「ほげ」さんのページ

総レビュー数: 17レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年05月28日

[ネタバレあり]

『ドラゴンボール』は,冒険漫画から始まり,格闘漫画へと発展した,という読み方が一般的だが,それはどこを起点として考えればいいだろう.僕は,厳密には冒険漫画としての『DB』,格闘漫画としての『DB』とは分けられないと思っている.せいぜい分けられるにしても,それは最後の「魔人ブウ」編くらいだろう.ここでは確かに,冒険という要素は影を潜めているといっていいかもしれない.

だが,『DB』は,中国のような山奥から端を発して,宇宙にまで足を広げる「フリーザ」編まで,冒険を拡大し続けてきた.中国のような山奥にいる,『西遊記』の孫悟空を模した主人公に,あたかも「開国」を迫るようにやってきた「西の都の少女」ブルマ.この関係にどこか明治時代の日米関係を観たくなる読者もいるだろう.パンドラの箱を開けてしまったかのように,孫悟空は世界を制圧し,宇宙を制圧してしまうのだけれど,「フリーザ」編の宇宙的大活躍を見ると,僕ら読者は,日本が,米国を超え,世界を超え出でていけるような錯覚を抱いても,変ではない.

僕らネチズンが,ネットサーフィンをしていて,『DB』の情報を集めると,奇妙なことに,「フリーザ」編の人気が高いことに気づく.それは,冒険漫画としての『DB』が,頂点に達した瞬間であるからに他ならない.中国の山奥のような異世界から出発した孫悟空は,遂に宇宙の極みにまで達した.それを描く「フリーザ」編は,文字通り『DB』の最終譚として見たがる読者がいるのも妥当だろう.

結局冒険は,地球への孫悟空の帰還ということで終止する.「人造人間」編は,昔々に孫悟空が妥当した筈のレッドリボン軍の生き残りが作ったロボットが,孫悟空の敵として立ちはだかる.これが嫌だという読者は冒険後の内省すべき心理を読もうとしていないように思う.「人造人間」編ほど孫悟空が脇へおいやられている物語もない.事実上孫悟飯が主人公の位置へかけあがる章である.悟空は,「人造人間」編で心臓病を患って死に掛け,最終的には地球を救うために死ぬ.

ベジータやトランクス,息子の悟空の成長に比べて,孫悟空の地味な存在の置かれ方.悟空は相変わらず強いが彼ら三人のように成長したという描写は多くないままに終わっている.「魔人ブウ」編よりも成長していない.あたかも日本経済の失墜のように孫悟空は地味な存在になった.最後の「魔人ブウ」編においては,奇想天外さが更に増した内容になっており現実味が薄れた.これは「人造人間」編で描かれた,「倒すべき相手」を見失った孫悟空に,日本人の不安さを対照させているものを,更に延長させたものだが,蛇足であるのは否めない.これさえなければ,『DB』は最高だが,という声があるのを僕は何度も見てきた.

とはいえ,「人造人間」編までの冒険漫画としての『DB』は,ひたすらな経済成長を経て,行く末を見出せなくなり,内省するだけの日本のそれと同じになっていることを読むことができる.その時,『DB』が冒険物語を途中で捨て,単なる格闘漫画に成り下がったというような批判はまとはずれであることが,理解されるに相違ない.

ナイスレビュー: 2

[投稿:2006-03-27 22:02:21] [修正:2006-03-27 22:02:21] [このレビューのURL]

10点 ピンポン

[ネタバレあり]

 ありふれたスポーツ漫画を、筆遣いの巧みさで、異常な存在感を示した松本大洋の傑作。

 天才肌で、努力することを知らない主人公・ペコは、卓球の名手。だが、かつて自分が見下していた選手であったアクマが、「努力」によって自分を圧倒的に上回る選手になっていた………そして敗北する。尚且つ、自分の一歩手前を歩いていたはずの選手・スマイルが、めきめきと頭角を表し始め、かつて名選手だった顧問コーチにも見出される。

 そして、ペコは、「努力」をすることによって、成功する訳だが、物語としては、確かにこれは、「平凡」ではある。誰が見たって、ありふれたスポーツ漫画に過ぎない。しかし、そのありふれた物語であるはずの本作が、われわれの前に傑作として映ってくるのは何故なのか?それは、作者独特の筆遣いにあるのは、誰しも認めることではないか。黒田硫黄にも似たようなタイプであるが、詩的な黒田と違って、こちらはコンピュータ・グラフィックス的な戯画を見せてくれる。

 卓球のスピード感は、1秒間でピンポンを打って・打ち返すほどの高速度で僕たちの目に映る。それを漫画で表そうとすると、アクション漫画の格闘シーンを見ているような荒々しさで埋め尽されてくる。殴り・殴り返すような緊迫感がこの漫画の中にはある。少年の成長物語としても、もちろん読むことは可能だが、しかしそれだけではありふれたスポーツ漫画(それもスポ根漫画)に過ぎない。それをありふれないもの、異常な存在感を放つもの、稀有さをもつものとして甦らせたのは、作者の手腕でなくてなんだろう。映画版がつまらなかったのは、この漫画がどこで読者をひきつけているか分からなかったからだ。ありふれた物語をありふれないものにすること。つまりは、演出の巧みさがなければならないのに、できなかったからだった。僕はこの漫画を読む度ごとに、心理的な面よりも、外面的な文体の面白さに感服している。それゆえに、この漫画は素晴らしいと感じている。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-01 21:57:54] [修正:2005-09-01 21:57:54] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 浪人生と未亡人との恋愛を軸にして、古びたアパートの住人、浪人生の恋敵、未亡人の両親などとの関係をギャグをちりばめて描いた、高橋留美子の代表作。連作長編の体裁を取っている。TVアニメの他劇場用アニメ化もなされたほどのヒット作となった。

 連作のため一話完結とみなせるが、浪人生・五代裕作は漫画の最後には社会人になっていて、時間の流れは時系列である。五代と未亡人・響子との関係は、一進一退といったもつれが延々と続いているが、実際の時間だけは動いているという設定である。また五代の恋敵・三鷹と響子との関係も一進一退であり、そこに楔を打ちこむまでに五年近い歳月を費やしている。

 進まない響子と五代との関係やうまくいかない大学入学や就職活動、卒業試験などを見ると、浪人生として登場した五代は、「永遠の浪人生」、いわゆる「モラトリアル人間」に見えなくもない。だがそれは限定的であって彼は恋愛において「永遠の浪人生」というだけである。大学入学にしても就職活動にしても、彼は意志もあれば実行力もある。単に能力が備わっていないだけのことなのだ。だから彼は巷間で言う所の「モラトリアム人間」ではない。だが前述のように、恋愛においては「モラトリアム」(猶予)を求める。あと一歩のところで彼は、響子に思いを告げることができないでいるのだ。

 そうかといって本作では、響子の方が五代により積極的かというとそうではない。「モラトリアム」があるということを除けば響子の恋愛観は男性主導の原理を守っているのだ。そうであればこそ、彼女は、三鷹と五代との間で、積極的な男は誰かを考えているし、そういう男と男との間で揺れ動いている。

 大学入学や就職活動といった実践的なレベルでは「モラトリアム」であることを拒否する五代青年は、社会人になった暁に響子に告白することになっていて、響子もそれを待ち望んでいるのだから、益々彼等の関係は古典的であることが分かるだろう。恋敵だった三鷹の方は、自己消滅するという形で五代に響子を譲ることになっており、響子の迷いも五代の就職待ちだ。

 面白いのは、五代の職業で、就職浪人時代に行った保父がそれなのには驚かされる。恋愛関係は「モラトリアム」であることを除けば(これが大事だったりするが)古典的であるのに対し、大学卒の男性で保父を選択するというのは、今でこそ多様な働き方として受容しやすいが、1980年代当時の成長期において、この選択は先見性があると思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-05-28 21:31:53] [修正:2005-05-28 21:31:53] [このレビューのURL]