「ほげ」さんのページ

総レビュー数: 17レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年05月28日

7点 MONSTER

[ネタバレあり]

全編に渡ったドイツやチェコなど欧州を舞台にしたミステリー漫画。冷戦時代の東ドイツで行われた人間の人格改造によってうまれた殺人鬼こと怪物を巡る物語。

一人の出世意欲にまい進する日本人の脳外科医。その欲に満ちた人生に疑問を抱いて上司の意見を遮って助けた命が,自分の人生を大きく狂わせるという矛盾に満ちた悲劇。

序盤は極めて面白い。その助けた命はドイツ青年だが,謎めいていて彼の存在を一般の人間は誰も知らない。しかし,確実に彼は存在し,まぎれもなく人を殺していく。闇,ということばが漫画の中に何度か出てくるが,この青年自体が闇であることは,読者なら誰しも気づくのではないか?

感情表現を描くのがうまくない浦沢は,青年の不気味さを,顔で描くことはできなかった。しかしながら,青年の行動が,不気味なのであり,まさしくモンスターなのであることを教えてくれる。残酷描写は極めて控えめながら,漫画で起こる事実が読者にいいようのない恐怖感を与えるだろう。エンターテインメントとして一流であるゆえんだ。

だがいくつかアラも見受けられる。デザインのセンスに欠ける浦沢は,人間の顔に個性を植えつけることができない。これが小説だったらと思うことも少なくない。物語は悪くないのだから。だが,デザインのセンスに欠けているために,壮大な物語にケチをつける格好になっている。どれも皆同じ顔に見えてしまう。

特に,デザインのセンスの欠如が顕著に現れてくるのが,ニナ(アンナ)であろう。金髪のドイツ娘という設定だが,なにやらそこらの日本の若い娘に見える。あれをドイツ人に見立てられてもちょっと困るのだが・・・?たいして知的にも見えないし。設定がうわついて見えてしまうのだ。

物語は,悪くないといったが,徐々にしぼみはじめてしまっている。テンマが,何故モンスターことヨハンの命を狙おうとするのか?たしかにヨハンは冷酷無比だろうが,自分の全人生を賭けてまで何故?そこまでの動機がまるで見えてこない。自分の医者ないし医学者としての人生が,絶たれた訳でもなかろうに,少々理不尽な設定ではなかったか。家族が殺されるとか,なんらかのプライベートな理由がないと,感情移入するには至らない。

そういえば,テンマの家族はまるで物語に登場しないのだが,それも一体どういう理由でそうしたのだろう。

サブキャラクターのエピソードをつむいで物語の構成力を豊かにしていく手腕は,さすがといえる。その緻密かつ物語に不可欠なエピソードは,『MONSTER』という漫画を,複数の人間の感情が入り乱れる漫画に仕立ててくれている。

ドイツで指名手配となったテンマが,確かに無実の罪と判明したとはいえ,最終的には大学から招待されたり,医師団に参加したりと,なんだか適当になってしまった展開も非常に疑問である。

文化庁メディア芸術祭だとか小学館漫画賞だとか手塚治虫賞だとか主だった漫画賞を受賞した本作だが,まさにしかり,というような内容ではないと感じられた。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2006-08-08 23:46:47] [修正:2007-01-19 22:58:52] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

刑務所の中における生活を描いた芸術作品。
こう聞くと,あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
刑務官による受刑者への暴行,それに対する抗議。
いわば,芸術を通じて刑務所を左翼的に社会化する発想。
あるいは,刑務所の中において通読することが可能な文書類によって得た知識を元にして,文盲の人間が文学作品を昇華していく。
読者にしろ,批評家にしろ,彼をとりまく「読む者」は,一人の受刑者を作家たらしめていく。

しかし,そうした芸術作品は,我々の心に響いてくるかもしれないが,既にありふれてはいないか。
刑務所と芸術。
そうしたインパクトのある対象を芸術家するという発想は,既にありふれてしまっている。
僕なども,リストカットや売春,麻薬,覚せい剤,バイオレンス,殺人などのモチーフがある芸術作品を,衝撃を求めて摂取してきましたが,もう飽きてしまいました。
なんというか,主人公をダークな方向へと引き寄せ,特殊化していくという芸術表現にうんざりとまではいかないまでも,うざったくなっちゃったんですね。
「ナニナニ?そんなに共感してもらいたいのあなたは?」などと悪態めいた戯言をうそぶいてしまいたくなるほど,主人公の特殊化はありふれてきた。
結局,特殊化することが目立ちたがり屋へと転換するように受け手の僕は感じちゃうわけですね。
でもやっぱり対象としてダークなものはみたくなる・・・

そんな矛盾した状態の中で悶々としていた中,ふと手に取った漫画が,この『刑務所の中』なんですよ。
刑務所に受刑者として拘置された漫画家の手になる漫画作品。
一見,上記の例に通じるような気がします。
でも百聞は一見に如かずのことわざ通りなんだけど,刑務官の暴力はでてこないし,そもそも作者の国家への反抗的精神がまるででてこない。
自殺しちゃった小説家・見沢知廉がそうなんだけど,自分で人を殺しておきながら受刑者になってみれば行政がうざいと思う精神がでてくるのが普通でしょう(彼の場合拘置されていたのが12年とわりと長い期間だったからというのもあるし,元々が資本主義的無政府主義者だから)。
行政と個人という対照的関係ではなく,まさに漫画のタイトル通りの刑務所の中における個人の生活というのが,この漫画のスタンス。
朝何食ったとか,刑務所での風呂はこうして入るとか,身辺雑記的な描写が羅列されている。
花輪独特の緻密な描写で刑務所の生活を描いているから,過激なイベントがまるでないにもかかわらず,なんだかすごくドキドキしちゃう漫画なんです。
描き方は極めて静謐で何が起こる訳でもない。
三年間の拘置生活が楽だったはずはないが,のんびりとした,いかにも勤め人にはできない根無し草の芸術家らしい創造へと転化させようとする引力によって漫画が描かれている。
だから,物語も起こらないのだけど興味深く読めるし,こういう表現で刑務所を舞台にした芸術もありだなーと思っちゃう。

この作者・花輪和一という漫画家は,モデルガン集めが高じて,銃刀法違反で逮捕されることになった訳なんですが,基本的に趣味に生きる人なんだなあと感じますね。
僕は趣味より経済ってタイプなんで,とても花輪のようには生きられませんが,カネはなくとも被扶養者はいないし,好きな芸術で食っていけるという人生は,「if」的な世界として憧憬したい部分はありますよね。
もし人生を何回かやれるんなら,花輪的な生き方っていいなーと思っちゃう。
そもそも黒田硫黄とかつげ義春の漫画が好きっていう僕の嗜好自体が,そっちへ憧れだけはあるってことなんですがね。

みなさんも,結構固いお仕事されてたり良い学校通ってたりするんだと思うんです。
でもねー,たまにはコッチ系にこない?って,刑務所というダークなものが手招きしてることをお忘れなく。
こっちもどっぷりつかって,疲れない程度には表現も物語もゆるゆるですから何も心配なしです。
一度刑務所に入ってみるのも悪くねえなあと読後に思わせるほどの,花輪和一の世界を楽しもうとする姿勢を感じられるいい漫画です。

余談ですが,この漫画,無能な映画監督によって映像化されているけれど,漫画の味が全然分かってないので観ないほうがいいです。
この人,最近も高名な娯楽小説を映画化して,個人的には噴飯の作品にしました(こんなのを,日本の映画界も批評家も賞賛しちゃうんだよね)。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2006-10-09 15:44:00] [修正:2006-10-09 15:44:00] [このレビューのURL]

『もてない男』なるエッセイが巷をさわがせたことがあったが,この漫画もまさしくもてない男のための漫画.同書の小谷野によると,「もてない男」を描いた芸術作品はそう多くないということだが,『電影少女』の前半部分はまさに「もてない男」のための漫画であり,特殊性を評価したい.

『電影少女』のコンセプトは,一見ありふれたオタク論(あくまでも非オタクが論じる批判論のこと。オタクが現実の女の子と付き合えない,関心を持たないというのは誤り)にもつながるように思えるが,実態は全然違う.オタクは,現実の女の子に興味がないのではなかったか.むしろ,特殊なオタクであるところの,『電車男』の方にこそ,共通性を感じる.『電車男』は,オタクでありながら,フィギュアやアニメ,PCから脱出し,現実の女の子へと欲望を転換させる物語だった.『電影少女』もそれと似ていて,ビデオガールという,非現実的な女の子の力を借りて,現実の女の子を愛そうとする姿を描いていた.これなどは,「2チャンネル」の掲示板を通じて愛を告白する「電車男」と似ている.

だが,こんな男はほとんどいないところに,オタクの面白さがあるのであって,『電影少女』にしろ『電車男』にしろ,僕の興味をものすごく引き出すという訳にはいかなかった.それは僕自身がオタクであるがゆえの問題であるから,仕方のないことなのだが,現実の女性に興味を持つなら,持ってもかまわぬが,それならいちいちオタクを使う必要もないのではないか?

『電車男』も『電影少女』も,共通するコンセプトは,仮想現実より現実を!ということだった.極めて分かりやすいハリウッド映画スタイルの牧歌は,パソゲーなんかをだらーっとやってる連中から評価を得られているのかどうかまったく分からない.

『電影少女』の難点は,上記のところにもあるが,もっとラジカルなところにもある.それは,「もてない男」のための漫画として出発したはずの本作が,後半では「もてる男」へと変身してしまう点だった.いかにもトレンディドラマのような展開に,僕はリアリティーを感じなくなってしまった.オタクと仮想現実的なものの親和性を打ち砕いてしまったのも私は疑問だが,それよりも,「もてない男」がもてないままに恋愛をしようとする行為をスポイルして,すっかり普通の男になってしまったところに,この漫画の限界を見た.

絵はすばらしい.どんどん桂は描写を淡白にしてしまったのが昨今の自主規制なのだろうけれど,この頃はセックスのないヤング漫画のようなエロさがあって,視覚的にここちよかった.下着や胸,尻など,いわゆるフェティシズムの快楽をここに読むことができると思う.

ナイスレビュー: 0

[投稿:2006-03-27 23:13:20] [修正:2006-03-27 23:13:20] [このレビューのURL]

5点 珍遊記

『西遊記』の翻案漫画として誕生したのが『ドラゴンボール』なら,『珍遊記』は『西遊記』のパロディなのかもしれない.四方田犬彦のエッセイにも書いてあった.

だが,『珍遊記』を読むと,誰しも感じるが,画太郎の露骨な『ドラゴンボール』パロディにも見られるように,一つの作品へのパロディではなく,方向性は多岐に向かっているように思える.だがそれが,功を奏していないという感じは否定できない.『ドラゴンボール』を露骨にパロった章など,どう見ても笑えなかった.

本作を見て,笑おうとするなら,鼻水やよだれというものよりも,いきなり坊さんを爺さん婆さんが殴りつけたり,「じゅうまんえ〜ん」の台詞に見られるごとく,見開きをつかった唐突さに,現れている.結局,昔ながらの単純なギャグなのだ.たけし映画を観ていて,ギャグではないかと思うのは,たけし演じる刑事やヤクザが,いきなり相手を殴るようなシーンに現れていた.そういう意味では,単純ではあるけれども,暴力と笑いの親和性をつきつけている本作は,ギャグ漫画として悪くはない.

だが,この漫画は物語の構成力が破綻しており,ギャグも息切れが見られるため,それほど評価したくなるような漫画ではないと思っている.ギャグにちょっと光るものもあるが,最近の漫画などに比べると,やはり物語に粗が多すぎる.訳の分からない戦闘シーンとか,本屋の婆の暴力シーンとか,どこでどう笑うのだろうと首をかしげたくなるようなシーンが多すぎた.今再考されるべき漫画ではないだろう.

ナイスレビュー: 0

[投稿:2006-03-27 22:58:37] [修正:2006-03-27 22:58:37] [このレビューのURL]

吉田戦車との出会いは,ゲームオタクである僕にとっては,『はまり道』だった(知らない人は知らない漫画).そこで僕が読もうとしたのは,『はまり道』の漫画としての面白さというよりも,自分の知らないゲームをプレイして,咀嚼した漫画家の感性だった.だが,年齢があがるにつれ,『はまり道』の面白さに目覚めた僕は,遂に吉田の代表作『伝染るんです。』を手に取ることになる.

「不条理漫画」と一概に呼ばれることが多い本作だが,さっぱり僕にはこの呼称の意味がつかめない.「不条理」だろうか.不条理なものを笑うには芸術作品への高い親和性と知識を持っていないと読めないのだが,小学生の僕にさえ『伝染るんです。』の面白さは理解できた.

「四コマ漫画」といえば起承転結があるのだが,本作にはそれがない.それだけで僕には笑えたし,多くの読者もそうなのではないかと思われる.中には完結したモノもあるのだが,「えっこれで終わり?」という終わり方をしているモノが殆どだ.しかしその終わり方の唐突さが,今までにはないおかしさを読者に教えてくれたのではないかと思われる.それが不条理だというマスコミがいるのだが,終わりのない終わり方をしているモノを,不条理だと誤って換言したようにしか思えない.

吉田の描く「顔」は,非常に面白い.線で描けるような適当な絵だが,それがコマに出てくるだけで笑ってしまう.女の子は意外とかわいいのが,そのギャップになって笑える.そういう意味では,笑われるキャラは,不条理なのかもしれないが,ギャグ漫画とはえてしてそういうものなので,やはり同意できない.「顔」で笑わせることのできる漫画家は,吉田戦車と古谷実だけだと思う.古谷は『稲中』で有名だが,今でもヤング誌を見ていると,古谷の「顔」を真似している三流漫画を見る.エピゴーネンも続きすぎると鼻につくのだが,オリジナルはやっぱり凄い.吉田も,彼自身が現在では,エピゴーネンになってしまって残念だが,オリジナルの『伝染るんです。』は良い.

ナイスレビュー: 0

[投稿:2006-03-27 22:44:15] [修正:2006-03-27 22:44:15] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

『ドラゴンボール』は,冒険漫画から始まり,格闘漫画へと発展した,という読み方が一般的だが,それはどこを起点として考えればいいだろう.僕は,厳密には冒険漫画としての『DB』,格闘漫画としての『DB』とは分けられないと思っている.せいぜい分けられるにしても,それは最後の「魔人ブウ」編くらいだろう.ここでは確かに,冒険という要素は影を潜めているといっていいかもしれない.

だが,『DB』は,中国のような山奥から端を発して,宇宙にまで足を広げる「フリーザ」編まで,冒険を拡大し続けてきた.中国のような山奥にいる,『西遊記』の孫悟空を模した主人公に,あたかも「開国」を迫るようにやってきた「西の都の少女」ブルマ.この関係にどこか明治時代の日米関係を観たくなる読者もいるだろう.パンドラの箱を開けてしまったかのように,孫悟空は世界を制圧し,宇宙を制圧してしまうのだけれど,「フリーザ」編の宇宙的大活躍を見ると,僕ら読者は,日本が,米国を超え,世界を超え出でていけるような錯覚を抱いても,変ではない.

僕らネチズンが,ネットサーフィンをしていて,『DB』の情報を集めると,奇妙なことに,「フリーザ」編の人気が高いことに気づく.それは,冒険漫画としての『DB』が,頂点に達した瞬間であるからに他ならない.中国の山奥のような異世界から出発した孫悟空は,遂に宇宙の極みにまで達した.それを描く「フリーザ」編は,文字通り『DB』の最終譚として見たがる読者がいるのも妥当だろう.

結局冒険は,地球への孫悟空の帰還ということで終止する.「人造人間」編は,昔々に孫悟空が妥当した筈のレッドリボン軍の生き残りが作ったロボットが,孫悟空の敵として立ちはだかる.これが嫌だという読者は冒険後の内省すべき心理を読もうとしていないように思う.「人造人間」編ほど孫悟空が脇へおいやられている物語もない.事実上孫悟飯が主人公の位置へかけあがる章である.悟空は,「人造人間」編で心臓病を患って死に掛け,最終的には地球を救うために死ぬ.

ベジータやトランクス,息子の悟空の成長に比べて,孫悟空の地味な存在の置かれ方.悟空は相変わらず強いが彼ら三人のように成長したという描写は多くないままに終わっている.「魔人ブウ」編よりも成長していない.あたかも日本経済の失墜のように孫悟空は地味な存在になった.最後の「魔人ブウ」編においては,奇想天外さが更に増した内容になっており現実味が薄れた.これは「人造人間」編で描かれた,「倒すべき相手」を見失った孫悟空に,日本人の不安さを対照させているものを,更に延長させたものだが,蛇足であるのは否めない.これさえなければ,『DB』は最高だが,という声があるのを僕は何度も見てきた.

とはいえ,「人造人間」編までの冒険漫画としての『DB』は,ひたすらな経済成長を経て,行く末を見出せなくなり,内省するだけの日本のそれと同じになっていることを読むことができる.その時,『DB』が冒険物語を途中で捨て,単なる格闘漫画に成り下がったというような批判はまとはずれであることが,理解されるに相違ない.

ナイスレビュー: 2

[投稿:2006-03-27 22:02:21] [修正:2006-03-27 22:02:21] [このレビューのURL]

 まず最初に驚かされるのは、藤子・F・不二雄のキャラクターを創造する能力の高さにである。誰もが印象的に残るデザイン。本作の主人公・ドラえもんのあいらしい姿は、ディズニーのミッキーマウスやくまのプーさんなどにも劣らない。記憶され、かつ愛され、人口に膾炙するキャラクター「ドラえもん」を生み出したこと自体で既に本作の力量が発揮されてしまっているといってもいい。

 それに加えて、「ドラえもん」が持つ特性に、「22世紀の未来からやって来た」、「未来の道具を使用できる」ネコ型ロボットというものがある。そして、作者が得意とする、この子供のファンタジーの具現化としての「ドラえもん」は、「22世紀」という全く予知できない時代であるがゆえに、本来は魔法のようなものであるはずの道具を、「こんなことがあったらいいな」と思わせるにたるほどの、説得力を持たせているといえるだろう。

 一体、藤子・F・不二雄という漫画家は、子供漫画ばかり描いてきたと自称しているように、確かに子供漫画が多いのだが、一方ではSF漫画も描いている。ほんの小品が多いものの、どこかで説得力を持たせる根拠を備えている。『ドラえもん』も実は、その流れを汲んでいるのであって、そこにSF漫画には見られない普遍性(つまりは子供漫画の普遍性)とがあいまって、『ドラえもん』ができている、ということになっている。よくでてくる「タイムマシン」という究極の道具も、常に整合性を保たせていて、過去に行ってのび太たちがいたずらして変えられた過去は、常に現在でも調整されている。そこが漫画では落ちになっているのだけれども、『ドラえもん』が、子供漫画ではありながら、SF漫画の性質を失ってはいないことを、示すものだろう。

 このように、子供の持っているファンタジーを具現化するものとして作られた、戦後最大の子供漫画である『ドラえもん』は、魔法のようでありながら、「22世紀」という可能性に満ち満ちた、そのために根拠のある「道具」を使う「ドラえもん」を主人公に据えることによって、SF漫画としてのジャンル分けを果たしている。そうでありながら、のび太が「ドラえもん」の使う道具で悪さをした時には、「ドラえもん」や、時には「神の手」が、きちんとお灸を据えるという、教育漫画的ジャンルを備えている。そうした藤子のマジックが完全に確立したものとして、『ドラえもん』は素晴らしい傑作だということができるだろう。こんな漫画は、そう出てくるものではない。無二の漫画だ。それだけに、藤子の急逝が惜しまれてならないのは、他のレビュアー諸氏と同意見である。

 惜しむらくは、子供が率先して読めるが、大人が率先して読めるものにはなりにくかった、ということである。これが藤子と私淑した漫画家・手塚との違いか。だがそれは、藤子の欠点ではなく、子供漫画ばかりを描こうとした藤子の価値観なのだから、仕方のないことだ。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-22 20:21:06] [修正:2005-09-22 20:21:06] [このレビューのURL]

虚構の名探偵金田一京助の子孫・金田一一が主人公の推理漫画。推理小説もミステリー映画も興味のない私は、この漫画の推理がどの程度優れているのかは分からない。ただ、『コナン』と比べると、金田一が考え考え物語を進めているように描かれているのは好印象だった。『コナン』は、なんでこんなに早く?という感じでコナンが犯人を射止めてしまっていた。

『コナン』が江戸川乱歩とコナン・ドイルのあいのこ的な名前を持っている人間を主人公としているのは、多分に本作の影響が見られる。連載当初は推理ブームともいうべき現象があって、少年マガジンの発行部数をのばしたのもこの漫画のおかげだ。だから講談社は『金田一少年〜』に足をむけて寝られない。

2回ほどドラマ化されたように記憶するが、オカルト、ホラーテイストの内容で案外に楽しめた。原作の方は、髪の毛を一つにしばる金田一のセンスのなさと、女性が描けない(男性のように見える)作者のセンスで絵にとけこめないものがあったが、江戸川乱歩的な猟奇殺人には、割とひきつけられた。ドラマ化は、そこをチープながら上手く実写化していたようである。

物語としては、頭は悪いけど推理はできるという、テレビゲームの『クロス探偵物語』的な設定。パクリはあるのだろうが、いちいちそんなことに憤っていてはこのシミュレーション化された世界ではやっていけないから、減点対象にはならない。だが、ことあるごとに起こる事件の中で、やたら犯人が自殺する展開が多かったのは大変鼻についた。フィクションの中で犯人が警察にとらえられず死んで終わりというのでは、全く何もなかったかのようである。インクを消したようなものだ。やっぱり罪は罪としてつぐなってほしいものだが、この作品は、犯罪者の動機をつき、読者の同情を誘うので、そういうわけにはいかないようだった。自殺することで、悲しみで幕を閉じるというやり方は、犯罪者の罪を隠すようで好ましくない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-21 00:43:16] [修正:2005-09-21 00:43:16] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

僕は、学園ドラマとか青春モノとかいう世界観が余り好きでなく、なじめないものが多いのだが、『今日から俺は』のように、あっけらかんとして、ギャグで疾走してくれると読んでいて凄く楽しい。学園ドラマにありがちな純粋な友情もあるにはあるが、高校生の友情という限定された範囲の中では、深刻なものは受け入れ難い。読んでいる一部の同世代の読者にはそれでもいいのかもしれないが、成人を迎えてしまうと、なんだかなーと思ってしまう。

その点、『今日から俺は』は、友情といっても、隣町の高校生とバトルする時にグッとあつくなる程度で、普段は空気のような関係を保っている。いざとなる時は熱いが、その熱さも限定的なもので、すぐほんわかしたギャグで帳消しにするので、青臭さが少ない。『今日から俺は』と同時期に連載していたジャンプの『ボーイ』は、逆にギャグが構造にあるわけじゃなく、根本がシリアスで、なおかつキャラクターがその世界観にのっとって格好をつけているので、読んでいて醒めてしまった。

『今日から俺は』は、『うる星やつら』と同じで、ずっと同じ時間の中で物語が進んでいる。誰も成長しないままである。漫画の中で、ヒロイン(?)・理子が、主人公の三橋がどういう大人になるのかを想像して右往左往するシーンがあるが、現実が考えたら、三橋みたいにバカをやっていたら、右往左往したくもなろう。だが時間が停まっている世界の中だから、そんなことは気にしない。気にせず楽しむまでである。ケンカにあけくれ、遊ぶ毎日である。

理子と三橋、今井と涼子の恋愛も結局は成就しないが、それも時間の停まった物語だから許容されることだ。成就したら物語の終わり。『めぞん一刻』も最終回になってしまった。ギャグで通りぬけられるほど、楽しい『今日から俺は』の世界は、ずっと過ごしていたいけど終わらなくちゃいけない高校時代をフィクションゆえに「終わらないもの」として描く、青春漫画の定石として評価したいと思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-21 00:20:25] [修正:2005-09-21 00:20:25] [このレビューのURL]

3点 桜通信

大学入試という、今時の若者なら誰しも通る分岐点を巡っての恋愛物語。よく比較される通り、江川達也の漫画『東京大学物語』の遊人版といってもいい内容である。遊人版というのは、要はポルノ化された『東京大学物語』ということ。『東大〜』も、ほとんどポルノに過ぎないシーンも多いが、遊人版『東大〜』は、それに輪をかけてポルノグラフィーと化している。いわば、AVやポルノ映画などの、主人公視点のセックスが描かれているということ。そのために、『東大〜』に比べると、ポルノ度は高いといえる。

具体的に言えば、主人公の都合のよい具合にセックスが描かれる。麗(うらら)という特定の恋人がいながら、他の女性とセックスに耽ることができる。そんなことをしても、麗と主人公は、別れないし、主人公が浮気をしていても、麗は許してしまうというもの。主人公のために性的に体を張ってくれる麗は、AV女優さながら、主人公にとって都合の良い女性だ。

『東大』のヒロイン・遥も、主人公にとって都合の良い女性ではあるが、最後の方までヴァージンを守り通し、AV女優のようには主人公の前で振舞わないという点が、違っている。まあ、どちらの作品にしても、女性が読めばばかばかしくなるような固定化された女性像であることには変わりない。どちらにしても、主人公(男)のなぐさみものでしかないヒロインは、悲しい描かれ方をしている。

この遊人版『東大〜』は、主人公の都合の良いように、女性たちとの性交渉が描かれ、麗とはなんとかうまくいくような展開が続く。『東大』における、主人公・村上直樹の妄想による独白などは特筆すべき演出で、その点においては私は『東大〜』を評価できるのだが、この『桜通信』は、どうにもAV的な物語の展開が気に入らなかった。必要以上にヌードを披露する女性たちには、あまりエロスを感じなかった。別に私は女性の肩を持つ訳じゃないが、もう少し固定化された像から抜け出る術を漫画家は考えてもらいたいものだ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-20 23:59:30] [修正:2005-09-20 23:59:30] [このレビューのURL]

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