「ジブリ好き!」さんのページ

これって、読むのがすんごく辛いの。
スピッツからいただいたハチミツの味は甘いじゃなく甘酸っぱく、スガシカオが摘んできたクローバーの葉数は4枚じゃなく3枚のものばかり。
「全員片想い」なんて聞こえのいいキャッチフレーズだけど、もういい加減前向うよ!って。


ちょっと前にブームになったけど、たぶん本当にはまったのは、大学生活を送る最中の若者達だと思う。どのサイトでも、批判する側の人は、昔の漫画に造詣の深い、若者じゃない人が多かったから、年配の人には、ちょっと理解できない部分があるのだろう。
TVでマツコ・デラックスが言った、「大学時代の恋なんてクソみたいなもんよ」って。きっと、歳を重ねて青春スーツ脱げるようになれば、そうなんだろうな。でも、僕ら若者にとっては、そんなクソみたいな恋が、バカやってる今が、全てなんです。
就職氷河期と言われつつも相変わらず受験戦争は激しく、とにかく必死に勉強して、大学入って、はめはずして青春してみて。でも自分が何者かなんてわかんなくて、何がしたいのかも不明瞭で、それでもとりあえず楽しんで。
そんな自分にはとにかく主人公は竹本。
からっぽで美大入学、良き先輩に囲まれながら初恋し、迷って、自分を探し、何かを掴んで、告白し、失恋する。そうやって、モラトリアムから脱却した彼。森田やはぐのような才能も、真山のような成功もないけど、本当に等身大で、自分を重ねたくなる。(けど、こんな青春まだ僕は送れてない)

この漫画って、ポエムとか心内語が多いんだけど、大きな気持ちは見せてない。だから心理変化が結構唐突に起きて、そこについていけなくて嫌いになる人も多いそうで。
でもこれ絶対意図的で、「そこは自分で補ってね☆」とかじゃなくて、たぶんそこには、若者にしか伝わらない、もとい「若者のシンボル」があるんだ。
竹本が自分探しの旅で行き着いた地の果て。そこで彼は何かを感じ、はぐに告白する決心がつくんだけど、その地の果てで何を見て、大きな心情変化が起きたのかって、あんま描いてない。
でも、自分も、寒い中外で待って拝めた初日の出の素晴らしさや、イタリアでみたダイナミックで緻密な彫像の神々しさを目にしたときとか、感嘆のため息はでても、言葉は出さない。そういう時の、心の中に渦巻く大きな感情を、言葉にできない。下手な言葉を紡ぐと、その気持ちが壊れてしまいそうで。だから自分で、自分の心の中をゆっくり落ち着いて整理する。多分それと同じで、竹本も地の果ての感じたことは吹き出し=言葉で発してないし、心内語で整理しきれてもないんだ。
他の場面も同じ。今なんて、伊集院光が中二病なんて言葉を生んじゃったせいで、なんでも言葉で表すと陳腐に感じられて、そんな世代の僕ら若者は、次第に青春を言葉で表現せず、心の中の漠然とした気持ちに従って動くようになっていってる。それは、ハチクロの間(ま)で、奥底の心情を省いた間(ま)で表現されている。
そして心の中の漠然としたものに従っている内に、僕たちは自分を見失う。自分の気持ちが、分からなくなる。そのくせ人のことには敏感で、人を言葉で表すことには抵抗がない。ハチクロでは「本人は気付いてないけど周りが気付いちゃう・理解できちゃってる」パターンが多いけど、これもそんな若者のシンボルなんだろう。
こういうのって従来のしっかりした心理描写の少女漫画とは違うし、岡崎京子でもない。きっと、浅野いにをの青春狂想曲のような、新しいマンガなのだろう。
時代って生き物だから、漫画の姿も5年10年で全然変わって、それを受け入れていかないと、「なんでこんな漫画がヒットしたんだろう」ってなるのかもしれない。

羽海野チカは高卒だから、もしかしたら美大って設定は彼女の憧れなのかも。
彼女は本当に漫画読みで寄せ書きも多く、漫画家であることに誇りを持ってる。そしてそれ故にコンプレックスも持ってて、自ブログでは遅咲きなことへの言及も多い。
でももし高卒のまま漫画家になってたら、絶対にハチクロは、こんな大学生活は、描けてない。大学の友達関係って、小中高とは全然違って、共にした時間は短いのに最後の青春を全力で楽しんだ仲間って感じがある。竹本達が写真1枚も残せなかったことがその象徴で、本当にそんな風に淡く儚く夢のような時代なのだろう。社会人での経験と取材熱心な態度、遅咲きで苦労したからこそ、彼女はこの作品を生めたのだと思う。

自分も先生と同じ足立区出身で、作中の花火大会も足立区のじゃん!とか思い入れが強いのだけれども、本当に、大学時代にこの作品に出会えたことは、良かったと思うのです。

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[投稿:2011-01-16 12:18:03] [修正:2011-01-16 12:18:03]