「nur_wer_die_sehnsucht」さんのページ

総レビュー数: 23レビュー(全て表示) 最終投稿: 2018年08月09日

10点 HELLSING

[ネタバレあり]

『ヘルシング』は途轍もなくいいよなぁ。
『ヘルシング』の良さというのは、一言で言えば「狂気」なんだよ。皆が狂気の中に存在しているわけ。その「狂気」が素晴らしくいいんだよな。

こういう言い方をするとどうかとも思うけど、創作の方法としてはシェイクスピアと同じなんだよ。つまり、ある一つの思想というものを多面的に表現しているの。
例えば『リア王』であれば、全ての登場人物がリア王という一つの崇高な人格を表現するための台詞になっているんだよ。『ジュリアス・シーザー』もそう。だからシェイクスピア文学というのは素晴らしいのな。一つの物語が一つの崇高を描くために全てが集約されているから。

平野の『ヘルシング』もまたそうなんだよ。それは昔ながらの「悪」というものなんだよな。
現代人って善は大好きで悪は嫌いなんだよ。でも本当の悪って実は物凄く魅力的なの。マカロニ・ウエスタンが大流行したのは、そういう悪が魅力だったからなんだよな。
『情け無用のジャンゴ』とかなぁ。棺桶ひきずって歩く主人公なんだよ。
『ヘルシング』ではみんな悪人なんだよな。しかも飛びっきりのなぁ(笑)。だからカッコイイんだよ。全員が狂気の中に生きているだろ?
聖職者だってそうじゃない。「狂信」という紛れも無い狂気なんだよ。だからいいのな。
生き死にを超えた何かでみんな生きている。だから他人の死なんて歯牙にもかけないよな。誰かが死んで悲しんでる奴なんて一人しかいないじゃない。

最初は婦警セラス・ヴィクトリアという現代的な正義が喪われるよな。そこからもう混沌が始まっているんだ。そのセラスも後半はぶっ飛ぶからあの凄まじいロンドンの崩壊がリアリズムをもって迫ってくるんだよ。チンピラのような小悪から一挙に巨大な善と悪の闘争になって行くじゃない。そこに絶対の善も悪も存在しないんだよ。ただ生の躍動というものの巨大な物語になっていくのな。

もう全てが現代民主主義に反するものなわけだよ。だから当然現代では「悪」ということになるな。しかし、そういう「悪」に対して誰も批判しない。敵同士であってもだよ。
例えばマクスウェル。あいつの狂気は神に対する狂信なわけだ。しかし同じ狂信であってもアンデルセンとは違うよな。何が違うのか。
それはアンデルセンが名声を求めずにひたすらに異教徒を潰す人間であるのに対し、マクスウェルは大分人間臭いわけ。しかしその人間臭さの向こう側に何があるのか、ということなんだよ。
マクスウェルは「異教徒狩」というものの拡大を夢みていた人間なんだよ。つまり現代的な名声を求めていたわけではないの。
だから大司教となって自分が軍団を率いることになり、彼は狂喜するんだよな。自分の夢が叶ったからなんだよ。
しかしアンデルセンはもっと深い夢を抱いているんだよな。それは神に仕えることそのものの歓びなんだよ。対してマクスウェルは神の力を振るうことで神の栄光を讃える道を進みながら、それを踏み外してしまった、ということなんだな。
まあ難しい言い方になってしまったけど、アンデルセンは死を望んでいた人物であり、マクスウェルは生を求めてしまった、ということなんだよ。

実はこの二人に投影されているものは、キリスト教の歴史そのものなんだ。キリスト教は初期には殉教を切望する宗教であり、それが拡大するにつれて神の代行者としての権力を希求するものにもなっていったわけ。
それが歴史的に繰り返されてきた宗教なんだな。宗教改革ってそういうことなんだよ。
まあ、マンガだから分かりやすいように無差別攻撃を始めたマクスウェルを誅する、という構図になってはいるんだけどな。
私はアンデルセンのような人物はもちろん大好きだけど、マクスウェルのような人物も大好きなんだよ。人間の持つどうしようもない悲しみの体現でもあるんだよな。

人間はあまりにも巨大なものを前にすると歪んでしまうことも多いわけ。中世までの神を中心とした思想が崩れてしまった背景に、私は巨大なドーム建築というものを考えているんだよ。つまり神を間近にしてしまったんだよな。
神の栄光を讃えるために巨大ドームを建築し続けた。まあビザンティン建築だよな。それが高まって、人間が巨大なことが出来ると錯覚してしまったんだよ。神を讃えながら神に近付くことが出来たと思い上がってしまったんだな。
恐らくは人間は歴史的に過去にもそういうことがあったんだよ。だからバベルの神話のようなものが書き残されているんだよ。
まあでも、自分が信ずる価値に生きて死ねば人間はいいんだから。正しいかどうかなんてことはどうでもいいんだよな。

また、あの少佐は明らかに作者の投影なんだよ。
要は人間とは戦争が大好きである、というな。戦争ほど楽しい祭は無い、ということなんだよ。
「皆そうだろ?」っていうのが平野の正直な気持ちなわけ。そしてあの狂気の連中は全員嬉々としてその戦争に自ら巻き込まれて行くわけじゃない。誰も嫌がってないよな?
皆が敵を「ぶち殺す!」ってなってるわけだよ。全員がそうだから、物語が物凄い加速をするよなぁ。
戦争が大好きだから、戦争をする。そういう単純明快な人物なわけ。だから相手を定めて、戦争をせざるを得ないように持って行くわけだよ。
大義は一切ないのよな。ただただ戦争がしたいだけなんだよ。だってみんな大好きなんだから、何が悪いってことなんだよ(笑)。
非常に素晴らしい男だよなぁ。
勝つか負けるかさえもどうでもいいのな。どデカい戦争になれば、それでいいだけ。そういうことも演説で言っていたじゃない。

戦争って異常に楽しいものなのな。
どデカい闘争をしたかったから、アーカードを標的に選んだんだよ。それに見合う戦力がないとそうならないから化物を兵站した、ということだよな。
しかし、己が化物になっては闘争を楽しめないんだよ。純粋にはな。指揮官は人間であらねば、真の闘争を楽しめない。
それはアーカードの台詞にも何度も出て来るじゃない。「化物を斃すのは常に人間である」というなぁ。よく分かっているんだよ。人間だけが生の躍動を感じられるわけだから。不死者になってはダメなのな。

この作品の本質って戦争讃歌なんだよ。命乞食の現代人を嘲笑っている作品なのな。ジワーーっと染みて生きてるような連中にはわからないものなんだよなぁ。近代以前の「狂気」は。
その現代人の反映がセラスだったわけだ。しかし最後はちゃんとキレるよなぁ(笑)。
要は、戦争は普遍的に楽しいってことなんだよ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:37:05] [修正:2019-01-23 01:10:59] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

漫画の世界はともかく、人間って悪への魅力を感じているわけ。特に現代は自分勝手に生きたい人間ばかりだから、強い力を持って自分の思い通りに生きるアウトローが大好きなんだよ。
その魅力を追求したから、あの作品はいいんだよな。
『ヨルムンガンド』は、その点でちょっと引いていた。そういう世界を描きたかったんだろうけど、作者が迷っていたし、よく分かってなかったのかもしれない。しかし描き上げて掴んだんだよな。だから『デストロ246』では思い切りやってるよ。非常に面白い作品になっているよな。
私は『ブラックラグーン』の方が好きだけど、それはカッチョイイ台詞なんだよ。それは「狂気」をちゃんと描こうとしているから出て来るものなんだよな。
凄い台詞があった。
「ロック、見るな! 魂に傷がつく!!...」

張はいいなぁ。「トゥーハンド、おめぇは脇が甘いんだよ!」
でもあの銃は無いなぁ。あまりにも使いにくい。
私はやっぱりフライ・フェイスだな。全ての言動が一つの信念で貫かれている。善も悪も無い境地にいる。
あとはロベルタか。恩義の人間はどこでもいいなぁ。
あそこに行きたいなぁ。

まあ一応言っておくけど、あんなに一本通ったアウトローは現実にはいねぇし、ロックなんて絶対にありえないキャラだからな(笑)。作者自身も、既にロックの思考を持て余していると思うよ。煮え切らない、何をしたいのかさっぱり分からん人間になっているからなぁ。
初回エピソードは良かったんだよ。以降、段々とわけが分からなくなったよな(笑)。
つまり、逆ギレしてラグーン商会に入ったのはいい。最初のうちはおっかなビックリでいるのもいいんだ。

しかし、一丁前に作戦立案なんかし始めたから混乱してきたんだよ。他のキャラに比べて、元々何も持ってない男だから、それを打破したかったんだろうけどな。頭のいい男というキャラ設定にしたかったんだろう。
だけど、あのアウトローの世界で渡り歩く頭の良さというのは、冷酷非情でなければならないんだよ。しかしそうすれば、ロックのキャラは死ぬのな。そうじゃない、似非優しさというものがキャラだったんだから。でも、優しいだけだとあの世界では生きて行けないんだよ。
冷酷にも、惰弱にも出来ず、もうどうしようもないわからないキャラになったのな。そして多分それが原因で作者は不定期連載になったんじゃないのかな(笑)。
まあ、変なことを考えずに、情に流されるキャラのままにすれば良かったんだけどな。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2019-01-20 18:04:29] [修正:2019-01-20 18:04:29] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

この『ヨルムンガンド』には善が無い。何しろ武器商人なんだから、戦争を引き起こし儲ける現代の巨悪だ。
その中で辛うじて善を求めるのは主人公のヨナだけなんだな。まあヨナは子供だから。単純な解釈しか知らないからなんだよ。
だからココにとっては可愛いんだよ、ヨナが。他のみんなもそう。自分達が汚れた世界に生きるのを知っているから、ああいう眩しいものが愛おしい。
まあ、そのヨナにしてもバンバン人を殺すんだけどな(笑)。
でもそれは自分が悪いのではなく、この世に武器があるからだと思っている。

ガキなわけだが、一つだけ素晴らしいものをもっている。それが恩と縁で生きる、という生き方なんだな。
自分が何者であるのか、自分の役目はなんであるのか。そういうことを全てわかっている者の言葉なんだよ。
あの悪の中に生き、悪の中で崇高なものを求める。それがよく描かれている作品なんだな。
まあ、エンターテインメントだから、所詮は軽いものだから無理に良く見ようとしなくてもいいわけで。ああいうのが好きな人が見れば、それでいいんだよ。

兵器、特に銃器の表現は、古今東西のコミックのなかでも群を抜いていい。作者が相当好きなんだろう。むしろそっちが好きで描いているような感じもあるし。
ゴルゴ何とかのような荒唐無稽のものとは一線を画す作品だな。「マンガ」を楽しむと言うより、趣味人を唸らせる、というものがある。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-09 22:55:40] [修正:2019-01-20 17:20:19] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

『バキ』の面白さの本質というのは、あの偉大なる範馬勇次郎なんだよ。
「地上最強の雄」というなぁ。

格闘マンガの要諦は、強さを乗り越えることにあるわけ。
どういうことかと言うと、強い者同士が対戦することが格闘物の構造だよな。そして、面白さというのは常に意外性にあるわけだよ。
そうすると、格闘物の命というのは、その展開の意外性にある、ということになるわけ。
つまり、戦いの展開に於いて、一方がその強さを示した場合、もう一方が意外な反応を示すことで成立する、ということだ。
だからある設定を一方に施して、それが常軌を逸した強さを示す、とするよ。そうしたらもう一方はそれ以上の常軌を逸する強さを示す、という展開だよ。
またはそういう強さを難なく受け流すことでも、意外性というのは達成できるわけ。
そこにいろんな理由付けをしてやるのが、作者の技量になるのな。

恐らくそのことに気付いたのは、夜叉猿との格闘だと思うよ。あそこに『バキ』の構造の全てがあるよ。
相手は強大すぎて、全ての技が通用しない。そういう設定に自分を追い込んで、じゃあどうすれば勝つように出来るのか。
その自分を追い込む設定の中で、発想が生まれることに作者自身が気付いたんだよな。
そして話を盛り上げる意外性の本質を掴んだわけ。
勇治郎が後に、いとも簡単に夜叉猿を仕留めて首を持って来るよなぁ。ああいうことが、また一層のエネルギーにもなるんだよ。

つまり、自分が戦わなければならない理由として、大事な者の死が必要だ、ということだ。ここに『バキ』の物語の深さが生まれるわけ。
だから次々と異常な強さを示す登場人物を設定し、それらを戦わせることで、更に強さの設定を思いつく、というな。
そういう追い込みがあの作品の面白い意外性の源泉となっている。

まあしかし、物語の核となる母親の死による勇次郎への復讐というものがあったわけだ。それがあのラストに於いて、ああなっちゃっただろ(笑)?
範馬勇次郎が『バキ』の本質だというのは、全ての意外性は勇次郎によって乗り越えられる、ということなんだよ。
あの存在があるから、際限なく色々な強さを思いつくことが出来たのな。

しかし、その本質が物語の決着を非常に困難にしてしまったんだよ。勇治郎に勝つことが出来ない物語なんだよな。勇次郎が全てに君臨することで成立する物語だったから。
だから、あのような腰砕けのラストにするしかなかった。勇次郎に勝つことなく、圧倒的な強さを示しながら親父の子供への愛情による譲歩、という形で終息したんだな。
「親子喧嘩」という限定的な、そこに情愛の通う形にするしかなかったんだよ。もう終盤ではしきりに「親子喧嘩」ということを強調していたじゃない。
あれは要するに「手加減するぞ」という伏線だったわけだ。
もしもバキが勇次郎に勝ってしまうと、これまでの勇治郎の無敵の強さによって支えられてきた物語が崩壊してしまうんだよ。
あれは範馬勇次郎によって支えられてきた物語なんだよな。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-10 11:51:44] [修正:2019-01-20 15:03:11] [このレビューのURL]

手塚治虫だけど、あの人は漫画を描くことが目的だった人間じゃないんだよ。あれは漫画家ではないの。だから自分の描かざるを得ないものを為した、という人物ではないんだ。こう言うと反論もあるだろうけどな。
手塚治虫は漫画というものの進化をしたかった人間なんだよ。それまで子供騙しの絵本以下だった漫画というものを、人生に有用な芸術に近づけることを期したんだよな。
そのためにテレビという新しく今後のメディアの中心となるものへ漫画を投下したわけ。
また漫画というものが、こういうことも描けるのだということを訴え続けたんだ。

人間というのは中心軸が変わればまったく違う動きになって行くものなんだよ。
自分の漫画を描こうと思えば、手塚のような真似は絶対に出来ないわけ。でも手塚のような目的になると、ガンガン量産できるんだよ。
大体毎日10ページくらいは描いていたんじゃないか? でも漫画家にはそれは不可能なことは分かるだろう。
でも漫画の地位向上のために動くと、今度はそれを成し遂げる算段が出てくるんだよ。漫画自体の描き方ももちろんそうだし、優秀なスタッフを揃える、ということもそう。私は一人で仕上げていたとはまったく考えてないよ。まあ詳しく検証したわけではないけどな。
だから代表作は幾つかあっても、全部が素晴らしいわけではないだろ? キャラだって使い回しが多いじゃない。

でも中心軸からすれば、それでいいということなんだよ。
ああ、手塚は医者であったことは無いからな(笑)。医師免許を持っている、というだけ。それもあの時代の混乱から手に入れたようなもので、博士論文だってたしかそうだよ(笑)。
もちろん真面目にやっていた人だから医学的な素養は人一倍あるよ。でも『ブラックジャック』なんかは医者であれば絶対に描かないようなこともたまにやってるから(笑)。
でも、それも「漫画の地位向上」という目的の上にあるわけだから、それでいいんだよ。
人生は中心軸次第なのな。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2019-01-18 10:28:07] [修正:2019-01-20 14:59:22] [このレビューのURL]

10点 永遠の0

[ネタバレあり]

何故この作品が戦争の美化だの反戦だのと言われるのか、私にはまったく理解不能ですね。
現代人の頭の悪さというか、性格の悪さと言うか。もう「戦争」というものが出てくるだけで、異常反応を示す。どんな美しい話も戦争が描かれるだけで、戦争の是非や否定に走ってしまう。
『永遠のゼロ』という作品は、現代日本の腐敗というものを呈示した作品なのね。そして戦前の人間の美しい生き方というものを呈示し、現代で喪われているものを取り戻そう、という文学。戦争ではなく、「生き方」の話なんだよ。

あの健太郎という若者が現代人の象徴となっているわけ。他者の評価を求め、そのために優秀であろうとし、それが出来ないと今度は逃げ回っていくだけの自堕落な人間となる。自分の損得で生きる臆病者の卑怯者なんです。
そういうダメ人間=現代人が、昔の人達の美しい真の生き方を知る、というのがこの作品のテーマになっているわけ。何でこれが分からないのか全く分からない。
戦後に喪って戦前にはあったものなんですよ。それは「戦争」なんかじゃないの。美しい心の問題だから。
その美しい生き方がどういうものかと言えば、それは自分の目の前にある現実(運命)にきちんと向き合って、それから逃げずに対処することだよ。何らかの大事なものが中心にある生き方。だから逃げないんだな。
厳しい現実となる戦争の中でもそうやって貫いた人物が、主人公たちの祖父の久蔵だった、ということ。

最初は母親の思いを酌んで始まるだろ?それは自分の存在の根底である母親を中心にした思考だった、ということ。つまり美しい人生の始まりとなる基本なんだよ。
そしてまず久蔵と同じく零戦乗りであった長谷川という人物が出てくる。彼は生き残って戦後にいるわけだけど、それを激しく後悔している。その後悔は、戦後の日本が自分たちの美しい心を踏みにじっているからなんですよ。
そこから久蔵の人生を知るにつれて、その美しい生き方が孫達に伝わって行くわけ。
そして「ゼロ」と米軍に恐れられた零式戦闘機が、何であったのかが分かって行く。

まあ、零戦が戦闘機にしか見えない奴はダメですよ。モノをモノとしか捉えられない、戦後の物質主義者です。魂というものの崇高が分からない。
「永遠の」と題した著者にはよく分かっていることなんだよな。
大体戦争なんて否定するものじゃないのね。これは人間の文化の一環だから。だから歴史上常に戦争は在るわけ。今もちゃんと在る。
必要なことは現実を受け入れて、どんな時代でも美しく生きようとする心だけなんだから。だから戦争の中でも崇高も美も幾らでもあるわけ。
今の日本人の戦争否定なんて、要は自分が損したくないだけのワガママに過ぎないから。
だから戦争反対と言いながら、誰も世界の戦争を止めに行かないだろ?。所詮自分だけの問題だからなのな。

それに日本が戦争を放棄したとかほざいてるけど。それって自分たちが安全な場所にいるからなんだよ。どっかの国が侵略しに来ても「自分達は戦わないけど、アメリカさん、戦って死んでね」っていうことだから。
もう世界最低の民族ですよ。
この今の日本の態度って『永遠のゼロ』の中に出てくる戦時中の軍の上層部と全く同じものだから。他人がいくら死んでも、自分たちの安全を謀るっていうね。
恥を知れ、ということですね。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-14 23:14:49] [修正:2019-01-18 12:31:41] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

まあ、『喧嘩商売』というのは、今の時代に対する反骨だよな。
反骨の作家であることは、すぐに分かったけど、問題はその反骨の仕方というものがあるわけだ。
ワガママ勝手に「社会が悪い」とか「大人は汚い」と言ってる奴はダメなんだよ。
その反骨が確かな形、魅力的なものにならなければいけないわけ。
それがこの作品にはあった、ということだな。

まあ、佐藤十兵衛は作家の理想像なんだよな。頭が良くてしかも強い。家は金持ちで、しかもその中で好き勝手に出来る環境がある。
いい加減な男のように見えて、女に関しては驚くほどに関心がないよなぁ。まあ、最初はその辺も結構な人間にしようともしたけど、途中で気づいたんだよな。そこにはまれば十兵衛の魅力は半減する、ということだな。だから女方面は、あの特殊なギャグ集団に任せたんだよ。

あの作家の反骨は今の社会と言うよりも、多くの部分が漫画業界のことだよなぁ。理不尽が通ってしまうように見えたんだろう。
しかしそれは、自分が真面目に仕事をしている、という自負があるわけだよ。遊びもしないで、また甘えもしないでやってきたという自負が。だからこそ、そうではない作家に対して、さらにそれ認める業界の甘さを許せない、ということだな。
だから木多のヤバいギャグというのは、そういう漫画業界を困らせるためのものだろ?
まあ、困らせること自体が目的だから、別に危ない話が好きなわけではないよな。恐らく非常に常識的な人間なんじゃないか?

それでこの作品の内容だけど、武術、格闘技、喧嘩ということに関して驚くほど精通しているよ。板垣とは全然違うよなぁ(笑)。リアルさを求めて、結構、研究し取材したんだろう。
それが確固たる世界を構築している、ということだな。
取材をどのように行なったのかはわからんけど、実際にアウトローに会っているだろう。
あのキャラたちはみんな立っているじゃない。それは、それぞれにバックボーンを詳細に決定しているからなんだよな。それはまた、こういう性格の人間は、どのように思考し動くのかということがわかっている、ということなんだよ。
ここが素晴らしい作家だよなぁ。
しかし、欲を言えば周囲のキャラがあまりにも魅力的だから、肝心の主人公の影が薄いよな(笑)。多分、そこを悩んでいるんじゃないのか(笑)。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2019-01-18 10:17:38] [修正:2019-01-18 10:17:38] [このレビューのURL]

ゴロセウムは実にいいよなあ。
「バカ」であることは、旧制高校、また昔の伝統的な大学で最も大事にされていた項目だった。
「かっこいい!」「面白ぇ!」というような純粋で単純で強烈な感動が、バカを生み出す。
自分が死ぬかもしれない殺し合いを楽しく展開できるのは、バカだからだ。
しかし、この世はバカにしかできない領域がある。
ミッシェル・フーコーは「近代は狂気を檻に閉じ込めた」と言った。その結果、お利口さんばかりが幅を利かせるようになってしまった。
清々しいバカはこんなにも美しいのに。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2019-01-06 10:59:03] [修正:2019-01-06 10:59:03] [このレビューのURL]