「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

[ネタバレあり]

 この2015年を回顧すると、漫画業界にとっての重大トピックといえば、やはり水木しげるの訃報であった。享年93歳。
 故人もつい先日までマクドナルドに通うほど壮健であった為、もう100まで生きてもだれも驚かないと思っていたところの突然のこの訃報。戦後漫画の地平を切り開いた巨星がまた一人、十万億土の彼方に旅立ってしまった。

 水木作品は、扱うテーマが怪奇に幻想、戦記、歴史や人物伝と、やや通好みに偏った面があり、テレビアニメなどでマイルドな味付けがなされた鬼太郎や悪魔くんに親しんだ人は多くとも、原作となった漫画作品が(手塚治虫や藤子不二男らと比べると)現在においてはそれほど広く読まれているとは言い難い。
 一方で近年では、悲惨な戦場を体験した戦争の語り部としてマスコミなどでもよく取り上げられ、朝ドラの「ゲゲゲの女房」のヒットなどから水木本人の波乱万丈の人生ドラマにも注目が高まり、そのユニークな人間的魅力も広く知られるようになっていき、気がつけばまさに国民的作家となっていた。

 今回紹介する『ゲゲゲの家計簿』は、「ゲゲゲの女房」ヒット以降の水木しげるブームを受けるような形で11年から12年(89歳から90歳!)にビッグコミックで連載された、人気作家となる以前の不遇時代の水木しげるを描いた自伝漫画である。タイトルに家計簿とあるように、偶然発見された当時の家計簿の収支報告が頻繁に引用され、貸本漫画家として水木が貧乏暮しに喘いでいた頃の回想記となっている。

 内容的には他の作品でも既に描かれ世に知られたエピソード(腐りかけのバナナの話など)も多いため年季の入った水木ファンには新鮮味に欠ける部分も少なくないと思われるが、筋運びに無理もなくテンポよく読めるので(自分も含めて)水木作品初心者にもかなり読みやすい。また、ブレイク以前の紙芝居作家?貸本漫画家時代の話がメインを占めるため、“妖怪”以外の水木の仕事ぶりを知る上でも興味深いエピソードは少なくない。(少女マンガも描いていた事は本作で初めて知った。)
 ガロ編集長の長井勝一や水木作品の定番モブキャラとなった“メガネ出っ歯のサラリーマン”のモデルの桜井昌一の登場する後半には、いよいよ漫画が表現として新たなステージに突入していかんとしていた時代の空気や高揚感が感じられるのも良い。トキワ荘系の戦後漫画史とは違う、一般に日の目を見ることの少なかった漫画界の裏面、貸本漫画の世界から見たもう一つの『まんが道』である。

 水木しげるは手塚治虫らとは違い、漫画家そのものへのあこがれが先立っていたというよりも、生活の為に漫画家となったという側面が強い。
 昭和26年、東京では手塚が『鉄腕アトム』などで華々しく活躍をしていた頃、水木は神戸でアパート経営の傍ら、画力を活かし紙芝居作家として生計を立てていた。しかしアパート経営はじきに行き詰まり、紙芝居の方も新興の娯楽メディアである漫画、そしてテレビに圧され、業界も終焉を迎えつつある。
 紙芝居の終焉を看取った水木は上京し、貸本漫画家として食うや食わずの毎日を送る事となる。『墓場鬼太郎』や『河童の三平』などは一部の子供には面白がられるも、不気味さの為に大ヒットには至らない。戦記物、武芸物、ギャグ、果ては少女漫画にまで手を出し糊口をしのぐ水木。
 原稿料の遅滞は日常茶飯事で、貸本漫画業界そのものも大手出版社による週刊漫画誌の攻勢に圧され、紙芝居と同じく終焉を迎えようとしている。そんな中、後にゲゲゲの女房と呼ばれる生涯の伴侶(水木いわく「ばかに顔の長い女」)との結婚、女房の妊娠……。

「ぼくは貸本マンガの終焉と「鬼太郎」を重ねて考えていた。」

 物語の9割がたはこんな調子で逆境の日々、常人ならどうにかなってしまうだろう。
 しかし、ならない。水木夫婦は金策に困り絶望的になる事はあれ、それでもどうにか乗り切って行く。決して説教くさい美談のように大上段から描かれているわけではない。それでも不思議と胸を打つ。

「ぼくには悲愴感などなく、生きることへの自信があった。それは“絶対的に生かされる”という楽天的な信念のようなものだった。フンッ!!」

 この水木特有の天衣無縫な楽天性(そして諦観)を、後に評論家の呉智英は「朗らかなニヒリズム」と評した。

 相変わらず多くの読者は得られず生活も苦しいものの、一方で水木作品は好事家の目に留まるようになり、「ガロ」への掲載を通じてインテリや学生らにも読者を増やしつつあった。水木の好んで描く異形や土俗、歴史や幻想といったモチーフが漫画の主要なテーマとなりえることが次第に認知され始めたのだ。

 そして終盤、“金霊”を見た事がきっかけとなったのか講談社から読切の依頼がもたらされ、週刊誌デビュー作『テレビくん』の好評により、遂に日の目を見る事となった水木。プロダクションの設立と共にますます多忙となり、金廻りもよくなった事で、家計簿をつける必要もなくなり物語は後腐れもなしにぷつりと終わる。

 このように水木しげるの初期のキャリアを本作で振り返って興味深いのは、テレビと漫画の普及による紙芝居業界の終焉に立ち会った水木が、今度は漫画とテレビの力で国民的存在となっていったという奇縁だ。
 『テレビくん』はテレビの中に潜り込みCMの商品を好きに持ち帰る事ができるという不思議な力を持った少年の話だった。そして貸本時代にはマニア受けはすれど広く人気を得られなかった鬼太郎や悪魔くんにせよ、その後テレビアニメや特撮ドラマとなることで子供たちに広く受け入れられた。
 思えば水木作品というものは、紙芝居に始まり貸本、週刊誌漫画、絵物語、図鑑…、そしてアニメ、特撮、映画、ゲームと、現代の娯楽分野の多くをカバーしていたのである。
 そして水木の人生そのものも「のんのんばぁとオレ」や「ゲゲゲの女房」などのテレビドラマとなり、普段漫画を読まない層も含む多くの人達の共感を呼び、国民的存在となった。

 あらゆる点において、水木しげるは破格の人物だった。そんな水木の足跡を振り返る上でもかなりお手頃な作品なのでこのたびの訃報を機に水木ワールドに足を踏み入れようと言う方にもお勧めである。フハッ。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2015-12-31 02:36:35] [修正:2015-12-31 03:10:19] [このレビューのURL]