「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

10点 水域

 前作『蟲師』で和風ファンタジーの新たな地平を切り開き、鮮烈な印象を与えてくれた漆原友紀が趣向を変えて挑んだ作品がこの『水域』だ。『蟲師』との違いは舞台が現代日本である点、主人公が異能の力を持たない普通の少女である点、1話完結式の奇談集では無く、連続性のあるストーリーの単行本2巻分の中編である点など様々にあるが、独特の茫洋とした淡い描線や空気感、歴史的な古層を感じさせる豊穣な物語性、日本の原風景としての「山里」への愛着、自然への畏敬の念などの根本的な部分での作者のこだわりは共通していたため、前作と変わらず大いに味わい深く読むことができた。
 本作が作品単体としても素晴らしい傑作である事は疑いなかったが、いかんせん前作『蟲師』の比類ない奇想に圧倒された身としては多少の物足りなさを感じた事も事実で、10点では無く9点くらいが妥当であろうと思っていた。ところが、非常に不幸な出来事ではあったが忘れもしない3月11日のあの日を経て、これまでは実感の希薄だった「もどるべき故郷の喪失」という本作で描かれた主題が決して絵空事でない事を否応なしに思い知らされ、考えを改めた。
 本作は、今だからこそ多くの人々に読まれるべき作品であり、またこれからも読み継がれていくべきであると強く信じる。

 物語のフォーマットとしては、読者の郷愁を誘う祖父母の村を舞台にした都会っ子少女のひと夏の冒険を描く「ぼくのなつやすみ」のようなものであり、そこにちょこっとファンタジー要素をちりばめたりして最終的には「家族の絆」をテーマとした作品という事が出来る。何だか非常にありふれたジュブナイルものに思えてくるかも知れないがそこはさすがの漆原友紀、優れたストーリーテリングと味わい深いにも程がある描写でそんな凡庸さなど微塵も感じさせない。
 異常気象で猛暑日が続きダムの渇水すら囁かれるそんな夏休みのある一日、水泳部に所属する女子中学生の主人公千波はランニングの最中に熱中症で昏倒する。
 目覚めると周囲の景色は全く様相を変えていた。止まない雨、人影のない山里、記憶の水脈の彼方に繋がる、遠い郷愁を呼び起こす山村で彼女の出会う少年と老人。聞けば他の村人達はみなどこかに行ってしまったと言うのだが。
 渇水にむせ現世と夢の向こうにある雨止まぬ山里。この水面で隔てられたような彼岸と此岸を往還しながら、物語は時間軸すら自在に前後させつつ、とあるに山里に抱かれて育ち結ばれ、そして山里を捨てたとある家族の3世代に渡る別離と再会の物語を紡ぎだす。更にそこに村の開村伝説である「龍神さま」をめぐる伝説や村人達の様々な人間模様などが重層的に描写され、中盤に明らかとなる夢のなかの山里をめぐる真相。千波が往還した山里こそ、彼女の祖父母と母親が生まれ育ち、そして都市の利便のための水源となるべくダムの湖底へと沈んでいった今は無きふるさとなのだった。異常渇水によってダムが干上がり、湖底に沈んだかつての山里の姿が再び白日のものとなった時……。多くの記憶と想いの水脈が繋がりそして去っていく美しくも儚い結末。

 人工美の象徴としてのダム湖、その水域に散じて集まる人々の想い、天と地をつなぎ人と自然をつなぐ雨水の化身としての龍神。日本は水に恵まれた国であり、それゆえに水をめぐる特異な自然観を発達させてきた国でもあるが、本作ではダムという現代的な切り口から、水をめぐる幻想譚として非常に豊かな読み応えのある作品に仕上がった。それだけでなく、「ダムに沈んだ村」という(やや使い古された題材ではあるが)故郷喪失の遣る瀬無さも加わる事で、単なるファンタジーの域を超え現代的なテーマも合わせ持つ広く多くの読者に読まれるべき作品になっている。

 程度の違いはあれど、近現代の日本の歩みは古くからの地域共同体を破壊する事で進展してきたし、その流れを止める事はおそらく出来ないだろう。本作のラストも3世代の家族の再会を描くハッピーエンドでありながら、故郷の喪失という現実からは逃れられないほろ苦さに満ちている。そしてあの忘れ難い3月11日以降、震災と原発事故により本作で描かれたような故郷喪失の悲しみは広く多くの人々の間で共有される事となってしまった。建物やインフラなどの物理的損壊だけでなく、地域に根ざして生きる人々の営みとそれらを育んできた自然そのものがかつてない規模で破壊されてしまった。

 まことに不幸な事ではあったけれど、だからこそ、今だからこそ本作は多くの人々に読まれ読み継がれるべきなのだと改めて強く思う。失うことと忘却する事は、決して同じではない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-04-28 01:52:12] [修正:2011-05-15 18:14:29] [このレビューのURL]

10点 蟲師

 一般的な生物の体系から遠く離れた原初の生命群「蟲」、人や自然にそれらが及ぼす超自然的で奇怪な現象の数々。本作『蟲師』は、江戸と明治のあわいに位置する架空の時代の日本・近代のちょっと前の日本を舞台に、それら蟲の及ぼす怪異から人々を守り逃がす事を生業とする「蟲師」ギンコを主人公とする奇談集である。

 非情に大雑把に物語の基本を説明するとこのようになるのだが、実際にはとにかくどう分類するべきか悩ましい作品でもある。土俗的な日本風の世界観で超自然的な怪異を描くという意味では『ゲゲゲの鬼太郎』や諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズのようでもあるし、主人公のプロフェッショナルっぷりと深い思索性は『ブラックジャック』的だ。時々見られる人情噺やユーモアや説話性などは『まんが日本昔話』のようなお伽噺を彷彿とさせ、一転してしばしば登場するダークな話にはサイコホラーやミステリの趣すら漂う。その独特の画風と世界観から、とりあえずそういう雰囲気を押し出した“雰囲気マンガ”という評もある。

 古来より東洋の人々が獣や鳥とも植物ともつかぬ下等な、しかし多様な生物相を「蟲」として捉えてきた事と同じように、本作もまた多様な読まれ方のできる作品である。上にあげたどのジャンルにも分類可能であり、そしてそれら全てを包括してなお捉えきれない豊饒な何かでもあるのだ。椀一杯の海水・一塊の土に宿る無数の生命のように。

 正直に言って最初の数話の段階では、作者はこの魅力的なモチーフを持てあましていたように感じた。絵や設定は魅力的で物語も独特だったが、そういう特異な雰囲気を醸し出す事ばかりに専心している感は否めず、いまいち物語に深く没入しきれないでいた。そのままいけば、まぁちょっと独特な個性のあるただの雰囲気マンガで終わったかもしれない。

 しかし2巻収録の名篇「やまねむる」を誌上で読み、静かな静かな感動を味わったのをきっかけに、回を追うごとに本作に引き込まれていき、そしてその後確信した。本作は確かにファンタジーだが、その背景には歴史的・土俗的・原風景的なしっかりとした土台がある事を。実に様々なものの“あわい”に出現した稀なる名作であることを。

 白とも黒ともつかない微妙なあわいの上に本作は奇跡のように鎮座している。そこからにじみ出てくるのは比類のない豊饒な世界の息吹だ。そしてこの白と黒の間の灰色の世界のあり様は、かつて我々のご先祖が抱いていた自然観にも通じるものがあり、歴史的な記憶のにおいさえ漂わす。キャラクターデザインなどは泥臭さを払拭してこぎれいではあるが、作中登場する有名無名の人々の生きざまや様々な蟲のもたらす怪異には古い伝統や風習(美しいものばかりではない)や伝承に着想を得たものが多く、単純な善悪論などでは捉えきれぬものも多い。ただ得体の知れない余韻のみを残す話もある。

 作画表現にしても淡い色彩やペンによる点描を駆使した淡泊ながらも濃密な作画がそういう雰囲気を見事に表現。特に山霧・海霧によって天地の境界すら曖昧になったような海や山里の描写は強烈な印象を与える。作品のテーマ表現的にも、現実の自然描写としても見事と言う他無い。

 何より圧巻なのが種々の蟲の描写だ。本作の根幹をなす存在である蟲は、生命の最も原初的な場所に位置するものと捉えられ、それらが引き起こす怪現象はまさしく幽霊や妖怪や精霊によるもののように描かれる。
 …ここまでなら普通の妖怪モノの一変異種だが、本作の凄いところはそんな蟲の描写を、顕微鏡で観察される原生生物や菌類のような姿で表現している点だ。ここには単なるファンタジーに留まらない近代的な視点も導入されている。
 第1話でギンコは生物を動物や植物など5つに大別し、それらを五本指になぞらえて蟲とは何かを説明する。一般的な生物が五本の指なら、蟲とはそれらが一つにたばさって更に腕をさかのぼった先の心臓の部分にある存在というたとえだが、この語り口一つにしても、ファンタジーの文脈だけでなく博物学者ダーウィンの進化系統樹や五界説などの生物分類学的な見地から解釈しても面白いものになっている。こういうところにも蟲師のユニークさは現れている。

 そして、そんな本作の立ち位置をもっとも雄弁に物語るのが主人公である漂泊の蟲師「ギンコ」のキャラクターデザインだ。少年時代に経験した蟲との遭遇による怪異の影響で右目を失い、残った左目は緑に、髪は真っ白に染まったこの異様な人物は、どこか鬼太郎やブラックジャックを思わせる風貌をしている。そして「江戸と明治の間の架空の時代」という設定のため、周りのキャラ(大半は貧しい農民や漁民)がそろって和装の中、ほぼギンコだけが洋装なのである。この世界においては、ギンコは(どちらかと言えば)我々読者の住む近代的世界に近い立ち位置におり、他とは一線を画した屹立した存在として表現されるが、同時にそれは物語内において他の人々とは遂に全てを分かち合うことのできない孤独な異端者である事の表れでもある。洋服を着た彼自身もまた人々からすれば怪異なのだが、そんな彼が主人公であるからこそ、我々は既に遠い世界となってしまった郷愁の彼方の古の世界と邂逅できる。ギンコは蟲(≒自然)と人のあわいを取り持つ存在であり作品と読者のあわいに立つ存在でもある。
 作者いわく、ギンコには放浪の民族学者「宮本常一」や博物学者「南方熊楠」などの実在の人物が投影されているそうだが、共に民俗学や博物学(生物学)といった近代的な学問を用いつつも、日本の土俗的な世界へ深く分け入って行った人物として知られている。そういう周縁部分にも、本作の持つ豊饒な読後感の一端が垣間見える。

 自然と人間、生と死、有機と無機、人情と世間、一般と個別、土着と普遍、海と大地、大地と空、海と空、いにしえと近代、人為と天為、現実と奇想、生きることの美しさと、そして残酷さ。
 …これら相反する諸要素の数々は、本作では不思議なバランスの上に混交を遂げる。“調和”というほど大袈裟では無く、“混沌”というほど荒削りでも無い。ただただ奇跡のようなあわいの美しさ。こういう作品を漫画として読む事が出来る事は、本当にありがたいというしかない。漫画もまた、絵と文字のあわいに生まれた蟲だからなのだろう。

ナイスレビュー: 5

[投稿:2010-09-30 23:01:34] [修正:2010-10-11 20:20:07] [このレビューのURL]

10点 シグルイ

「残酷無惨時代劇」と自ら称するだけあり、比類のない残虐描写で魅せる時代劇漫画である。まるで豆腐や野菜でも切るかのように目が、鼻が、耳が、四肢がちぎれ飛び、血しぶきは言うに及ばず腸管や汚物までもがぶちまけられるその画の迫力は読者を選ぶ。

しかし、この漫画が真に”残酷”である理由は、何も上述のような分かりやすい残酷描写の為だけではない。登場人物達がみな哀切なる情念に突き動かされるように封建制度下の武家社会という無明の長夜をさまよい、しかし等しく思い遂げられる事なく「死」という運命に狂気に身をやつしながらなだれ込んでいく様が、何よりも残酷なのだ。

この漫画の主なキャラクター達はみなどこか常軌を逸した狂気を抱えているが、彼ら彼女らの抱く思いそのものは比較的現代人にも理解しやすいものばかりである。立身出世をしたい。愛する人と沿い遂げたい。主に忠義を尽くしたい。自分の後継者を育てたい。侍として、強くなりたい…。この異様な物語は、そんな普遍的な思いによって紡がれているのだ。
しかし、彼らがそんな願いを叶えるために、情念に身をやつし、自らを鍛え上げれば上げるほど、人間として大切な何かを欠損していく。岩本虎眼を筆頭に、本作で活躍する剣士の多くはみな心か体かのどちらか(もしくは両方)を欠損して人ではない何かに成り果てる。そうまでして得た強さでさえも、一太刀のもとに斬り伏せられれば後には醜い肉塊が残るのみ。思いは遂げられず、死に行くのみ。

これを残酷と言わずして何を残酷と言おう。この漫画が恐ろしい激情をはらみつつも、全体的に洗練されて静謐な印象すら受けるのは、どんな剣豪も死ねばただの肉塊という冷徹な事実を提示し、仏教的な無常感に貫かれているからでもあろう。まるで西洋の解剖図譜のような写実的な残虐描写、過激な作画と相反するような淡々と冷徹なナレーションの挿入も、そんな無常感の醸成を助けている。作画と言葉がタッグを組んで、物語のテーマを見事に浮かび上がらせているのだ。本作がただの残虐描写のみを売りとした怪作に陥ることなく奥行きのある作品となっているのはそのためである。
また、その極端で過激な描写(主に顔)から、本作は一種のギャグ漫画としても楽しめるのも懐が広くてよい。まさに笑いと狂気は紙一重の好例である。

武士という階級が社会から消滅した後も、我々日本人は時代に応じて様々な形で武士道を解釈し続けてきた。ある時は時代錯誤で野蛮な因習として、またある時は世界に誇るべき美しい伝統として。
だが、本作に接し、そこで描かれる苛烈で異形で、しかしどこか美しい武士道の世界に触れたとき、そんな後世の解釈はどれも現代人の価値観に基づく都合の良い解釈に過ぎないのではという気すらしてきた。「シグルイ」の侍達は、みな我々とは近いようでどこか違う無明の世界に生きている。だが、それは確かに我々のご先祖が歩んできた世界でもあったのだ。
そう思わせてくれただけでも、この作品は俄然10点である。ぬふぅ。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2009-12-16 00:28:30] [修正:2009-12-16 01:47:31] [このレビューのURL]