「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

 ラブコメ無しの美少女ギャグ漫画、というと「あずまんが大王」などが連想されるが、本作はそれらの作品群とは対極にあるような作品。のっぺりとした間の取り方やズレたやりとりなどでは無く、考え抜かれた奇妙なシチュエーションの畳み掛けるような絨毯爆撃で読者を爆笑の渦に叩き込む。
 一応主人公の鬼丸美輝や、メイド服スタイルのライバル看板娘の神無月めぐみなど美少女キャラ主体のキャラ構成ではあるが、一般的な意味での萌え要素はあまり期待できず、エゲつないこと極まりない看板娘対決、それを更に囲い込むかのように配置された素敵だがどこかぶっ飛んだ町民達の喧騒に包まれた日常生活が描かれる。
 この漫画が良いと思えるのは、とにかく読者傾向を問わず楽しめる懐の広さ。戦隊ネタなどのマニアックなギャグもあるにはあるが、基本的にドタバタ騒ぎを基調としたギャグは読み手を問わず楽しめるものばかり。時々思い出したようにセリフ無しのサイレントギャグ話などが挿入される辺りからも、その地力の高さがうかがえる。ただ笑えるばかりでなく、時にはジーンとさせられるちょっといい話があるのも良い。
 砂場で転んだときに口に含んだ砂鉄の味を思い出すような、多くの人に読んでもらいたい漫画です。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2005-10-17 20:25:09] [修正:2005-10-17 20:25:09] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 この2015年を回顧すると、漫画業界にとっての重大トピックといえば、やはり水木しげるの訃報であった。享年93歳。
 故人もつい先日までマクドナルドに通うほど壮健であった為、もう100まで生きてもだれも驚かないと思っていたところの突然のこの訃報。戦後漫画の地平を切り開いた巨星がまた一人、十万億土の彼方に旅立ってしまった。

 水木作品は、扱うテーマが怪奇に幻想、戦記、歴史や人物伝と、やや通好みに偏った面があり、テレビアニメなどでマイルドな味付けがなされた鬼太郎や悪魔くんに親しんだ人は多くとも、原作となった漫画作品が(手塚治虫や藤子不二男らと比べると)現在においてはそれほど広く読まれているとは言い難い。
 一方で近年では、悲惨な戦場を体験した戦争の語り部としてマスコミなどでもよく取り上げられ、朝ドラの「ゲゲゲの女房」のヒットなどから水木本人の波乱万丈の人生ドラマにも注目が高まり、そのユニークな人間的魅力も広く知られるようになっていき、気がつけばまさに国民的作家となっていた。

 今回紹介する『ゲゲゲの家計簿』は、「ゲゲゲの女房」ヒット以降の水木しげるブームを受けるような形で11年から12年(89歳から90歳!)にビッグコミックで連載された、人気作家となる以前の不遇時代の水木しげるを描いた自伝漫画である。タイトルに家計簿とあるように、偶然発見された当時の家計簿の収支報告が頻繁に引用され、貸本漫画家として水木が貧乏暮しに喘いでいた頃の回想記となっている。

 内容的には他の作品でも既に描かれ世に知られたエピソード(腐りかけのバナナの話など)も多いため年季の入った水木ファンには新鮮味に欠ける部分も少なくないと思われるが、筋運びに無理もなくテンポよく読めるので(自分も含めて)水木作品初心者にもかなり読みやすい。また、ブレイク以前の紙芝居作家?貸本漫画家時代の話がメインを占めるため、“妖怪”以外の水木の仕事ぶりを知る上でも興味深いエピソードは少なくない。(少女マンガも描いていた事は本作で初めて知った。)
 ガロ編集長の長井勝一や水木作品の定番モブキャラとなった“メガネ出っ歯のサラリーマン”のモデルの桜井昌一の登場する後半には、いよいよ漫画が表現として新たなステージに突入していかんとしていた時代の空気や高揚感が感じられるのも良い。トキワ荘系の戦後漫画史とは違う、一般に日の目を見ることの少なかった漫画界の裏面、貸本漫画の世界から見たもう一つの『まんが道』である。

 水木しげるは手塚治虫らとは違い、漫画家そのものへのあこがれが先立っていたというよりも、生活の為に漫画家となったという側面が強い。
 昭和26年、東京では手塚が『鉄腕アトム』などで華々しく活躍をしていた頃、水木は神戸でアパート経営の傍ら、画力を活かし紙芝居作家として生計を立てていた。しかしアパート経営はじきに行き詰まり、紙芝居の方も新興の娯楽メディアである漫画、そしてテレビに圧され、業界も終焉を迎えつつある。
 紙芝居の終焉を看取った水木は上京し、貸本漫画家として食うや食わずの毎日を送る事となる。『墓場鬼太郎』や『河童の三平』などは一部の子供には面白がられるも、不気味さの為に大ヒットには至らない。戦記物、武芸物、ギャグ、果ては少女漫画にまで手を出し糊口をしのぐ水木。
 原稿料の遅滞は日常茶飯事で、貸本漫画業界そのものも大手出版社による週刊漫画誌の攻勢に圧され、紙芝居と同じく終焉を迎えようとしている。そんな中、後にゲゲゲの女房と呼ばれる生涯の伴侶(水木いわく「ばかに顔の長い女」)との結婚、女房の妊娠……。

「ぼくは貸本マンガの終焉と「鬼太郎」を重ねて考えていた。」

 物語の9割がたはこんな調子で逆境の日々、常人ならどうにかなってしまうだろう。
 しかし、ならない。水木夫婦は金策に困り絶望的になる事はあれ、それでもどうにか乗り切って行く。決して説教くさい美談のように大上段から描かれているわけではない。それでも不思議と胸を打つ。

「ぼくには悲愴感などなく、生きることへの自信があった。それは“絶対的に生かされる”という楽天的な信念のようなものだった。フンッ!!」

 この水木特有の天衣無縫な楽天性(そして諦観)を、後に評論家の呉智英は「朗らかなニヒリズム」と評した。

 相変わらず多くの読者は得られず生活も苦しいものの、一方で水木作品は好事家の目に留まるようになり、「ガロ」への掲載を通じてインテリや学生らにも読者を増やしつつあった。水木の好んで描く異形や土俗、歴史や幻想といったモチーフが漫画の主要なテーマとなりえることが次第に認知され始めたのだ。

 そして終盤、“金霊”を見た事がきっかけとなったのか講談社から読切の依頼がもたらされ、週刊誌デビュー作『テレビくん』の好評により、遂に日の目を見る事となった水木。プロダクションの設立と共にますます多忙となり、金廻りもよくなった事で、家計簿をつける必要もなくなり物語は後腐れもなしにぷつりと終わる。

 このように水木しげるの初期のキャリアを本作で振り返って興味深いのは、テレビと漫画の普及による紙芝居業界の終焉に立ち会った水木が、今度は漫画とテレビの力で国民的存在となっていったという奇縁だ。
 『テレビくん』はテレビの中に潜り込みCMの商品を好きに持ち帰る事ができるという不思議な力を持った少年の話だった。そして貸本時代にはマニア受けはすれど広く人気を得られなかった鬼太郎や悪魔くんにせよ、その後テレビアニメや特撮ドラマとなることで子供たちに広く受け入れられた。
 思えば水木作品というものは、紙芝居に始まり貸本、週刊誌漫画、絵物語、図鑑…、そしてアニメ、特撮、映画、ゲームと、現代の娯楽分野の多くをカバーしていたのである。
 そして水木の人生そのものも「のんのんばぁとオレ」や「ゲゲゲの女房」などのテレビドラマとなり、普段漫画を読まない層も含む多くの人達の共感を呼び、国民的存在となった。

 あらゆる点において、水木しげるは破格の人物だった。そんな水木の足跡を振り返る上でもかなりお手頃な作品なのでこのたびの訃報を機に水木ワールドに足を踏み入れようと言う方にもお勧めである。フハッ。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2015-12-31 02:36:35] [修正:2015-12-31 03:10:19] [このレビューのURL]

6点 KAPPEI

 30年前の誕生以来、現在もなお読み継がれ新たなファンも獲得している名作『北斗の拳』。この漫画の魅力の一つに、主人公ケンシロウの強さとストイックさを兼ね備えたヒーローとしての完成度の高さがあった事は言うまでもない。そこには確かに男性主人公の一つの理想形が描かれていたが、読者の多くはある時期からケンシロウに対して一つの疑問を抱くこととなる。

「結局ケンシロウは恋人ユリアと男女の契を交わしたんだろうか?」

 二人の間に子供はいなかったし、死の病に侵され衰弱したユリアの体をケンシロウが激しく求めるとも思えない。また、ケンシロウのあのストイックな性格からしてユリアの没後も他の女性とヨロしくやるような雰囲気は薄い。もしかして、ケンシロウって……。
ケンシロウや梶原一騎作品の主人公達のようなストイックヒーロー型から、近年のラノベなどによくでてくる鈍感純情優柔不断型まで、漫画における男性主人公にはしばしば童貞性が重要な要素となる事がある。「007」のジェームズ・ボンド及びそれらの影響下にあるゴルゴ13のような多くの美女と浮名を流す精力絶倫系主人公が男性(主に大人)の願望の投影として人気を博す一方で、ストイックで純情な愛を重視する童貞力系主人公もやはり男性(主に少年)の心の琴線に触れるのだ。ただし、それらが格好良く見えるのは世紀末の荒野やスポーツのリング上だからこそであり、もしこの平和な現代日本の日常に放り込まれようものなら。


前置きは長くなったが、今回紹介する『KAPPEI』は、そんな世紀末救世主となりそこねたヒーロー候補生が現代東京のキャンパスライフに乱入して生まれて初めての恋煩いに身悶えするという、かなり痛々しいシチュエーションギャグで笑わせてくれる作品である。作者は『デトロイト・メタル・シティ』で有名な若杉公徳。思えばDMCも童貞力にあふれた痛々しさが存分に描かれた作品だった。

 1999年、世界は結局核の炎に包まれる事無く無事世紀末は乗り越えられた。2012年人類滅亡説なんてものもあるにはあるがそれもどうやらかなり怪しい。来る終末の危機に備え殺人拳「無戒殺風拳」を世俗を捨てた絶海の孤島で磨き続けてきた男たちはこうして役目を失い、その一員であった主人公の勝平は一人虚しく東京へと出現する。別に「み…水……」と飢えてもいなければ、無法を尽くす悪のモヒカン兵士もいない現代の東京へ。
「ヒーローはいるが悪のいないアクション映画の主人公は 何をするべきと思うか?」
 そんな空虚を抱える勝平の心の隙間を埋めたのは偶然暴漢から救った大学生の男に誘われた花見会場で出会った一人の女性だった。女性という存在を知らず人並みの青春を送ったことのない勝平に芽生えた、得体のしれない感情の正体とは?


 正直に言って『北斗の拳』のパロディをはじめプロットなど既視感のある設定ばかりであり、また作者の味といえばそれまでだが北斗パロディをやるには画力が足らなさすぎる感があるが、やはり作者の才能のゆえだろうか随所随所にかなり破壊力の高いギャグが仕込まれており、コメディ漫画として充分面白い出来に仕上がっている。特に勝平が友人となった大学生の部屋で発見した『ふたりエッチ』を夜中にこそこそ盗み読みするシーンなどシチュエーションギャグとして身悶えするような出来栄えだったし、大学の飲みサークルのあのグダグダした雰囲気、生まれて初めての合コンでの立ち居振る舞いがわからぬゆえの暴走、気になる女子が見知らぬ男と一緒に居た時のあの感情…、これらの描写の数々に痛々しい笑いと、同時に(多くの男性にとって)身につまされる何かが感じられる。無戒殺風拳伝承者同士での死闘が描かれることもあるがそれにしたって会話が「お前の好きな女はブスだ」「ブスじゃない」とか小学生レベルの言い争いだったりするのもなんとも可笑しい。

 前述の平和な世界のヒーローの在り方についての勝平の問いかけに対し彼の想い人の山瀬ハルは「ギャグになっちゃうよ」とあっけらかんと答え、そしてこうも続ける。

「だから次は自分が幸せになる番じゃない。」

 ケンシロウは生涯を戦いの荒野に捧げた。梶原一騎作品の主人公達の多くは寂しく舞台を去っていった。果たして勝平は平和なこの時代にヒーローとして活躍できるのか、そして、山瀬ハルと結ばれる事はできるのだろうか?非常に先の気になる作品である。

 1巻後半にはなにか北斗のシンみたいなライバルが登場した。この調子で今後も重度のシスコンをこじらせたレイもどき、不細工な己の顔を憎む余りイケメンに憎悪を向けるジャギもどき、自分が好きすぎてホモに走ったユダもどき、失恋の悲しさから「愛などいらぬ」なサウザーもどき、そして勝平とヒロインを奪い合う一方でちゃっかり童貞も捨ててるラオウもどきなどが次々と登場すればよい気がせんこともないある…アルナイ……。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2012-04-29 22:10:12] [修正:2012-04-29 22:10:59] [このレビューのURL]

 紀元前三世紀、地中海世界の覇権をかけた二大大国ローマとカルタゴの大戦争、ポエニ戦争。本作『アド・アストラ』は、カルタゴの生んだ稀代の軍略家でありローマ史上最大の難敵と言われた”怪物”ハンニバルと、彼からローマを護るべく対峙した同じく天才軍略家スキピオの対決を主軸に据えた歴史アクション漫画である。

 スキピオとハンニバルの対決劇は歴史(特に戦史)好きの間では広く知られ人気もあるテーマで、最近1年越しで2巻目が発売された人気の某作品でも二人仲良く異世界を絶賛漂流中だが、同時代のローマを描いた漫画作品として読んだことはまだなかったので本作には高い期待を持って接した。

 本作で描かれるハンニバルの繰りだす様々な戦術の数々-機動力の駆使した包囲殲滅作戦、周到な調略による兵力の増強などなどは聞くところによると現代の軍事教本でも参考にされるほど完成度が高かったというが、古代も現代も変わらない戦争行動がある一方で、本作には現代の近代国家同士の戦争ではあまり見ることができない古代ならではの戦争のイメージも見事に描かれている。国と国、人と人の闘いだけに留まらない、神軍の戦争である。
 第1話で少年ハンニバルのもとにカルタゴの神である雷神バールの意志が雷が降るように降り立つシーンには身震いした。ハンニバル(バールの恵み)はぇ決して単なる軍人としてではなく、カルタゴの神の意志そのものとしてローマへの狂気じみた復讐戦争へと身を投じる。

 導入部としてはほぼ完璧だったが、残念ながら1巻を通して見た場合、第1話で見せた恐ろしい予感にまだまだ応えきれていないように思える。まず展開が少々早すぎる。第2話で早くも成人しローマへの復讐を開始したハンニバルは、あれよあれよという間にイベリア半島を暴れまわり史上名高いアルプス越え(数万の軍勢と戦象を引き連れてアルプス山脈を踏破!)も一瞬で終わらせてしまった。このアルプス越えはハンニバルを語る上では絶対に外せない部分だっただけに、もう少し重きをおいて描いて欲しかった。

 これは恐らく終生のライバルとなるスキピオとの初顔合わせを単行本一巻の中で終わらせ、展開のテンポなども重視した結果なのだろうが、おかげで歴史大河巨編らしい重厚さが少々足らなくなってしまった気がする。絵柄もリアルよりで上手いがもう少し生気(それと狂気)も欲しいところだ。だがまだこれからもおいしい見せ場には事欠かない事は歴史的にも確約されたようなものなので、今後未だ若輩のスキピオがハンニバルに劣らずローマの神をその身に宿すかのような大奮闘を見せていけばきっと素晴らしい作品となるだろう。そんな二人の軍神の間に隠れた凡人の一兵卒ガイウス(本作のオリジナルキャラだろうか?)の今後も、二人の対決に劣らず気になる部分ではある。

 これからどうなるか注意深く見守る必要があるが、連載デビューから物怖じせずに調理の難しい題材に挑む作者には敬意を評したい。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2011-10-30 22:10:21] [修正:2011-10-30 23:23:38] [このレビューのURL]

「女子高生とか好きだからー!!」 (あずまきよひこ『あずまんが大王』より)

 いつからだろうか、読者が「別に萌え漫画で男キャラ必要ないやん」と認識しだしたのは。異性と絡んだお色気サービスやハーレム展開、ラブコメの添え物でなくともかわいい女の子キャラは漫画においてはそれだけで正義であり、スポーツ、格闘技、麻雀、ロックバンド、それらをただこなすだけでもそれなりの華やかさを飾ることが出来るという方法論の有効性は今や疑うべくもない。
 いや、何もそういう特殊な活動を描かずとも良いのだ。かわいい女の子のどうってことのない日常を描くだけでも(程度の良し悪しはあれ)そこそこの人気は得ることはできる。

 近年こうして女の子日常系漫画が一種のジャンルとして確立され、同時に男性キャラの楽園追放が進行しつつあるわけだが、本作『男子高校生の日常』は、何を血迷ったのかそういう主に女の子漫画で磨かれてきた日常系的な方法論を、男子高校生の世界に逆移植するという神をも恐れる所業の産物である。何という暴挙だろう。腐女子は別にして、誰が好きこのんで可愛げのない男子高校生どもの冴えない日常など敢えて漫画で見ようと思うのか?これではまるで進化の袋小路に陥ったアメリカのリアリティ番組である。

「ムッチムチの男子高校生!!なんだか楽しいようなそれでいて決して楽しくない響きですね」
「先生もそう思う」 (柴田亜美『かなぶん甲子園』より)

 だが、その結果は予想以上に味わい深いものであった。本作は華のない男子校を舞台に、特に部活や恋愛に勤しむわけでもなく、それでも人並みに異性に興味はありバカを磨く時間と妄想力にだけは事欠かない男子高校生達のどうしようもない日常を、それこそどうしようもなさげに描いている。絵はラフでお世辞にも上手くは無い。ストーリー展開やオチのつけ方もかなり投げやりで完成度のバラつきは激しい。さすがに男キャラだけでは華がなさすぎるため同年代の女性キャラも度々登場するが、男子に輪をかけてバカで粗暴でサル山のサルのように描かれているため、恋愛フラグはことごとくへし折られる。とにかくドラマチックな大きな物語への発展を作品の持つどうしようもない重力が必死で拒否しているようでもある。また、リアルな男子高校生の日常と謳いつつも、決してリアルに描かれているわけでもない。(女の子日常ものとそこは同じである)

 けれども、この落ち着きのなさに満ちつつも決して大事に至らない空気感がなんとも言えず懐かしく、楽しい。夕陽の河川敷で恥ずかしいセリフを呟いてたそがれてみたり、道端の棒切れからドラクエ的な大冒険を妄想して悦に入ったり、友人とラジオDJごっこをして収集がつかなくなったり、と本作で描かれる男子高校生達のまぬけな行動の数々にはどこかしら共感できるところがあり、かわいさなど微塵も無いにも関わらず、何故か萌えてしまう。別に萌え漫画は必ずしも女の子キャラでなければならぬいわれは無かったのである。
 そういう痛々しいギャグだけではなく、2巻の通学バスの女子高生のホクロ毛をめぐるエピソードのように、ギャグを越えた清々しい一瞬、バカさの背後に見え隠れするほのかな矜持や優しさを捉えたエピソードもたまに挿入されて良いアクセントになっている。また、本作で一番かわいい女性キャラ(と思う)「タダクニの妹」が、あえて表情を伏せて描くことで超然とした存在感を放っていたりと、男子高校生達のまぬけっぷり以外にも注目すべき演出が散見される。

「日本男児の生き様は 色無し恋無し情け有り」 (宮下あきら『魁!!男塾』より)

 こうして一見無謀に見えるトリッキーな題材を独特の空気感で描いて見せた本作は、作品の格こそそう大きなものではないが一つのエポックメーキングかも知れない。かつて同じ男子高校生であった者としてこのコンセプトは大いに支持したい。いや、同種の作品が量産されるのもそれはそれで困る気はするけど。


「感動したぜ 大概の女はこれでゲットできると思う!」

フッ

「うち男子校じゃねーかよ」 (山内泰延『男子高校生の日常』より)


ナイスレビュー: 6

[投稿:2010-11-07 23:53:18] [修正:2010-11-10 23:07:28] [このレビューのURL]

※本作の関連作品「暗黒神話」は未読

 今更自分ごときが言うまでも無いが、本作『孔子暗黒伝』の作者である諸星大二郎は日本漫画界唯一無二の鬼才である。初期のホラーやハードSFを扱った短編群から神話や伝承に材をとった伝奇長編、ナンセンスギャグまでものにする幅広い見識と筆力、そして手塚治虫をして「真似できない」といわしめた独特な作風、後進の多くのクリエイター達にも多大な影響を与えた事も広く知られている。同傾向の作品で高い評価を得ている漫画家では諸星大二郎の盟友である星野之宣がいるが、センスの独特さという点では諸星大二郎の方が唯一無二度は高い。

 諸星大二郎の描く様々なジャンルの一つにに、中華世界の神話や古典を扱った一連の「中国もの」の作品群があるが、77年に連載開始された本作『孔子暗黒伝』はそんな中国ものの最初期に属する作品である。そして若き日の巨匠が選んだ題材は三国志でも水滸伝でもなくなんといきなり「孔子」であった。しかも論語という古典の権威にまったく物怖じすることなく、陰陽五行説などの神秘思想や古代中華文明の神、それどころか同時期のインド神話や仏教、東南アジアの精霊信仰、古代日本神話、果ては物理学やら宇宙科学などの現代科学にSFまでを包括した驚くべき一大伝奇作品に仕上げてしまったのだ。しかも話運び自体は荒唐無稽だがそれらの諸要素が見事に関連しあい、「世界の構造の謎に迫る」という哲学的でSF的な恐ろしく壮大なテーマまで持ち上げられる始末。ストーリー展開に関しては複雑怪奇で要約困難なのでここでは詳しく説明しないが、よくもまぁこんな作品が70年代の少年ジャンプに載ったものだと思う。そして論語や孔子というガチガチに権威づけられて面白みがないと一般的には思われがちな古典に対するアプローチとしても大変興味深い作品となっている。


「学びて時にこれを習う またよろこばしかrたずや」

 だいたい我々が学校の古典の授業で習うような孔子の言葉と言うと、上に掲げたようないかにも説教くさい道徳文句が多いため、論語と言うのも面白くない道徳哲学やら人生訓程度に思われがちだが、本作で描かれる孔子は違う。作者は後書きで「白川静の『孔子伝』に触発された」と語っているが、本作の孔子は我々の住む現代社会から遠く離れた、怪力乱神の跋扈する神話世界の住人である。
 神仙や呪術の世界に通じ、理想実現のためならいかなる労苦も厭わず、自らの理想が天に裏切られては嘆き悲しみ慟哭する、非常に人間的で血の通った人物でもある。無論作者の恣意的解釈と言われればそれまでだが、セリフの端々に論語の文句をさりげなく含ませていたりしてぬかりも無い。その引用も顔回が死んだ際の「天われを滅ぼせり」などの有名なものから「海にイカダを浮かべても…」などさりげなくのマニアックな奴まで多岐にわたっており、伝奇世界を描きながらも作者が孔子を古代中華世界に生きた血の通った思想家として浮かび上がらせようとする態度が感じられる。
 もちろんそれだけに留まらず、作者の奔放な想像力はいかんなく発揮されており、「あやしげな祭祀場で蘇ったゾンビに孔子が羽交い絞めにされたところに、ティラノサウルスが乱入」みたいなどういう思考回路ですか的な悪夢のようなシーンも登場、おそらくこんな作品、論語の本場である中国にも無いだろう。古代神話や神秘思想を現代科学と関連付ける語り口にしても、古代から現代と手段は違えど人々の思い描く世界認識の相似性に着目して処理されており、どうしようもない土着的な怪奇を描きつつもそれがいつしか壮大な一大体系に発展していくという、作者ならではの強烈な知的アクロバットを堪能することが出来るのだ。下手な新興宗教のでっち上げた教義とかよりもよほど魅力的な世界観である。
 古典や神話や科学理論など多ジャンルの要素をうまくつなぎ合わせて一つの物語体系とするという作風は、ファンによる二次創作やパロディ作品などが隆盛を誇る現在だからこそ再評価される部分もあるかも知れない。(ある意味本作は「スーパー古代神話大戦」「とある孔子の論語目録」みたいなものであるが、それだけでは表現できない不気味な凄味がある。)
 
 こうして諸星大二郎は後に自らの十八番となる中国ものの鮮烈な第一作をものにしたワケだが、最初期の作品であり作者自身もまだ若かった(当時まだ20代!)ため、『無面目・太公望伝』など後の中国ものの傑作と比べると欠点が目立つのも事実だ。
何というか、読みにくいのである。これは漫画というメディアにおいては無視できない問題だ。


作者「よし、やる、己はやるぞ。暗黒神話を更に上回る壮大なスケール、少年漫画史上類の無い一大大作を描くのだ!孔子や仏陀を登場させよう。日本神話とSFもアリだ。全てを合一させ、少年達の蒙を啓いてやるのだ、おお!マハー・カーラ!」

編集「私ごときは先生の教えについていくのみでございます!ジェイ ハリ・ハラ!」

 多分こんな感じ(?)で若い作者は情熱に燃え盛り、編集も巻き込んでこういう奇跡のような作品がジャンプに掲載されたんだろうが、その情熱が一部上滑りしている感は否定できない。既に述べたように本作は多方面のジャンルにわたる知識が動員されているが、物語の随所に数多く長々とした解説がナレーションや劇中人物のセリフの形で挿入され、それらがどうも物語展開に水を差すのだ。知識の解説とストーリーの自然な展開がまだうまいこと噛み合っていないのである。幸い作者の優れた咀嚼力と想像力によりイヤミったらしいスノッブ趣味には陥っていないが、後の諸星作品と比べるとまだまだ荒削りさはぬぐえない。

 たとえて言えば、奥深い攻略性でやり応えはあるが、難易度が高くチュートリアルも不親切な初心者殺しの一昔前のゲームみたいな作品である。諸星作品をこれから挑戦してみようという方は、まずは多数の短編作品集などで慣らし運転をした上で挑戦してみるのがいいかも知れない。あと、文庫版よりも大判のジャンプスーパーコミックス版の方が細かい字も読みやすいので良いだろう。お気軽に楽しむにはちと辛いが、まさしく漫画史の軸の時代を彩る重要作品である。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-10-24 20:56:14] [修正:2010-10-26 21:04:01] [このレビューのURL]

 漫画界においては、今も昔も最激戦区といえば週刊少年漫画の世界である。漫画の主要な読者層である少年達の移ろいやすい興味をとらえ続けるために漫画家も編集部もしのぎを削り、他誌はおろか同じ雑誌内でも人気投票というの名の激しいサバイバルが週刊単位で繰り広げられるという苛酷な世界。
 中でも発行部数1位を誇る週刊少年ジャンプは、特に「人気投票至上主義」に基づく非情な競争を作家達に強いることで様々な話題作を生み出し続けてきた。いったん人気に火が付き、作品のクオリティを長期にわたって安定させることに成功すれば『ONEPIECE』などのように10年を超える長期連載も出るには出るが、多くの作品が半年、一年弱、もしくは10週程度で終了の憂き目にあうため、とにかく作品の入れ替わりが激しいのが特徴なのである。良い意味でも悪い意味でも、常にニーズに合わせて“変化し続けること”を宿命づけられる人気商売の世界の顕著な例が、週刊少年ジャンプという雑誌の有り様なのだった。

 そんなジャンプにおいて特異な存在なのがみなさんご存じ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。連載開始は何と1976年。東京の下町葛飾亀有の小さな派出所と舞台に、ガキ大将がそのまま制服着たようなトンデモ警官「両津勘吉」が暴れまわるギャグ漫画。こういう基本設定だけを見ると非情に古臭く、とてもかのジャンプで30年以上人気を博す作品には思えないのだが、『こち亀』が連載を維持し続ける事が出来たのは、下町コメディという基本は残しつつも“変化し続けること”を課し続けた作品姿勢によっている。

 初期のこち亀は人情風味を加えつつも比較的ストレートなバイオレンスギャグだった。『がきデカ』に倣ったのか劇画調の濃い絵柄で主人公の警官が銃を撃ちまくるという作風が当時は過激なギャグとしてウケたようだが、作品は次第に「情報漫画」「教養漫画」としての側面が目立ち始める。作者の秋本治が非情に好奇心旺盛かつ他分野に渡るマニアックな知識の持ち主だったため、作品内でも両津を語り部に、おもちゃやミリタリー、車にゲームといった「男の子の趣味」全般の深いうんちくが次々に開陳され始めた。作品自体が「遊びの戦後史」とも言える存在となったのだ。
 さらに連載の長期化に伴い、絶えず変貌を続ける東京の世相を作品は的確にとらえ続けた。首都の過密化、地価の乱高下、バブルの狂騒、失われた十年、再開発、スカイツリー…、こち亀を通読すればそれだけでここ三十数年の東京の世相史が一目瞭然となるのである。これはやはり特筆するべき事だろう。

 こうしてジャンプ内において特別な地位を得たこち亀は作者の驚異的な筆力も手伝い順調に巻数を重ね続け、96年には連載20周年&単行本100巻という空前の快挙を達成した。しかしここから他のレビュワーのみなさんも指摘されるように作品の迷走&質的低下が見られ始めたのも事実である。ジャンプ編集部も「長期連載」がウリのこち亀だけは人気投票レースにおける治外法権にしている節があり、他の漫画が人気獲得にしのぎをけずるのを尻目にこち亀だけが安全圏でダラダラ連載を続けている…と最近の読者には感じられるようになった部分があるのは否定できないだろう。実際一時期見られたやっつけ感漂うビミョーな新キャラの乱発や展開が容易に読める話の落ち方、女性キャラの極端な巨乳化(まさかオタク受けを狙っていたのか?)などなど目に余る部分がここ10年ほどのこち亀には多く見られるようになってきた。特に両津が警察の独身寮を出て「超神田寿司」と疑似家族的な関係を結んだ近年の展開なども、古参のファンには賛否両論あったことだろう。

 なるほど、長期連載は確かに凄いし情報漫画としても重宝する。しかし、それが漫画作品として、とりわけ週刊少年ジャンプ作品の在り方として適切なのか?という疑問が連載20年を超えたころから芽生え始めたワケだが、作品が落ち着きを取り戻したこともあり、自分でも意外なことに、最近またこち亀を楽しく読めるようになってきたのだ。

 うんちくをウリとした長期連載といえば『美味しんぼ』が代表格だが、あちらは原作者自信も認めるように近年は物語としての質の低下から漫画作品としての必然性を失いつつあるのに対し、こち亀の方は(元々がギャグ漫画である事もあり)依然として漫画としての必然性は保たれている。秋本治は一見ワンパターンに見える連載の中でも絶えず実験的な演出に挑戦し続けており、時々「これは」と息をのむような素晴らしいシーンを目にすることもある。(昨年の深夜ラジオを扱った回は素晴らしかった。)

 このように新しい話題に常に挑戦し続ける一方で、作品の根幹をなすのはあくまでも昭和30年代的な下町人情の世界である部分は変えていないのも良い。昭和30年代というのは実際にその時代を経験したことのない80年代生まれの自分にすら「なんか懐かしい」と思わせる魔力を持った現代日本の原風景であり、こち亀はその豊かな土壌を実に巧みに現代に活かしているのである。かといって「昔は良かった」的な過度なノスタルジーには陥っていない点も注目に値する。両津はメンコやベーゴマの達人である一方で、最新鋭の情報端末やゲーム機をも自在に遊び倒す現代性を持っているのである。

 そして、そんなこち亀が今でもジャンプを開けば毎週必ず(必ず!)会えるというこの奇跡。最近はそれが何よりもありがたく感じるようになってきたのだ。

 東京の街並みと同じように、漫画界は常に変化し続ける。ジャンプの誌面も変わり続ける。こち亀もまた変わる。良くも悪くも変わる。しかし、こち亀が毎週必ず読めるという事実だけは三十数年来変わらない。「派出所」という呼び名も、(一度「交番」に書き換えられた事はあったが)変わらない。
 そういう作品がジャンプにあってもいいじゃないか。次の10年20年も、こち亀と共に見届けていきたいと切に思う。

 あと、久しぶりに戸塚と寺井とダメ太郎あたりをまた見たい。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2010-08-04 23:39:27] [修正:2010-08-05 21:36:07] [このレビューのURL]

 週刊少年サンデーといえばかつては「漫研部室のサンデー」とも言われたような優等生的な安心感のあるブランドだったが、近年は編集部と作家との間のドロドロした確執の話題が表面化し、雷句誠や藤崎聖人といった同誌の人気作家が他社へ移籍するなどして何とも不穏な空気に包まれている感がある。両氏とも移籍先の講談社では激しくビミョーな感じではあるが…。

 そのような中にあっても、本作『金剛番長』からは、少なくともそういう不穏さは微塵も感じられなかった。作家もノリノリ、編集も輪をかけてノリノリ、互いの悪ノリが異様な相乗効果を生み、この21世紀の現代に学ラン系超人バトル番長漫画をメジャー誌で堂々連載するという究極の酔狂を貫徹、潔く「筋を通して」みせたのだから。
 
 近年の超人バトル漫画は互いの能力や心理的駆け引きなどを重視する傾向が強いが、本作の主人公である金剛晃は「細けぇ気にするな」「知ったことかー」と居並ぶ多彩な強敵たちを次々と拳一本で粉砕していく。敵も番長、味方も番長の学ラン番外地、敗れた敵の多くは主人公の男気に惚れて仲間になり、物語演出は終盤地球規模にまで加速度的にインフレを遂げる。もう今となってはギャグにしかならないようなこれれらの意匠を確信犯的にたたきつけてくるのが本作の流儀である。作者の鈴木央はジャンプから移籍してきた過去もあり、そういう往年のジャンプ的なノリを意図していたのは間違いないだろう。

 編集サイドもそんな作者の本気に最大限こたえる姿勢を示しており、単行本の帯文や巻頭巻末の煽り文句などを見ても

「せっかくだかrた俺はこの金剛番長1巻を買うぜ!」

とか

「タフすぎてそんはない」

とか

「ゲーーーーッ!?」

 とか、もうやりたい放題の傍若無人、わかる奴だけわかればよし!的な酔狂が暑苦しいほどに充満していた。しまいには『キン肉マン』よろしく読者投稿による「僕の考えた番長」コンテストまで開催され、登場キャラとして採用されるなど、とにかく編集サイドの熱意が非常に感じられる作品となったのである。

 ただ、このように書くと本作が悪ノリだけで構成されたような作品に感じられてしまうかもしれないが、実は結構本気で「番長」という存在の魅力を描こうとしていたのも本作の良いところだ。
 物語中盤、「熱くない男は死んでよし!」をモットーとする熱血主義の化身・爆熱番長との戦いが描かれるエピソードがあるが、ここでは同じ熱血系キャラである爆熱番長と金剛番長が対比され、人の弱さも受け入れる金剛番長の度量の広さが示される。よき番長の魅力とは強さや厳しさと共に他者を受け入れる度量も併せ持った存在なのであることを改めて気付かされた格好で、作品の大半を覆う酔狂の陰で輝く真っ当さが、何とも絶妙な読後感を提供してくれた。

 以上のように作品のノリとしては非常に自分の好みにあう作品だったが、しかし期待していたがゆえに残念な部分も多かったのも事実である。皮肉なことにそれらの欠点の多くはこの作品の長所が裏目に出た点が多かったのだ。

 本作の魅力は単純明快で強力無比な金剛番長という主人公による部分が大きかったが、この金剛番長があまりにも強く、どんな危機に陥っても「知ったことかー」「気合いだー」で形勢を逆転させてしまうため、バトルがどうしても単調になってしまうのだ。これは近年の洗練された能力系バトル漫画を読みなれた読者には最初は新鮮にうつっても、次第に飽きられる結果となる。
 また、当初は東京23区の各地区で行われていた番長達のバトルも物語の(意図された)インフレに合わせるかのように規模が拡大化し、しまいには地球を破壊しかねない勢いに膨れ上がった。むろんこれは”そういうノリ”を狙った作劇だが、さすがに酔狂だけであんな人が万単位で死んでもおかしくないような展開はちょっと…と思った。物語のラスボスである日本番長(金剛番長の兄)の悪行の動機にしても、

「母さんが愛したこの世界は母さんを拒絶した。だから俺はこの世界を憎む。」

 といういかにもなセカイ系の典型で、この手の作品とは食い合わせが悪いように思い非常に萎えた。この終盤のせいで、番長漫画の復権を謳った本作が結果的に番長というイメージを風船のように肥大化させ、しまいには逼塞させたのでは?という思いもぬぐいきれない。だが、まぁそんな細けぇ事は気にせず読んで充分おもしろく、奇抜なキャラ設定のおかげでネタ漫画としても一級品の良作には違いない。単行本は全巻買う。それがせめてもの自分なりのスジの通し所だッ!

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-07-03 02:04:35] [修正:2010-07-04 23:01:19] [このレビューのURL]

 小動物的な可愛さを持つ元気な女の子。
 年中だらしない格好をして家でゴロゴロしている「とうちゃん」。
 ひょんな事から主人公の女の子と友達になった女子高生のお姉さん。

 安永航一郎が久しぶりに商業誌に復活という事でこの『青空にとおく酒浸り』の1巻を手にしたとき、メインのキャラ配置に妙な既視感を覚えた。なんか、そこはかとなく世評も高い某癒し系ほのぼの女の子漫画と似ているなぁと。

 2巻を買い、巻末コメントを読んだ。

「貧乏くさい『よ〇ばと!』を描いてみようとゆーことで大ヒットを狙って景気よくスタートした本作ですが(中略)非人道的『じゃ〇ん子チエ』になってしまったのはなんでなんだぜ?」

 数年に及ぶ雌伏のときを経てもなお、安永航一郎はこれっぽっちも変わっていなかったのである。臆面の無いパロディ、無駄なハイテンション、変態の狂い咲きサンダーロード、脚線美の眩しい美少女達、”どうってことのない日常”なんかくそ食らえ、息が詰まるほどの濃さに眩暈を覚え、同時に安堵と歓喜の涙も流しそうになる。けれどもそんな濃い目でハイテンションの安永テイストをどばっと盛り込む一方で、作品の空気感そのものとしてはネタ元である『よつばと!』に代表されるような日常ほのぼの系にも通じる肩の力の抜け具合が感じられるのが凄い。
 変態達の織り成すしょうもない事件の数々が描かれながらもそれらすらが作品世界の持つ「日常」と化しており、その結果本作もまた日常ほのぼの女の子漫画と化してしまったワケである。(ただしスネ毛か汗とかよくわからん汁とかにまみれた…)

 もう50近いおっちゃんが昔と変わらずこんな漫画を描いてくれている事に驚愕し、また心からありがたいと思う。
「わははははははははははははははははははは」
 そんな安永航一郎の高らかな嬌声すら聞こえてきそうな作品である。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2010-06-08 23:50:55] [修正:2010-06-10 23:33:06] [このレビューのURL]

2度もテレビアニメ化されるなどかなりヒットした学園ラブコメ漫画だが、完成度的にはお世辞にも洗練されているとは言いがたい。作画のクオリティは安定せずギャグは滑ることが多く、重要な話とそうでない話に温度差がありすぎ、物語に大量のフラグをばらまく一方で未回収に終わることもままあり、最終回に至っても人間関係の大半は未整理なままで、おまけにその最終回もマガジン本誌と増刊号とで2種類あるとう始末であった。

作者の小林尽は本作がメジャーデビュー作だったが、同誌の赤松健(ネギま)や久米田康二(絶望先生)らの先輩陣と比べるとどうしてもこなれていない感が漂っており、足かけ6年にわたる長期連載の中でいろいろボロがでてきた部分も多かった。キャラクター人気に頼った駄作とう評価も、あながち間違いではないとは思う。しかし。

それでも自分は本作を推したいのだ。上述のように未成熟な部分も多かったけれど、作画とギャグとドラマ、それらに時折かいま見られたポテンシャルの高さに、普段はどーでもいい日常を送りつつも時々ハッとさせられるような体験もしてきた自分たちの学生時代の記憶を呼び覚ます何かが感じられたからである。
そもそも絵に描いたようにスマートで非の打ち所のないような青春時代を送った奴などそうはいない。たいていの場合、青春とは愚かでこっぱずかしく、それゆえに愛すべき物である。この作品の持つ未成熟さは、換言すればかつては誰もが持ち、そして子供たちがいずれ経験するであろう”青春時代”のあのままならなさ、こっぱずかしさ、それらを包括したある種の美しさや楽しさの追体験だったのではないか。

男女様々な人物が入り乱れ、勘違いや衝突、惚れた腫れたの騒動を繰り返す物語構造は一見古典的だが、そのキャラ配置は主人公を太陽系の中心に据えたようないわゆるハーレム型ではなく、複数のメインキャラが互いに一方通行の分子運動的乱反射を繰り広げるというかなり複雑な物語構造となっており、それら登場人物達もそれぞれ個性的なキャラを持つ一方で安易な属性化には収まりきらない適度なキナ臭さも持っており、そういう部分から湧き出る叙情性が本作の大きな魅力だった。バカバカしい話が多い一方でそういうビルドゥンクロマンス的魅力もたたえていたのである。

特に自分が本作で気に入っていたのは、登場人物の多くが所属する2ーCのクラスが、それこそ連載開始当初は誰も見知った者がいないような状態で始まった(当然だが)のが、連載を経て以前は背景の一モブキャラに過ぎなかったような奴らに次第に人格的肉付けが成されていき、最終的に男女問わずみんな愛すべき見知った友人達のようになっていった点である。それこそクラス替えで初顔あわせた生徒達が一年後にはクラスメイト同士の連帯感で結ばれるかのようなこの作劇には、作者の優れた才能をかいま見ることができたし、こういう部分こそ近年の他のラブコメ作品にはあまり見られなかった本作の大きな魅力がったのだ。
塚本姉妹や播磨や沢近といったメインキャラだけでなく、こういうクラスの雰囲気そのものを好きになれるかどうかが本作を気に入るかどうかの分岐点ともなるだろう。

何度も言うように洗練された作品ではないけれど、それでも学園ラブコメ漫画というジャンルにおいて特異な地位を占める作品となっかことは間違いない。そんな本作を自分は密かに「ラブコメ大菩薩峠」とあだ名して呼んでいる。
ああ、ただ、作中不自然なほど触れられなかった、主人公の塚本姉妹の家庭事情(広い家に高校生の姉妹二人だけで住んでいる)をもうちょっと詳しく描いてくれれば、というのが最後の心残りである。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-01-27 00:03:01] [修正:2010-01-27 00:19:52] [このレビューのURL]