「ほげ」さんのページ

総レビュー数: 17レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年05月28日

[ネタバレあり]

『ドラゴンボール』は,冒険漫画から始まり,格闘漫画へと発展した,という読み方が一般的だが,それはどこを起点として考えればいいだろう.僕は,厳密には冒険漫画としての『DB』,格闘漫画としての『DB』とは分けられないと思っている.せいぜい分けられるにしても,それは最後の「魔人ブウ」編くらいだろう.ここでは確かに,冒険という要素は影を潜めているといっていいかもしれない.

だが,『DB』は,中国のような山奥から端を発して,宇宙にまで足を広げる「フリーザ」編まで,冒険を拡大し続けてきた.中国のような山奥にいる,『西遊記』の孫悟空を模した主人公に,あたかも「開国」を迫るようにやってきた「西の都の少女」ブルマ.この関係にどこか明治時代の日米関係を観たくなる読者もいるだろう.パンドラの箱を開けてしまったかのように,孫悟空は世界を制圧し,宇宙を制圧してしまうのだけれど,「フリーザ」編の宇宙的大活躍を見ると,僕ら読者は,日本が,米国を超え,世界を超え出でていけるような錯覚を抱いても,変ではない.

僕らネチズンが,ネットサーフィンをしていて,『DB』の情報を集めると,奇妙なことに,「フリーザ」編の人気が高いことに気づく.それは,冒険漫画としての『DB』が,頂点に達した瞬間であるからに他ならない.中国の山奥のような異世界から出発した孫悟空は,遂に宇宙の極みにまで達した.それを描く「フリーザ」編は,文字通り『DB』の最終譚として見たがる読者がいるのも妥当だろう.

結局冒険は,地球への孫悟空の帰還ということで終止する.「人造人間」編は,昔々に孫悟空が妥当した筈のレッドリボン軍の生き残りが作ったロボットが,孫悟空の敵として立ちはだかる.これが嫌だという読者は冒険後の内省すべき心理を読もうとしていないように思う.「人造人間」編ほど孫悟空が脇へおいやられている物語もない.事実上孫悟飯が主人公の位置へかけあがる章である.悟空は,「人造人間」編で心臓病を患って死に掛け,最終的には地球を救うために死ぬ.

ベジータやトランクス,息子の悟空の成長に比べて,孫悟空の地味な存在の置かれ方.悟空は相変わらず強いが彼ら三人のように成長したという描写は多くないままに終わっている.「魔人ブウ」編よりも成長していない.あたかも日本経済の失墜のように孫悟空は地味な存在になった.最後の「魔人ブウ」編においては,奇想天外さが更に増した内容になっており現実味が薄れた.これは「人造人間」編で描かれた,「倒すべき相手」を見失った孫悟空に,日本人の不安さを対照させているものを,更に延長させたものだが,蛇足であるのは否めない.これさえなければ,『DB』は最高だが,という声があるのを僕は何度も見てきた.

とはいえ,「人造人間」編までの冒険漫画としての『DB』は,ひたすらな経済成長を経て,行く末を見出せなくなり,内省するだけの日本のそれと同じになっていることを読むことができる.その時,『DB』が冒険物語を途中で捨て,単なる格闘漫画に成り下がったというような批判はまとはずれであることが,理解されるに相違ない.

ナイスレビュー: 2

[投稿:2006-03-27 22:02:21] [修正:2006-03-27 22:02:21] [このレビューのURL]

10点 ピンポン

[ネタバレあり]

 ありふれたスポーツ漫画を、筆遣いの巧みさで、異常な存在感を示した松本大洋の傑作。

 天才肌で、努力することを知らない主人公・ペコは、卓球の名手。だが、かつて自分が見下していた選手であったアクマが、「努力」によって自分を圧倒的に上回る選手になっていた………そして敗北する。尚且つ、自分の一歩手前を歩いていたはずの選手・スマイルが、めきめきと頭角を表し始め、かつて名選手だった顧問コーチにも見出される。

 そして、ペコは、「努力」をすることによって、成功する訳だが、物語としては、確かにこれは、「平凡」ではある。誰が見たって、ありふれたスポーツ漫画に過ぎない。しかし、そのありふれた物語であるはずの本作が、われわれの前に傑作として映ってくるのは何故なのか?それは、作者独特の筆遣いにあるのは、誰しも認めることではないか。黒田硫黄にも似たようなタイプであるが、詩的な黒田と違って、こちらはコンピュータ・グラフィックス的な戯画を見せてくれる。

 卓球のスピード感は、1秒間でピンポンを打って・打ち返すほどの高速度で僕たちの目に映る。それを漫画で表そうとすると、アクション漫画の格闘シーンを見ているような荒々しさで埋め尽されてくる。殴り・殴り返すような緊迫感がこの漫画の中にはある。少年の成長物語としても、もちろん読むことは可能だが、しかしそれだけではありふれたスポーツ漫画(それもスポ根漫画)に過ぎない。それをありふれないもの、異常な存在感を放つもの、稀有さをもつものとして甦らせたのは、作者の手腕でなくてなんだろう。映画版がつまらなかったのは、この漫画がどこで読者をひきつけているか分からなかったからだ。ありふれた物語をありふれないものにすること。つまりは、演出の巧みさがなければならないのに、できなかったからだった。僕はこの漫画を読む度ごとに、心理的な面よりも、外面的な文体の面白さに感服している。それゆえに、この漫画は素晴らしいと感じている。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-01 21:57:54] [修正:2005-09-01 21:57:54] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 浪人生と未亡人との恋愛を軸にして、古びたアパートの住人、浪人生の恋敵、未亡人の両親などとの関係をギャグをちりばめて描いた、高橋留美子の代表作。連作長編の体裁を取っている。TVアニメの他劇場用アニメ化もなされたほどのヒット作となった。

 連作のため一話完結とみなせるが、浪人生・五代裕作は漫画の最後には社会人になっていて、時間の流れは時系列である。五代と未亡人・響子との関係は、一進一退といったもつれが延々と続いているが、実際の時間だけは動いているという設定である。また五代の恋敵・三鷹と響子との関係も一進一退であり、そこに楔を打ちこむまでに五年近い歳月を費やしている。

 進まない響子と五代との関係やうまくいかない大学入学や就職活動、卒業試験などを見ると、浪人生として登場した五代は、「永遠の浪人生」、いわゆる「モラトリアル人間」に見えなくもない。だがそれは限定的であって彼は恋愛において「永遠の浪人生」というだけである。大学入学にしても就職活動にしても、彼は意志もあれば実行力もある。単に能力が備わっていないだけのことなのだ。だから彼は巷間で言う所の「モラトリアム人間」ではない。だが前述のように、恋愛においては「モラトリアム」(猶予)を求める。あと一歩のところで彼は、響子に思いを告げることができないでいるのだ。

 そうかといって本作では、響子の方が五代により積極的かというとそうではない。「モラトリアム」があるということを除けば響子の恋愛観は男性主導の原理を守っているのだ。そうであればこそ、彼女は、三鷹と五代との間で、積極的な男は誰かを考えているし、そういう男と男との間で揺れ動いている。

 大学入学や就職活動といった実践的なレベルでは「モラトリアム」であることを拒否する五代青年は、社会人になった暁に響子に告白することになっていて、響子もそれを待ち望んでいるのだから、益々彼等の関係は古典的であることが分かるだろう。恋敵だった三鷹の方は、自己消滅するという形で五代に響子を譲ることになっており、響子の迷いも五代の就職待ちだ。

 面白いのは、五代の職業で、就職浪人時代に行った保父がそれなのには驚かされる。恋愛関係は「モラトリアム」であることを除けば(これが大事だったりするが)古典的であるのに対し、大学卒の男性で保父を選択するというのは、今でこそ多様な働き方として受容しやすいが、1980年代当時の成長期において、この選択は先見性があると思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-05-28 21:31:53] [修正:2005-05-28 21:31:53] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

刑務所の中における生活を描いた芸術作品。
こう聞くと,あなたは何を思い浮かべるでしょうか?
刑務官による受刑者への暴行,それに対する抗議。
いわば,芸術を通じて刑務所を左翼的に社会化する発想。
あるいは,刑務所の中において通読することが可能な文書類によって得た知識を元にして,文盲の人間が文学作品を昇華していく。
読者にしろ,批評家にしろ,彼をとりまく「読む者」は,一人の受刑者を作家たらしめていく。

しかし,そうした芸術作品は,我々の心に響いてくるかもしれないが,既にありふれてはいないか。
刑務所と芸術。
そうしたインパクトのある対象を芸術家するという発想は,既にありふれてしまっている。
僕なども,リストカットや売春,麻薬,覚せい剤,バイオレンス,殺人などのモチーフがある芸術作品を,衝撃を求めて摂取してきましたが,もう飽きてしまいました。
なんというか,主人公をダークな方向へと引き寄せ,特殊化していくという芸術表現にうんざりとまではいかないまでも,うざったくなっちゃったんですね。
「ナニナニ?そんなに共感してもらいたいのあなたは?」などと悪態めいた戯言をうそぶいてしまいたくなるほど,主人公の特殊化はありふれてきた。
結局,特殊化することが目立ちたがり屋へと転換するように受け手の僕は感じちゃうわけですね。
でもやっぱり対象としてダークなものはみたくなる・・・

そんな矛盾した状態の中で悶々としていた中,ふと手に取った漫画が,この『刑務所の中』なんですよ。
刑務所に受刑者として拘置された漫画家の手になる漫画作品。
一見,上記の例に通じるような気がします。
でも百聞は一見に如かずのことわざ通りなんだけど,刑務官の暴力はでてこないし,そもそも作者の国家への反抗的精神がまるででてこない。
自殺しちゃった小説家・見沢知廉がそうなんだけど,自分で人を殺しておきながら受刑者になってみれば行政がうざいと思う精神がでてくるのが普通でしょう(彼の場合拘置されていたのが12年とわりと長い期間だったからというのもあるし,元々が資本主義的無政府主義者だから)。
行政と個人という対照的関係ではなく,まさに漫画のタイトル通りの刑務所の中における個人の生活というのが,この漫画のスタンス。
朝何食ったとか,刑務所での風呂はこうして入るとか,身辺雑記的な描写が羅列されている。
花輪独特の緻密な描写で刑務所の生活を描いているから,過激なイベントがまるでないにもかかわらず,なんだかすごくドキドキしちゃう漫画なんです。
描き方は極めて静謐で何が起こる訳でもない。
三年間の拘置生活が楽だったはずはないが,のんびりとした,いかにも勤め人にはできない根無し草の芸術家らしい創造へと転化させようとする引力によって漫画が描かれている。
だから,物語も起こらないのだけど興味深く読めるし,こういう表現で刑務所を舞台にした芸術もありだなーと思っちゃう。

この作者・花輪和一という漫画家は,モデルガン集めが高じて,銃刀法違反で逮捕されることになった訳なんですが,基本的に趣味に生きる人なんだなあと感じますね。
僕は趣味より経済ってタイプなんで,とても花輪のようには生きられませんが,カネはなくとも被扶養者はいないし,好きな芸術で食っていけるという人生は,「if」的な世界として憧憬したい部分はありますよね。
もし人生を何回かやれるんなら,花輪的な生き方っていいなーと思っちゃう。
そもそも黒田硫黄とかつげ義春の漫画が好きっていう僕の嗜好自体が,そっちへ憧れだけはあるってことなんですがね。

みなさんも,結構固いお仕事されてたり良い学校通ってたりするんだと思うんです。
でもねー,たまにはコッチ系にこない?って,刑務所というダークなものが手招きしてることをお忘れなく。
こっちもどっぷりつかって,疲れない程度には表現も物語もゆるゆるですから何も心配なしです。
一度刑務所に入ってみるのも悪くねえなあと読後に思わせるほどの,花輪和一の世界を楽しもうとする姿勢を感じられるいい漫画です。

余談ですが,この漫画,無能な映画監督によって映像化されているけれど,漫画の味が全然分かってないので観ないほうがいいです。
この人,最近も高名な娯楽小説を映画化して,個人的には噴飯の作品にしました(こんなのを,日本の映画界も批評家も賞賛しちゃうんだよね)。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2006-10-09 15:44:00] [修正:2006-10-09 15:44:00] [このレビューのURL]

 まず最初に驚かされるのは、藤子・F・不二雄のキャラクターを創造する能力の高さにである。誰もが印象的に残るデザイン。本作の主人公・ドラえもんのあいらしい姿は、ディズニーのミッキーマウスやくまのプーさんなどにも劣らない。記憶され、かつ愛され、人口に膾炙するキャラクター「ドラえもん」を生み出したこと自体で既に本作の力量が発揮されてしまっているといってもいい。

 それに加えて、「ドラえもん」が持つ特性に、「22世紀の未来からやって来た」、「未来の道具を使用できる」ネコ型ロボットというものがある。そして、作者が得意とする、この子供のファンタジーの具現化としての「ドラえもん」は、「22世紀」という全く予知できない時代であるがゆえに、本来は魔法のようなものであるはずの道具を、「こんなことがあったらいいな」と思わせるにたるほどの、説得力を持たせているといえるだろう。

 一体、藤子・F・不二雄という漫画家は、子供漫画ばかり描いてきたと自称しているように、確かに子供漫画が多いのだが、一方ではSF漫画も描いている。ほんの小品が多いものの、どこかで説得力を持たせる根拠を備えている。『ドラえもん』も実は、その流れを汲んでいるのであって、そこにSF漫画には見られない普遍性(つまりは子供漫画の普遍性)とがあいまって、『ドラえもん』ができている、ということになっている。よくでてくる「タイムマシン」という究極の道具も、常に整合性を保たせていて、過去に行ってのび太たちがいたずらして変えられた過去は、常に現在でも調整されている。そこが漫画では落ちになっているのだけれども、『ドラえもん』が、子供漫画ではありながら、SF漫画の性質を失ってはいないことを、示すものだろう。

 このように、子供の持っているファンタジーを具現化するものとして作られた、戦後最大の子供漫画である『ドラえもん』は、魔法のようでありながら、「22世紀」という可能性に満ち満ちた、そのために根拠のある「道具」を使う「ドラえもん」を主人公に据えることによって、SF漫画としてのジャンル分けを果たしている。そうでありながら、のび太が「ドラえもん」の使う道具で悪さをした時には、「ドラえもん」や、時には「神の手」が、きちんとお灸を据えるという、教育漫画的ジャンルを備えている。そうした藤子のマジックが完全に確立したものとして、『ドラえもん』は素晴らしい傑作だということができるだろう。こんな漫画は、そう出てくるものではない。無二の漫画だ。それだけに、藤子の急逝が惜しまれてならないのは、他のレビュアー諸氏と同意見である。

 惜しむらくは、子供が率先して読めるが、大人が率先して読めるものにはなりにくかった、ということである。これが藤子と私淑した漫画家・手塚との違いか。だがそれは、藤子の欠点ではなく、子供漫画ばかりを描こうとした藤子の価値観なのだから、仕方のないことだ。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-22 20:21:06] [修正:2005-09-22 20:21:06] [このレビューのURL]

吉田戦車との出会いは,ゲームオタクである僕にとっては,『はまり道』だった(知らない人は知らない漫画).そこで僕が読もうとしたのは,『はまり道』の漫画としての面白さというよりも,自分の知らないゲームをプレイして,咀嚼した漫画家の感性だった.だが,年齢があがるにつれ,『はまり道』の面白さに目覚めた僕は,遂に吉田の代表作『伝染るんです。』を手に取ることになる.

「不条理漫画」と一概に呼ばれることが多い本作だが,さっぱり僕にはこの呼称の意味がつかめない.「不条理」だろうか.不条理なものを笑うには芸術作品への高い親和性と知識を持っていないと読めないのだが,小学生の僕にさえ『伝染るんです。』の面白さは理解できた.

「四コマ漫画」といえば起承転結があるのだが,本作にはそれがない.それだけで僕には笑えたし,多くの読者もそうなのではないかと思われる.中には完結したモノもあるのだが,「えっこれで終わり?」という終わり方をしているモノが殆どだ.しかしその終わり方の唐突さが,今までにはないおかしさを読者に教えてくれたのではないかと思われる.それが不条理だというマスコミがいるのだが,終わりのない終わり方をしているモノを,不条理だと誤って換言したようにしか思えない.

吉田の描く「顔」は,非常に面白い.線で描けるような適当な絵だが,それがコマに出てくるだけで笑ってしまう.女の子は意外とかわいいのが,そのギャップになって笑える.そういう意味では,笑われるキャラは,不条理なのかもしれないが,ギャグ漫画とはえてしてそういうものなので,やはり同意できない.「顔」で笑わせることのできる漫画家は,吉田戦車と古谷実だけだと思う.古谷は『稲中』で有名だが,今でもヤング誌を見ていると,古谷の「顔」を真似している三流漫画を見る.エピゴーネンも続きすぎると鼻につくのだが,オリジナルはやっぱり凄い.吉田も,彼自身が現在では,エピゴーネンになってしまって残念だが,オリジナルの『伝染るんです。』は良い.

ナイスレビュー: 0

[投稿:2006-03-27 22:44:15] [修正:2006-03-27 22:44:15] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

僕は、学園ドラマとか青春モノとかいう世界観が余り好きでなく、なじめないものが多いのだが、『今日から俺は』のように、あっけらかんとして、ギャグで疾走してくれると読んでいて凄く楽しい。学園ドラマにありがちな純粋な友情もあるにはあるが、高校生の友情という限定された範囲の中では、深刻なものは受け入れ難い。読んでいる一部の同世代の読者にはそれでもいいのかもしれないが、成人を迎えてしまうと、なんだかなーと思ってしまう。

その点、『今日から俺は』は、友情といっても、隣町の高校生とバトルする時にグッとあつくなる程度で、普段は空気のような関係を保っている。いざとなる時は熱いが、その熱さも限定的なもので、すぐほんわかしたギャグで帳消しにするので、青臭さが少ない。『今日から俺は』と同時期に連載していたジャンプの『ボーイ』は、逆にギャグが構造にあるわけじゃなく、根本がシリアスで、なおかつキャラクターがその世界観にのっとって格好をつけているので、読んでいて醒めてしまった。

『今日から俺は』は、『うる星やつら』と同じで、ずっと同じ時間の中で物語が進んでいる。誰も成長しないままである。漫画の中で、ヒロイン(?)・理子が、主人公の三橋がどういう大人になるのかを想像して右往左往するシーンがあるが、現実が考えたら、三橋みたいにバカをやっていたら、右往左往したくもなろう。だが時間が停まっている世界の中だから、そんなことは気にしない。気にせず楽しむまでである。ケンカにあけくれ、遊ぶ毎日である。

理子と三橋、今井と涼子の恋愛も結局は成就しないが、それも時間の停まった物語だから許容されることだ。成就したら物語の終わり。『めぞん一刻』も最終回になってしまった。ギャグで通りぬけられるほど、楽しい『今日から俺は』の世界は、ずっと過ごしていたいけど終わらなくちゃいけない高校時代をフィクションゆえに「終わらないもの」として描く、青春漫画の定石として評価したいと思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-21 00:20:25] [修正:2005-09-21 00:20:25] [このレビューのURL]

 この漫画を楽しむにはいくつかの条件が必要だ。一つには吉田戦車の漫画が好きであること。一つには家庭用ゲームが好きであること。一つにはレトロゲームについての経験ないし知識があること。

 これらを全て満たした人はこの漫画を手にとってみることをお薦めする。四コマ漫画であるが、吉田戦車の代表作『伝染るんです。』を楽しめる読者ならば、むしろ四コマという体裁にこそそそられるものがあるだろうと思う。

 『伝染るんです。』で人気があったキャラクター「かわうそ」や「かっぱ」、「かえる」、「斎藤」などが、この漫画においては、ゲームキャラクターがその役を担っている。マリオ、ルイージ、リンク、ピーチ姫、『DQ?后戮亮膺邑覆匹?吉田戦車の絵によって、”かわうそ化”しているということ。また、起承転結自体が存在しているとはいえ、どこか不条理な感覚を読者に与える吉田の漫画が、おなじみのゲームキャラクターによって、読者に読み直しを迫っている。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2005-09-06 23:09:48] [修正:2005-09-06 23:09:48] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 『のぞき屋』というタイトルだが、エロティックな漫画ではない。大学生の恒を通して、人間の本当の姿を探って行く物語である。のぞきを趣味にしている青年のスコープはそのための道具に過ぎない。のぞくことで性的興奮を覚えるためではない。

 のぞき屋の青年は、恋人のさとみに対して常に「作り笑い」をして、セックスしたいという本音を言わない恒に、「ありのままの彼女を見届けて」みろと告げる。そのために探偵まがいのことをしろというのだが、青年に恒が「探偵」を依頼するのではなく、恒に青年が「探偵」を誘導するというところに、本作の主眼が見える。本作の主眼は、自分にウソをつき、セックスしたいのにしようといわないで、「作り笑い」でごまかしている主人公の恒を、本心に立ち返らせることである。人間は、のぞき屋の青年がスコープで覗いているように、強欲の世界だ。本作では性欲と名誉欲とが描かれているように、その欲望に沿って生きているに過ぎない。というか、それ以上の存在にはなりえないのだから、善悪の問題ではない。だが、ある一定の人間はどうかすると、その欲望を隠蔽したがるものだ。主人公の恒のように、自分にさえウソをつき、彼女にもウソをつき、のぞきを誘導する青年に散々言われてやっと開眼するといったところだ。恒は人間が欲望に沿って生きていることに気付かない振りをしている。青年は、その陥穽をついてくるのだ。

 もっとも、本作の主題は、突き詰めれば非現実的になってしまうのは否めない。全てを疑ってかかり、本音を突きとめるというが、原理的にそんなことはできるはずがない。時間的な無理もあるけれど、第一そんなことをしたら生活が営めないし、孤独になるほかにない。だから、人間は、欲望に忠実であるという命題を抱えながらも、どこかではそれを隠蔽する他にない。人間は理性もあるといった考え方で、その命題を捉え直していくしかない。それが一歩間違えると、本作の恒のように、自分を隠蔽し続ける人間に成り下がってしまうということになるだろうから、バランスの問題である。人間は欲望のもとに生きるが、理性もあるということ、疑い始めたらきりがないということ。これがこの漫画から分かる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-08-09 22:11:43] [修正:2005-08-09 22:11:43] [このレビューのURL]

7点 MONSTER

[ネタバレあり]

全編に渡ったドイツやチェコなど欧州を舞台にしたミステリー漫画。冷戦時代の東ドイツで行われた人間の人格改造によってうまれた殺人鬼こと怪物を巡る物語。

一人の出世意欲にまい進する日本人の脳外科医。その欲に満ちた人生に疑問を抱いて上司の意見を遮って助けた命が,自分の人生を大きく狂わせるという矛盾に満ちた悲劇。

序盤は極めて面白い。その助けた命はドイツ青年だが,謎めいていて彼の存在を一般の人間は誰も知らない。しかし,確実に彼は存在し,まぎれもなく人を殺していく。闇,ということばが漫画の中に何度か出てくるが,この青年自体が闇であることは,読者なら誰しも気づくのではないか?

感情表現を描くのがうまくない浦沢は,青年の不気味さを,顔で描くことはできなかった。しかしながら,青年の行動が,不気味なのであり,まさしくモンスターなのであることを教えてくれる。残酷描写は極めて控えめながら,漫画で起こる事実が読者にいいようのない恐怖感を与えるだろう。エンターテインメントとして一流であるゆえんだ。

だがいくつかアラも見受けられる。デザインのセンスに欠ける浦沢は,人間の顔に個性を植えつけることができない。これが小説だったらと思うことも少なくない。物語は悪くないのだから。だが,デザインのセンスに欠けているために,壮大な物語にケチをつける格好になっている。どれも皆同じ顔に見えてしまう。

特に,デザインのセンスの欠如が顕著に現れてくるのが,ニナ(アンナ)であろう。金髪のドイツ娘という設定だが,なにやらそこらの日本の若い娘に見える。あれをドイツ人に見立てられてもちょっと困るのだが・・・?たいして知的にも見えないし。設定がうわついて見えてしまうのだ。

物語は,悪くないといったが,徐々にしぼみはじめてしまっている。テンマが,何故モンスターことヨハンの命を狙おうとするのか?たしかにヨハンは冷酷無比だろうが,自分の全人生を賭けてまで何故?そこまでの動機がまるで見えてこない。自分の医者ないし医学者としての人生が,絶たれた訳でもなかろうに,少々理不尽な設定ではなかったか。家族が殺されるとか,なんらかのプライベートな理由がないと,感情移入するには至らない。

そういえば,テンマの家族はまるで物語に登場しないのだが,それも一体どういう理由でそうしたのだろう。

サブキャラクターのエピソードをつむいで物語の構成力を豊かにしていく手腕は,さすがといえる。その緻密かつ物語に不可欠なエピソードは,『MONSTER』という漫画を,複数の人間の感情が入り乱れる漫画に仕立ててくれている。

ドイツで指名手配となったテンマが,確かに無実の罪と判明したとはいえ,最終的には大学から招待されたり,医師団に参加したりと,なんだか適当になってしまった展開も非常に疑問である。

文化庁メディア芸術祭だとか小学館漫画賞だとか手塚治虫賞だとか主だった漫画賞を受賞した本作だが,まさにしかり,というような内容ではないと感じられた。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2006-08-08 23:46:47] [修正:2007-01-19 22:58:52] [このレビューのURL]

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