「ほげ」さんのページ

総レビュー数: 17レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年05月28日

 まず最初に驚かされるのは、藤子・F・不二雄のキャラクターを創造する能力の高さにである。誰もが印象的に残るデザイン。本作の主人公・ドラえもんのあいらしい姿は、ディズニーのミッキーマウスやくまのプーさんなどにも劣らない。記憶され、かつ愛され、人口に膾炙するキャラクター「ドラえもん」を生み出したこと自体で既に本作の力量が発揮されてしまっているといってもいい。

 それに加えて、「ドラえもん」が持つ特性に、「22世紀の未来からやって来た」、「未来の道具を使用できる」ネコ型ロボットというものがある。そして、作者が得意とする、この子供のファンタジーの具現化としての「ドラえもん」は、「22世紀」という全く予知できない時代であるがゆえに、本来は魔法のようなものであるはずの道具を、「こんなことがあったらいいな」と思わせるにたるほどの、説得力を持たせているといえるだろう。

 一体、藤子・F・不二雄という漫画家は、子供漫画ばかり描いてきたと自称しているように、確かに子供漫画が多いのだが、一方ではSF漫画も描いている。ほんの小品が多いものの、どこかで説得力を持たせる根拠を備えている。『ドラえもん』も実は、その流れを汲んでいるのであって、そこにSF漫画には見られない普遍性(つまりは子供漫画の普遍性)とがあいまって、『ドラえもん』ができている、ということになっている。よくでてくる「タイムマシン」という究極の道具も、常に整合性を保たせていて、過去に行ってのび太たちがいたずらして変えられた過去は、常に現在でも調整されている。そこが漫画では落ちになっているのだけれども、『ドラえもん』が、子供漫画ではありながら、SF漫画の性質を失ってはいないことを、示すものだろう。

 このように、子供の持っているファンタジーを具現化するものとして作られた、戦後最大の子供漫画である『ドラえもん』は、魔法のようでありながら、「22世紀」という可能性に満ち満ちた、そのために根拠のある「道具」を使う「ドラえもん」を主人公に据えることによって、SF漫画としてのジャンル分けを果たしている。そうでありながら、のび太が「ドラえもん」の使う道具で悪さをした時には、「ドラえもん」や、時には「神の手」が、きちんとお灸を据えるという、教育漫画的ジャンルを備えている。そうした藤子のマジックが完全に確立したものとして、『ドラえもん』は素晴らしい傑作だということができるだろう。こんな漫画は、そう出てくるものではない。無二の漫画だ。それだけに、藤子の急逝が惜しまれてならないのは、他のレビュアー諸氏と同意見である。

 惜しむらくは、子供が率先して読めるが、大人が率先して読めるものにはなりにくかった、ということである。これが藤子と私淑した漫画家・手塚との違いか。だがそれは、藤子の欠点ではなく、子供漫画ばかりを描こうとした藤子の価値観なのだから、仕方のないことだ。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-22 20:21:06] [修正:2005-09-22 20:21:06] [このレビューのURL]

虚構の名探偵金田一京助の子孫・金田一一が主人公の推理漫画。推理小説もミステリー映画も興味のない私は、この漫画の推理がどの程度優れているのかは分からない。ただ、『コナン』と比べると、金田一が考え考え物語を進めているように描かれているのは好印象だった。『コナン』は、なんでこんなに早く?という感じでコナンが犯人を射止めてしまっていた。

『コナン』が江戸川乱歩とコナン・ドイルのあいのこ的な名前を持っている人間を主人公としているのは、多分に本作の影響が見られる。連載当初は推理ブームともいうべき現象があって、少年マガジンの発行部数をのばしたのもこの漫画のおかげだ。だから講談社は『金田一少年〜』に足をむけて寝られない。

2回ほどドラマ化されたように記憶するが、オカルト、ホラーテイストの内容で案外に楽しめた。原作の方は、髪の毛を一つにしばる金田一のセンスのなさと、女性が描けない(男性のように見える)作者のセンスで絵にとけこめないものがあったが、江戸川乱歩的な猟奇殺人には、割とひきつけられた。ドラマ化は、そこをチープながら上手く実写化していたようである。

物語としては、頭は悪いけど推理はできるという、テレビゲームの『クロス探偵物語』的な設定。パクリはあるのだろうが、いちいちそんなことに憤っていてはこのシミュレーション化された世界ではやっていけないから、減点対象にはならない。だが、ことあるごとに起こる事件の中で、やたら犯人が自殺する展開が多かったのは大変鼻についた。フィクションの中で犯人が警察にとらえられず死んで終わりというのでは、全く何もなかったかのようである。インクを消したようなものだ。やっぱり罪は罪としてつぐなってほしいものだが、この作品は、犯罪者の動機をつき、読者の同情を誘うので、そういうわけにはいかないようだった。自殺することで、悲しみで幕を閉じるというやり方は、犯罪者の罪を隠すようで好ましくない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-21 00:43:16] [修正:2005-09-21 00:43:16] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

僕は、学園ドラマとか青春モノとかいう世界観が余り好きでなく、なじめないものが多いのだが、『今日から俺は』のように、あっけらかんとして、ギャグで疾走してくれると読んでいて凄く楽しい。学園ドラマにありがちな純粋な友情もあるにはあるが、高校生の友情という限定された範囲の中では、深刻なものは受け入れ難い。読んでいる一部の同世代の読者にはそれでもいいのかもしれないが、成人を迎えてしまうと、なんだかなーと思ってしまう。

その点、『今日から俺は』は、友情といっても、隣町の高校生とバトルする時にグッとあつくなる程度で、普段は空気のような関係を保っている。いざとなる時は熱いが、その熱さも限定的なもので、すぐほんわかしたギャグで帳消しにするので、青臭さが少ない。『今日から俺は』と同時期に連載していたジャンプの『ボーイ』は、逆にギャグが構造にあるわけじゃなく、根本がシリアスで、なおかつキャラクターがその世界観にのっとって格好をつけているので、読んでいて醒めてしまった。

『今日から俺は』は、『うる星やつら』と同じで、ずっと同じ時間の中で物語が進んでいる。誰も成長しないままである。漫画の中で、ヒロイン(?)・理子が、主人公の三橋がどういう大人になるのかを想像して右往左往するシーンがあるが、現実が考えたら、三橋みたいにバカをやっていたら、右往左往したくもなろう。だが時間が停まっている世界の中だから、そんなことは気にしない。気にせず楽しむまでである。ケンカにあけくれ、遊ぶ毎日である。

理子と三橋、今井と涼子の恋愛も結局は成就しないが、それも時間の停まった物語だから許容されることだ。成就したら物語の終わり。『めぞん一刻』も最終回になってしまった。ギャグで通りぬけられるほど、楽しい『今日から俺は』の世界は、ずっと過ごしていたいけど終わらなくちゃいけない高校時代をフィクションゆえに「終わらないもの」として描く、青春漫画の定石として評価したいと思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-21 00:20:25] [修正:2005-09-21 00:20:25] [このレビューのURL]

3点 桜通信

大学入試という、今時の若者なら誰しも通る分岐点を巡っての恋愛物語。よく比較される通り、江川達也の漫画『東京大学物語』の遊人版といってもいい内容である。遊人版というのは、要はポルノ化された『東京大学物語』ということ。『東大〜』も、ほとんどポルノに過ぎないシーンも多いが、遊人版『東大〜』は、それに輪をかけてポルノグラフィーと化している。いわば、AVやポルノ映画などの、主人公視点のセックスが描かれているということ。そのために、『東大〜』に比べると、ポルノ度は高いといえる。

具体的に言えば、主人公の都合のよい具合にセックスが描かれる。麗(うらら)という特定の恋人がいながら、他の女性とセックスに耽ることができる。そんなことをしても、麗と主人公は、別れないし、主人公が浮気をしていても、麗は許してしまうというもの。主人公のために性的に体を張ってくれる麗は、AV女優さながら、主人公にとって都合の良い女性だ。

『東大』のヒロイン・遥も、主人公にとって都合の良い女性ではあるが、最後の方までヴァージンを守り通し、AV女優のようには主人公の前で振舞わないという点が、違っている。まあ、どちらの作品にしても、女性が読めばばかばかしくなるような固定化された女性像であることには変わりない。どちらにしても、主人公(男)のなぐさみものでしかないヒロインは、悲しい描かれ方をしている。

この遊人版『東大〜』は、主人公の都合の良いように、女性たちとの性交渉が描かれ、麗とはなんとかうまくいくような展開が続く。『東大』における、主人公・村上直樹の妄想による独白などは特筆すべき演出で、その点においては私は『東大〜』を評価できるのだが、この『桜通信』は、どうにもAV的な物語の展開が気に入らなかった。必要以上にヌードを披露する女性たちには、あまりエロスを感じなかった。別に私は女性の肩を持つ訳じゃないが、もう少し固定化された像から抜け出る術を漫画家は考えてもらいたいものだ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-20 23:59:30] [修正:2005-09-20 23:59:30] [このレビューのURL]

 この漫画を楽しむにはいくつかの条件が必要だ。一つには吉田戦車の漫画が好きであること。一つには家庭用ゲームが好きであること。一つにはレトロゲームについての経験ないし知識があること。

 これらを全て満たした人はこの漫画を手にとってみることをお薦めする。四コマ漫画であるが、吉田戦車の代表作『伝染るんです。』を楽しめる読者ならば、むしろ四コマという体裁にこそそそられるものがあるだろうと思う。

 『伝染るんです。』で人気があったキャラクター「かわうそ」や「かっぱ」、「かえる」、「斎藤」などが、この漫画においては、ゲームキャラクターがその役を担っている。マリオ、ルイージ、リンク、ピーチ姫、『DQ?后戮亮膺邑覆匹?吉田戦車の絵によって、”かわうそ化”しているということ。また、起承転結自体が存在しているとはいえ、どこか不条理な感覚を読者に与える吉田の漫画が、おなじみのゲームキャラクターによって、読者に読み直しを迫っている。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2005-09-06 23:09:48] [修正:2005-09-06 23:09:48] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 永遠に終わらない「中学二年生」を描いたギャグ漫画。中学二年生という時期は、高校への進学を考えなくても良いし、本作の舞台になっている部活動の引退も考えなくても良い。一年生の時にはまだ慣れなかった仲間とはようやく打ち解ける時期でもある。一年生の緊張がなく、三年生の円熟がない。なんとなく自由な時期だ。それが永遠に(漫画が終わるまでは)続くと想定されているところに、この漫画の楽しさがある。

 この中学二年生という時期が、未熟ではあるが決して初心でもないという時期であることとあいまって、この漫画の大きなポイントである、「性」についてのアプローチがなかなか上手い。恋人のバストを触ったり、全裸にしてみせたりする男の子が出てくるが、彼等は決してセックスには至らない。変態wとされている前野なる主人公も、女性の性器を裏ビデオで見てしまい、苦しんでしまうという始末。それが笑いになってはいるのだが、中学二年生という曖昧な時期の、性に対するアプローチを適切に描写していると思う。

 下の人も言っていることなのだけれど、『稲中』のギャグ漫画としての独創性の一つに、「絵で笑わせる」というのがある。漫画太郎も同じなのだが、『稲中』では、笑いのシーンでだけ「絵」がギャグになる(ちょっとグロテスクな感じ)がそうでないシーンではシンプルである点が異なっている。鼻水をたらしたりよだれをたらしたりしないが、「ダウンタウン」や「ビートたけし」だのが昔やって子供に人気があった着ぐるみを着て笑わせている。だから、笑いはTVで映える芸人のそれに近いのだろうか。『稲中』が、普段漫画などオタクが読むものとして馬鹿にしているような若い世代に人気があったことを思い起こすと、TV芸人に近い笑いのセンスというのは、慧眼かもしれない。

 大分賞賛してきたのに点数が低いのは、私がTVで映える芸人が好きでないからなのかもしれない・・・

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-04 21:59:00] [修正:2005-09-04 21:59:00] [このレビューのURL]

10点 ピンポン

[ネタバレあり]

 ありふれたスポーツ漫画を、筆遣いの巧みさで、異常な存在感を示した松本大洋の傑作。

 天才肌で、努力することを知らない主人公・ペコは、卓球の名手。だが、かつて自分が見下していた選手であったアクマが、「努力」によって自分を圧倒的に上回る選手になっていた………そして敗北する。尚且つ、自分の一歩手前を歩いていたはずの選手・スマイルが、めきめきと頭角を表し始め、かつて名選手だった顧問コーチにも見出される。

 そして、ペコは、「努力」をすることによって、成功する訳だが、物語としては、確かにこれは、「平凡」ではある。誰が見たって、ありふれたスポーツ漫画に過ぎない。しかし、そのありふれた物語であるはずの本作が、われわれの前に傑作として映ってくるのは何故なのか?それは、作者独特の筆遣いにあるのは、誰しも認めることではないか。黒田硫黄にも似たようなタイプであるが、詩的な黒田と違って、こちらはコンピュータ・グラフィックス的な戯画を見せてくれる。

 卓球のスピード感は、1秒間でピンポンを打って・打ち返すほどの高速度で僕たちの目に映る。それを漫画で表そうとすると、アクション漫画の格闘シーンを見ているような荒々しさで埋め尽されてくる。殴り・殴り返すような緊迫感がこの漫画の中にはある。少年の成長物語としても、もちろん読むことは可能だが、しかしそれだけではありふれたスポーツ漫画(それもスポ根漫画)に過ぎない。それをありふれないもの、異常な存在感を放つもの、稀有さをもつものとして甦らせたのは、作者の手腕でなくてなんだろう。映画版がつまらなかったのは、この漫画がどこで読者をひきつけているか分からなかったからだ。ありふれた物語をありふれないものにすること。つまりは、演出の巧みさがなければならないのに、できなかったからだった。僕はこの漫画を読む度ごとに、心理的な面よりも、外面的な文体の面白さに感服している。それゆえに、この漫画は素晴らしいと感じている。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-01 21:57:54] [修正:2005-09-01 21:57:54] [このレビューのURL]