない。チョコラータなんかもそうだよなぁ(笑)。

知的な攻防で魅せる部分も多々あるけど、本質はそこではないのな。善悪を超えた人間の意義と生命の躍動があるんだよ、あの作品には。
敵であっても何か感心するものがあると、物語は深くなるんだよ。
ダービー兄なんて、もうド変態でいいよなぁ。深さを求めれば、キャラも立つんだよな。
変態って、美学に通ずるものが多いんだよ。

「ジョジョ立ち」って誰かが気付いたわけだけど、あれは変態のポーズだからな。
要は自分の美学のみに生きる者の存在の姿になっているわけ。
でも町中でやってればただの「変態」なんだよ(笑)。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2018-08-10 11:30:36] [修正:2019-04-06 20:06:30] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

まあ『ドラえもん』の漫画としての面白さや出来の良さは私も否定しませんよ。でも、人生を破滅させるぐらい非常に有害な漫画だから(笑)。
大体『ドラエモン』なんて下らないと言うか、現代民主主義の権化のようなものだからな。
私の子供の頃からあったけど大嫌いだった。

何が嫌だって、あんなに人間の苦悩や夢というものをいとも容易く解決してしまうってところだよ。自分で努力して涙を流して解決することがない世界なんて子供心に不審を抱いていたからな(笑)。子供があれに夢中になれば、他力本願で目の前の苦難から逃げ出すだけの卑怯で惰弱な人間に育ちますよ。
また、同様の理由で『ET』という映画も大嫌いで。指先をくっつけただけで理解できます、なんて冗談じゃない。人生をバカにしたものは駄目なんだよ。

のび太は逃げてばかりの現代人の象徴なんだけど、決してダメっ子なんかじゃないんだよ。自分の力で解決しようとしないだけで。
のび太はいつもろくでもないことでドラエモンに泣き付くだろ?あの思考回路がもう駄目なんだよなぁ。だから、いつまでたってもイジメられる。

そして、そういうダメ人間がドラエモンという悪魔と出会ったんだな。
ドラエモンはのび太を永遠にダメなままにする存在なんだよ。努力させずに助けちゃうじゃない。しかも報酬はゼロ。どら焼きでもたまにやればいいんだろ?
要は現代人はああいう人生を望んでいるんだよ。誰かになんとかしてもらう他者依存の人生を。自分で運命を切り開く涙を厭う人生なんだよ。

私が一番嫌いで許せないのは、あの解決方法が卑怯だからなんだよ。
ドラエモンを読み取れば、卑怯者の物語と言えるんだよな。あんな卑怯な生き方を親友にさせるドラエモンなんて友達でもなんでもないよ。
また、のび太みたいなダメ人間を創り上げるのはそういう親だから。

ドラエモンというのは現代の親の象徴でもあるんだよな。子供の壁になってやらないダメ親なんだよ。子供を自分自身の力で物事を何とかしようとする人間に育てようとせず、子供に頼られ好かれることが嬉しいというバカ親なんだ。だからのび太(子供)もダメなままなんだよ。

あれを見ると現代人の「夢」というものも解るんだよ。皆あのマンガに「夢がある」って言うじゃない。その夢というのは、要は自分が努力をしないで楽しむとか幸福になる、ということなんだよ。そんなもの夢ではなく妄想なのな。
冗談じゃないよ。夢というのは自分が切り拓く以外にはありえないものなんだから。夢の価値というのはそれだけなんだよ。
あれが夢のあるマンガだって言うのは、一生掛かっても一つの夢も叶えられない人間だよ。
だって、自分の夢(妄想)を誰かが魔法みたいに手伝ってくれないと駄目なんでしょ?じゃあ一生惨めなままよ。そんな奴はこの世にいないから。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:03:56] [修正:2019-04-09 21:18:05] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

『ベルセルク』はもの凄いよなぁ。あれは間違いなく大傑作であり、壮大な物語として後世に伝えられて行くよ。

マンガがなぜ文学のように芸術足り得ないのかと言えば、もちろん隠すこと、即ち比喩というものがないためなんだな。まあ、それをやっちゃうと誰もついてこないからなんだよ。芸術っていうものは悲しみを醸しだす、誘引するものだからなんだよ。エンターテインメントは面白おかしくなければいけないんだから、漫画は芸術には出来ないの。
だから漫画の様式、構造というものは、すべて芸術から離れるようになってるんだよ。テーマもコマ割りも絵の要素もすべて、楽しませるために極められてきたんだから。
だが、『ベルセルク』はそこから一歩抜け出している。

まず、あの世界観が素晴らしいわけだけど、それは現代と中世の融合なんだよ。横軸にはな。さらに縦軸としての霊性の話でもあるわけ。
最初に読んだ時には、よくある化け物退治のパターンなのかとも思った。 しかし、その裏側に秘めていたものが現れてから圧倒的な深さを持つ作品になったなぁ。あれを読めば分かるけど、作者は最初はただの化け物退治の物語を描こうとしていたんだよ。単なる復讐物であり、その相手が超常的な化け物であるだけ。そのパターンは実は日常なんだよ。劇画でしゃぶり尽くされているものなわけ。
まあ、中世世界が好きな作家のようだよな。科学などという人間を腐らせてしまう力ではなく、人間自身の力で生きていた時代だ。その大好きな中世と現代というものを融合させたんだな。

ガッツは中世の人間の象徴なんだよ。ただ運命を受け入れて真面目に生きる人間なわけ。
一方のグリフィスというのは実は現代人なんだよ。中世にあんな奴は絶対にいない。運命を受け入れずに自称「夢」という妄想に向かおうとする奴はいないわけ。それをやるのは現代人だけなのな。だから「渇望の王」なんだよ。
しかし作者はここに恐ろしい思想を挿入した。それはキリスト教の異端である、グノーシス主義というものなんだよ。

グノーシス主義というのは、要はこの世界が実は悪魔に支配されている、という主張なんだよな。まあ、あれは宗教と言うよりも多分に実存的な哲学なんだけどな。
だから5人の超常的な悪魔の王(ゴッドハンド)がいて、その眷属(使徒)がいる、という構造になっている。そして眷属たちは、己の欲するままに振舞うことを許されている。
この思想に則って、現代人の欲望を正当化するということを重ね合わせたんだよ。
それがグリフィスの求めていた「自分の国を持つ」という夢だったんだな。あれはもう現代人の有名人になりたいとか、大金持ちになりたい、という妄想と全く同じなわけ。
ただグリフィスはそれを実現できそうな人間として構築されている。それは現代でも通用する、努力を重ねることなんだよ。しかも多大な努力をこなしていく人物に設定された。

一方でガッツには夢が無いよな。全く無い。ただ剣を振る以外の何も無い。しかし、グリフィスはそういうガッツに惹かれて行く。それは何なのか、という問題だ。
それはガッツが真の人生というものを歩んでいる、ということなんだよ。どこに出しても恥ずかしくない、運命というものを受け入れ、それと戦っている人間の美しい姿なんだよな。
グリフィスは違うわけ。ワガママなんだよ。だから他人を巻き込み、その屍を踏み越えてまで進もうとするわけ。

そしてあの「蝕」が訪れる。あれが何なのかと言えば、巨大な運命というものなんだな。誰もが死に滅び行くしかない運命。そういう死人しかいなくなる場所でないと現代人のワガママというのは実現しないということなんだよ。ワガママは必ず潰えて終わる。しかし、終わらないワガママがあるとすれば、それはこの世ではないんだよな。

ここに、この作品の醍醐味である多元宇宙論があるんだよ。あの幽世という存在がそれだ。
あれは私がよく言う「エネルギー」という思想なんだよ。
実はこの世界というのは影なんだ。エネルギーの影。エネルギーが流れて、かくあるべく出来上がって回転しているだけ。それもまたグノーシス主義の思想なんだよ。まあ、相対性理論の世界とも言えるしな。
そのエネルギーの世界、つまり本質の世界に通暁する者たちを描こうとする点に、この『ベルセルク』の最も崇高な魅力がある。
断罪の塔篇を経て、物語は大きく転回するな。この世が今までの世界ではなくなってしまう。あれはエネルギーの幽世が物質世界に融合しつつある新たな多元宇宙を示している。
クシャーンというのは中世世界だ。その王が滅び、中世と現代が融合し、さらにエネルギーがそのまま物質と等価交換する多元宇宙の世界に移行した。

『ベルセルク』の作品世界では、この世を覆っている物質的な秩序が綻んでいる。それは「黄金時代篇」の中で傭兵軍団であるという現実の物質世界の秩序に従いながらも、ゾッドのような化物が顕れることで分かるわけだ。
そしてついに物質世界は崩壊する。
その崩壊は「幽世」との融合によって為されるわけ。つまり、多元宇宙として干渉を認識しなかった「幽世」が認識されるようになった、ということなんだよ。この世の物質の秩序を構成していたエネルギーの世界が見えるようになった、ということ。

まあ、その導入にあたって、私はどうしてこんなにも見事に描写出来るのかという驚きを持っているんだよ。
あれは神智学やユダヤ教の奥義であるカッバーラの映像化だからな。新たに仲間となった魔法使いシールケの精神世界の描写なんて、知る者には本当に驚くべきものがあるんだよなぁ。
「物質がどうして斯くあるのか」という事が、あの作者には分かっているとしか思えないんだよ。タダ者じゃないんだよなぁ。
相当魔術に関して研究したんだろう。オカルトに陥らずにな。

で、私個人はあの「黄金時代」よりも後半の世界が崩壊してからの方が好きなんだけどな。ファンタジーというよりも、歴史的な象徴として読んでいるから。
あれはもうキリスト教社会と、それ以外の世界が融合した、ということを比喩的に表現しているんだな。現代社会はキリスト教的なもの、欧米的なものにあまりにも多く覆われているから分からなくなっているんだよ。

例えば、魔女シールケが最初の仕事を引き受けた村で、その村の教会が建っていた土地は元々水の精霊を祭っていた場所だと教える。
キリスト教というのは、そうやって元々の宗教を潰し、引き受けながら大きくなっていったんだ。プロテスタントが大きな力を持つ以前は、キリスト教もその多くが聖母マリア信仰だったんだよ。キリストそのものではなかったわけ。
その聖母信仰は、元々北欧にあった大地母神信仰とまた結び付いていた。
そういうことが、『ベルセルク』のあちこちに散見される。
あの使徒の怪物デザインの多くはベーコンのものだしな。どうしてベーコンをモティーフにしたのかも分かるとまた面白いんだよな。

まあ、ここからどういう展開をして行くのか、もう私もわからんよ(笑)。作者も実は大いに悩んでいるのではないかな(笑)?
なんせあまりにも壮大すぎるからなぁ。生きてる間に描き切れれば大したものだと思うよ。
ベルセルクは漫画界における『死霊』だからな。未完で終わって何の不思議もない。
「物語」として進行しつつ、読者を惹きつけていくのは大変な労力なんだよな。まあ、こういう作品を描ければ、漫画家になった甲斐もある、というものだろうな。


追記
少しだけ、一応書いておくか。
フランシス・ベーコンという男は、キュビズムに刺激されて人間存在の本質というものを模索した画家なんだよ。
あの顔シリーズが有名だよな。あれを見れば分かるけど、人間というものを探るために破壊と変形を試みた、ということだ。
どこまで変えて人間であるのか。そこに何事か見出そうとした、ということだよな。その発想はキュビズムから得ている。
他にもいろんな動物を合体させて人体を作ってみたり、と様々な模索をしているよ。
でも彼は前半の制作を全部捨てているんだ。ここが重要だな。そして10年後にまた活動を再開したわけだけど、その時に最初に書いたのがキリストの磔刑なんだよ。
ベーコンの研究をしたい方は、この点を重要視するといいと思うぞ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:23:16] [修正:2019-04-06 19:57:28] [このレビューのURL]

10点 HELLSING

[ネタバレあり]

『ヘルシング』は途轍もなくいいよなぁ。
『ヘルシング』の良さというのは、一言で言えば「狂気」なんだよ。皆が狂気の中に存在しているわけ。その「狂気」が素晴らしくいいんだよな。

こういう言い方をするとどうかとも思うけど、創作の方法としてはシェイクスピアと同じなんだよ。つまり、ある一つの思想というものを多面的に表現しているの。
例えば『リア王』であれば、全ての登場人物がリア王という一つの崇高な人格を表現するための台詞になっているんだよ。『ジュリアス・シーザー』もそう。だからシェイクスピア文学というのは素晴らしいのな。一つの物語が一つの崇高を描くために全てが集約されているから。

平野の『ヘルシング』もまたそうなんだよ。それは昔ながらの「悪」というものなんだよな。
現代人って善は大好きで悪は嫌いなんだよ。でも本当の悪って実は物凄く魅力的なの。マカロニ・ウエスタンが大流行したのは、そういう悪が魅力だったからなんだよな。
『情け無用のジャンゴ』とかなぁ。棺桶ひきずって歩く主人公なんだよ。
『ヘルシング』ではみんな悪人なんだよな。しかも飛びっきりのなぁ(笑)。だからカッコイイんだよ。全員が狂気の中に生きているだろ?
聖職者だってそうじゃない。「狂信」という紛れも無い狂気なんだよ。だからいいのな。
生き死にを超えた何かでみんな生きている。だから他人の死なんて歯牙にもかけないよな。誰かが死んで悲しんでる奴なんて一人しかいないじゃない。

最初は婦警セラス・ヴィクトリアという現代的な正義が喪われるよな。そこからもう混沌が始まっているんだ。そのセラスも後半はぶっ飛ぶからあの凄まじいロンドンの崩壊がリアリズムをもって迫ってくるんだよ。チンピラのような小悪から一挙に巨大な善と悪の闘争になって行くじゃない。そこに絶対の善も悪も存在しないんだよ。ただ生の躍動というものの巨大な物語になっていくのな。

もう全てが現代民主主義に反するものなわけだよ。だから当然現代では「悪」ということになるな。しかし、そういう「悪」に対して誰も批判しない。敵同士であってもだよ。
例えばマクスウェル。あいつの狂気は神に対する狂信なわけだ。しかし同じ狂信であってもアンデルセンとは違うよな。何が違うのか。
それはアンデルセンが名声を求めずにひたすらに異教徒を潰す人間であるのに対し、マクスウェルは大分人間臭いわけ。しかしその人間臭さの向こう側に何があるのか、ということなんだよ。
マクスウェルは「異教徒狩」というものの拡大を夢みていた人間なんだよ。つまり現代的な名声を求めていたわけではないの。
だから大司教となって自分が軍団を率いることになり、彼は狂喜するんだよな。自分の夢が叶ったからなんだよ。
しかしアンデルセンはもっと深い夢を抱いているんだよな。それは神に仕えることそのものの歓びなんだよ。対してマクスウェルは神の力を振るうことで神の栄光を讃える道を進みながら、それを踏み外してしまった、ということなんだな。
まあ難しい言い方になってしまったけど、アンデルセンは死を望んでいた人物であり、マクスウェルは生を求めてしまった、ということなんだよ。

実はこの二人に投影されているものは、キリスト教の歴史そのものなんだ。キリスト教は初期には殉教を切望する宗教であり、それが拡大するにつれて神の代行者としての権力を希求するものにもなっていったわけ。
それが歴史的に繰り返されてきた宗教なんだな。宗教改革ってそういうことなんだよ。
まあ、マンガだから分かりやすいように無差別攻撃を始めたマクスウェルを誅する、という構図になってはいるんだけどな。
私はアンデルセンのような人物はもちろん大好きだけど、マクスウェルのような人物も大好きなんだよ。人間の持つどうしようもない悲しみの体現でもあるんだよな。

人間はあまりにも巨大なものを前にすると歪んでしまうことも多いわけ。中世までの神を中心とした思想が崩れてしまった背景に、私は巨大なドーム建築というものを考えているんだよ。つまり神を間近にしてしまったんだよな。
神の栄光を讃えるために巨大ドームを建築し続けた。まあビザンティン建築だよな。それが高まって、人間が巨大なことが出来ると錯覚してしまったんだよ。神を讃えながら神に近付くことが出来たと思い上がってしまったんだな。
恐らくは人間は歴史的に過去にもそういうことがあったんだよ。だからバベルの神話のようなものが書き残されているんだよ。
まあでも、自分が信ずる価値に生きて死ねば人間はいいんだから。正しいかどうかなんてことはどうでもいいんだよな。

また、あの少佐は明らかに作者の投影なんだよ。
要は人間とは戦争が大好きである、というな。戦争ほど楽しい祭は無い、ということなんだよ。
「皆そうだろ?」っていうのが平野の正直な気持ちなわけ。そしてあの狂気の連中は全員嬉々としてその戦争に自ら巻き込まれて行くわけじゃない。誰も嫌がってないよな?
皆が敵を「ぶち殺す!」ってなってるわけだよ。全員がそうだから、物語が物凄い加速をするよなぁ。
戦争が大好きだから、戦争をする。そういう単純明快な人物なわけ。だから相手を定めて、戦争をせざるを得ないように持って行くわけだよ。
大義は一切ないのよな。ただただ戦争がしたいだけなんだよ。だってみんな大好きなんだから、何が悪いってことなんだよ(笑)。
非常に素晴らしい男だよなぁ。
勝つか負けるかさえもどうでもいいのな。どデカい戦争になれば、それでいいだけ。そういうことも演説で言っていたじゃない。

戦争って異常に楽しいものなのな。
どデカい闘争をしたかったから、アーカードを標的に選んだんだよ。それに見合う戦力がないとそうならないから化物を兵站した、ということだよな。
しかし、己が化物になっては闘争を楽しめないんだよ。純粋にはな。指揮官は人間であらねば、真の闘争を楽しめない。
それはアーカードの台詞にも何度も出て来るじゃない。「化物を斃すのは常に人間である」というなぁ。よく分かっているんだよ。人間だけが生の躍動を感じられるわけだから。不死者になってはダメなのな。

この作品の本質って戦争讃歌なんだよ。命乞食の現代人を嘲笑っている作品なのな。ジワーーっと染みて生きてるような連中にはわからないものなんだよなぁ。近代以前の「狂気」は。
その現代人の反映がセラスだったわけだ。しかし最後はちゃんとキレるよなぁ(笑)。
要は、戦争は普遍的に楽しいってことなんだよ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:37:05] [修正:2019-01-23 01:10:59] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

私が福本作品や『ライアー・ゲーム』や『嘘喰い』なんかを嫌うのは、自分の欲望からそういう馬鹿げたゲームに入っていることなんだよ。
勝ったら莫大な富を得るという、どうでもいいことで大事なものを賭けるという、ギャンブル物なんだよな。
『今際の国のアリス』はそこが違うわけ。「生きる」という当たり前に与えられた命を、生きるために投げ出さなければならない。
つまり、生きるとは死ぬことである、という死生観を彷彿とさせる作品なんだな。

もちろん先鞭がつけられた構造で、理不尽に攫われて命懸けのゲームをさせられるということは既に多々在るんだよ。しかしそういう既存の作品との違いは、登場人物たちがその中でただ生き延びるだけではない、崇高さというものを見せてくれる点にあるんだな。
人間の弱さが前提としてあり、そこから不信も不安も広がっていく。しかし、だからこそ、闘おうとする者たちが生まれてくる。
これは人類がこの世界の理不尽と闘い続けてきた歴史そのものなんだよ。
我々はこの世界に放り出されたような存在なわけ。そして否応無く理不尽と闘わなければいけない。

実はこの我々の世界と、あのアリスたちの世界はまったく同じものなんだよ。
生きるために何事かをしなければいけない。それには仲間と協力しなければいけない。力を得なければいけない。
それを拒絶すれば、あのレーザーのように、自分の死を迎えるしかないんだよ。
欲望でギャンブルをするというものとは、一線を画する作品なんだよな。
あのビーチが都市や国の形成を示すことはわかるな。いろんな人間たちが集まって、一つの規律によって仲間となっている。
そして宗教も生ずるわけだ。
規律というものが大きな集団を形成し、夢というものが大きな力を創造する。
そしてそれを破壊する力もまた現れてくる。

生きるとは何なのか。死ぬとは何なのか。それを眼前に見せ付けてくれることがあの作品の醍醐味なんだよな。
そしてそれは、自分のために生きることではない、という結論が最初から一貫している、ということだな。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 11:20:41] [修正:2018-08-10 11:20:41] [このレビューのURL]

10点 火の鳥

[ネタバレあり]

「宇宙」というものだよな。
突っ込んで言えば、『火の鳥』に通底しているのは日本古来の「無常観」というものだよ。
全てのものは必ず滅びるわけ。それがこの宇宙に存在するものの宿命なんだよ。
だから、なんだよな。滅びない「火の鳥」というものを創造し、これと関わることで無常というものを明らめているわけ。

古代日本で宝飾職人であった男が自分の欲望の末に両腕を斬り落とされる。もう職人としては終わるわけだ。しかし彼はサルタヒコとなり、新たな生を受けるよな。
無常というものに対して、人間がどう受け入れるべきなのかということがここにあるわけだよ。
この世の栄華、欲望ではないものが、無常を受け入れることで拓いて行くわけよ。
永遠の命を求める者は、全て滅びるじゃない。だからそうではないのだ、ということだよな。

もう一つの代表作である『ブラックジャック』は、一方の西洋思想というものを表現しているんだよ。人間の力で何でもしていこう、というな。しかしそこにも無常観が見え隠れしていることがわかるの。
何でも出来る天才外科医ブラックジャックが及ばないものがあるわけだよ。

『火の鳥』の場合は、未来にまで話が及ぶじゃない。でもそこでも同じことを繰り返すよな。だから人間存在の基底にあるものを描いた、ということなんだよ。
人間の進歩やなんかはどうでもいいんだ。人間存在には普遍的な重要なものがあるの。
それが無常観を受け入れることなんだよ。死すべきモータルな存在であるからこそ、人間なんだよな。
だからあの作品では、火の鳥を捕獲することに失敗した者達のその後の運命にこそ、その答えが表されている、ということだ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 10:47:40] [修正:2018-08-10 10:47:40] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

手塚治虫という人間は、漫画によって子供達に何事かを与えようとした人だな。
漫画が悪であるという時代にあって、闘い抜き、後には漫画というものを社会の中に定着させることに尽力した。漫画を確立した人だから、今も神様と呼ばれているよな。
『ブラックジャック』という作品は彼の代表作の一つに間違いないが、非常に特殊な作品でもある。
『火の鳥』と並んで、命というものを哲学的に追究したものだな。しかも現実の中でだ。
もちろん漫画という非常に制約の多いものだから、自ずと描ける限界はある。でもやろうと思ったわけだ。

この『ブラックジャック』の原点は、山本周五郎の『赤ひげ』だよ。
「医道」というものを体現したあの赤ひげを、ブラックジャックという現代の外科医に投影している。つまり手塚の理想の医師が赤ひげの中にあったんだな。

で、手塚が描こうとしたのは生命というものの姿だよな。
ブラックジャックは外科医の仕事として、何としても患者を助けようとする。つまり生命は生きるべきだ、という哲学通念になっているわけだ。しかし一方で、生命自身の力を見せつける話や、キリコのような死による解放という思想も手塚は呈示している。
本間先生がメスを腹の中に忘れた話なんかは、外科医の必要性を嘲笑うかのようだよな。あれは実話を基にしたものだよ。視覚ではない、知識でもない中で、生命は体内の異物を排除するためにカルシウムで覆って身体を守ったんだよな。そういう実例があるの。
つまり、手塚は超絶の医師に極限の現実をぶつけ、また難問を投げかけて、生命の本質というものを探り出し見せようとしたんだよ。

手塚自身も医師であったんだよな。だからあれは自身への問いと答えであり、まあアランの『定義集』のような自問自答で思索を続ける作品だったんだな。
だから「哲学的」ということだ。

ブラック・ジャック(間黒男 )は非常に一貫したキャラクターだよな。
仕事として治療を引き受け、それを何としてもやり遂げる、というものだよ。
しかし、手塚はリアリズムを強めたから。だから、時には悩み苦しみ失敗することもあるというものだな。
またやはり漫画というものの制約が今以上に強い時代だから、描きたいように描けなかったことも多いとは思うよ。
で、私にはブラック・ジャックは全く性格破綻者には見えないな。たまにそういう人がいるんだけど。まあ現代的な思考として、多額の報酬を要求するのが悪いとか、そういうことで感ずるんじゃないのか。少なくとも生命を弄ぶようなことは一切無いよな。

まあ、私の若い頃には大学病院なんかでは上でのいい外科医に手術してもらおうとしたら、みんな札束積んでたよな。リアリズムなんだよ。
もちろん漫画の中には漫画のリアリズムがあるから、現実離れしててもいいんだけどな。馬と人間の脳みそとっかえたりもしたけど、あれは流石に不可能だから。

まあ最初の方にも書いたけど、手塚はブラックジャックという超一流の人間に難しい問題を突き付けて行こうとしたものだから。だからブラックジャックの主張や思想が正しいとしているわけじゃないんだよ。むしろ手塚の本心とは別なものだよな。だからこそ生きる命に拘る医師であるんだ。
同じくキリコや琵琶丸にも現実をぶつけるよな。主役ではない人物だが、手塚にはああいう思想もあるんだよ。だから問いたださざるを得ないんだ。

漫画だから、非常に編集サイドの意向も取り入れざるを得ないものだ、ということは知っておいた方がいいぞ。だから人気を維持しなきゃならんし、社会規範の影響も大きいんだよ。悪人だからって惨い殺し方は出来ないんだしな。特に昔はな。
ただ現代人はあの超絶の腕前にばかり反応する気がするよなぁ。私なんかは命の哲学に断然興味があるけどな。まあ、現代人の卑しさと闘う話も多いけど、そっちは人気取りの要素だよな。本質は人生、命の話だよ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 10:40:42] [修正:2018-08-10 10:40:42] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

一本貫いていることでキャラが立って非常に魅力的な作品になっているんだ。
でも『無限の住人』というのは、本質は「仇討ち物」なんだよ。
昔からあるジャンルで、弱い者が自分の背負った「義」によって強気悪を斬る、というな。
そこに現代らしい面白い味付けをしたわけだよ。不死身の肉体だの異様な武器だのを。でも中心軸は「仇討ち物」なんだよな。
「仇討ち物」で何が重要かと言えば、もう仇討ちをする義と力との相克なわけ。通常は仇は悪くて強い。対して討つ側は弱くて正しい、という構図なんだな。だから「仇討ち物」というのは、不可能を義によって為す、という所がいいんだよ。
実際は強い味方が討つ側に助太刀に入って、何とかなる、というパターンが多いよな。『決闘鍵屋の辻』って言ったら、もう荒木又右衛門の英雄譚になっているじゃない。
『無限の住人』も凛という弱い娘に万次が味方についているのだから。もう「仇討ち物」の定番のパターンだよ。

だけど沙村はこの構造を捻って見せたわけ。仇が真っ黒な悪ではなく、また討つ側も真っ白な善ではない。
善と悪が錯綜する中で、物語が躍動して行くようにしたんだな。
何故躍動するのかと言えば、それは登場人物がみんな一本貫いているからなんだよ。
逸刀流は個の強さを誇る流派であり、各々の生き様は一本貫いているよな。個々を見て行くと、何が善で悪なのか、正しいのか間違っているのかがわからなくなるんだよ。
更に吐率いる無骸流が乱入し、物語は一挙にクライマックスに達するよな。
あの無骸流というのは、二者で混沌となった仇討ちの物語をもう一つの力によって強制的に動かす要素なんだぞ。

まあしかし、非常に魅力的なキャラが多いよなぁ。そうは思わんか。それは全部「一本貫いている」ということなんだよ。人間の魅力ってここだからな。このことは覚えておけよ。
一本貫いていることを鮮明に見せるために、ド変態キャラが多いわけだからな。「こんなことを一本貫いちゃってます」と読者に衝撃を与えるんだよ。
常識的な奴ってつまらないんだぞ。
最初の段階からそうじゃない。黒衣鯖人だろ? 強烈だよなぁ。
以後ロリコン剣士だの、隠密絵師だのって、みんな異常だろうよ。
極めつけは尸良だよなぁ。もう明確に邪悪な男でありながら、やっぱり一本貫いてるんだよ。
まあ、オズハンあたりになると、もう流石の私も解説出来ないよ(笑)。一体何を貫いてんのかわかんないよな。
この作品の成功は、明らかにキャラが立ってることだ。一本貫くことによってだよな。そこに異常さを加味することで、日常を乗り越えた燃えるものがあるわけだ。
でも最後はきっちりと「仇討ち物」になっているだろ?
「あ、そうだったっけ」と思い出した読者も多いと思うよ(笑)。それだけキャラの魅力に引っ張られて、力強い作品だったからなぁ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:43:56] [修正:2018-08-09 10:43:56] [このレビューのURL]

両作品とも、最初はただのチンピラだろ?
特に『エア・ギア』なんて自己中心的なワガママ坊ちゃんじゃない。自分の技で駆け巡る不良少年を描きたかったんだろう。しかし、やっぱり二人の主人公には狂気があるんだよ。損得以外の何かに向かって進むようになって物語は加速するんだよ。
『天上天下』も同じだよな。不良少年なんだよ。大暮維人は不良少年が好きだし、そこに突っ込んで行ける人間なんだ。でも皆が大事な何かを持っているよな。それが明らかになるに従って、物語の骨格を構成するようになっているよ。ただのワガママのバトル物とは違うじゃない。
何がカッコイイのか、ということを歴史的な人物の生き様からわかっている作者なんだな。「反運命」というものだよ。

『エア・ギア』はただの不良だった人間が、「自由」というものを渇望したことから始まる。しかし、そこへ様々な人間の深い思いが描かれていって、同様に物語の骨格が構成されて行く。
だから二つとも、その骨格を崩壊させるような存在が登場してくるじゃない。そういう存在を得て、物語は壮大になって行くんだよ。
つまり、物語の価値観が揺るがされることで巨大化して行くんだな。
不条理が人間を深く、大きくするということだ。

でも、物語を自分では納まりきれなかった、ということがよくあった漫画家だな。狂気なんだよ。
大暮維人は絵が上手いんだよな。だから弾けようとしても収まっちゃうことも多いんだよ。そこがちょっと残念だよなぁ。
だから台詞にあまり感動しないわけ。画で見せようとしてしまうからな。
でも、ある程度は画で弾けることが出来る人間だから。
ここは難しい問題なんだよ。

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[投稿:2019-01-18 10:38:01] [修正:2019-04-09 21:12:14] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

最初はどうしようかと思ったけどな(笑)。
後半は全くもって圧巻だったな。こういう壮大な物語が大好きなんだよ。
始まりはやっぱり大したことを考えてないんだよ。韓国人だから、韓国のことを日本に紹介しただなんてちょこざいなことをやってるよな。まあ「虎兄」の話だけは良かったけどなぁ。

物語の骨子は復讐なわけだけど、重要なことは、なぜ後半に壮大になって行ったのか、ということだよ。そこが重要なわけ。
『ヘルシング』の場合もそうだけど、最初は大したことを考えてないんだよ。でも『ヘルシング』の場合、作者が狂気に身を委ねたことが成功に繋がった、ということだよな。
『新暗行御史』の場合、何があったのか。
それは亜志泰という無敵のキャラを生み出したことなんだよな。人間では絶対に敵わない敵を、悪魔を。しかも究極の邪悪を設定したことにあるんだよ。
それに立ち向かうわけだから、納得の行く手段にするために相当苦しんだはずだよ。あの壮大なラストは、絶対に最初からは考えてないよな。

じゃあ、立ち向かうために何を設定したのか。
それは人間の歴史的な「命」というものなんだよ。つまり自己の生の最大の躍動をもって為した、ということなの。
最初はちょっとズルイ設定だろ? 馬牌で自分は何もしねぇで部下に全てを解決させるっていうな。だから序盤はどうにもつまらん物語であったわけよ。そこをバランスよくするために、主人公を病弱にもしていたんだよな。
しかし、生の躍動を考え始めてから途端に良くなっていったわけ。

あの「殺形刀(サルヒョンド)」なんて最高にいいよなぁ。それを操る元述の凄まじい命がまた良いよ。ああいうものが続々と生まれて行ったんだよな。
まあ、やり過ぎて春香なんて、もう人間ではいられなくなっちゃったわけだけどな(笑)。あまりの生の躍動で、ああいうことにならざるを得なかったんだよ。

後半から主人公の回想がどんどんスゴイものを生んで行くじゃない。それがあの壮大なラストに上り詰めるわけだ。
これはエネルギーのラインを示しているのな。いい回転に入ると物語は活性化して行くんだよ。人生も同じな。
理性で考えて行くと、どうしようもないつまらんものしか出来ないわけ。よく覚えておけよな。

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[投稿:2018-08-09 09:27:55] [修正:2019-04-03 19:55:24] [このレビューのURL]

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