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総レビュー数: 258レビュー(全て表示) 最終投稿: 2007年06月29日

9点 百物語

 久々に最近寝る前にこの百物語を読み返していたのだけれども、いやぁ止まらない。とりたててインパクトのあるわけではなくて、ただそこにあって身体の中を通り抜けていく怪奇。あと一話あと一話と思いながら、ついつい眠さに耐えられなくなるまで読み続けてしまった。

 百物語は杉浦日向子が紡いだ九十九の掌編からなる江戸怪奇集。当時の色んな百物語から杉浦日向子が選び抜き、仕立て直したとびっきりの江戸の不思議なお話が行灯の光にのせて語られていく。

 杉浦日向子の作品に総じて感じることだけれども、この人の想定読者って現代に生きる私達ではないのではないかと時に思ったりもする。何というか、言葉等が私達にも理解できるよう翻訳されている一方で、物語の感覚は江戸にあったものそのままなんじゃないかと。そのくらいの江戸への没入感。
 だからこそ、その異質さに戸惑ったりもする。例えば「ゑひもせす」では忠臣蔵の物語に打ちのめされながらも、個人的にはその世界には未だ馴染めていなかったりするわけで。でもこの百物語は一度慣れてしまえば、本当に江戸へとトリップできる。自分の感覚が江戸のそれになってしまったかのように思える。

 江戸の感覚、というのは常に怪奇が隣にあったということだ。死んだ父に出会っても、人魚や天狗を垣間見ても、それらは当然のようにそこに存在する。相当に奇妙な話にも関わらず、本当にあったかのように語られるのではなくて、本当にあったものとして語られる。他愛のないものも、ぞっとしてしまうものも、ひたすら不思議なものも、突如降りかかってくる災いというわけではなく、ただただそういうものとして人々に馴染んでいる。
 そんなこんなしていると、いつの間にか私自身が江戸の怪異を聞かされ、江戸の人々に出会ったような気がしてくる。聞かされた話を今度は自分が他の人に話してやりたくなってくる。多分そんな風にしてこれらの話も語り継がれて来たのだろう。

 特にお気に入りは「絵の女の話」「他人の顔の話」「長持の中の話」あたり。ただ特に印象に残っていない話でも、それはそれとして同じくらい愛すべき話であるように思う。ただそこにあるだけの話だからこそ。

 今さら私が言うまでもないのだけれど、百日紅と並ぶ杉浦日向子の名作なので読んでない方はぜひ。しかし名作という大仰な言葉はこの作品に似合わないな。怪奇が心を揺さぶるのではなくて、ただただ怪奇が寄り添ってくれる。そんな愛すべき怪奇集。

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[投稿:2012-08-18 00:33:21] [修正:2012-09-06 22:17:08] [このレビューのURL]

9点 WOMBS

 白井弓子といえば、天顕祭が同人作品として初めて文化メディア庁芸術祭マンガ部門で奨励賞を受賞したことで有名になりました。天顕祭を読んだ時は、やろうとしていることはすごくおもしろそうなのに漫画としてこなれてないなぁなんて印象を持っていて。独特の絵柄と壮大な作品の構想に、語り口や見せ方が追いついてないというか。もちろんプロの第三者の目線が入らない同人作品ゆえということもあったのだろうけれど。

 そんな白井弓子の商業誌初の連載作品がこのWOMBS(ウームズ)。訳すると、子宮たち、という妊婦SF。

 碧王星という地球とは異なる惑星。漂流した末にたどり着き、星を開拓した第一次移民(ファースト)と第二次移民(セカンド)の間で激しい戦争が繰り広げられている。セカンドは、ニーバスという異生物を子宮に移植することで“飛ぶ”力・転送能力を得た女性だけの転送兵部隊を利用することによって軍事力で優るファーストに対抗しようとするのだった。

 子宮が物語に関わってくるSFやファンタジーというのは決して珍しいわけではなくて。例えばお馴染みの人工子宮もの。もしくはこのWOMBSのように、“無”から“有”を生み出す器官として異世界とのゲートとして利用されるもの。
 ベルセルクのクシャーンやトロールのくだりなんて印象的だろうが、子宮は特に後者の場合、SFやファンタジーにおいてどちらかというと抑圧・利用される象徴であって女性の強さを感じさせるものではなかったように思う。漫画小説問わず、子宮を食い破って化け物が生まれる場面をこれまで数多く見てきた。
 しかし白井弓子は子宮を戦う理由に変える。異生物を子宮の中に移植するというグロテスクな行為…しかし、彼女らは女性であっても、いや女性だからこそ、国や家族のために戦うのだ。
 

 またWOMBSの舞台である軍隊。これまた女性が認められない場所、というか細やかな気配りや優しさ等の女性らしさが排除された組織。
 そんな軍隊において、女性だからこそ戦える転送兵を描くことで、この作品はジェンダーSFの側面まで帯びてくる。日本ほど女性が戦うフィクションの多い国もないだろうけれど、この作品ほど女性が戦う説得力を持つ作品はないだろう。だからこそ圧倒的に感じるのは、女性の強さだ。

 本当に欲張りに感じるくらい盛りだくさんな要素があって。転送兵が異世界の座標にアクセスする所なんて、電脳空間ではないにしても確実にサイバーパンクなわけだし。でもそれらが生まれたのは一つの設定からなんだよなぁ。だからこそ複雑な世界設定も自分の中で確実に消化できるし、その消化する作業が楽しい。
 これは結局、異世界ものを描くのに一番理想的な、世界を語ることが物語を語ることになっているということで。結果、この世界の構造とそこに住む人間が薄皮を剥ぐように少しずつ、しかしとてもクリアに見えてくる。天顕祭に比べると驚くほどに語り口が進化している。

 ということで、大絶賛。SF好きなら読まないと損くらいの作品だと思う(とか言って私も読んだの最近だけれど)。知らない世界と知らない物語を読める喜び。最高にセンス・オブ・ワンダーに満ちた傑作です。

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[投稿:2012-05-19 23:54:58] [修正:2012-05-20 11:10:35] [このレビューのURL]

 ロング・ハロウィーンはバットマンコミックの中でも90年代最高傑作とされる。映画好きの方ならノーランのダークナイトの原案となったと言った方が分かってもらえるかもしれない。
 そんな傑作にも関わらず、残念ながら上巻は絶版となっている。今年ノーランの手がけるバットマン最終章が公開されるということで再刊されそうではあるのかな。しかしプレ値を抜きにしても上下で7000円弱は高い。私は原書で読んだのだけれど、英語は比較的易しいし1800円と安いので選択旨に考えても良いかもしれない。
 
 本作はゴッサムシティに突如現れた謎の殺人鬼ホリデイの正体を巡るミステリーであり、フランク・ミラーのイヤーワンの後を引き継いだバットマン二年目のファルコーネファミリーの終焉の物語でもあり、またハービー・デントの失墜とトゥーフェイスの誕生譚でもある。
 ロングハロウィーン以前のバットマン二年目の話としてイヤーツーがあったが、こちらはロンハロの刊行とその後のイベントによってほぼ無かったことになってしまったそうで。

 ロングハロウィーンはまるでチャンドラーのような、ハードボイルド探偵小説の趣きを持ったバットマンコミックだ。まあバットマンはそもそも“闇夜の探偵”なんて言われるように、そういう面は強いシリーズなのだけれども。
 しかしこの作品はチャンドラーの名前を出したくなるくらいに素晴らしかった。「長いお別れ」を髣髴とさせる驚きの結末が待っていて、なおかつその結末は読み手を否が応にも感傷にひたらせる。

 単なるミステリーとして見てはちょっと楽しめないかもしれない。結局ホリデイが誰であったかということに完全な論理的解決は恐らく不可能だ。読者しか分からない材料が推理のヒントとなっている上に、殺害の手際やそれが露見しなかったのも偶然性が大きくリアリスティックに欠ける。祝日という制約が大きかったというのもあるだろう。しかしこの作品の見るべきところはそこではなくて…。

 ロングハロウィーンのテーマは恐らく“信頼”だと思う。ハービーを信じられるのか? ゴッサム・シティを、ゴッサムの住人が変われると信じられるのか? それはバットマンの自身への問いかけであり、かつ読者への問いかけでもある。そして各々の“信頼”がホリデイの真相を決めるのだ。
 これは本当にすごいと思った。重要なのはミステリーとしての真相じゃなくて、それぞれの思いが真相を決めること。ミステリーと物語がここまで完璧に融合した作品ってなかなかないよ。だからこそバットマンは信じたんだよなぁ。信じなければもはやバットマンではありえなかったのだ。でもそれはバットマンにとっての真実であって、読者にとっての真実ではない。どこまでハービーを、人間を信じるのか…。ホリデイの正体はミステリーの枠を超え、私達読む側がどこまで人間を信じられるかという人類の普遍的な問いかけにつながってくる。
 
 ハードボイルドをここまで引き上げたミステリーというのはやっぱりチャンドラーの作品以外に思いつかない。バットマン、ゴードン、そしてハービーの三人の屋上で結んだ絆は悲劇に終わり、三人はそれぞれの道を選ぶ。何度読んでも泣かずにはいられない。
 続編としては邦訳済みの「バットマン:ダークビクトリー」と未邦訳だが「Catwoman: When in Rome」がある。ロングハロウィーンだけでは分からなかった部分も多いので、ロンハロを気に入った方はこちらもぜひぜひ。

追記
Catwoman: When in Rome はまだ発売日未定ですが、小プロより刊行が決まったそうです。喜ばしきこと…なのだろうけど、原書読んだ直後にこのニュースを聞いたので複雑な気持ちなのであります。

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[投稿:2012-01-24 01:18:04] [修正:2012-02-18 16:43:36] [このレビューのURL]

 少年漫画は“特別”な一人に対する憧れを描き、少女漫画はありふれた日常を“特別”に描く。とは私が勝手に思っていることだけれど、多分大体において間違ってはいないと思う。
 フラワー・オブ・ライフのことを考えたとき、色んなところで言われるように、思い浮かぶのはやはり彼らの笑顔なのだ。フラワー・オブ・ライフはまさに人生の花を描ききった作品であって、少女漫画の一つの完成形にさえ思える。

 この作品において、彼らはすっごく青春を満喫している。楽しそうで、充実していて、こんな高校生活を送れたら…と願わない人はいないだろう。
 でもそこに不思議と嫌味や嫉妬の感情は浮かんでこない。これは「Papa told me」もそうだけれど、日常を楽しく見せてくれる漫画はしっかりとその裏にある努力を描いているから。フラワー・オブ・ライフでいうと、その努力とはとにかく“空気を読む”ということ。気を回しあって、みんなが一番幸せになる形を作ろうとしているのがしっかり伝わってくる。

 でもそれは決して良い子という意味ではないし、“幸せ”を型にはめようとしないのがよしながふみらしさ。例えば真島を見ればよく分かるように、彼にとってはクラスのみんなと打ち上げをしたりすることを望んではいないし、クラスのみんなも真島に参加して欲しいとは思っていない。じゃあどうするのか?…は読んで欲しいのでここには書かない。
 みんながみんな賞賛する方法ではないだろうけれど、私はこのエピソードが好きだった。全部を手に入れることは出来ないのだから、楽しく過ごすためにはそれなりの代価が必要なわけで。 

 2巻以降のクラス劇なんか本当に楽しいのよ。こっちまで笑って笑ってたまらないくらいに楽しい。でもそんな日常の楽しさを極めた一方、打って変わって最終巻では日常の貴重さが存分に描かれることになる。
 決して“普通”というのは絶対のものではないのだと言い切った時、フラワー・オブ・ライフは少女漫画の枠を超えた。雰囲気が変わるのに戸惑う人もいるだろうけれど、この最終巻があってこそ、それまでがさらに輝きを増すのだ。

 “普通”というのは成長においてもこの漫画の一つのキーワードになっている。成長とは強くなることか?それとも勇気を出せるようになることか?、少年漫画においてはそうかもしれない。
 フラワーオブ・ライフの高校生達も最終巻でそれぞれが確実に成長を見せる。でも彼らにとっての成長とは、自分が総体的には普通であると認めることだった。友人でも恋でも相手への感情と相手の自分への感情は決して等価ではないし、自分が本当に欲しいものが手に入るとは限らない。だからこそ自分の殻を破って人とつながれるようになるのだ。春太郎と真島が主軸であったにしろ、細かい所まで読み込むとほとんどのキャラクターにしっかりと見せ場と成長があったことが分かって素晴らしい(尾崎は知らない)。

 よしながふみは彼らの青春と成長を華々しく、そして繊細な描写で描ききった。真島の「滋?」はいつもポケットにショパンの「麻子はシチューが得意です」に並ぶ私の少女漫画の至言です。
 これ以降よしながふみが一般誌で連載を続けているのも、もはや少女漫画というフィールドで彼女がやれることはなくなってしまったということかもしれない。でもいつかさらに大きくなってホームに帰ってくるのを楽しみに待ってます。

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[投稿:2011-12-21 00:30:23] [修正:2012-01-04 02:06:07] [このレビューのURL]

9点 竹光侍

 先日江口寿史の背景論についての議論がツイッター上で巻き起こっていたのは記憶に新しいところ。色んな漫画の描き方があるわけだけど、現在の漫画がどこへ向かっているかというと、大きな流れとしてはデジタルに向かっているのは間違いない。その程度は置いといても、全く使ってない人の方が少ないくらいかもしれない。photoshopなんかのデジタルで漫画を作るソフトが普及してきたということも影響しているのだろう。

 デジタルが登場する以前を考えると、漫画とは要はペンとトーンで描かれていたわけで、漫画の進化とは画法の進化であると共にトーンが進化してきたという面も少なからずあると思う。服の柄、影、背景、様々なトーンと様々なトーンワークを漫画の中で見てきた。
 でも正直な所、個人的にはトーンに惹かれたことはなかった。何でかは知らない。明らかにトーンの使いすぎでトーンが絵から浮いてたりするような漫画は論外としても、漫画としての見やすさや洗練度はともかく、“絵”としてトーンを使った絵を気に入ったことってなかったと思う。
 
 それもこの竹光侍を見るまでということで(>前置き長いな)。松本大洋は竹光侍において、絵に専念できるということもあってか、自身の集大成のように様々な技法で絵を描いている。独特の朴訥としたタッチはもちろん、墨で描かれた大胆で迫力抜群の絵もあり、ナンバーファイブ 吾で見られた木版画のような雰囲気の絵もある。
 そしてトーンの使い方。単に切って貼るのではなくて、貼った上に濃淡を変えて墨で色をつけたり、一部だけこすってかすれたような雰囲気にしたり、それらを組み合わせたり、かと思えばまっとうな使い方をしたり、あまりに変幻自在のトーンワーク。もはや松本大洋はトーンを模様として見ていない、切り絵のような、そんなもっと幅広い使い方をしている。

 元々松本大洋の絵柄や技法というのは固定されていないけれど、この竹光侍の絵は場面によってころころ変わる万華鏡のようであり、“キメ”の絵ではそれらがフルに駆使されてもはや芸術とも呼べる絵を堪能できる。
 アーティスティックとはまさに松本大洋のような人のことだよなぁ。既存の表現を取り入れ、さらにそれらに捕らわれずに新たな表現を模索する人だけが、新しいものを作り出せる。本当に素晴らしい。
 
 物語はそんなに凝ったものではない。でも漫画において必ずしも物語って傑出したものである必要はないわけで。永福一成の原作は、絵を優しく盛り上げる。松本大洋の魅力は個人的に“静と動”にあると思っていて、それらを最大限に引き立てるという点で絵とこの物語はぴったりと調和している。
 
 「とーん」と音が響き渡り、ネコはしゃべる。剣はうねりをあげて肉を切り裂く。宗一郎は鬼となって鬼と闘い、最後は鬼から解放される。美しい時代劇は美しいハッピーエンドでおしまいとなる。
 それにしても何と愛おしい江戸の町とそこに住む人々。最終回では大事なものが失われてしまったようで、切なくなった。でも変わってしまうものだからこそ価値があるし愛おしいのだ、多分。読み返すと彼らはそこにいる。

 竹光侍は、これ以上ない“粋”な時代劇であると共にアナログ漫画の一つの頂点だ。次に松本大洋の絵が進化するのはデジタル技術を上手く絵に取り入れた時と私は予想しているのだけど、どうだろう?…と思えばSunnyで水彩画の技法を使ったりもしているから松本大洋は油断ならない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-12-08 20:57:24] [修正:2011-12-08 21:28:21] [このレビューのURL]

2巻が読めた喜びをかみ締めて。

イムリと並んで私が今一番楽しみにしているSFコミックがこの預言者ピッピ。名作となりえそうなSFを現在進行形で読めるというのはまた他のジャンルと違った喜びがある。何でだろうね、とにかく“今”読めることにわくわくする。

ピッピは世界中のコンピューターから情報が集められる地震予測ロボット。その予知はほぼ100%の可能性で的中し、多くの人を地震の被害から救っていた。
ピッピの親友であり、弟のような存在でもあるタミオは彼自身も知らない不治の難病で近い未来死ぬ運命にあった。しかし予想もしえない事故でタミオは亡くなってしまう。その時、ピッピの頭脳に変化が起こった。
地震から世界を、人類の未来を預言するロボットに…。ピッピの語る信じがたい預言は世界に何をもたらす?もしくはそれさえも預言の範疇なのだろうか?

サイバーパンクやハードSFももちろん大好きだけれども、シンプルな設定から色んな方向に深化していく物語を楽しむのもSFの醍醐味の一つだ。完全なる未来予知は何を生むのか、当初のテーマに収まりきれないものを現在この作品は獲得しているように思う。

預言者ピッピにこれぞSF!という程の装飾はない。そのガジェットだって既視感ありありのものなのに唯一無二の物語に仕上がっているわけで、オリジナリティがあるのは道具ではなくてその使用法の方だろう。
預言者ピッピはSFの厳選された素材を存分に堪能させてくれる。読みやすく、そして何より味わい深い。

正直2巻が刊行される時、猿の惑星:創世記と似たような展開になるんじゃないかと一抹の不安を感じていた。実際には全くの杞憂に過ぎなかったということで、私の浅はかな不安を軽々と飛び越してくれた。話はさらに混迷を深め、どこに帰結するのかさっぱり予想も出来ない。オカルティックな要素さえ完全にSFの範疇に収めてくれるという確信はあっても不安はない。ただただわくわくしている。
そう、結局SFに一番求めているものってわくわくなんだなと預言者ピッピを読むと本当に思う。科学に、それが生み出すものと未来に、未来に生きる人間に惹きつけられて物語から目を離すことは出来ない。

自分で考えて行動できる人間でいたい。そんな望みさえ幻想だとしたら…本当に怖いと思いませんか?
もし自分であったらどんなことを考え、行動するのか。いや、そもそも考えることが、行動することができるのか。これはやっぱり“今”読むべきSFだと思う。いつ出るとも知れない3巻に期待して、この希代のSFとは気長に付き合っていくつもりです。

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[投稿:2011-11-13 20:17:51] [修正:2011-11-13 20:17:51] [このレビューのURL]

帯に書かれている通り、DKRのフランク・ミラーが贈る“男泣き必須の伝説的名作”。

泣く、と言っても色々ある。人が死んだ時、別れる時、夢が叶った時、などなど色んな場面で人は泣く。
このデアデビル:ボーンアゲインは男泣き必須の名作と言われる。それは大人の男の生き様に涙するということだ。これってかなり凄いことじゃないか?

デアデビルはマーヴル社のヒーローの一人、放射能によって視力を失った代わりに触覚や嗅覚などの超人的感覚を得たその名の通り恐れを知らない男。デアデビルの素顔はニューヨークのヘルズキッチンに住む弁護士、マッド・マードックだ。
しかしかつての恋人カレンが薬物欲しさにデアデビルが誰なのかを明かしてしまう。デアデビルの正体がマードックだと知った宿敵キングピンはマードックから仕事を、金を、友人を、そして終にはデアデビルを、精神の平衡すら奪ってしまい…。

ボーンアゲインは再生、復活を意味する。そう、ボーンアゲインはデアデビルの失墜と再生を描いた物語。
これを読めばヒーローが何故コスチュームを着て、顔を隠すのかが嫌でも分かる。ヒーロー自身は、デアデビルは恐れを知らない男かもしれない。でもマッド・マードックはそうではない。彼には彼の生活があり、大事な人がいるのだから。そしてデアデビルはマードックありきのものだ。
キングピンはマードックから全てを奪う。本当に全てを。しかし完全に折れ、絶望してもなお彼は…。

何故ここまで熱くなれるのか。それはデアデビルではなくマードック、そして新聞記者のユーリックやカレンも共にどん底から這い上がる物語であるからだ。ヒーローが立ち上がるんじゃない、マードックや彼らが力を振り絞って立ち上がる。ただの人間だからこそ、ぶちのめされてぶちのめされて、絶望の果てにもう一度…という姿に勇気をもらえる。
そう、恥ずかしげもなく言うと勇気をもらえるのよ。かつて少年漫画を読んでいた時のように。でもこれは“大人”が読んで勇気をもらえる物語。男の物語。

最後の方は様相が変わって、デアデビル復活直後の話になるわけだけど、こちらは焦点がぼやけ気味でちょっと残念だったりする。ダークナイト・リターンズのように個人の正義は国家の正義と衝突するという話ならば、最終的に戦うのはキャップになる気がするんだけど…。
ただ悪い話というわけではなくて、普通に楽しめはする。再生までの話で十分お釣りが来るので無問題。

今の所邦訳されたデアデビルの話はこれと、マーヴルクロス収録のラブ・アンド・ウォーのみ。こちらもミラー担当の(アートはマツケリーではないけど)傑作なのでまた別に紹介したい。ちなみにデアデビル入門にはボーンアゲインの方が分かりやすいのでおすすめです。
エレクトラも含めてミラーのデアデビル関連はぜひ邦訳を進めて欲しいな。

結局気に入るかどうかはストーリー云々じゃなくて、フランク・ミラーの男の美学が肌に合うかどうかだろう。ただこの人はハードボイルドを書かせると随一な方なので、好きな人には間違いない。
熱くなりたい、勇気をもらいたい大人の男は今すぐ読もう。男泣きしたい人には言うまでもない。熱く涙するという稀な、そして最高に気持ちの良い体験が出来るはず。

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[投稿:2011-11-08 20:18:48] [修正:2011-11-09 00:06:06] [このレビューのURL]

9点 ペット

他人の記憶の中に入ってそれを書き換えたり消したりすることの出来るPETと呼ばれる能力者達の話。

人間の記憶の中には自身を支え続ける記憶であるヤマと自身を傷め続ける記憶であるタニが存在する。PETは他人の記憶に干渉できるが、このヤマとタニに手を加えるとその人間は潰れて廃人になってしまう。裏社会のある組織はこのPETを利用した仕事を生業としていた…

こういう記憶に干渉できる能力っていうのはわりと漫画に限らずメジャーな能力だ。映画だとインセプションだったり、最近ではブリーチにまで記憶を挟める能力者が登場した。
そんな手垢のついた設定と思われるかもしれないが、そこはさすが三宅乱丈ということで細かい設定が抜群に上手く、かつその設定を完璧に使いこなしたストーリーはすばらしい。
PETがそれぞれのイメージ(どこでもドアや水とか)を利用して他人の記憶の中に入り込み干渉するシーンやPET同士の能力バトルは大きな見所となっている。三宅さんは絵はとっつきにくいんだけど実は表現力が非常に高くて上手。
しかし本当に興味深いのはこの全く記憶があてにならない世界観。実際に覗いた記憶はもちろん、自分の記憶だって書き換えられた可能性だってあるのだ。すごく恐ろしい世界。
残酷な運命に翻弄されるPET達は果たしてどうなっていくのか、一度読むと最後まで怒涛の勢いで最後まで夢中で読み終えた。1巻は設定等がややこしいので慣れるまではきついかもしれないけどそこは耐えて欲しい。

現在は大幅に加筆されたリマスターエディションが刊行されている。多少値は上がるけれど、物語の密度は上がっているのでこちらをおすすめする。
実はこのペットは3部作の第2部にあたるそうだ。果たして第3部が描かれるのかは未定だが、機会があれば描きたいそうなのですごく楽しみにしている。イムリがまだまだ終わりそうにないので当分先になりそうなのが辛い…

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[投稿:2011-07-12 23:50:38] [修正:2011-10-27 18:04:22] [このレビューのURL]

私が一番好きな短編集。高野文子のデビュー作。

まずタイトルからビビッと来る。絶対安全剃刀…何だろう?、読むと本当に電気が走る。すごいものに出くわした時の衝撃。
広い漫画界だから天才と呼ばれる人は少なくないし、色んな天才がいる。その中でも高野文子に関しては例え好きじゃなかったとしてもその才能を否定できる人はいないと思う。30年前の作品なのに未だ失われない革新性、影響力。多分こんな作品はさらに30年後にも色あせないのだろう。

絶対安全剃刀は17編からなる短編集。一番短いものは3ページ、一番長いものでも20ページしかない。でもそこに込められた密度は凄まじい。
どうもさっきから最高だの密度だの抽象的なことしか書けていない。私の力不足もあるのだけど、そんな作品群なのだ。形容できない、言葉に出来ないものだからこそ限りなく深い。でも出来るだけ表現してみよう。

この絶対安全剃刀の中でもほぼ全ての読者の目が行くのは「田辺のつる」。わがままな幼い子どもの話かと最初は思う。でもそれはつるの中の自意識。周りの家族が違うものを見ていると気付いた時にはちょっと震える。これぞ漫画の醍醐味だし、漫画でしか出来ないこと。

どれもこれも珠玉という安売りされている言葉が本当にふさわしい短編なのだけど、個人的にお気に入りなのは以下の三つあたり。
「ふとん」は死後の世界での、亡くなった女の子と観音様のとぼけた会話を描いたお話。悲壮感がないからこそ、その女の子のいじらしさと観音様の何ともいえないのん気さが哀しさを際立たせる。泣いた。
「あぜみちロードにセクシーねえちゃん」は行間を楽しむ作品のお手本。いい子と言われていてもね、内心色々あるよ。
「午前10:00の家鴨」は幸せの一つの形をブラックに描いている。何も欲しがらなければ足りなくなることはない。少しぼくんちを彷彿とさせる。
後「うしろあたま」なんか女性が読んだらすごく共感するんじゃないかな。男の私はあまりぴんと来なかったのだけど。

コマわり、絵柄から何から何までこの人の表現技法は幅が広く底が見えない。それが斬新なテーマ性とあいまってとんでもない短編集に仕上がっている。
漫画だからこそ、短編集だからこその魅力が絶対安全剃刀にはいっぱい詰まっている。

本当に言葉に出来ない凄さ、魅力。人間の心情っていうのは形容できないほど奥深いものがある。今後も長くお付き合いさせてもらうであろう名作。

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[投稿:2011-10-09 15:54:49] [修正:2011-10-10 17:31:32] [このレビューのURL]

アメコミをこれから積極的にレビューしていこうと思うにあたって、やはり最初の作品は私のアメコミ原体験であるダークナイト・リターンズ(以下DKR)が相応しいかなと思う。

アメコミが未だに子供だましの読み物、タイツのヒーローが出てくる馬鹿げたジャンルなんて考えている人はいませんか?
だとしたらそれは約30年前の認識です。私もDKRを読むまでそう思っていたので全く偉そうなことは言えないけど。

ではその30年前、正確には1986年に何が起こったのか。アメコミを読んだことのない方々に偉そうではあるが、大事なことなのでアメコミファンには周知の事実を説明させてもらいます。
1986年、フランク・ミラーのDKRとアラン・ムーアのWATCHMENが発表された。これがまあとんでもなかった。今までの単純な勧善懲悪とは隔絶した作風、ストーリー性の高さ。
この2つの作品の影響はその後のアメコミをリアルでシリアスなものに変質させてしまったほど。日本でいう手塚先生とまでいくかは分からないけど大友先生ははるかに超える衝撃です。

かつてのゴッサムシティのヒーロー、バットマン。引退したはずの、年老いた彼はなぜ復帰するのか。なぜ再びそのコスチュームに身を包むのか。
ミラーはバットマンを現実の社会の中に落としこんだ。マスコミに狂人と言われ、救世主ともただの犯罪者ともされるバットマン。彼は敵からも守るべきもの達からも、ゴッサムの住人全てに恐れられる。
描かれるのはヒーローの存在意義、その精神性。

彼はトゥーフェイスと相対して何を思う、何を見る。
新たに登場する若く血気盛んな犯罪者達と闇に潜む老獪なバットマン。
そしてバットマンと共に復活する宿敵ジョーカー。
個人の倫理観に従うバットマンに対してアメリカの正義を体現するスーパーマン。
バットマンは社会に何をもたらすのか。

まさにこの作品でヒーローは、バットマンはリターンした。

日本でダークナイトというとクリストファー・ノーランの映画を指すことが多い。私も大好きな作品なんだけど(ヒース・レジャーのジョーカーは必見!)、DKRに出会い、アメコミにはまるきっかけになった映画でもあるのですごく感謝してる。

アメコミ入門にバットマンはわりと適していると思う。ただ、イヤーワン、ロンハロなどのその前日譚にあたる作品が絶版なので少し難しい。もし手に入らないようならバートン版か、ノーラン版の映画を見てある程度バットマンを理解した上で本作を読めばほぼ問題なく楽しめる。

バットマンはスーパーマンのように超常の力を持ってはいない。鍛え上げた肉体と卓越した頭脳があってもあくまで普通の人間にすぎない。DKRではすでに初老にさしかかり、力は衰え、動くたびに体は悲鳴を上げる。
だからこそ、人間だからこそ彼は際立つ。肉体的な超人はスーパーマンかもしれないが、精神的な超人はバットマンだ。

超がつくほどエゴイスティックで、全く妥協せず、揺るがない。
最硬にハードボイルドで最高にかっこいい。

「世界が意味を持つのは人が意味をこじつけた場合だけだ」

バットマンはDKRを読んだ時から私の1番のヒーローであり続けている。間違いなくこれからも。

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[投稿:2011-09-19 04:11:52] [修正:2011-09-20 00:54:40] [このレビューのURL]

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