「ほげ」さんのページ

総レビュー数: 17レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年05月28日

 この漫画を楽しむにはいくつかの条件が必要だ。一つには吉田戦車の漫画が好きであること。一つには家庭用ゲームが好きであること。一つにはレトロゲームについての経験ないし知識があること。

 これらを全て満たした人はこの漫画を手にとってみることをお薦めする。四コマ漫画であるが、吉田戦車の代表作『伝染るんです。』を楽しめる読者ならば、むしろ四コマという体裁にこそそそられるものがあるだろうと思う。

 『伝染るんです。』で人気があったキャラクター「かわうそ」や「かっぱ」、「かえる」、「斎藤」などが、この漫画においては、ゲームキャラクターがその役を担っている。マリオ、ルイージ、リンク、ピーチ姫、『DQ?后戮亮膺邑覆匹?吉田戦車の絵によって、”かわうそ化”しているということ。また、起承転結自体が存在しているとはいえ、どこか不条理な感覚を読者に与える吉田の漫画が、おなじみのゲームキャラクターによって、読者に読み直しを迫っている。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2005-09-06 23:09:48] [修正:2005-09-06 23:09:48] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 永遠に終わらない「中学二年生」を描いたギャグ漫画。中学二年生という時期は、高校への進学を考えなくても良いし、本作の舞台になっている部活動の引退も考えなくても良い。一年生の時にはまだ慣れなかった仲間とはようやく打ち解ける時期でもある。一年生の緊張がなく、三年生の円熟がない。なんとなく自由な時期だ。それが永遠に(漫画が終わるまでは)続くと想定されているところに、この漫画の楽しさがある。

 この中学二年生という時期が、未熟ではあるが決して初心でもないという時期であることとあいまって、この漫画の大きなポイントである、「性」についてのアプローチがなかなか上手い。恋人のバストを触ったり、全裸にしてみせたりする男の子が出てくるが、彼等は決してセックスには至らない。変態wとされている前野なる主人公も、女性の性器を裏ビデオで見てしまい、苦しんでしまうという始末。それが笑いになってはいるのだが、中学二年生という曖昧な時期の、性に対するアプローチを適切に描写していると思う。

 下の人も言っていることなのだけれど、『稲中』のギャグ漫画としての独創性の一つに、「絵で笑わせる」というのがある。漫画太郎も同じなのだが、『稲中』では、笑いのシーンでだけ「絵」がギャグになる(ちょっとグロテスクな感じ)がそうでないシーンではシンプルである点が異なっている。鼻水をたらしたりよだれをたらしたりしないが、「ダウンタウン」や「ビートたけし」だのが昔やって子供に人気があった着ぐるみを着て笑わせている。だから、笑いはTVで映える芸人のそれに近いのだろうか。『稲中』が、普段漫画などオタクが読むものとして馬鹿にしているような若い世代に人気があったことを思い起こすと、TV芸人に近い笑いのセンスというのは、慧眼かもしれない。

 大分賞賛してきたのに点数が低いのは、私がTVで映える芸人が好きでないからなのかもしれない・・・

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-09-04 21:59:00] [修正:2005-09-04 21:59:00] [このレビューのURL]

10点 ピンポン

[ネタバレあり]

 ありふれたスポーツ漫画を、筆遣いの巧みさで、異常な存在感を示した松本大洋の傑作。

 天才肌で、努力することを知らない主人公・ペコは、卓球の名手。だが、かつて自分が見下していた選手であったアクマが、「努力」によって自分を圧倒的に上回る選手になっていた………そして敗北する。尚且つ、自分の一歩手前を歩いていたはずの選手・スマイルが、めきめきと頭角を表し始め、かつて名選手だった顧問コーチにも見出される。

 そして、ペコは、「努力」をすることによって、成功する訳だが、物語としては、確かにこれは、「平凡」ではある。誰が見たって、ありふれたスポーツ漫画に過ぎない。しかし、そのありふれた物語であるはずの本作が、われわれの前に傑作として映ってくるのは何故なのか?それは、作者独特の筆遣いにあるのは、誰しも認めることではないか。黒田硫黄にも似たようなタイプであるが、詩的な黒田と違って、こちらはコンピュータ・グラフィックス的な戯画を見せてくれる。

 卓球のスピード感は、1秒間でピンポンを打って・打ち返すほどの高速度で僕たちの目に映る。それを漫画で表そうとすると、アクション漫画の格闘シーンを見ているような荒々しさで埋め尽されてくる。殴り・殴り返すような緊迫感がこの漫画の中にはある。少年の成長物語としても、もちろん読むことは可能だが、しかしそれだけではありふれたスポーツ漫画(それもスポ根漫画)に過ぎない。それをありふれないもの、異常な存在感を放つもの、稀有さをもつものとして甦らせたのは、作者の手腕でなくてなんだろう。映画版がつまらなかったのは、この漫画がどこで読者をひきつけているか分からなかったからだ。ありふれた物語をありふれないものにすること。つまりは、演出の巧みさがなければならないのに、できなかったからだった。僕はこの漫画を読む度ごとに、心理的な面よりも、外面的な文体の面白さに感服している。それゆえに、この漫画は素晴らしいと感じている。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-09-01 21:57:54] [修正:2005-09-01 21:57:54] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 江戸川乱歩とコナン・ドイルという、日本と西洋を代表する推理作家の名前をもらった主人公「江戸川コナン」が、難事件を解決するという物語。

 そのキャッチフレーズの如く、緻密な謎を解いていく本格推理漫画である。しかもそれが、小学生で、『ドラえもん』バリの道具を用いて体格に差のある犯人たちに対峙するという設定はなかなか読者をひきつけるものがあった。作品の単行本の裏表紙に書いてある通り、作者青山剛昌が推理ファンであることから来る精緻な犯罪のロジックと、少年漫画ならではの奇抜なアイテムの多用がこの漫画をエンターテインメントたらしめているのだろう。

 個々の事件も読者を飽きさせないように、コナンなら分かるが、読者にはなるだけ分からない奇抜なトリックで構成されているのが目を引く。ここらあたりは、江戸川乱歩が名前を借りた、あのエドガー・アラン・ポーなどとは違ってくる。この作品では、コナンが、小学生のスターである、という演出で描かれているから、この奇抜なトリックを、短時間で解いてしまい、誰もが気付かない盲点をついてくるという設定があるから、この奇抜さは必要なのだろう。

 それにしても、20巻程度ならまだしも、50巻とは長すぎるといわざるを得ない。短編というだけではなく、コナンを小学生の体にした黒組織との闘いなども、何度かその片鱗を見せながらも、絶対的な解決に至らないというのは、遅い。長編ではないが、時系列的な部分もあることだし、小学生コナンが、周りの同級生に正体を知られないままずっと漫画が続いていくというのは、読者にはイライラを残すと思う。

 あとは、子供向けの漫画にしては、非常に残酷なシーンが多いのも気にかかる。描写の暴力さはもう少し何とかならないものか。殺人事件という殺伐な物語であるだけに、仕方がないのではあるが、これも世相かとも思うけれど、素直には喜べないものがある。キャラクターの白けた顔も、あまり好ましくない。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2005-08-14 20:33:09] [修正:2005-08-14 20:33:09] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 『のぞき屋』というタイトルだが、エロティックな漫画ではない。大学生の恒を通して、人間の本当の姿を探って行く物語である。のぞきを趣味にしている青年のスコープはそのための道具に過ぎない。のぞくことで性的興奮を覚えるためではない。

 のぞき屋の青年は、恋人のさとみに対して常に「作り笑い」をして、セックスしたいという本音を言わない恒に、「ありのままの彼女を見届けて」みろと告げる。そのために探偵まがいのことをしろというのだが、青年に恒が「探偵」を依頼するのではなく、恒に青年が「探偵」を誘導するというところに、本作の主眼が見える。本作の主眼は、自分にウソをつき、セックスしたいのにしようといわないで、「作り笑い」でごまかしている主人公の恒を、本心に立ち返らせることである。人間は、のぞき屋の青年がスコープで覗いているように、強欲の世界だ。本作では性欲と名誉欲とが描かれているように、その欲望に沿って生きているに過ぎない。というか、それ以上の存在にはなりえないのだから、善悪の問題ではない。だが、ある一定の人間はどうかすると、その欲望を隠蔽したがるものだ。主人公の恒のように、自分にさえウソをつき、彼女にもウソをつき、のぞきを誘導する青年に散々言われてやっと開眼するといったところだ。恒は人間が欲望に沿って生きていることに気付かない振りをしている。青年は、その陥穽をついてくるのだ。

 もっとも、本作の主題は、突き詰めれば非現実的になってしまうのは否めない。全てを疑ってかかり、本音を突きとめるというが、原理的にそんなことはできるはずがない。時間的な無理もあるけれど、第一そんなことをしたら生活が営めないし、孤独になるほかにない。だから、人間は、欲望に忠実であるという命題を抱えながらも、どこかではそれを隠蔽する他にない。人間は理性もあるといった考え方で、その命題を捉え直していくしかない。それが一歩間違えると、本作の恒のように、自分を隠蔽し続ける人間に成り下がってしまうということになるだろうから、バランスの問題である。人間は欲望のもとに生きるが、理性もあるということ、疑い始めたらきりがないということ。これがこの漫画から分かる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-08-09 22:11:43] [修正:2005-08-09 22:11:43] [このレビューのURL]

 漫画太郎の短編集だが、一話一話が非常に短く、「お笑い」としては一発ギャグに近いものがある。ほとんど2頁ほどで完結するが、その完結した物語が、全体として画太郎らしいコピーの多用で構成されているところに、面白味がある。特に冒頭の「Superはやっとちりくそババァ」など、2頁の同じ物語の中で、台詞やキャラクターの変更によって笑わせてくれるのだが、それは、基礎となっている物語から、頁を追うごとに、台詞やキャラの変更によって、徐々にズレが生じていることで起こってくるものだ。

 まあ、こういった笑いは、僕たちがTVで見るお笑い芸人たちの、インスタントな笑いに似ているから、画太郎独自といえないかもしれないが、画太郎の強烈なまでに「汚い絵柄」とTVより短い頁数で、瞬発力の大きい笑いを提供してくれると思う。とにかく、スピードとインパクトだけで構成されていて、画太郎のエッセンスが詰まっているので、画太郎の入門者に最適の漫画であろう。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-08-07 12:48:18] [修正:2005-08-07 12:48:18] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 浪人生と未亡人との恋愛を軸にして、古びたアパートの住人、浪人生の恋敵、未亡人の両親などとの関係をギャグをちりばめて描いた、高橋留美子の代表作。連作長編の体裁を取っている。TVアニメの他劇場用アニメ化もなされたほどのヒット作となった。

 連作のため一話完結とみなせるが、浪人生・五代裕作は漫画の最後には社会人になっていて、時間の流れは時系列である。五代と未亡人・響子との関係は、一進一退といったもつれが延々と続いているが、実際の時間だけは動いているという設定である。また五代の恋敵・三鷹と響子との関係も一進一退であり、そこに楔を打ちこむまでに五年近い歳月を費やしている。

 進まない響子と五代との関係やうまくいかない大学入学や就職活動、卒業試験などを見ると、浪人生として登場した五代は、「永遠の浪人生」、いわゆる「モラトリアル人間」に見えなくもない。だがそれは限定的であって彼は恋愛において「永遠の浪人生」というだけである。大学入学にしても就職活動にしても、彼は意志もあれば実行力もある。単に能力が備わっていないだけのことなのだ。だから彼は巷間で言う所の「モラトリアム人間」ではない。だが前述のように、恋愛においては「モラトリアム」(猶予)を求める。あと一歩のところで彼は、響子に思いを告げることができないでいるのだ。

 そうかといって本作では、響子の方が五代により積極的かというとそうではない。「モラトリアム」があるということを除けば響子の恋愛観は男性主導の原理を守っているのだ。そうであればこそ、彼女は、三鷹と五代との間で、積極的な男は誰かを考えているし、そういう男と男との間で揺れ動いている。

 大学入学や就職活動といった実践的なレベルでは「モラトリアム」であることを拒否する五代青年は、社会人になった暁に響子に告白することになっていて、響子もそれを待ち望んでいるのだから、益々彼等の関係は古典的であることが分かるだろう。恋敵だった三鷹の方は、自己消滅するという形で五代に響子を譲ることになっており、響子の迷いも五代の就職待ちだ。

 面白いのは、五代の職業で、就職浪人時代に行った保父がそれなのには驚かされる。恋愛関係は「モラトリアム」であることを除けば(これが大事だったりするが)古典的であるのに対し、大学卒の男性で保父を選択するというのは、今でこそ多様な働き方として受容しやすいが、1980年代当時の成長期において、この選択は先見性があると思う。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-05-28 21:31:53] [修正:2005-05-28 21:31:53] [このレビューのURL]

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