「nur_wer_die_sehnsucht」さんのページ

総レビュー数: 23レビュー(全て表示) 最終投稿: 2018年08月09日

[ネタバレあり]

『ギガントマキア』は崇高な作品なんだよ。
あれは現代文明に対する大否定なんだからな。
それを「プロレス」というもので表現したわけだよ。

プロレスというのは、口の悪い、また頭の悪い連中には「八百長」だの「ショー」だのって言われるよ。しかし本質はまったく違うわけ。
あれは相手のどんな大技も真正面から喰らって、自分も技を出す、ということなんだよな。それをお互いの絶対の信条としている生き様のことなんだよ。
あの主人公はそれをやっているわけ。

相棒は効率的な機械だよな。だから最も効率の良い合理的な方法論を導き出せる。
まあ、そういうものがあると思い込んでいるのが現代人なわけ。
あの相棒に関しては、主人公への思いがあるからまだいいんだけど、あの敵どもは違う。完全に損得で動いているわけだよ。

巨人というのは神話の世界だ。要は人間を大きく超えた存在であり、無敵の力を持っている。
そういうものはこの世界に実際にある。だからそれをどうするのか、という問題提起をしているんだよ。科学なんてものを手に入れて、お前(人間)はどうするのだ、という問い掛けなのな。
答えはあの中にあるように、力の大きさなどは一切関係無い、ということなんだよ。姿形と共にな。この世にはもっと重要なことがあるわけ。それをプロレスの壮絶な生き様というもので見せている作品なんだよ。

まあ、普通は『ベルセルク』なんてものを描いてしまえば、他のことは一切出来ないはずなんだけどな。怖ろしく底の深い作家だよなぁ。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-17 13:08:52] [修正:2018-08-17 13:08:52] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

秀逸だよなぁ。
これは霊に関して、相当調べているよ。特に拝み屋と呼ばれる除霊の霊媒師達のことをな。
元々人間心理の洞察に優れた作家なんだよ。だから残留エネルギーとしての霊の世界を、あれほどまでに見事に表現できたんだな。

他の心霊ホラー物というのは、どうにもこうにも荒唐無稽なんだよ。ただ単に、読者を心霊で怖がらせようとする安直なものだったわけ。
例えば『コープス・パーティ』なんてひどいものだよな。人気はあったようだけどな。
「鬼の手」とかって使うアレも、最低のものだよ(笑)。
「この世には人間には隠された、見えない世界がある」というのは、漫画の設定としてはよくあるものじゃない。人知れずそれと戦う人間がいる、とかなぁ。
それは、誰も知らないんだから成り立つ、という論理的な設定ではあるわけ。心霊ホラー物というのも、そういう設定の一つなんだよ。

しかし、心霊現象を現実の現象と捉え、その現実を設定の要素として踏まえた作品は本当に少ない。更にそれを漫画としてエンターテインメントの傑作とした作品は稀有なことなのな。
心霊現象の実話の漫画化は多いよ。それだけで月刊誌が成立もしているよな。
しかし、それは単に現実の漫画化だから。面白くはあっても、そこから読者が本来の漫画として楽しめる作品にはなかなかなれないわけ。
それは、小説や歴史の出来事の漫画化と同じものだ、ということだよな。漫画作品を楽しんでいるわけではないの。元になる小説や歴史そのものの楽しさなんだよ。

しかし『低俗霊』シリーズは違うんだよ。独自の理解から、霊と人間の世界の交叉を描いているんだよな。
敢えて低級霊という、比較的除霊の容易い対象を相手にする、という設定は、人間の弱さや悲しみというものを中心に描きたかったからだよな。
奥瀬サキの他の作品もそうだけど、まあ、人間のクズを描かせると相当な才能を発揮するよなぁ(笑)。
『低俗霊デイ・ドリーム』なんかは、原作者になっているけど、漫画としては一番秀逸だよな。それはギャグの要素が絶妙だからだよ。また設定として、果敢に生きる主人公がいいよなぁ。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-10 11:43:52] [修正:2018-08-10 11:43:52] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

私が福本作品や『ライアー・ゲーム』や『嘘喰い』なんかを嫌うのは、自分の欲望からそういう馬鹿げたゲームに入っていることなんだよ。
勝ったら莫大な富を得るという、どうでもいいことで大事なものを賭けるという、ギャンブル物なんだよな。
『今際の国のアリス』はそこが違うわけ。「生きる」という当たり前に与えられた命を、生きるために投げ出さなければならない。
つまり、生きるとは死ぬことである、という死生観を彷彿とさせる作品なんだな。

もちろん先鞭がつけられた構造で、理不尽に攫われて命懸けのゲームをさせられるということは既に多々在るんだよ。しかしそういう既存の作品との違いは、登場人物たちがその中でただ生き延びるだけではない、崇高さというものを見せてくれる点にあるんだな。
人間の弱さが前提としてあり、そこから不信も不安も広がっていく。しかし、だからこそ、闘おうとする者たちが生まれてくる。
これは人類がこの世界の理不尽と闘い続けてきた歴史そのものなんだよ。
我々はこの世界に放り出されたような存在なわけ。そして否応無く理不尽と闘わなければいけない。

実はこの我々の世界と、あのアリスたちの世界はまったく同じものなんだよ。
生きるために何事かをしなければいけない。それには仲間と協力しなければいけない。力を得なければいけない。
それを拒絶すれば、あのレーザーのように、自分の死を迎えるしかないんだよ。
欲望でギャンブルをするというものとは、一線を画する作品なんだよな。
あのビーチが都市や国の形成を示すことはわかるな。いろんな人間たちが集まって、一つの規律によって仲間となっている。
そして宗教も生ずるわけだ。
規律というものが大きな集団を形成し、夢というものが大きな力を創造する。
そしてそれを破壊する力もまた現れてくる。

生きるとは何なのか。死ぬとは何なのか。それを眼前に見せ付けてくれることがあの作品の醍醐味なんだよな。
そしてそれは、自分のために生きることではない、という結論が最初から一貫している、ということだな。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 11:20:41] [修正:2018-08-10 11:20:41] [このレビューのURL]

10点 火の鳥

[ネタバレあり]

「宇宙」というものだよな。
突っ込んで言えば、『火の鳥』に通底しているのは日本古来の「無常観」というものだよ。
全てのものは必ず滅びるわけ。それがこの宇宙に存在するものの宿命なんだよ。
だから、なんだよな。滅びない「火の鳥」というものを創造し、これと関わることで無常というものを明らめているわけ。

古代日本で宝飾職人であった男が自分の欲望の末に両腕を斬り落とされる。もう職人としては終わるわけだ。しかし彼はサルタヒコとなり、新たな生を受けるよな。
無常というものに対して、人間がどう受け入れるべきなのかということがここにあるわけだよ。
この世の栄華、欲望ではないものが、無常を受け入れることで拓いて行くわけよ。
永遠の命を求める者は、全て滅びるじゃない。だからそうではないのだ、ということだよな。

もう一つの代表作である『ブラックジャック』は、一方の西洋思想というものを表現しているんだよ。人間の力で何でもしていこう、というな。しかしそこにも無常観が見え隠れしていることがわかるの。
何でも出来る天才外科医ブラックジャックが及ばないものがあるわけだよ。

『火の鳥』の場合は、未来にまで話が及ぶじゃない。でもそこでも同じことを繰り返すよな。だから人間存在の基底にあるものを描いた、ということなんだよ。
人間の進歩やなんかはどうでもいいんだ。人間存在には普遍的な重要なものがあるの。
それが無常観を受け入れることなんだよ。死すべきモータルな存在であるからこそ、人間なんだよな。
だからあの作品では、火の鳥を捕獲することに失敗した者達のその後の運命にこそ、その答えが表されている、ということだ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 10:47:40] [修正:2018-08-10 10:47:40] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

手塚治虫という人間は、漫画によって子供達に何事かを与えようとした人だな。
漫画が悪であるという時代にあって、闘い抜き、後には漫画というものを社会の中に定着させることに尽力した。漫画を確立した人だから、今も神様と呼ばれているよな。
『ブラックジャック』という作品は彼の代表作の一つに間違いないが、非常に特殊な作品でもある。
『火の鳥』と並んで、命というものを哲学的に追究したものだな。しかも現実の中でだ。
もちろん漫画という非常に制約の多いものだから、自ずと描ける限界はある。でもやろうと思ったわけだ。

この『ブラックジャック』の原点は、山本周五郎の『赤ひげ』だよ。
「医道」というものを体現したあの赤ひげを、ブラックジャックという現代の外科医に投影している。つまり手塚の理想の医師が赤ひげの中にあったんだな。

で、手塚が描こうとしたのは生命というものの姿だよな。
ブラックジャックは外科医の仕事として、何としても患者を助けようとする。つまり生命は生きるべきだ、という哲学通念になっているわけだ。しかし一方で、生命自身の力を見せつける話や、キリコのような死による解放という思想も手塚は呈示している。
本間先生がメスを腹の中に忘れた話なんかは、外科医の必要性を嘲笑うかのようだよな。あれは実話を基にしたものだよ。視覚ではない、知識でもない中で、生命は体内の異物を排除するためにカルシウムで覆って身体を守ったんだよな。そういう実例があるの。
つまり、手塚は超絶の医師に極限の現実をぶつけ、また難問を投げかけて、生命の本質というものを探り出し見せようとしたんだよ。

手塚自身も医師であったんだよな。だからあれは自身への問いと答えであり、まあアランの『定義集』のような自問自答で思索を続ける作品だったんだな。
だから「哲学的」ということだ。

ブラック・ジャック(間黒男 )は非常に一貫したキャラクターだよな。
仕事として治療を引き受け、それを何としてもやり遂げる、というものだよ。
しかし、手塚はリアリズムを強めたから。だから、時には悩み苦しみ失敗することもあるというものだな。
またやはり漫画というものの制約が今以上に強い時代だから、描きたいように描けなかったことも多いとは思うよ。
で、私にはブラック・ジャックは全く性格破綻者には見えないな。たまにそういう人がいるんだけど。まあ現代的な思考として、多額の報酬を要求するのが悪いとか、そういうことで感ずるんじゃないのか。少なくとも生命を弄ぶようなことは一切無いよな。

まあ、私の若い頃には大学病院なんかでは上でのいい外科医に手術してもらおうとしたら、みんな札束積んでたよな。リアリズムなんだよ。
もちろん漫画の中には漫画のリアリズムがあるから、現実離れしててもいいんだけどな。馬と人間の脳みそとっかえたりもしたけど、あれは流石に不可能だから。

まあ最初の方にも書いたけど、手塚はブラックジャックという超一流の人間に難しい問題を突き付けて行こうとしたものだから。だからブラックジャックの主張や思想が正しいとしているわけじゃないんだよ。むしろ手塚の本心とは別なものだよな。だからこそ生きる命に拘る医師であるんだ。
同じくキリコや琵琶丸にも現実をぶつけるよな。主役ではない人物だが、手塚にはああいう思想もあるんだよ。だから問いたださざるを得ないんだ。

漫画だから、非常に編集サイドの意向も取り入れざるを得ないものだ、ということは知っておいた方がいいぞ。だから人気を維持しなきゃならんし、社会規範の影響も大きいんだよ。悪人だからって惨い殺し方は出来ないんだしな。特に昔はな。
ただ現代人はあの超絶の腕前にばかり反応する気がするよなぁ。私なんかは命の哲学に断然興味があるけどな。まあ、現代人の卑しさと闘う話も多いけど、そっちは人気取りの要素だよな。本質は人生、命の話だよ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-10 10:40:42] [修正:2018-08-10 10:40:42] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

私が『ローゼンメイデン』をいいと言うのは、「モノがモノでない」ということなんだよ。
「人形が動くわけがない」っていうのは正しい見識だよな。でも本当にそうであれば、こんなに人気が出るはずがないのな。

ジュンは何もしない現代の象徴的な人間であり、ひきこもりじゃない。家族の愛情さえ受け付けない意固地な孤立した存在だよな。いつまでもウジウジと殻に閉じこもっていたわけじゃない。
そういう「人間が人間ではない」という状況がまずあったわけ。
そこに「人間ではない物質が動く」という挿入があったんだよ。この構造が物語の骨子なのな。
まあ、私なんかは人形について特別な思いいれもあるから。人形という物が人の形をなぞることで生命を得ることを知っているからな。だから一層分かるんだと思うよ。

でも人形の文化を研究すれば、古代から人間が「物が物でない」ということを感じていたことがわかるんだよ。物質を貫通するエネルギーを感知して理解していたんだな。
だから物質をある形にすることで、貫通するエネルギーを利用できることを知ったんだな。
日本刀って人を斬るための道具だよなぁ。でもそういう存在とするために、様々な研究と努力があったわけだよ。そうして「人斬り包丁」としてのエネルギーを貫通させて日本刀というものが完成されたの。

こういう言い方をするとわかるだろ?
でも全部の物質がそうなんだって。その実存を為すエネルギーが貫通している、ということ。
その観念が『ローゼンメイデン』では命のある人形として在るわけ。
日本刀を為したように、命のある人形を作る術を完成させた「お父様」と呼ばれる存在を創造したんだな。それは日本刀と同じ延長線上にある創造なんだよ。そういう「物の実存」を表現した物語なんだよな。
もちろんそこにゴスロリなどの魅力ある要素なんかを盛り込んでもいるよ。でもそれはあくまでも装飾の魅力だからな。そこじゃないんだよ、売れる本質は。

で、ジュンが動き出すのは何がそうさせたのか、ということだ。
それは人形たちが「闘う者」だったからなんだよ。姉妹で殺し合わなければならない宿命だよ。つまり、最も人間的な要素である「闘い」というものによって、物語が躍動することになったんだな。

闘う存在だからこそ、彼女らの友情も悲しみも非常に美しくなるわけ。
もしもあれがただの愛玩の人形が喋った、なんてことだったら、そんなもの全然人気なんか出ないんだ。闘わねばならぬ、という人間に普遍のものがあったからなんだよな。人間はいつだって闘わねばならないんだから。運命とな。
その宿命が貫通したからこそ、キャラが非常に魅力あるものとなっているわけ。
まあ、言い換えれば、あのジュンという存在は現代人に通ずるものがあるからな。理屈で何でも自分の都合よく解釈したがる、というな。そして自分は何もやらない、という。
そういう存在が闘う者によって躍動を始めるから面白い、ということだな。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-09 22:25:18] [修正:2018-08-09 22:25:18] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

『イレブンソウル』はいいよなぁ。断然いい。
真の崇高というものが、命を擲つことにある、ということが分かっているんだよな。
「志」というものを体現した乃木こそがあの物語の中核なんだ。
その乃木は罪深い人間であったわけ。その罪こそが乃木を崇高な人間に仕立て上げた。
伊藤は生きたかった人間だった、ということだな。自分が生きる場所を常に求めていた。だから崩壊したんだな。
いおりんもいいよなぁ。本当にいい女だよ。五六八も円ももちろんいい。
自分が死ぬことを決する者は美しいよなぁ。

人間とは何なのか、という問題なんだよな。
だからあの乃木が全ての中心なんだ。
それは即ち、自分以外の何かのために死ぬ、ということなんだよ。
万にはそれがあり、奈々には無かった、ということだ。
だから万の死は他の人間に展開し、「人間」としての尊厳を創造したんだよな。
奈々には無かったから。自分だけしか大事なものがねぇだろ? だから欲しがるだけの怪物になったんだよ。
裏切られたから自分も裏切っていいっていう理屈よな。
万には兄貴がいて、自分と同じ境遇のタケチーがいたわけじゃない。大事な人間がいたんだよ。
自分以外の大事なものを持てば、それが自分をどこまでも支えることになるんだよ。それが「人間」というものなのな

フランソワ・ヴィヨンの『バラード』の冒頭に
「泉の畔に立ちて 喉の渇きに我は死す(Je meurs de soif auprès de la fontaine.)」
と書かれているんだな。
喉が渇けば水が欲しいんだよ。それは動物である人間の生命の発露なの。正しいことなんだ、生くる生命としてはな。
でもヴィヨンは飲まない、と言っているわけ。飲まずに自分は死ぬのだ、と。
何故なのか、ということだよ。飲まない理由があるんだよな。
「人間」というのはそういうものなんだよ。死ぬことを自ら選べるんだ。
現代の生きたいだけの動物にはわからんよな。三島の死だって全然わかってないバカもいるわけじゃない。なんか一生懸命に人気を欲しがってるバカよなぁ(笑)。
ヴィヨンのこの詩の「泉」とはキリスト教のことだよ。自分は神にすがらない、ということだよな。そこまで強烈なものを抱いていたから、ヴィヨンは多くの近代の人間を魅了したんだよな。
欲しがる奴はダメなの。自分が何かの価値観のために死す者こそが「人間」というものなんだよ。

まあ、『マブラブ』も似た設定だけど、どうにもこうにも『イレブンソウル』の方が崇高だよなぁ。
それは人間の強さと弱さというものがちゃんと描かれているからなんだよな。「正しさ」なんてものではないわけ。「強さ」なんだよ。
その「強さ」が数々のカッチョイイ台詞を生んでいることに気付かないといかんぞ。「カッチョイイ」って「強い」ってことなんだからな。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2018-08-09 22:21:38] [修正:2018-08-09 22:21:38] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

一本貫いていることでキャラが立って非常に魅力的な作品になっているんだ。
でも『無限の住人』というのは、本質は「仇討ち物」なんだよ。
昔からあるジャンルで、弱い者が自分の背負った「義」によって強気悪を斬る、というな。
そこに現代らしい面白い味付けをしたわけだよ。不死身の肉体だの異様な武器だのを。でも中心軸は「仇討ち物」なんだよな。
「仇討ち物」で何が重要かと言えば、もう仇討ちをする義と力との相克なわけ。通常は仇は悪くて強い。対して討つ側は弱くて正しい、という構図なんだな。だから「仇討ち物」というのは、不可能を義によって為す、という所がいいんだよ。
実際は強い味方が討つ側に助太刀に入って、何とかなる、というパターンが多いよな。『決闘鍵屋の辻』って言ったら、もう荒木又右衛門の英雄譚になっているじゃない。
『無限の住人』も凛という弱い娘に万次が味方についているのだから。もう「仇討ち物」の定番のパターンだよ。

だけど沙村はこの構造を捻って見せたわけ。仇が真っ黒な悪ではなく、また討つ側も真っ白な善ではない。
善と悪が錯綜する中で、物語が躍動して行くようにしたんだな。
何故躍動するのかと言えば、それは登場人物がみんな一本貫いているからなんだよ。
逸刀流は個の強さを誇る流派であり、各々の生き様は一本貫いているよな。個々を見て行くと、何が善で悪なのか、正しいのか間違っているのかがわからなくなるんだよ。
更に吐率いる無骸流が乱入し、物語は一挙にクライマックスに達するよな。
あの無骸流というのは、二者で混沌となった仇討ちの物語をもう一つの力によって強制的に動かす要素なんだぞ。

まあしかし、非常に魅力的なキャラが多いよなぁ。そうは思わんか。それは全部「一本貫いている」ということなんだよ。人間の魅力ってここだからな。このことは覚えておけよ。
一本貫いていることを鮮明に見せるために、ド変態キャラが多いわけだからな。「こんなことを一本貫いちゃってます」と読者に衝撃を与えるんだよ。
常識的な奴ってつまらないんだぞ。
最初の段階からそうじゃない。黒衣鯖人だろ? 強烈だよなぁ。
以後ロリコン剣士だの、隠密絵師だのって、みんな異常だろうよ。
極めつけは尸良だよなぁ。もう明確に邪悪な男でありながら、やっぱり一本貫いてるんだよ。
まあ、オズハンあたりになると、もう流石の私も解説出来ないよ(笑)。一体何を貫いてんのかわかんないよな。
この作品の成功は、明らかにキャラが立ってることだ。一本貫くことによってだよな。そこに異常さを加味することで、日常を乗り越えた燃えるものがあるわけだ。
でも最後はきっちりと「仇討ち物」になっているだろ?
「あ、そうだったっけ」と思い出した読者も多いと思うよ(笑)。それだけキャラの魅力に引っ張られて、力強い作品だったからなぁ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2018-08-09 10:43:56] [修正:2018-08-09 10:43:56] [このレビューのURL]