「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

[ネタバレあり]

 英国人日本研究家として知られるバジル・ホール・チェンバレンは1905年(明治38年)の著書「日本事物誌」の序論にこのように記した。

「古い日本は死んで去ってしまった。そしてその代わりに若い日本の世の中になった。」

 本作「ふしぎの国のバード」の主人公イザベラ・バードが日本最果ての地を目指し旅立ったのが1878年(明治11年)であり、作中にも描かれる様々な今や失われた江戸期の幻影が当時はまだ息づいていたことを考えると、わずか20年足らずで一つの文明が死に絶えたということになる。その間に帝国憲法が発布され、治外法権も撤廃となり、そして多くの人々が血を流した日清日露の大戦争があった。

 主人公の英国人女性紀行作家イザベラ・バードは実在の人物で、本作も彼女の著書「日本奥地紀行」(1880年刊行)が原作となっている。明治期には多くの外国人が鎖国を解いたばかりの「神秘の国ニッポン」を訪れ、風景の美しさや伝統工芸の巧みさ、独特な風俗などを讃える文章を多く残し、それらは近年テレビ番組の一ジャンルと化した感もある日本スゴイ系コンテンツに引用されることも多い。

 英国人女性が日本の文化風俗に多大な関心を寄せる様を描く本作及びその原典も、見方によってはそれら日本スゴイ系コンテンツの一部と読めなくもない。実際に主人公バードは人力車夫や馬子など人々の素朴な親切さを讃え、日光東照宮の絢爛さに驚き、会津道の景色の美しさに魅せられる。
 一方で本作の大きなポイントは、それら賞賛だけでなく文明人が非文明化された地を旅する際につきものの「戸惑い」の部分も余さず描かれている点だ。しかもそれは「英国人から見た日本」という視点からだけでなく、「現代日本人から見た当時の日本」、滅び去ってしまった古い日本への我々現代人からの戸惑いとも重なるのである。

 今や姿を消した街中の様々な行商人、お歯黒を塗った女性、背中に立派な彫り物をし、寿命を削りながら奔り続ける人力車夫(江戸期は飛脚だった)、プライバシー概念のない野次馬趣味、低俗な酒宴の余興、老若男女混浴の露天風呂、不快害虫の巣と化した宿の一室、男根をかたどった村の守り神、庶民の貧困、貧困、貧困……

 日本は貧しかった。そして関所で区切られ他藩は他国であった時代の名残から、バードと同行の通訳・伊藤鶴吉も地方の珍奇な文化習俗に驚愕と嫌悪を示す。
 彼は同じ日本人の文化を「あのような恥知らずな風習」と蔑んだ。当時の日本人の志ある若者の多くは、日本を欧米諸国のような立派な文明国にしなければならないと考えていたため、母国の伝統に対して概して否定的だったという。

 そしてそれらのバード(そして読者)の戸惑いが頂点に達するのは、現時点では二巻終盤で描かれた会津の寒村の夜の一幕だろう。不潔な村で病に苦しむ子供に薬を与えたバードを頼り、彼女の宿に押し寄せる、皮膚も爛れたまるでゾンビのような村人の群れ。
(当時の日本人庶民の“皮膚病”事情については、バードに限らず多くの外国人旅行者も記録しているという)

 日本は、貧しかった。ちょっと我々の想像を超えるくらい貧しかった。そして頑張ってそれなりに豊かになった。その過程で一方、多くのものも捨てた。
 それら捨てさられた文明の記録として、「日本奥地紀行」はまことに価値の高い書物で、それを皮相的な日本スゴイ系コンテンツが溢れる現代にこうして漫画というメディアの力を通じて視覚的に楽しめるというのは大いに意義のあることである。
 バードは一旅行者にすぎないので、どうしても彼女の視線は他人事の旅行者目線にならざるを得ず、そこには無自覚な差別意識も免れない。それでもそういう視点からしか描かれ得ないものは確実にあり、現代の我々が死に去った時代を覗き見る上で最適の視点でもある。そして、彼女の視点は、あくまで優しい。

 作者の丁寧な描写力に支えられた意義ある良作といえる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2016-12-26 16:28:24] [修正:2016-12-27 04:35:16] [このレビューのURL]

「少女マンガの大革命!」という宣伝文句が示すように、西郷どんのようなゴツい男子が表紙を飾るというあまりにも斬新過ぎる装丁で世の漫画読みの注目を集め、しかもその西郷どんが主人公で王子様役となり美少女と恋に落ちるというこれまた少女マンガとしては革命的過ぎる内容で話題となった作品であるが、いざ読んでみると過度にネタに走ることもない地に足の着いた”少女マンガ”であった。

 王子様役がクールなイケメンではなくゴツくて不器用な西郷どんという設定は確かに少女マンガにおいては斬新だったかもしれないが、しかし読む前に本作の話題を知って当初感じたのは「でもそういう非モテと美少女の恋って、ワリと世間のラブコメ漫画ではよく見かける設定だよなー」というそう言ってしまえばそれまでのものだった。これまで読んできたラブコメ作品の多くは(いずれも非少女マンガ)、”何の変哲もない”(が顔はそこそこイケメンな)男主人公が些細なきっかけで美少女たちに惚れられまくる…みたいな作品が多かったため、ブサメン男子x美少女という本作『俺物語!!』の設定にそういう一般誌ラブコメに近いイメージを勝手に抱いていたのである。

 が、いざ読んでみるとそんな当初のイメージはいとも簡単に覆された。主人公の剛田猛男は決して単なるブサメンではなく、見てくれを超えた凄まじくいい漢だったのである、男も惚れる的な。そして、表紙の買いやすさにも助けられ本作に接したこと、ただラブコメと言っても少女マンガと一般誌ではかなり異なるものだということを改めて思い知った。

 昔から少女マンガにおいて最も好まれる題材が男女の恋愛を描いたラブコメディで、反面昔の少年マンガにおいては恋愛など添え物に過ぎずスポーツ、ギャグ、バトルなどのジャンルこそがメインであった。(一応少女マンガにもそれらはあったが)
 ところが70年代末~80年代初頭にかけて高橋留美子やあだち充、まつもと泉らの活躍により少年マンガにおいても美少女メインのラブコメが人気ジャンルとなっていき、それら美少女への偏愛を萌えなどの形で昇華した作品群が今や一大ジャンルを築くに至ったのは周知の通りである。

 上でも述べた通り、主に男性読者をターゲットとする一般誌のラブコメマンガではできる限り主人公の男を多くの男性読者が自己を投影しやすくするために特徴のない平凡なキャラにする傾向にある。その結果往々にしてとりたてて特徴のない少年が何故か家庭的な幼馴染や才色兼備のお嬢様、氷の瞳のクールビューティーなんかに惚れられまくるみたいなシチュエーションが成立するわけだが、少女マンガにおいてはそうではない。
 少女マンガにおける恋のお相手の男性キャラはあくまでも”王子様”的な要素が必要である。優しさ、強さ、財力、高潔さ、そしてイケメン。男からすれば「都合いいなぁ」と感じるが、男向けラブコメの都合良さを考えれば文句は言えまい。

 さて、本作の主人公の剛田猛男である。まるでゴリラのような逞しい肉体を誇り強さは申し分ない(野生の猪と取っ組み合いができる)、ヒロインを思いやる優しさも備えている。しかし、とにかく女心を解せぬ不器用さは見ていて歯がゆくもあり、家は別に金持ちでもない普通の庶民、そして何より、容姿が…顔がっ………!!


 だが、猛男はその精神の高潔さにおいて紛れもなく王子様であった。それこそが本作をなんやかんやで素敵な少女マンガたらしめている理由である。


 猛男は非常に男らしい漢で同性の男子からの人気は抜群だが、顔が災いして女子との恋は実ったことはなく、好きになった女子はみんな友達のイケメン砂川の事を好きになってしまうというジレンマを抱えていた。しかし、見たところそんな己の境遇をやっかんだり「どうせ俺なんて…」と卑屈な態度をとるそぶりがまるで無いのである。
 たとえば『ああ女神さまっ』の主人公の森里螢一が背の低さにコンプレックスがあり女性にモテないことを当初かなり僻んでいたように、もてない男は大なり小なり「俺がモテないのはどう考えてもお前らリア充が悪い!」というルサンチマンを世間に対して抱くものだが、猛男にはそんなカッコ悪さがまるで無いのだ。好きな女がみんな友達になびいてしまうという現実もそんなものだと割りきっており、それどころか友人の恋が実るよう心の底からの協力を惜しまない。(当のイケメン友人砂川は自分に流れてきた女子からの告白を全て断っているが、その理由がまた泣ける…)
 ところがそんな猛男にも遂に春がきた。電車で痴漢に絡まれていた美少女、凛子ちゃんを助けたことがきっかけで誤解を挟みつつも恋人同士になるわけだが、いざ恋人ができたら猪突猛進、全く照れも卑屈さも無しに堂々と「好きだ!」と心中何度も何度も叫ぶ猛男。なんという潔さだろう。同じ『俺物語』でも『あごなしゲン』ではエラい違いだ。

 そんな猛男のブレない高潔さがよくあらわれているのが2巻の柔道戦のエピソードであろう。彼女が出来たことをライバルに「彼女つくってチャラけてる奴に負けねえかんな!」(何か泣きたくなる…)となじられようとも、全く動じることなく堂々と



「彼女はいいぞ」



 これこそ、一般誌のラブコメ男主人公にはほとんど真似できない猛男の高潔さ、王子の風格なのである。火事の現場から見事に脱出を果たし泣きじゃくる凛子を胸に抱きながらの

二度とおまえを

泣かせはしないと

誓う

 
 …こういうモノローグを照れずに違和感なく挿入できている点でもやはり少女マンガなのである。


 主人公の容姿ゆえに革命的と評されることも多い作品だが、土台はしっかり少女マンガしており、普段この手のジャンルは苦手な人にとっても間口広く受け入れられやすのも大きな魅力だろう。そして、今後似たようなコンセプトの作品が出ればかならず「ああ俺物語みたいなヤツね」と未来永劫評されかねないくらいオンリーワンの作品でもある。

 ちなみに原作者は断じて猛男はブサメンでは無いと主張しており、ヒロインの凛子もどうやらもともと西郷どんのような逞しい漢がタイプだっったらしい…。
 この作品、断じて世のもてない男性に安易なカタルシスを与え救済する作品では無いのである。
 自分はというと、とても猛男のような格好いい漢にはなれそうにはないのが悲しいところである。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2013-04-07 23:17:48] [修正:2013-04-08 20:32:43] [このレビューのURL]

 今年2012年に連載の始まった作品としては最大級の話題作であり、先日11月に発売された単行本第1巻はマッハ20の速度で160万部売れたという。作者はジャンプ史に残る異様な傑作『魔人探偵脳噛ネウロ』で多くの読者に忘れがたい印象を残した松井優征。前作『ネウロ』が万人受けはしなかったことを考えると今作『暗殺教室』の大ヒットはファンとして素直に喜ばしくもあるが意外でもあった。今回はこの『暗殺教室』の魅力に迫ってみたいと思う。

 何の前触れもなしに夜空に浮かぶ月が七割がた蒸発し三日月型になってしまうという異常事態と前後し、名門中学校の落ちこぼれ学級に突如現れたタコのような外観の奇妙な触手超生物。

「はじめまして。私が月を爆(や)った犯人です。来年には地球も爆る予定です。君達の担任になったのでどうぞよろしく。」

 ツカミは完璧、第1話早々読者の度肝を抜いた超展開である。こうして1年後に地球を滅ぼすと予告する超生物教師“殺(ころ)せんせー”(殺せない先生)と地球のため己の命のためそして政府からの成功報酬100億円のために先生暗殺の使命を与えられた落ちこぼれ学級3年E組の生徒たちとの奇妙な学園生活を描くというのがおおまかなストーリーの骨子だ。

 ジャンプ作品としても一般的な少年漫画の典型からも大きく逸脱した世界観だが、こういう「年端もいかぬ少年少女に世界の運命を背負わせて戦わせる」「学園などの限定空間を舞台に銃刀などで武装した若者がゲーム感覚で殺しあう」というモチーフはゼロ年代前後から現在を見渡し多くのマンガやアニメ、小説等で描かれてきた、今となっては割とありふれたものでもあった。(実際、殺せんせーのあのニヤニヤと世界のすべてを舐めくさったような不敵な笑顔を見ると『ぼくらの』のコエムシや『魔法少女まどか・マギカ』のQBなどを連想した読者も多かったことだろう。)
 『暗殺教室』が面白いのは、地球の破滅を担保とした1年限りの暗殺学生生活という物騒極まる設定にも関わらず、物語の雰囲気がとてもコミカルで万人が楽しめる学園コメディになっている点だろう。従来の教師マンガの教師は『GTO』の鬼塚のような不良であったり、『鈴木先生』のようにマジメだがどこか頭のネジが吹っ飛んでいたりと癖の強い教師が多かったが、それら変人教師の中でも群を抜いた奇怪さを誇る我らが殺せんせーは、困ったことにとてつもなく優秀な良い教師だった。授業内容は生徒個々の学力に合わせた的確さでユーモアのセンスもあり、そして何より生徒達から自身に向けられる殺意すら正面から受け止める度量の広さを併せ持つのだから。生徒たちも生徒たちで、落ちこぼれの烙印を押された少年少女たちが先生暗殺(成功報酬100億円)という目標に向かい、仲間たち(及び暗殺対象である殺せんせー)と切磋琢磨し合いながら実に活き活きと学業と暗殺を両立させていく様が無駄にハートウォーミングに描かれ、読者に混乱と感動のないまぜになった実に独特な読後感を与えている。このギャップはおそらく作者が狙ったものだろう。

 『ネウロ』でならした作者の持ち味である時事ネタを織り交ぜたブラックユーモアな小ネタも健在で、地球を破壊する優秀教師vs地球を守る落ちこぼれ学生というある意味究極のブラックジョークな物語設定とも合わせ他の漫画では代替の効かない味わいにあふれている。そこに前述の無駄なハートウォーミングさも加わってますます無二の魅力を高めているのだ。前作からの画力の向上、更に磨きのかかったコマ割り・ページ構成を駆使した的確な演出もあり、細かいことを抜きにして単純に漫画としてレベルの高い面白さを現時点で毎回安定させており、作者の“進化”をファンとして嬉しく思う限りである。主役の殺せんせーもジャンプにおいては異端とも言えるとんでもない色物キャラだが、どこか藤子不二雄など往年の名作漫画に多く登場した人外キャラを彷彿とさせるのも良い。

 ところで、どうして本作はあえて「未成年が暗殺に挑む」などという物騒なテーマをあえて少年漫画で描こうとしているのだろうか。きっとそこには第1巻の巻頭の挨拶にもあるように、「命の価値」に対する作者なりの問いかけがあるからだと思われる。

 中学高校でいじめ事件が起こる。被害者の生徒は自殺する。加害者は家裁に送られ公から姿を消す。教育委員会は口をつぐむ。校長は緊急の全校集会で「命の大切さ」とやらを説く。見飽きた光景である。世の良識は「人の命は地球より重い」と言うが、それならば一体毎日何個の地球がこの世から消滅しているのかというのか。
 実際の所、人命など紙のように軽い。命は代替が効く。しかしそれでも個々の人生それぞれは如何に凡庸であろうと代替の効くものではない。ましてや、それら個々の営みすべてを内包した地球そのものの運命など…。

 命の軽さと命の重さ、こうした命の価値を教えるため、(批判も多いが)豚などを飼育して1年後に生徒で屠殺して食べさせるなどの「命の授業」の試みもあると聞くが、殺せんせーと生徒たちが繰り広げる地球の命運をかけたこの『暗殺教室』は、体を張った究極の「命の授業」となる予感がする。暗殺とは本作においては理系文系から保健体育に美術まで全てを動員する総合学習の意味を持つのだ。
殺せんせーが何故先生を演じるのか、何故1年後に地球を破壊するのか、そもそも殺せんせーとは何者なのか、それらの謎は今後少しずつ明かされていくことになるのだろうが、その「命の授業」の成り行きを自分もまた一生徒として見守って行きたい気持ちで一杯だ。

 前作『ネウロ』が見事な物語構成で綺麗に完結したこともあり作者のストーリーテリングの手腕を疑うものではないが、今後に向けて不安な点も無いではない。
 一つに殺せんせーがあまりにいい教師過ぎる点である。生徒たちは早くも殺せんせーの魅力(実際すごくいいキャラだが)に感化されつつあり、このままでは「もう地球の運命なんかどうでもいいから先生と楽しく過ごすんだ」みたいな雰囲気になりかねない。今後も第1話や第13話で見せつけたように殺せんせーの不気味な怪物性を強調し「やっぱりこいつは殺さなければ」と生徒にも読者にも納得させるような描写は定期的に入れられねばならないだろう。
 また、皮肉な話だが本作が予想外に人気が出て看板マンガとなりつつあるため、前作のような中堅どころゆえ可能だった冒険がしにくくなる危険性も否定できない。そこはぜひジャンプ編集部の裁量を信じたいところだ。

 話題性も抜群なためこれから本作を楽しもうという皆さんには、ぜひ単行本だけでなくジャンプ本誌で読むこともおすすめしたい。

「日本よ これが触手だ!」

「一本飲ん毒?」

「おいでやす 京都ニュルルン滞在記」→「不良たちにぃ出会ったぁ」(下條アトム風に)

 こんな素敵なアオリ文句が楽しめるのは本誌だけ!!

ナイスレビュー: 2

[投稿:2012-12-30 22:04:39] [修正:2012-12-31 17:43:15] [このレビューのURL]

 我々日本人の食に関するこだわりの深さは良くも悪くも世界有数であり、特に薩摩黒豚がどうした和牛がこうしたといった“国産”肉への執着はもはや信仰のレベルと言って良いが、昨10年は口蹄疫、そして今年11年は原発災害による土壌汚染にTPP交渉参加、と日本の農業は重大な危機と岐路に直面している。
 
 今回紹介する『銀の匙 Silver spoon』はそんな近年の農業事情を考える上でも非常に有意義な作品だが、単純に漫画作品としてもかなり面白く、読者の興味を引き新鮮な驚きを与えてくれる。
 作者の荒川弘は大ヒット作『鋼の錬金術師』で有名だが、北海道の酪農農家出身という異色の出自でも知られており、『百姓貴族』など自身の農業体験に基づいたエッセイ作品も既に描いている。そして週刊少年サンデーで今年から連載の始まった今作『銀の匙』は、農業とは無縁の生活を送ってきた都会育ちの少年が、とある理由で北海道の農業高校に入学し様々な経験を積んでいくというストーリー漫画だ。
 サンデー伝統の“部活マンガ”路線の異色作と言えるし、同じく北海道での畜産を扱ったゆうきまさみの『じゃじゃ馬グルーミンUP』の後継作とも言えるが、扱われる内容はそれらと比較してもかなり生々しい。『じゃじゃ馬』ほどにラブコメ色が前面に出てくる気配は今のところ無く、主人公周辺のキャラの大半は農家の跡取りという立場から単なる部活モノのお気楽さとは比較のならない重さを秘めている。家畜の屠殺や間引きといった生臭いテーマも早々に正面から描かれ、獣医になれる条件には「殺れるかどうか」と答えさせる。かわいい仔豚ちゃんはいずれは食肉となる事が示唆され、熊嵐に象徴される北海道開拓の苦闘の歴史を描くことも忘れない。昨今の農業事情も意識しながら読むと、非常に考えさせられる事が多い作品なのだ。

 なんだか辛気臭い・説教臭い作品のように思われるかも知れないが、そこは等価交換、とても伸びやかで愉快な作品でもある。主人公の八軒は「家から遠く離れたい」という理由だけで遠路はるばる北海道の農業高校にやってきた勉強はできるが少々ひねくれた所のある少年で、実家が農家では無いし将来の夢も特には無い。そんな農業とは無縁だった少年の視点により、農業高校での様々な体験が読者の想像を絶する新鮮な驚きに満ちた、実に活き活きとした魅力あるものとして描かれているのだ。日本の農業事情を大上段から深刻に描くだけなら他にいくらでもあるが、こうも楽しさや驚きを少年漫画というフィールドで描きうる作者の筆力はやはり凄い。

 それらに対する八軒の反応も実に素直で良い。世間の常識から隔絶されたギャグのような(というか既にギャグの)農業高校生の生態にいちいち過剰反応を示し、産みたての卵かけご飯や自家製ピザに大感動、子牛の出産という普通なら「厳粛な生命の瞬間に立ち会えて云々」と感動する場面では素直に「グロい」と言ってのける。卵かけご飯をかっこむ際の「ばばばばばばばばばば」やトラクターの駆動音「ぐぉぉぉぉぉぉぉぉぉ」など突き抜けるような擬音効果からもそんな素直さと勢いが感じられる。周囲の大半の学生と違い主人公は特に継ぐべき家業も将来の夢も現時点では持っていないが、校長先生曰く「それは良い!」 何もないまっさらな八軒だからこそ、様々な体験に驚き戸惑いながらも色々な分野へ挑戦することも出来るし、いずれは何者かになり得る可能性を見出すことができる。

 物足りなさを感じる部分としては、作品の性質上仕方のない事だがャラクターデザインが少々地味目で時々作画的にも不安定さが感じられる点、またせっかく北海道の大自然を舞台にしている割には背景の自然描写などもやや淡白な印象を受ける点などがある。上述の通り非常に勢いのあるシーンが多いのが魅力だが、反面専門的な部分の説明シーンなどは少々セリフが説明口調の長文になりがちな所も気になる。あと作者が週刊連載のペースに慣れていないのか休載が多いのもやはり気になる…。最近は休載も少なくなったので、今後も引き続き楽しく読んでいけることに期待したい。

 タイトルの『銀の匙』だが、現時点では学生寮の食堂に飾られていることが言及されるのみでそれが何を意味するのかはよく分からない。中勘助の小説ともおそらく縁は無いだろう。ただ、食を命を掬い上げ自身そして他者の口にそれを授ける“匙”という食器の持つ象徴的な意味を考えると、本作が今後何を描いていくのかを考える材料にはなるかも知れない。
 八軒が生まれて初めて野生の鹿をさばいた時、彼は鹿の亡骸に向かい手を合わせるが、その姿はまるで何かを錬成しようとする錬金術師に重なって見えた。恐らく、作者の描きたかったものはハガレンから本作まで一貫しているのだろう。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2011-12-31 00:52:00] [修正:2011-12-31 01:14:31] [このレビューのURL]

 自分が週刊少年チャンピオンを定期購読するきっかけとなった、個人的にも思い入れの深い作品。チャンピオン漫画らしいアクの強さと少年漫画の王道的魅力が良いバランスで融合し、娯楽作として非常に読み応えのある作品に仕上がっている。

 名門校獅子堂学園に転校してきた主人公の白鷺杜夢は、中学生ながら並外れた知性と度胸そして運気を備えた天性のギャンブラーだった。消息を絶った父の行方、そして奪われた一族の秘宝を追って陰謀渦巻く学園に流れ着いた彼を待ち受ける命がけのギャンブル対決また対決!果たして杜夢の運命やいかに!?
 ストーリーラインはこのように古典的とも言えるほど王道であり、脇役のキャラ造形にしても主人公に憧れる非力なメガネ君、意味もなくバラが舞い散る高慢なヒロインお嬢様、一目見て悪役だと分かる分かりやすい悪役教師…ジツに分かりやすい。当然倒した敵は仲間になり、物語後半からはトーナメント戦が待っている。ジツに分かりやすい。分かりやすいがそこはやはりチャンピオン作品の宿業という奴で、「やり過ぎだろ?」と読者が驚愕するアクの強さに満ち満ちている。自分がチャンピオンに本格的に目覚めちゃったのもこの毒気のなせる業だったのかもしらん。

 毒気のその一は少年誌の限界ギリギリとも言えるエロ描写である。作画担当の山根和俊は集英社在籍時代は正直鳴かず飛ばずだったが、本作ではまさに水を得た闘魚のように欲望のままにペンを走らせまくっているのがビリビリ伝わってきて無性に嬉しい。主人公とギャンブル勝負を交える主なライバルたちの多くはいずれもグラマラスな美女たちばかりで、そんな彼女たちが熾烈なギャンブル勝負の中で色々エロひどい目にあってオトされる様を楽しむのが本作の見所の一つと言える。あ、エロとは言っても性行為そのものとかが描かれるわけでは無いソフトコアエロスなので、そこは安心して欲しい。

 毒気その二はエクストリーム極まるギャンブル勝負の数々。ゲームそのものはブラックジャックやビリヤード、麻雀やポーカーなどありふれた題材ばかりだが、そこに本作ならではの変則ルールや無茶苦茶なペナルティ(脱衣とか電気イスとか!!)が加えられることでとんでもない超展開の数々が実現する運びとなってしまった。そもそも主人公の白鷺杜夢が連載初期のブラックジャック勝負で「この指を賭ける」と躊躇なく自分の指をチェーンソーでぶった切らせたあたりから作品が謎のエクストリーム魔次元に引きずり込まれていったのだろう、まぁその後指は無事に繋がったが。ちょっと考えると日本のしかも中学校校内でこんな変態的ギャンブル勝負が公然と行われている時点でおかしいんだが、試合展開の熱さやトリックの鮮やかさのおかげでそんな事はもうどうでもよくなってしまう。これこそ視点誘導(ディレクション)の典型例と言える。
 なお、作中で死人が出たりすることはないのでそこは安心して欲しい。

 毒気その三は、乱れ散るオヤジキャラ達のほとばしる濃厚さである。本作の売りは上に挙げたセクシーな美女達、ということに表向きはなっており、単行本の表紙を飾るのも基本は美女たちばかりである。(主人公が初めて表紙を飾ったのは何と最終巻だった)
 しかしそれはあくまで表向きの話。本作を読んでいると、作者が美女たちに負けず劣らず気合を入れて、濃厚なオヤジキャラ達を描いていることにいずれ読者は気づくこととなる。
 本作には、実に多種多様な属性に彩られた素敵なオヤジキャラ達が多数登場し、物語に彩りを添えてくれる。一見かませ犬の中ボスキャラに見えて実は最強のラスボスとなった悪魔のような外見を持つ狂気のギャンブル教師“阿鼻谷”(アビダニ)を筆頭に、

・愛する妻のパンツを常時携帯し悪い娘にはキン◯バスターでお仕置きをする米国海兵隊員。
・一見温厚な紳士だがヘリを乗りこなしバズーカ砲を携える妙齢の黒執事。
・ギョロ目と出っ歯、狒々のような相貌の香港映画から飛び出たようなギャンブル老師。
・「私立ジャスティス学園」のラスボスそっくりな筋骨隆々の学園長。
・恰幅がよく、いかにも喰えなそうな面構えをしたイタリアマフィアの大物。
・ふんどしとサラシ姿が異常に似合う着流しの博徒。
・アメリカ合衆国大統領。

 ここはまさにオヤジの惑星と言ってよかろう。中でも特筆すべきキャラが、「デブ」「ハゲ」「下品」の3重苦を背負わされたゴキブリのような醜悪オヤジである不良ハスラーの五木島(ゴキジマ)だろう。普通に考えたら好きになる要素など皆無のこの人物、しかし作中では飛んだりはねたり目を潤ませたり「ドキッ」とときめいた、しまいにゃ半裸で緊縛されたり、と妙に愛されており、作品終盤ではほとんどマスコットのような存在になってしまった。バキ風に言うなら「毒が裏返った」というんだろうか。可愛くって仕方がない。
 この醜くも美しいオヤジ達があんなことやこんなことをしてくれるのである。あなたの知らない世界の扉が、今、まさに…。大丈夫、病気じゃないんだよ。だから安心して欲しい。

 本作のエクストリームっぷりはこのように書いていてキリが無いほどあり、作者も編集もノリノリで作品を転がしていた様が手に取るように伝わってきてとても楽しかった。しかしながら無論欠点もある。
 欠点としては、まず女性キャラが多い割には外見上の個性があまり感じられない点がある。一応の売りのはずなのに、女性キャラが等しく服装と髪型くらいしか違いがなく体型が似通っている(どいつも「中学生に見えなーい」)のはちょっと問題だろう。これは作画担当の嗜好の問題だろうか。
 それともう一つ。本作の魅力の一つは王道的ストーリー展開のはずだったが、敵としては強かった美女たちが仲間になった途端にお色気担当以外に価値のない役立たずになってしまうのもいただけない。特にマジシャンの月夜野さんの仲間になった後の扱いの不憫など、「器用貧乏」という言葉が頭を過ぎって痛々しかった。結局一番役に立った仲間が、最初期から主人公のの側にいたキノコ頭のメガネ君だったというある意味超展開には頭を抱えてしまうが、まぁ、それすら作品の味として納得させてしまう謎のパワーが本作にはあった。

 掲載誌がチャンピオンであったがために世間一般の知名度は高くないが、逆にチャンピオンであるからこその異様な魅力に溢れており、そんな濃さと少年漫画の王道的魅力が高いレベルで組み合わさってしかも安定したテンションを最後まで維持できているので全体的な完成度はかなり高い。正統派の娯楽作としても楽しめるが、ネタ漫画としても一級品で一粒で二度美味しい。巻数も19巻と長すぎず短すぎずなので、露骨なお色気描写とかに抵抗がなければ皆様も一度手にとってみる事をお勧めしたい。完(アヴィッ)!

ナイスレビュー: 3

[投稿:2011-06-26 03:26:46] [修正:2011-06-26 03:59:16] [このレビューのURL]

 女学生1000人を誇る全寮制のお嬢様学校が共学化、やってきた男子はたったの5人!果たしてそこは男共にとって天国か、地獄か。
 のっけからいかにも学園ハーレム物的な物語設定だが、結果はまさかというかやはりというかの地獄であった。
 伝統と格式ある名門(元)お嬢様学校の私立八光学園に入学した5人の冴えない男子一期生。「童貞なんか4月中に捨てられる」とアレコレムフフな夢と希望に胸ふくらませていた彼らを待ち受けていたのは女子総勢からのガン無視といういじめのような仕打ち。ハーレム築城の夢などまさに砂上の楼閣で、ショーウインドウの前でよだれを垂らし続けることしか出来ないこの地獄のようなシチュエーションにもはや我慢も限界、遂に女子風呂覗きという最悪の実力行使に打って出る男子一同だったが学校の風紀を裏から取り仕切る裏生徒会に覗きの現場を押さえられてしまい…?

 周りが女子だらけの元女子高に男子が放り込まれるというシチュエーション、そして学校内で異様に権限の強い裏生徒会の存在し、更にそこの裏生徒会長がカラスを使役する能力者であったとか、初期設定だけ見るといちいちよくも悪くもラノベっぽい。だがそこはやはり平本アキラというべきだろうか、『アゴなしゲン』の初期から相当変わったとはいえ独特の濃い絵柄は随所で健在で、それによって描かれるおかしうてやがて哀しい駄目男共の悲喜こもごもが珍妙な味わいとなって作品を支えている。
 このように下支えするダメンズ達を文字通りヒールで蹂躙する裏生徒会の女性陣もそれぞれ凶悪な魅力を発散しており、中でも1巻でいろんな意味で露出の多かった裏生徒会副会長のドS女王っぷりは特に素晴らしい。学校内に監獄型の矯正施設が存在し、もれなくドS女子高生看守に思う存分いじめていただけますというシチュエーションの歪みっぷりに負けず劣らず作中の男性読者向けのサービスシーンもアングル、状況ともにかなりマニアック。そんな逆境の中でますます輝きを増していく男子共の阿呆エナジースパイラルー…いろいろな意味でありきたりの学園コメディには満足できない皆様方も楽しめる作品になっていると思う。
 一方で主人公の少年だけはそんな異常な状況の中でもメインヒロインらしい同級生の女の子と密かに関係を育もうとしており、どうやらストーリーの縦軸自体は意外とマトモなものになりそうだ。尤も彼らの縁を取り持ったきっかけは何と大相撲の話題だったりとやはり一筋縄では行っていないけど、個人的にはツボである。

 なお、本作は各話のサブタイトルが著名な映画や漫画作品のパロディが使われており、「四つ葉と!」にはサイダーを吹いた。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2011-06-12 15:09:15] [修正:2011-06-12 15:20:59] [このレビューのURL]

 誰でも授業中に”内職”をした経験はあるだろう。ノートの欄外に落書きしたり、歴史教科書の偉人に額に「肉」とか描いたり、机に絵を彫ったり、隣席と手紙を交換しあったり、教科書で隠しながら早弁したり、と、内容や程度にばらつきはあるがこれらの内職が学園モノの作品などで作劇や演出の一環として描かれることは多々あった。

 そこにきてこの『となりの関くん』だが、本作は何とそんな授業中の内職をピンポイントでテーマに据えた作品である。非常に地味なテーマに関わらず内容は予想の斜め上を行く奇想天外さや、甘美な背徳感に不思議な清々しささえ加わって独自の境地に達している感すらある。

 ストーリーの背景設定・人物設定ともに本当に必要最小限のミニマムなもので、机と机の中間点を起点に半径2m以内くらいで収まる小さな世界のささやかな秘め事が描かれる。
 となりの席の関くんは、今日も授業そっちのけで内職に励み、そんな彼を横から見守る(自称)真面目少女の横井さんは、関くんの一人遊びに気が散って勉強のペースも狂いまくり。だけれど迷惑に思いつつも関くんの繰り出すあまりに奇妙で独特な内職がどうしても気になってしまい、小声でコミュニケーションを試みたり心中で盛大にツッコミを入れたり、遂には実力行使で彼の遊びに介入したりしてしまい、結局授業どころではなくなってしまう横井さん。

 基本無口でほとんどしゃべらずひたすら謎の内職に情熱を傾け続ける変人の関くんに対し、授業中故に心中でツッコミを入れるしかない横井さんという二人の関係性以外にキャラが描かれる事はあまりなく、作品の設定上舞台もほぼ授業中に限定される。(一応教室だけでなくグラウンドや理科室などのバリエーションは多少ある)
 だが物語はそんな二人の奇妙な関係のみで成り立っているわけでは無く、二人の周囲には「授業中の教室」という空間が厳然と存在する。そこでは厳しい先生や空気を読まないクラスメイトが周りを囲んでおり、物語に不思議な緊張感と穏やかな背徳感を与えていて面白い。

 あと、やはり面白いのが関くんの繰り出す奇天烈な内職の数々だろう。彼のかばんや机はさながら四次元ポケットであり、毎回読者の予想の斜め上を行く超展開が待っている。単行本第一話の消しゴムを使ったピタゴラ装置もかなりのものだったが、それ以降も将棋とか囲碁とかチェスとか一見ありふれた素材を用いながら誰にも真似できない独自の一人遊びワールドを展開し、読者は横井さんと一緒になって盛大に突っ込む。心中で突っ込むだけではあきたらず、横井さんは実力行使で内職に介入したり時には共同戦線を張ったり出し抜かれたり、と言葉を介さない謎なコミュニケーションが関くんとの間に形成され始める。

 本作はそう考えると一種のガールミーツボーイものでもあるかも知れない。年頃の少年少女にとって隣席の異性はそれこそエイリアンのような存在だが、この関くんのエイリアンっぷりはただごとではない。と言っても蟻酸を吐いたり人の胸を食い破って出現したりするのではなく、とびきり偏屈で何を考えてるのか分からないが、どこか憎めない子供っぽさを残した我が道を行く意地っ張りな、そんなエイリアンである。

 作品の設定が設定ゆえにあまり長続きするタイプの作品ではないかも知れないが、作画内容ともに安定しているので、今後も楽しんで読んでいきたい。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-05-15 23:18:09] [修正:2011-05-23 23:34:50] [このレビューのURL]

 ウエケンこと上野顕太郎はギャグ漫画家である。彼をギャグ漫画家たらしめた幾多の先達達は世界に誇る漫画文化の黄金伝説である。ウエケンは、人類の笑いのために今日もギャグを妄想するのだ、ヒマだからな!

『怪異!夜は千の眼を持つ』


 ……しょうもないネタはともかく、『夜は千の眼を持つ』は生粋のギャグ職人ウエケンによる文字通り千変万化のギャグオムニバス集だ。一貫性のあるストーリーや主人公などは無く、作品内の短編である『キャプテントラウマ』シリーズや『サチコと友人』シリーズなどを除き、レギュラーキャラもほとんど存在しない。それどころかそもそも「漫画」としての体すら意図的に放棄した回はあるは他作品のコラージュのみで構成された回はあるは、と毎回読者の予想の斜め上をスイッチバックしながら登るような超展開が頻発する。
 しかしこのようにとりとがもないように見えつつも作品を貫く一貫性は確保されている。ギャグへの絶対的な信仰が。

 ギャグ漫画というジャンルは創作も定義も非常に難しい。言葉遊び、一発ギャグ、不条理、パロディ、メタフィクション、これまで様々な方向性のギャグ漫画が現れては人々を笑わせ、そして作家達を疲弊させていった。
 『夜千』の魅力は、そんなギャグ漫画、いや、ギャグに限らず様々な漫画の歴史的堆積を、ギャグ職人であると同時に無類の漫画好きでもあるウエケンが咀嚼した上でギャグの万華鏡として我々に広く開陳してくれる事だ。本作には本当に色々な種類の笑いが存在する。
 毎回毎回手を変え品を変え様々なアプローチから繰り広げられるギャグまたギャグ。キャラの個性や定型的演出に頼れないため、そのコストパフォーマンスは恐ろしく悪い。その分ネタの純度の高い回の破壊力は強烈極まりなく、(1ページで)『レ・ミゼラブル』全ストーリーを描ききったり、大昔の絵物語や貸本漫画のフォーマットを無駄に忠実に再現したり、とその非効率にもほどがあるこだわりの数々には感動を禁じ得ない。
 特に意味深だった回は、水木しげるや石原豪人のタッチをこれまた忠実に再現して昔の妖怪図鑑のパロディをやった回だが、紹介しているのは妖怪ではなく、赤塚不二夫を筆頭とする過去から現在に至る様々なギャグ漫画家達の肖像だった。作家、それもギャグ作家とはどこか妖怪じみた存在であるという認識の表れだろうか。

 欠点としては、毎回バラエティに富んでいるのはいいのだがクオリティにバラつきがあるように思われる部分だ。笑える回の破壊力は凄いが、どこをどう笑うべきか頭をひねってしまう回も時々ある。
 それと絵柄がややのっぺりしすぎている点も気になる。他作家のタッチを再現した回や超絶作画の回などはともかく、作者の地の部分の絵柄が昔と比べても何か野暮ったくなってしまっているような気がしてならない。これら欠点についてはまぁ読者の好みよりけりだろう。

 つい先日、本作の第3集が登場したが、そこで作者は何と妻との死別という自身の実体験を基に描いた非ギャグの傑作ドキュメント漫画『さよならもいわずに』をまるまるネタにするという恐ろしい快挙に及んでおり、これには心底「ええぇ??!?」と驚愕した。これが、殉笑者の業という奴なんだろうか。
 『夜千』は千変万化のギャグものづくし、ギャグ物産展だ。コストパフォーマンなど度外視して急勾配を軋り登るギャグの三重連蒸気機関車であり、謎の感動をもよおさずにはいられない。一時期ネット上でクオリティの高さで話題になった一休さんと『ゴルゴ13』等のかけ合わせ漫画も本作で楽しめる。一気読みには向いていないので、毎日少しずつ枕元でヒマな時にでも楽しむのが良いと思われる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-01-29 22:52:39] [修正:2011-01-30 02:17:14] [このレビューのURL]

 鉄道ファン(以下「テツ」と呼称)という存在はそう新しいものでは無く以前から人知れず一種独特な濃い世界を形成してきたが、ここ数年で急速に世間的な認知度が高まってきている。市場が彼らを相手に商売するオイしさに気づいたのか、テツをターゲットとした催し物やツアーなどが多く開催されるようになり、その裾野はますます広がりをみせている。

 漫画の世界においても『鉄子の旅』や『鉄娘な三姉妹』などテツを題材とした漫画が多く世に出るようになったが、ここにきてある種真打とも呼べる作品が堂々の漫画化を果たした。大正から昭和にかけて活躍した文豪であり、無類の鉄道旅行好きでもあった内田百間(ひゃっけん)の代表作にして紀行文学史上の傑作でもある『阿房列車』(あほうれっしゃ)が一條裕子によって漫画化されたのである。

 内田百間こそは日本のテツ達のグランド・ファーザーのような存在であり、
「なんにも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行ってこようと思う。」
 この有名な出だしに始まり延々ひたすら浮世離れした鉄道旅行珍道中を描きつくした本作はテツ文学の偉大なる古典であった。用も無いのに汽車に乗り、どうせ乗るならと借金こさえてまでも1等車にこだわる。紀行文学とはいうものの地方の情緒だとか名所名物の類の描写は一部の例外を除いて一切描かず、ただただ鉄道旅行の道中記及び鉄道に対する百間先生の思い出話や美意識を主軸に描写がなされた特異な内容で、また名文家の誉れ高い百間のテムポの良い文体と相まって今でも根強い人気を誇る作品である。読みやすいがクセも強く、漫画化など考えもしなかった作品であっただけに、何気なく書店でこの漫画版の単行本を見かけたときの衝撃たるやかなりのモノだった。

 で、肝心の漫画版だが、いざ読んでみた所「そう来たか」とハタと膝を打ちたくなった。成程、これは紛れもなく『阿房列車』の世界だ。何しろ、他の原作付き漫画と比べても原作文章の引用割合が凄まじく高いのである。漫画作品としてキチンと成立してはいるので誤解の無いように願いたいが、文章と画の主従関係が他の漫画と比べても明らかに文章の方が上、という考えようによっては奇妙な事態となっているのである。
 そんな事を書くと「え?文字が多いの?なんか読みにくそうだな」とか「そもそもそこまでして漫画化する必要があったのか」と思われるかもしれないが、意外やこれが不思議と読みやすい。一見単調に見える絵柄とコマ割だがその実かなり計算されて描かれており、文章(大半が百間先生のモノローグ)のテンポをうまく活かすように画面が構成されている。絵柄は新聞の4コマ漫画や一コマ風刺漫画のような素朴で簡略化されたもので独特の俳味があり、それがまた原作の持ち味を活かす結果となっている。
 上の方で「文章のほうが画よりも重きが置かれている」と書いたが、時折大ゴマを活かして精密な描きこみがなされたシーンなどが挿入され、画>文章となる一瞬も鮮やかに表現されており、単なる原作トレースにも終わってはいない。なによりコマ運びに作者のユウモアが感じられ、論理的なんだかただの偏屈なんだかよく分からない困ったちゃんな百間先生のモノローグと行動にに作者からのささやかなツッコミとも取れる大ゴマ強調など、見ていて思わずニヤリと笑いたくなってしまう。カギ括弧や改行などの文章運びのテクニックが、ここではコマ運びという形で表現され、原作の文体をうまく漫画という文体に置換せしめたという意味で、見事な漫画化と言える。これには冥途の先生も苦笑しておられる事だろう。

 『阿房列車』の漫画化という事で個人的には大変魅力的な作品だが、いかんせん扱っている題材が題材なだけに、テツでもなくましてや原作のファンでも無い多数層に受け入れられるか?と問われるとやや苦しい。しかし逆に鉄道旅行や内田百間に興味のある人には実に良い導入編となるだろう。漫画喫茶などで根を詰めて一気読みするよりも地方の在来線特急のボックスシートなどでサンドウィッチをかじり麦酒をあおりながら読むほうが似合う作品でもある。「用もないのに旅に出る」のはなかなか叶わないけれど、テツにも、またそうで無い人にも、帰省の汽車旅行のお供などにお薦めな一冊でもある。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2010-12-28 23:25:48] [修正:2011-01-05 22:38:36] [このレビューのURL]

7点 幕張

「幕張」の連載が始まった1996年当時、週刊少年ジャンプは混迷の淵にあった。
 ドラゴンボールをはじめとする黄金期の人気作品が次々と連載終了し、部数の低迷に歯止めはかからない。「るろうに剣心」や「封神演義」などの新たな人気作品も出るには出たが、それでも90年代初頭までの黄金時代にはなお遠い。ほどなく発行部数でもライバルの少年マガジンに一時的に抜かれたりもしたが、ともかくそんな混迷期、ジャンプもまた新たなかたちを求めて迷走をしていた。内田有紀の巻頭グラビアを載せたりしたのもこの頃だった。

 しかし、そんな混迷期にこそこれまでにない新たな才能が発掘されちゃったりもするものである。後にもギャグ漫画の歴史に名を残す奇才が誌面をにぎわし始めたのだ。「すごいよ!!マサルさん」のうすた京介が、そして本作「幕張」の木多康昭が。

 上記のように大げさに煽ってみたが、ではこの「幕張」という作品、万人が屈託無く笑えるお勧めギャグ漫画かというとそんな事は断じて無く、非常に人を選ぶ作品である。

・下劣な下ネタに免疫がある。
・90年代中ごろの芸能事情に詳しい。
・悪質なパロディや中傷をギャグのためなら笑って許せる広い度量。
・週刊少年ジャンプ黄金期の愛読者だった。(←最重要!)

 本作を真に楽しみ、グヘヘヘと下卑た笑いを浮かべる為にはこれらの要件を満たした方がより都合が良いのだ。こうも読者層を限定するギャグ漫画、普通に考えると高評価にはならない、はずである。
 おまけにこの「幕張」ときたら、ギャグの過激さが尋常ではない。タレントやジャンプの他作家を作中実名でけなすは、物語上脈絡なくオマージュどころか完全トレースしたような他作品のキャラを押し込むは、まるで青年誌のようなリアルでディフォルメを排した絵柄で、最低にもほどがある下ネタを容赦なくぶっこむは(「奈良づくし」は悪夢だった)、まぁ、本当に、ひどい。
 ストーリー展開も狂っている。高校入学時、「ジャンプにはもうスラムダンクがあるから」という理由でバスケ部への入部を断念した主人公コンビは野球部に入部するが、まじめに部活動に勤しむ事など無く周りの同級生や教師たちと下品で最低な騒動をひとしきり繰り返した後、唐突に世界最強の高校生を決める「世界高校生選手権」に出場する事となり、そこでも変わらず変態的で最低な戦いを繰り広げていく…というストーリーである。最終回は唐突に「この漫画の主人公はガモウヒロシでした」と某新世界の神に喧嘩を売ってそのまま劇終という具合だった。
 部活動を脇目に下品で変態的なギャグを描く、というと同時期にヤングマガジンで人気を博した「行け!稲中卓球部」が思い起こされる。ジャンプ編集部も当初はそういうノリを狙ったのかもしれないが、ふたをあけると全く違っていた。「稲中」の方は絵柄がいかにも漫画っぽく、下品なギャグの中にもどこか思春期の少年少女の葛藤みたいなテーマが描けていたのに対し、「幕張」の方は絵柄はやけにリアルで、にも関わらず真摯な裏テーマとか、そういう滋味は一切無かった。友情も努力も勝利も全ては本作ではむなしかった。

 …以上のようにどうようもなく混沌とした作品だったが、それゆえに本作は当時のジャンプを象徴するメルクマールたりえたのだと今にして思う。過激なギャグを、しかし妙に浮遊感のあるシラけた描線で描いた本作の混沌っぷりは、そのまま冒頭にも書いた当時のジャンプの混迷の表れだったのだ。
 
 原哲夫、宮下あきら、こせきこうじ、北条司、鳥山明、井上雄彦…、かつて木多康昭が深く愛した大作家達が次々と疲弊して一線を退いて行く。次のスタンダードも未だ確立はされない。
 そんな中、ギャグ漫画としての行儀の悪さというある種の治外法権を最大限に発揮する形で「幕張」は当時のジャンプのネガ面での象徴となり、ふがいない同誌の現状に対する嘲笑ともなり、同時に去り行く黄金時代への惜別の弔鐘をかき鳴らしたのだ。本作にやたらとドラゴンボールとスラムダンクのパロディが頻発する事もそれを物語る。こうしてひとしきり毒を吐き散らした後、作者は敬愛する井上雄彦の後を追うように講談社へと移籍を果たし、現在に至っている。

 当時の特殊な状況の生んだ鬼子のような作品には違いないが、「幕張」というほかに類を見ないギャグ漫画の事を忘れることは多分無い。ジャンプの歴史に良くも悪くも刻み付けられた凶悪な爪跡なのだ。

 なお、下ネタ・内輪ネタ・過去作のパロディなどの本作の得意としたギャグのエッセンスの多くは、現在のジャンプ漫画では「銀魂」に受け継がれている気がする。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-05-25 00:23:57] [修正:2010-06-10 23:30:05] [このレビューのURL]

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