「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

10点 水域

 前作『蟲師』で和風ファンタジーの新たな地平を切り開き、鮮烈な印象を与えてくれた漆原友紀が趣向を変えて挑んだ作品がこの『水域』だ。『蟲師』との違いは舞台が現代日本である点、主人公が異能の力を持たない普通の少女である点、1話完結式の奇談集では無く、連続性のあるストーリーの単行本2巻分の中編である点など様々にあるが、独特の茫洋とした淡い描線や空気感、歴史的な古層を感じさせる豊穣な物語性、日本の原風景としての「山里」への愛着、自然への畏敬の念などの根本的な部分での作者のこだわりは共通していたため、前作と変わらず大いに味わい深く読むことができた。
 本作が作品単体としても素晴らしい傑作である事は疑いなかったが、いかんせん前作『蟲師』の比類ない奇想に圧倒された身としては多少の物足りなさを感じた事も事実で、10点では無く9点くらいが妥当であろうと思っていた。ところが、非常に不幸な出来事ではあったが忘れもしない3月11日のあの日を経て、これまでは実感の希薄だった「もどるべき故郷の喪失」という本作で描かれた主題が決して絵空事でない事を否応なしに思い知らされ、考えを改めた。
 本作は、今だからこそ多くの人々に読まれるべき作品であり、またこれからも読み継がれていくべきであると強く信じる。

 物語のフォーマットとしては、読者の郷愁を誘う祖父母の村を舞台にした都会っ子少女のひと夏の冒険を描く「ぼくのなつやすみ」のようなものであり、そこにちょこっとファンタジー要素をちりばめたりして最終的には「家族の絆」をテーマとした作品という事が出来る。何だか非常にありふれたジュブナイルものに思えてくるかも知れないがそこはさすがの漆原友紀、優れたストーリーテリングと味わい深いにも程がある描写でそんな凡庸さなど微塵も感じさせない。
 異常気象で猛暑日が続きダムの渇水すら囁かれるそんな夏休みのある一日、水泳部に所属する女子中学生の主人公千波はランニングの最中に熱中症で昏倒する。
 目覚めると周囲の景色は全く様相を変えていた。止まない雨、人影のない山里、記憶の水脈の彼方に繋がる、遠い郷愁を呼び起こす山村で彼女の出会う少年と老人。聞けば他の村人達はみなどこかに行ってしまったと言うのだが。
 渇水にむせ現世と夢の向こうにある雨止まぬ山里。この水面で隔てられたような彼岸と此岸を往還しながら、物語は時間軸すら自在に前後させつつ、とあるに山里に抱かれて育ち結ばれ、そして山里を捨てたとある家族の3世代に渡る別離と再会の物語を紡ぎだす。更にそこに村の開村伝説である「龍神さま」をめぐる伝説や村人達の様々な人間模様などが重層的に描写され、中盤に明らかとなる夢のなかの山里をめぐる真相。千波が往還した山里こそ、彼女の祖父母と母親が生まれ育ち、そして都市の利便のための水源となるべくダムの湖底へと沈んでいった今は無きふるさとなのだった。異常渇水によってダムが干上がり、湖底に沈んだかつての山里の姿が再び白日のものとなった時……。多くの記憶と想いの水脈が繋がりそして去っていく美しくも儚い結末。

 人工美の象徴としてのダム湖、その水域に散じて集まる人々の想い、天と地をつなぎ人と自然をつなぐ雨水の化身としての龍神。日本は水に恵まれた国であり、それゆえに水をめぐる特異な自然観を発達させてきた国でもあるが、本作ではダムという現代的な切り口から、水をめぐる幻想譚として非常に豊かな読み応えのある作品に仕上がった。それだけでなく、「ダムに沈んだ村」という(やや使い古された題材ではあるが)故郷喪失の遣る瀬無さも加わる事で、単なるファンタジーの域を超え現代的なテーマも合わせ持つ広く多くの読者に読まれるべき作品になっている。

 程度の違いはあれど、近現代の日本の歩みは古くからの地域共同体を破壊する事で進展してきたし、その流れを止める事はおそらく出来ないだろう。本作のラストも3世代の家族の再会を描くハッピーエンドでありながら、故郷の喪失という現実からは逃れられないほろ苦さに満ちている。そしてあの忘れ難い3月11日以降、震災と原発事故により本作で描かれたような故郷喪失の悲しみは広く多くの人々の間で共有される事となってしまった。建物やインフラなどの物理的損壊だけでなく、地域に根ざして生きる人々の営みとそれらを育んできた自然そのものがかつてない規模で破壊されてしまった。

 まことに不幸な事ではあったけれど、だからこそ、今だからこそ本作は多くの人々に読まれ読み継がれるべきなのだと改めて強く思う。失うことと忘却する事は、決して同じではない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-04-28 01:52:12] [修正:2011-05-15 18:14:29] [このレビューのURL]

10点 蟲師

 一般的な生物の体系から遠く離れた原初の生命群「蟲」、人や自然にそれらが及ぼす超自然的で奇怪な現象の数々。本作『蟲師』は、江戸と明治のあわいに位置する架空の時代の日本・近代のちょっと前の日本を舞台に、それら蟲の及ぼす怪異から人々を守り逃がす事を生業とする「蟲師」ギンコを主人公とする奇談集である。

 非情に大雑把に物語の基本を説明するとこのようになるのだが、実際にはとにかくどう分類するべきか悩ましい作品でもある。土俗的な日本風の世界観で超自然的な怪異を描くという意味では『ゲゲゲの鬼太郎』や諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズのようでもあるし、主人公のプロフェッショナルっぷりと深い思索性は『ブラックジャック』的だ。時々見られる人情噺やユーモアや説話性などは『まんが日本昔話』のようなお伽噺を彷彿とさせ、一転してしばしば登場するダークな話にはサイコホラーやミステリの趣すら漂う。その独特の画風と世界観から、とりあえずそういう雰囲気を押し出した“雰囲気マンガ”という評もある。

 古来より東洋の人々が獣や鳥とも植物ともつかぬ下等な、しかし多様な生物相を「蟲」として捉えてきた事と同じように、本作もまた多様な読まれ方のできる作品である。上にあげたどのジャンルにも分類可能であり、そしてそれら全てを包括してなお捉えきれない豊饒な何かでもあるのだ。椀一杯の海水・一塊の土に宿る無数の生命のように。

 正直に言って最初の数話の段階では、作者はこの魅力的なモチーフを持てあましていたように感じた。絵や設定は魅力的で物語も独特だったが、そういう特異な雰囲気を醸し出す事ばかりに専心している感は否めず、いまいち物語に深く没入しきれないでいた。そのままいけば、まぁちょっと独特な個性のあるただの雰囲気マンガで終わったかもしれない。

 しかし2巻収録の名篇「やまねむる」を誌上で読み、静かな静かな感動を味わったのをきっかけに、回を追うごとに本作に引き込まれていき、そしてその後確信した。本作は確かにファンタジーだが、その背景には歴史的・土俗的・原風景的なしっかりとした土台がある事を。実に様々なものの“あわい”に出現した稀なる名作であることを。

 白とも黒ともつかない微妙なあわいの上に本作は奇跡のように鎮座している。そこからにじみ出てくるのは比類のない豊饒な世界の息吹だ。そしてこの白と黒の間の灰色の世界のあり様は、かつて我々のご先祖が抱いていた自然観にも通じるものがあり、歴史的な記憶のにおいさえ漂わす。キャラクターデザインなどは泥臭さを払拭してこぎれいではあるが、作中登場する有名無名の人々の生きざまや様々な蟲のもたらす怪異には古い伝統や風習(美しいものばかりではない)や伝承に着想を得たものが多く、単純な善悪論などでは捉えきれぬものも多い。ただ得体の知れない余韻のみを残す話もある。

 作画表現にしても淡い色彩やペンによる点描を駆使した淡泊ながらも濃密な作画がそういう雰囲気を見事に表現。特に山霧・海霧によって天地の境界すら曖昧になったような海や山里の描写は強烈な印象を与える。作品のテーマ表現的にも、現実の自然描写としても見事と言う他無い。

 何より圧巻なのが種々の蟲の描写だ。本作の根幹をなす存在である蟲は、生命の最も原初的な場所に位置するものと捉えられ、それらが引き起こす怪現象はまさしく幽霊や妖怪や精霊によるもののように描かれる。
 …ここまでなら普通の妖怪モノの一変異種だが、本作の凄いところはそんな蟲の描写を、顕微鏡で観察される原生生物や菌類のような姿で表現している点だ。ここには単なるファンタジーに留まらない近代的な視点も導入されている。
 第1話でギンコは生物を動物や植物など5つに大別し、それらを五本指になぞらえて蟲とは何かを説明する。一般的な生物が五本の指なら、蟲とはそれらが一つにたばさって更に腕をさかのぼった先の心臓の部分にある存在というたとえだが、この語り口一つにしても、ファンタジーの文脈だけでなく博物学者ダーウィンの進化系統樹や五界説などの生物分類学的な見地から解釈しても面白いものになっている。こういうところにも蟲師のユニークさは現れている。

 そして、そんな本作の立ち位置をもっとも雄弁に物語るのが主人公である漂泊の蟲師「ギンコ」のキャラクターデザインだ。少年時代に経験した蟲との遭遇による怪異の影響で右目を失い、残った左目は緑に、髪は真っ白に染まったこの異様な人物は、どこか鬼太郎やブラックジャックを思わせる風貌をしている。そして「江戸と明治の間の架空の時代」という設定のため、周りのキャラ(大半は貧しい農民や漁民)がそろって和装の中、ほぼギンコだけが洋装なのである。この世界においては、ギンコは(どちらかと言えば)我々読者の住む近代的世界に近い立ち位置におり、他とは一線を画した屹立した存在として表現されるが、同時にそれは物語内において他の人々とは遂に全てを分かち合うことのできない孤独な異端者である事の表れでもある。洋服を着た彼自身もまた人々からすれば怪異なのだが、そんな彼が主人公であるからこそ、我々は既に遠い世界となってしまった郷愁の彼方の古の世界と邂逅できる。ギンコは蟲(≒自然)と人のあわいを取り持つ存在であり作品と読者のあわいに立つ存在でもある。
 作者いわく、ギンコには放浪の民族学者「宮本常一」や博物学者「南方熊楠」などの実在の人物が投影されているそうだが、共に民俗学や博物学(生物学)といった近代的な学問を用いつつも、日本の土俗的な世界へ深く分け入って行った人物として知られている。そういう周縁部分にも、本作の持つ豊饒な読後感の一端が垣間見える。

 自然と人間、生と死、有機と無機、人情と世間、一般と個別、土着と普遍、海と大地、大地と空、海と空、いにしえと近代、人為と天為、現実と奇想、生きることの美しさと、そして残酷さ。
 …これら相反する諸要素の数々は、本作では不思議なバランスの上に混交を遂げる。“調和”というほど大袈裟では無く、“混沌”というほど荒削りでも無い。ただただ奇跡のようなあわいの美しさ。こういう作品を漫画として読む事が出来る事は、本当にありがたいというしかない。漫画もまた、絵と文字のあわいに生まれた蟲だからなのだろう。

ナイスレビュー: 5

[投稿:2010-09-30 23:01:34] [修正:2010-10-11 20:20:07] [このレビューのURL]

10点 シグルイ

「残酷無惨時代劇」と自ら称するだけあり、比類のない残虐描写で魅せる時代劇漫画である。まるで豆腐や野菜でも切るかのように目が、鼻が、耳が、四肢がちぎれ飛び、血しぶきは言うに及ばず腸管や汚物までもがぶちまけられるその画の迫力は読者を選ぶ。

しかし、この漫画が真に”残酷”である理由は、何も上述のような分かりやすい残酷描写の為だけではない。登場人物達がみな哀切なる情念に突き動かされるように封建制度下の武家社会という無明の長夜をさまよい、しかし等しく思い遂げられる事なく「死」という運命に狂気に身をやつしながらなだれ込んでいく様が、何よりも残酷なのだ。

この漫画の主なキャラクター達はみなどこか常軌を逸した狂気を抱えているが、彼ら彼女らの抱く思いそのものは比較的現代人にも理解しやすいものばかりである。立身出世をしたい。愛する人と沿い遂げたい。主に忠義を尽くしたい。自分の後継者を育てたい。侍として、強くなりたい…。この異様な物語は、そんな普遍的な思いによって紡がれているのだ。
しかし、彼らがそんな願いを叶えるために、情念に身をやつし、自らを鍛え上げれば上げるほど、人間として大切な何かを欠損していく。岩本虎眼を筆頭に、本作で活躍する剣士の多くはみな心か体かのどちらか(もしくは両方)を欠損して人ではない何かに成り果てる。そうまでして得た強さでさえも、一太刀のもとに斬り伏せられれば後には醜い肉塊が残るのみ。思いは遂げられず、死に行くのみ。

これを残酷と言わずして何を残酷と言おう。この漫画が恐ろしい激情をはらみつつも、全体的に洗練されて静謐な印象すら受けるのは、どんな剣豪も死ねばただの肉塊という冷徹な事実を提示し、仏教的な無常感に貫かれているからでもあろう。まるで西洋の解剖図譜のような写実的な残虐描写、過激な作画と相反するような淡々と冷徹なナレーションの挿入も、そんな無常感の醸成を助けている。作画と言葉がタッグを組んで、物語のテーマを見事に浮かび上がらせているのだ。本作がただの残虐描写のみを売りとした怪作に陥ることなく奥行きのある作品となっているのはそのためである。
また、その極端で過激な描写(主に顔)から、本作は一種のギャグ漫画としても楽しめるのも懐が広くてよい。まさに笑いと狂気は紙一重の好例である。

武士という階級が社会から消滅した後も、我々日本人は時代に応じて様々な形で武士道を解釈し続けてきた。ある時は時代錯誤で野蛮な因習として、またある時は世界に誇るべき美しい伝統として。
だが、本作に接し、そこで描かれる苛烈で異形で、しかしどこか美しい武士道の世界に触れたとき、そんな後世の解釈はどれも現代人の価値観に基づく都合の良い解釈に過ぎないのではという気すらしてきた。「シグルイ」の侍達は、みな我々とは近いようでどこか違う無明の世界に生きている。だが、それは確かに我々のご先祖が歩んできた世界でもあったのだ。
そう思わせてくれただけでも、この作品は俄然10点である。ぬふぅ。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2009-12-16 00:28:30] [修正:2009-12-16 01:47:31] [このレビューのURL]

【2014/8/10 例の騒動を受けて加筆あり】

(※猛烈なネタばれを含みます。作品解説の都合上とは言えいつにも増してゲームネタ多数のため注意ください。)

 冴えない庶民の少年と深窓の令嬢とのほのかな恋というよくある題材を扱ったラブコメ作品だが、特異なのはそんな二人の逢引の場が学校行事や部活動ではなく、ゲームセンター、カプコンの対戦格闘ゲーム「ストリートファイター2」の爆発的ヒットでアーケードシーンが非常な盛り上がりを見せていた90年代初頭の、あの頃のゲームセンター、この設定にまずヤラれた。
 作者は押切蓮介。『でろでろ』などの怪奇色を売りにしたホラーコメディで知られる人だが、自身のゲーム体験をノスタルジックに扱った作品もこれまでにいくつか上梓している。

 バブルの狂騒と湾岸戦争に日本と世界が揺れ動いた1991年、矢口ハルオは勉強もスポーツもからきしダメ、人より秀でているのはゲームの腕前だけという冴えない小学6年生の少年だった。ハルオ少年にとってゲームセンターはそんな己の存在意義そのものの証明する神聖なる場所だったのだが、ある日彼のそんな聖域は、異世界より降り立った一人の異邦人に蹂躙された(と本人は思い込んでいる)。
 異邦人の名は大野晶。ハルオとクラスこそ同じなものの、成績優秀容姿端麗、無口で何を考えているのか分からないお人形のような良家のお嬢様。ハルオなどとは住む世界の違うそんなお嬢様は、しかし常軌を逸した凄腕のゲーマーだった。スト2で最難キャラとされたザンギエフを易易と使いこなし対戦は連戦連勝、ダルシムの弱キックのみでCPU戦をクリアし、横スクロールアクションの傑作「ファイナルファイト」をやらせればコンマ数秒の精妙な操作を要求される“錬金”(アイテム取得時に高得点アイテムを出現させる技)を目押しで行うなど、無言無表情に次々と凄まじい腕前を見せつける晶に対し、当初は「ここはお前なんかくるべき世界じゃねーんだよ」と忌々しさを感じていたハルオだったが、そんな鬱憤は次第に「そもそも良家のお嬢様がどうしてゲーセンなんかに?」という疑問、そしクラスの他の誰も知らない煌めくようなアーケードゲーム体験を共有していくという連帯意識へと変わっていき、そして…。
 

 今も昔もゲームセンターで遊ぶのは楽しいものだが、昔と今で明らかに違うのは、ゲーム産業におけるアーケード業界の占める地位である。家庭用ゲーム機の性能が著しく向上し、また携帯電話を使ったソーシャルゲーム市場が急拡大を遂げる現在、ゲームセンターは昔と比べても安全できらびやかな老若男女(最近は特に老人)の社交場として機能してはいるが、ゲーム全体を揺るがすような革新的作品がアーケード業界から生まれる機会は明らかに減った感がある。
 かつてタイトーの「スペースインベーダー」(1977)、ナムコの「ゼビウス」(1983)、セガの「スペースハリアー」(1985)など様々な革新的作品が薄暗くヤニ臭いゲームセンターから生まれ人々を魅了してきた。ゲーセンのゲームはファミコンなど家庭用ゲーム機のそれと比べてもグラフィック・サウンド・過激さ・そして難易度いずれをも圧倒的に凌駕しており、ファミコンしか知らなかった自分自身初めてゲーセンに行った時それはそれは仰天したものである。特に本作でも多く描かれるスト2の影響力は凄まじく、アーケード・家庭用問わず“対戦格闘”というジャンルは90年代を通じて猛威を奮うこととなった。その他にも(1巻では描かれないが)3Dポリゴンを使用した「バーチャファイター」(1992)など、革新的技術の実験場の役目もアーケード業界は担っていたのだ。

 本作がゲーセンを舞台にしたラブコメとなっているのには、単なるマニア趣味の発露以上のものが感じられる。魑魅魍魎の跋扈するヘルでカオスなあの頃のゲーセンを賑わしていた高揚、狂騒、異質さ、背徳感、そして切なさ。それはいずれも確かにあの日々の初恋の味と重なる部分があるのだ。住む世界の異なる少年少女が、ゲームという共通言語(待ちガイル込み)を通じて心を通わせていく。家庭での躾教育が厳しくゲーム機なんか買ってもらえないお嬢様はゲーセンにそのはけ口を見出し、片や庶民の息子ながらPCエンジン(アーケードゲームの移植作多数)を所持する少年はゲームの腕前は敵わなくとも少女に様々なゲームの世界を指し示す。言葉はいらない、二人だけの一時はこうして紡がれていく。狂気の携帯ゲーム機PCエンジンGTの燃費は単三電池6本でおよそ3時間……。

 79年生まれの作者と自分の年齢が近いせいか、作品の雰囲気には本当に引き込まれる。また、怪奇マンガを多く描いてきた作者らしく二人を87年で時が止まった今は消滅したはずの場末のゲーセンに迷い込ませるというオカルト風味の話も挿入する事で世代的にカバーしにくい80年代中期のアーケードシーンの一端も描くなど、ゲームへの愛が強く感じられるのも良かった。そして何より心震わされたのは、1巻終盤に炸裂する圧倒的な切なさだ。今だからこそ、今であるからこそ、これには心震わされた。

 スト2の大ヒットに始まった90年代のアーケード業界も、次第にゲームの最先端の場からは後退していく。格闘ゲームブームが到来する一方で作品のマンネリ化も始まり、かつては性能的に格下だった家庭用ゲーム機の性能も向上、1998年セガがドリームキャストを発売する頃には家庭用ゲーム機の性能は下手なアーケードゲームのそれを上回るまでとなった。アーケードシーンを牽引してきたゲームメーカーの多くは吸収や合併で社名を変え、倒産したりゲーム業界から撤退したものも少なくない。(巻末のSPECIAL THANKS欄を見ると泣きたくなる…)

 1巻終盤、家庭の事情でアメリカに旅立つ晶をハルオは追う。今から見ると貧相なドット絵で描かれた無数のゲームキャラに背を押されるように勇気を奮い立たせ空港へと奔り、そして相変わらず無口無表情な晶を前にして、

「俺の予想だとこれからどんどんゲーセンは盛り上がってくるぞ。俺達が予想もつかないようなものがどんどん出てくると思うんだ!!」

 
 ………………………………………!
 今や遠い過去となったあの頃の高揚。この切なさは、たしかに初恋のそれそのものだ。

 2巻以降もハルオは90年代のアーケードシーンをバトル&サーキットしていくこととなるのだろう。その結末を、コインいっこと言わず何枚でも積み重ねて見届けていく所存である。作者には安駄婆に代わって心の底から「ありがたや」と言いたい。

 紛うことなきおっさんホイホイであり、若い読者にはあまりお薦めしにくいのが最大の欠点と言えば欠点だが、そんなことすらどうでもよくなるほど個人的に愛すべき作品となる予感に溢れている。きっと少年だったハルオは今でも日本のどこかのゲーセンでスパ4やダライアスバーストなんかを一人(二人?)で遊び狂っていることだろう。


【2014/8/10 以下加筆】

 既にwebニュース上などでかなり大々的に報じられているのでご存じの方も多いと思われるが、現在本作は存続の危機に立たされている。
 90年代のアーケードゲームシーンを題材とした本作には当然ながらカプコンのスト?をはじめ様々な実在のゲーム作品が描かれ、単行本巻末のSPECIAL THANKS欄を見るに当然ゲーム各社の許諾を得ての上だと思われていたのだが、なんと「餓狼伝説」や「サムライスピリッツ」「キングオブファイターズ」などの作品権を持つSNKプレイモア社の了解は得られていなかったらしく、著作権侵害の疑いにより発行元のスクウェア・エニックスが刑事告訴を受けるというとんでもない事態に至ってしまった。
 連載はどうにか継続の方向で調整中のようだが、事がスクエニ本社の家宅捜索にまで及ぶという状況下、既刊の単行本は自主回収が決定しており、作品の存在そのものが危ぶまれる状況になってしまった。決定していたアニメ化ももはや絶望的であろう。

 作者の押切蓮介が著作権交渉にどれほど関与していたかは知らないが、今回一番責められるべきはスクエニサイドであることは間違いない。通常は民事で争われることも多い著作権ビジネスに関わるトラブルが刑事告訴にまで及んだという事態そのものに本作の制作側のいい加減さ、SNKプレイモア側の怒り爆発っぷりが表れており、我々としては今後の展開をおとなしく見守り、スクエニ側が相応の制裁を受けることを甘受するより他はない。

 ところで、今回の騒動で一番ワリを食ったのは誰だろうか。

(著作権交渉を編集サイドに任せていたとすれば)ハシゴを降ろされた作者も被害者だろうし、そもそも自社が権利を持つキャラクター達を勝手に使われたSNKプレイモアも当然被害者である。そんな事情など知ったことではなく、素直に作品を楽しんでいた多くのファンも勿論そうだ。
 しかしそれ以上に自分が不憫に思うのは、矢口ハルオや大野晶など作中のキャラクター達の今後だ。

 漫画を愛する人ならだれでも実感できると思うが、漫画のキャラクターたちはみなそれぞれ作品内において確かに生きている。時に単なるフィクションを超えた存在感を放つことがある。90年代のアーケードシーンという自分にとっても身近な舞台背景を持つ本作においては、そんなキャラクター達の存在感は更にひとしおであった。

 ハルオや晶達だけじゃない。本作に登場する無数の往年のゲームキャラクター達。

 リックも、ダムドも、ラスプーチンも、ベガも、サブゼロも、ビックバイパーも、カラテカも、ビシャモンも、フォボスも、平安京エイリアンも、安駄婆も、そして何よりガイルとザンギエフが…。みな本作のもとでキャラクターとして確かな生命の輝きを放っていた。それは今回著作権侵害でスクエニを告訴したSNKプレイモアのキャラ達…不知火幻庵やユリ・サカザキらも例外ではなかったのだ。

 自分が何よりやりきれなく思うのが、作中のキャラ達の有り様とは全く違う次元の問題により、彼らの存在が全うできなくなることだ。
 厳然としたビジネスの世界の問題である以上、「善意のオマージュだから固いこと言わずに大目に見ろ」などとSNK側に要求するなど虫がよすぎる事は百も承知。だが、本作のやり方も間違いなくゲームやキャラクターの文化を守り受け継ぐという趣旨に沿うものではあった。そして、90年代のアーケードシーンを舞台とする以上、当時カプコンと人気を二分したSNKの存在を無視することもまた不可能だった。

 だからこそ必要な手続きを疎かにした制作サイドの不手際には唖然とさせられるし、今後本作の存立がどのような顛末を辿ろうと我々はそれを受け入れるしかないが、それでもコンマ1%の願いを込めて言いたい。

 ハルオよ、晶よ、小春よ、そしてあまたのゲームキャラ達よ、生きていてくれ!
 

 どんなカタチでも良い、何年かかろうと良い、コンティニューしてくれ!


ナイスレビュー: 5

[投稿:2012-02-26 23:04:51] [修正:2014-08-10 20:16:31] [このレビューのURL]

 松井優征先生復活記念。

「推理ファンでない人のほとんどは、犯人をカンで当てようとするそうです。………僕もそうします。(中略)……実はこれ………推理ものの皮をかぶった、単純娯楽漫画です。」

 これは本作『魔人探偵脳噛ネウロ』の記念すべき単行本第1巻に作者の松井優征が掲げた巻頭の辞である。実際、ネウロ第1話を立ち寄ったうどん屋に置いてあったジャンプでたまたま読んだ時の自分の第一印象も「これはミステリとしては色々反則すぎやしないか。」と決して芳しくはなかった。
 ミステリの醍醐味は、複雑に絡まった謎を少ない手がかりから鮮やかに解いていく知的興奮であり、犯人の動機や心情に迫る人間ドラマであるはずなのだが、このネウロときたら!何者かに父を惨殺され悲しみにくれる(食欲以外は)ごく普通の女子高生、桂木弥子の眼前にと突如出現した魔界生物、脳噛ネウロ。 「謎」を主食とし、より美味な謎を求めて地上へと出現したこの怪物は、人間界での活動のため弥子を隠れ蓑に実に傍若無人に“謎”を次々と解いていくのだが、その謎解きの方法が「魔界777ツ能力(どうぐ)」と総称される種々のチートな特殊能力に頼った実に強引なものでそこにはサスペンスとしての魅力はほぼ無かった。犯人にしても動機が色々おかしいイっちゃった連中ばっかりで人間ドラマとしての奥行きも感じられず、評価としてはせいぜい上等なネタ漫画、まぁジャンプで探偵モノやりゃこうなるわなぁ程度と高をくくっていた、くくっていたのである。

 それでも作品から溢れんばかりに発散される奇抜さ、毒気がどうにも心地よかったので気になって読み続けた所、徐々にネウロはその本質をあらわにし始めた。奇抜なネタ漫画としての体裁を最後まで貫き続ける一方で、実にジャンプ栄えする真ッ当な人間賛歌の物語へと作品が進化していった。思えば初期のあの異様さも毒気もブラックなギャグも、全てブラフ、周到なトリックだったんだろうか。
 
 この作品の探偵物としての大きな魅力と特徴は、魔人であるネウロと人間の少女桂木弥子との関係性である。昔からホームズとワトソン、明智小五郎と小林少年のように探偵が助手とコンビを組むことは珍しくはないが、ネウロと弥子の関係はとても探偵と助手という表現では括りきれない。(世間的には弥子が美少女探偵でネウロが助手ということになっている。)
 二人の関係はネウロ>弥子の圧倒的にサディスティックな主従関係であり、哀れ凡人少女の弥子は“謎”をおびき寄せる生き餌としてネウロにさんざんにこき使われる。ネウロは基本的に謎さえ解ければ(食えれば)後はどうでもよく、犯人の心情や動機にも一切興味を示さない。人間はあくまで自分に食料を提供するだけの釣り堀に過ぎず、弥子は謎を釣る餌に過ぎなかった。
 そんな二人の関係性に次第に変化が生じ始める。人間界の事情は思いの外複雑で、ネウロはやがて人間を知らぬことには解けぬ謎もあることを理解し始める。下僕の弥子はネウロのような明晰な頭脳も超能力も持たないが、人の心情を理解し、思いを致すというネウロには決して真似の出来ない事ができるのだ。こうして主人と下僕であった二人の関係性にドラマチックな変化が生じ、少女の成長や人間存在への関心といったテーマを描き得る振り幅が生まれ、思った以上にドラマに奥行きが与えられ始めた。相変わらずぶっ飛んだ犯人達の犯行動機にも、現代社会への作者なりの皮肉や風刺がうまく表現されるようになり、単なるネタを超えた味わいも付与され始めた。
 思えば謎解きを第一目的とし後は眼中に無く性格も悪いネウロは典型的な江戸川乱歩の明智小五郎型の探偵と言えるが、地に足の着いた行動で事件の因果、犯人の心情に迫り、理解する桂木弥子は横溝正史の金田一耕助型の探偵と言える。明智と金田一、いずれも日本ミステリ史上の二大巨頭だが、本作はタイプの異なる二人の名探偵があたかも共闘しているかのような魅力があるのだ。

 二人の関係性でもうひとつ興味深いのが、ネウロは魔人だが性別的にはオスであり人間体ではかなりイケメンなので普通なら弥子とくっつくのが常道だが、物語終盤では揺るぎない信頼関係で結ばれた二人の絆が、結局恋愛感情だったかどうかは最後までうまくはぐらかされた点だ。恐らく作者はそういう共依存的なベタベタした関係ではなく、成長や敬意に基づいた純粋な信頼関係を描きたかったのだろう。これは人間賛歌という作品のテーマとも相性がよく、また弥子を中心とした乙女ゲー的逆ハーレム(本作はタイプの異なる様々なイケメンが弥子に協力する)の妄想をかきたてる余地を残しており、やはりうまい。強烈にサディスティックでグロテスクな描写が多い割に女性ファンが多かったのも頷ける。

 先程からしきりに“人間賛歌”という言葉を挙げているが、このテーマ自体は漫画の世界では珍しくないありふれたもので、ジャンプに於いては本作にも多大な影響を与えたとおぼしき『ジョジョの奇妙な冒険』が人間賛歌を堂々とテーマとして掲げている。ジョジョには遠く及ばずとも、とりあえず愛とか友情とか正義とか信頼とかをキャラに語らせれば凡百の作品でもそれなりに様になる魔法のテーマ、それが人間賛歌だ。
 ネウロで興味深かったのが、その人間賛歌の料理の仕方だ。物語後半、作中のラスボスとなる“絶対悪”シックス率いる「新たなる血族」との死闘の中で顕になるのだが、ネウロにおける人間賛歌とは決して愛や正義といった聞こえの良い言葉だけでなく、ずるさや醜さといった人間の愚かさ・悪徳すら併呑したものだった。人は良心のみにて生くるにあらず、時には悪意も必要なのだという人間観、これは「痴愚神礼讃」以来の人文主義の流れを汲んだ骨太なもので、聞こえの良い上っ面をなぞっただけの言葉よりもはるかにしっくりくる。そもそも悪意がなければ謎は生まれず、謎がなければ世の中は面白くはならないのだから。
 ネウロがその描写のエキセントリックさとは裏腹に、不思議と読後感が爽やかだったのもそんな人間観に由来するのだろう。ネウロは、察しの良い読者なら途中から気づいていたが、決して犯人をサディスティックに虐めることはあっても自ら断罪し殺すことはなかった。犯人の多くは警察に引き渡され、神ならぬ人によって裁かれる。そこには倫理的な判断を下すのは最終的には人間でなければならぬという価値観があった。
 ネウロが作中唯一自ら完膚なきまでに殺した敵は、その強すぎる悪意ゆえに人ならざる存在と成り果て、人間のあらゆる可能性を潰す敵となった絶対悪シックスのみだった。このシックスはとにかく悪のためなら目的も手段も問わず悪をなすというある意味ミステリの構造そのものを破壊し、少年漫画史にも後世まで名を残すに違いないとんでもない大悪党で、もう殺す以外に解決の仕様がなかったのでこれには皆納得だろう。

 作中語られる“進化”に関する認識が少々単純すぎるとか、謎解きが謎解きになってないとかそもそも後半ミステリほとんどやってないとかゴシカァンとかアラは探そうと思えばいくらでも探せる作品でもあるが、構成の妙、演出の的確さ、テーマ設定や随所に見られる毒の効いた社会批評などの優れた現代性、そして何より“商品として責任を持って終わらせる”という使命をこれ以上ないほどに見事に果たしたジャンプ史上稀有な美しい仕上がり、どれをとってもお美事、お美事にござりまするという他無い。ネタ漫画としても、王道少年漫画としても一級品である。最近作者は新作『暗殺教室』で無事にジャンプに返り咲いたので、これを機会に未読の方もぜひご一読の程を。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2012-07-16 23:32:53] [修正:2012-07-17 01:01:03] [このレビューのURL]

 これまで多くの作品において文明社会崩壊後の荒廃した未来世界が描かれてきた。そこには無法の荒野、異形の生物、ロストテクノロジーと化した旧文明の遺産、そして群れをなしてヒャッハーする飢えたマッチョ兵士などなどがモチーフとして頻発してきたワケだが、今回紹介する『牙の旅商人』はこの類の作品としては久々に大ヒットを予感させる意欲作である。今最も続きが気になる漫画の一つだ。

 何らかの大災厄により現代文明が崩壊した後の遙か未来の世界、家族を野盗の群れにヒャッハーと惨殺され一人荒野で死を待つのみだった少年ソーナは謎めいた美女に命を拾われる。女の名はガラミィ。武器を満載した漆黒のゾンビ馬車を駆り、善悪問わず求める者に武器を売ることを生業とする武器商人ギルド最強の戦士。
 彼女は決して親切心のみから少年を救ったわけではなく、法治の及ばぬ荒野の掟を説き、私が命を拾った以上、対価を支払わぬ限りお前の命は私のものだと告げるのだ。

「汝に問う!!欲する武器に如何なる対価を支払うや?」

 このガラミィとソーナの主従契約によって運命は動き始めた。様々な国家や組織の思惑が交差し、クトゥルフ神話や吸血鬼など種々の幻想文学から材を拾った異形の怪物が跋扈し、旧文明の遺跡が過去の惨禍を謎めかせる果て無き大地。様々に魅力的なモチーフが少しずつ小出しされ、その世界の全貌はなかなかあらわにはならない。旧文明は如何にして滅んだのか?異形の神々は如何にして生まれたのか?そして何より、武器商人ガラミィの旅の目的とは?魅力的な作画により、様々な謎を自然な流れで少しずつ掘り起こしていく物語展開は圧巻である。

 物語展開でもう一つ注目したいのが、作中の随所において登場人物同士で取り交わされる様々な“契約”である。これは本作がただのファンタジーアクションでなく“商人”というモチーフを採用しているからなのだろう。
 冒頭のソーナの命とその対価の話に始まり、売買、護衛、雇用と物語の要所においては必ず何らかの契約がキャラ同士で結ばれる。逆に言えば主人公パーティもそれらの契約の賜物であり、安易な友情や愛情に拠った擬似家族では無いのだ。また、武器商人は善悪問わず対価を支払う者には武器を売るので、時にはそれが災いや破滅をもたらしうる事実も作中早々と描かれる。『ゴルゴ13』を思わせる乾いたモチーフに感じられるかも知れないが、無論それだけでは無い。

 どうも本作は、この“契約”というモチーフで『ジョジョの奇妙な冒険』のような人間讃歌を描こうとしているフシがあるのだ。

 契約に必要なのは何よりも売り手買い手双方の誠実さなのだが、この無法の世界においてそれらを愚直に人が守ろうとしていく様はそれだけで感動的なのであり、何より運命を主体的に切り開こうとする覚悟の表れとしても表現される。本作の物語展開は1巻後半の中編「ユガの市」以降ノンストップで次々訪れる危機また危機の連続活劇、セーブポイントが無く操作を誤れば即You diedの即死ゲームをスレスレで突破していくような快感があるのだが、それらの要所要所において登場人物は覚悟を込めた運命の選択として、種々の契約を交わす。これが物語においていいアクセントになっており、テーマ的にも広がりうる可能性を秘めているのだ。いずれ主人公一行は単なる所有や主従の関係を超えた絆で結ばれることになるのだろうが、そんな人間性のかがり火の火種は覚悟に基づく契約なのである。人間性を捧げよ!

 それと蛇足だが、帯文で三浦健太郎や萩原一至など画力に定評のある先生方が激賞しているように作画の迫力・美しさもともに申し分ないので、ますます満足度の高い作品に仕上がっている。単行本巻末に掲載される原作者七月鏡一のエッセイもややクサいが示唆に富んでいて読み応えがある。今後も楽しんで読んでいきたい。ヒャッハー。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2012-01-29 18:43:16] [修正:2012-01-30 01:18:35] [このレビューのURL]

 芸人、喜劇役者、そしてギャグ漫画家、世の中には“笑い”を売ることを生業とした特殊な身分の人々が存在するが、いくら売り物が笑いだからといって、売る側がヘラヘラ笑っていられるほど甘い業界ではいずれも無い事もまた事実である。芸人世界の厳しさは広く知られているし、喜劇役者は精神的負担から自殺する者も少なくなかったという。ギャグ漫画家の世界にせよ「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめのようにネタを出しつくして“壊れて”しまった漫画家の話なども枚挙に暇が無い。

 「日本の喜劇王」と呼ばれ戦前戦後に活躍した喜劇役者の榎本健一(エノケン)に、そういう“笑いを売る人々”の哀しい宿命を象徴するエピソードがある。舞台や映画では人々を笑わせ続けたエノケンも、私生活では苦難の絶えない日々を送り、自ら笑うことはほとんど無かったという。そんな彼を襲った最大の不幸は愛する息子に結核で先立たれた事だった。この時もエノケンは客の前では悲しいそぶりは見せまいとギャグに励んだが、彼の息子の死を知っている観客は「いいよエノケン…無理はするなよ」とちっとも笑ってくれなかったのだと言う。“笑いを売る人々”の哀しい宿命である。

 前置きは長くなったが、上野顕太郎による『さよならもいわずに』にも、そういう哀しい宿命が全体を通じてむせかえるほど伝わってくる。生半可な作品では無い。描く側も、読む側にとっても。

 「暇人漫画家」と呼ばれ知る人ぞ知る活躍を十数年続けてきたギャグ漫画家の上野顕太郎(ウエケン)は、『帽子男は眠れない』や『ひまあり』、『夜は千の眼を持つ』など一貫してギャグにこだわり続けてきた生粋のギャグ職人であった。爆発的大ヒットとは無縁のため生活も順風満帆ではなかったが、それでも愛する妻と娘に囲まれささやかながらも充実した濃い日々を送ってきた彼のもとに、突然その日はやってくる。元々心身ともに不安を抱えていた奥さんが、ウエケンが仕事部屋を行き来したわずか3時間ばかりの間に、心疾患によって帰らぬ人となったのだ。わずか3時間ばかりの間で…。本作は、最愛の妻と突然の永訣を余儀なくされた一介のギャグ漫画家の哀切きわまる思いと現実が交錯するセルフドキュメント漫画である。

 ウエケンの代表作の一つ『ひまあり』においても、この奥さんは主人公ウエケンにツッコミを入れたり罠にはめたりと名バイプレイヤーとして物語を彩っていた。そういう実績もあってファンにとっては氏の作品世界には欠かせない重要な人物となったわけだが、『ひまあり』の作中の描写や後書きにおいてもどうやら健康状態がすぐれないことは暗に示唆されていた。そんな悪い予感が、最悪の形で表出したのである。
 
 そしてウエケンはギャグ漫画の鬼才であると同時に超一級の漫画読みでもあった。彼の漫画には名作無名作問わず膨大な漫画的記憶が下敷きとなっており、たとえば彼の描いた『ゴルゴ13』と『一休さん』のコラ漫画などその出来の良さからネットで話題になったりもした。そんな膨大な経験値に裏打ちされた多様な演出スキルが、彼のギャグをこれまでは彩ってきたわけでが、本作ではそれらの演出スキルが、全て「妻を喪ったという現実」「それを受け止めきれない哀れな中年男の悲しみ」を一切の容赦なくあぶりだす。視点は上下し、世界は歪み、終いには溶解する。
 
 男は町をさまよい、道行く人々とすれちがいながら、

「何故あなたではなく……」

 と、他の誰でも無く最愛の妻を奪った天の非情を呪う。大袈裟である。傍から見れば「何をそこまで…」と思うほどに大袈裟な演出の数々である。普通の漫画でやれば半ばギャグとして処理されてしまうであろう。実際、ウエケンはこれまでそういう大袈裟演出で様々なギャグを彩ってきたのだから。普通にいけば、ラストで奥さんが棺桶から楳図タッチの表情で復活し「ホホホホホ」と首を激しく回転させながら笑ったりした事だろう。
 しかし、今回ばかりはそうではなかったのだ。これまでギャグとしてしか受け止められなかった演出が、本作では内臓を圧迫するような密度で読者に襲いかかるのだ。


 冒頭紹介した喜劇役者エノケンのエピソードには、更に胸糞悪いおまけがついている。息子の葬式の当日、エノケンの家の周りには多くの野次馬が集まった。いよいよ出棺となった時、ついに悲しみをこらえきれずにエノケンが嗚咽すると、野次馬達は「あのエノケンが泣いてやがらァ」と爆笑したのである。舞台では笑ってくれなかったにも関わらず…。宿命とはいえ、いささか残酷すぎる話ではある。

 不幸中の幸いというべきか、“笑いを売る”という点では共通しているが本人が直接観客の前に姿を現す必要の無いギャグ漫画家であったウエケンは、この残酷な仕打ちからは逃れる事が出来た。そして表現者の宿命であろうか、彼はこの最愛の妻の死という体験を漫画作品として描いてみたいと思うようになり、数年の時間を経て遂に執筆にこぎつけたのである。ギャグと紙一重の悲しみ、表現者の持つ業、それらが圧倒的な筆致で塗り込められたこの物語は、こうして誕生したのだ。こんな作品にも関わらず作者は途中にギャグを挟み、他漫画からのコラージュも怠らない。業である。
 ウエケンはおそらく今後もギャグを描き続ける事だろう。しかし、そこには確実にある種のペーソスもまた刻まれるようにもなるのだろう。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2010-08-30 00:51:54] [修正:2010-08-31 00:06:17] [このレビューのURL]

※ヘビケラの胴体並みに長いです。

「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし 失われし大地との絆をむすび、ついに人びとを青き清浄の地に導かん」
 
 アニメ映画史上の最高傑作のひとつとされる国民的作品『風の谷のナウシカ』。本作は宮崎駿本人によるその原作漫画である。アニメ公開より2年早い82年にアニメージュ誌上で連載開始されたが、宮崎駿がアニメ作家としての名声を高め本業が多忙になる中たびたびの休載を挟み、アニメ公開から10年後の94年にようやくの完結をみたが、物語当初は共通していた本作の主要なテーマ「自然と人間の調和」を巡る描写は、劇場版とこの原作版では既にここでも多く語られているように相当に異なった様相を呈するに至った。

 劇場版ではナウシカは人々が長年到来を切望してきた神話的な救世主のように描かれており、物語の結末は冒頭掲げた予言が現実のものとなるという、美しく感動的で、しかし安易な予定調和ともとれるものだった。一方こちらの漫画原作版は、結末において“青き衣の予言”はある程度の整合性を持って表現こそされたが、ナウシカがもたらしたものは、約束された調和の未来ではなく、清浄と汚濁がないまぜとなったような果てしない混沌の未来であった。


 では両者が決定的に道を違えた分岐点はいつだろうかと考えると、おそらくナウシカが神聖皇帝ナムリスとの戦いの際に着用していた「青き衣」を破かれ、下着姿(しかもヘソ出し!)という色々な意味で衝撃的な姿をさらし、直後覚醒した巨神兵の”母親”になった瞬間ではないかと思う。
 時期的には丁度91年の中ごろの事だった。当時掲載誌アニメージュのアニメキャラ人気投票では、映画公開数年を経てもなおナウシカは1位の牙城を堅守し続けていたが、前年放送され大人気を博した庵野秀明監督(劇場版で巨神兵の作画を担当)の『不思議の海のナディア』のヘソ出しヒロイン「ナディア」にその人気が猛追されていたため、読者のパロディイラスト投稿コーナーでは「ナディアには負けられない!」とナウシカが困惑しながらヘソ出し姿に挑むイラストなんてものもあった。だが、ことはそんな単純なファンサービスだけの話ではなかったのである。いや、ファンサービスも無論あっただろうが、監督的に。


 ナウシカの着衣は、その世界において生態系の頂点に君臨するあらぶる自然の象徴でもある巨虫「王蟲」の体液で青く染まっていた。この青き衣こそが予言にも謳われた人と自然を結ぶ救世主、ナウシカのいたわりと友愛の象徴だったのだが、それが引き裂かれた時点で、我々はもう劇場版と同じような結末は望むべくもないことに気づくべきだったのかも知れぬ。その年の暮れ、かつて宮崎駿が大いに関心を寄せていたマルクス主義の正統を自認した巨大国家、ソビエト連邦は崩壊した。
 ナウシカは覚醒した旧文明の遺した生体兵器である巨神兵に対して母のように振る舞い、この忌まわしい巨人の母にすらなった。巨神兵は劇場版で描かれたような単なる兵器ではなく、旧文明が行き詰まりの果てに作り出した人格を持つ人造神であった事が発覚するが、“毒の光”を撒き散らすこの腐りかけた巨人をお供にナウシカが破壊神の如く大暴れするクライマックスからは、もはや多くの観客を魅了した女神のようなナウシカ像からは遠く離れたものとなり、それとは別種の凄みが貌をのぞかせ始めていた。

「愚かな奴だ たった一人で 世界を守ろうというのか ナウシカ…」
「腐った土鬼の地も土民共もみんなくれてやる 全部しょってはいずりまわって世界を救ってみせろ!!」

 ナウシカは決して完全な英雄ではない。若さゆえの甘さもあれば激情に駆られて暴走もする。しかしそれでもこの少女の持つ圧倒的な凄みは否定のしようがない。それは彼女が肉体的な強さや美しさは無論の事、小さな体でこの歪みきった世界の不良債権を一手に引き受けようとしてみせた事による部分が大きいのではないか。
 物語終盤、この世界の営みの真実を知ったナウシカは、苦悩し、自らの罪深さにおののきながらも安易な救済を拒否し、救いをエサに生命のコントロールを目論む傲慢な旧文明(≒破産管財人)と決別、巨神兵でもって破壊するという快挙(暴挙?)を成し遂げる。いわば世界の行く末を彼女がほぼ独断で裁定してしまった形である。
 「一介の少年少女の内面世界の有り様に委ねられる世界全体の行末」という構図は、ナウシカ以降、庵野秀明監督によるもう一つの巨神兵譚『新世紀エヴァンゲリオン』などから顕著になったセカイ系的作品群にも通底する意匠だが、改めて見てみると両者は似ているようでやはり違う。ナウシカの選択した結末は、決して一時の感情や自我の在り方のみから導かれたものではなく、ほとんどの人間の知りえぬ世界の深淵を前に血反吐を吐きながら浮かび上がらせたギリギリなのだった。

 つまりは「世界に対する無限責任」をナウシカは背負ったのである。神がかり的な宗教運動家や革命思想家、もしくは真性の狂人、そういうケッタイな人種にしか背負いえない大業をナウシカは背負ってみせたのだ。「破壊と慈悲の混沌」と称されたその覚悟の凄まじさは、ちょっと形容のしようが無い。
 エピローグの記述を見る限りでは人類はその後もしぶとく歴史を重ねたようだが、ナウシカのその後を巡る二つの年代記の記述の違いは、それぞれが彼女の「人性」と「神性」をあらわしているように見える。あくまでも穢れた人間としての矜持と生き様、それをゆるぎなく遂行する神のごとき強さ、完結までに10年超を要した時代の流れの中で作者の思想の変転そのままに混沌の度合いを深め、破綻しかけたこの作品を根性でひきずりあげたのもまたナウシカだったのだ。

「ナウシカ それはわたしとあなただけの秘密です」

 以上のように圧倒された結末だったが、駆け足で消化不良な感は拭えず、ラストで明かされる「青き衣」の秘密を巡る部分がどうしても小骨のように引っかかるため、ここはあえて9点に留める。他にも世界観設定や細部のデザイン、戦闘シーンの拘りやキャラの魅力、食事シーンの扱いなどなど語り残した事は多いが、ひとまずここで締める事とする。 おわり

 

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-07-20 01:14:20] [修正:2010-07-21 23:15:42] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

宗教をネタにしたギャグ漫画、というと一般的に連想されるのは、新聞などに掲載されるような風刺漫画のたぐいだろう。以前もヨーロッパの新聞がイスラム原理主義を風刺した漫画を掲載して一騒動あったことも記憶に新しい。
しかし本作「聖☆おにいさん」はまったく新しいコロンブスの卵的発想から誕生した宗教ギャグ漫画である。何より設定がすごい。かの聖人であるブッダとイエスがたまのバカンスを下界で過ごそうと東京は立川のアパートにルームシェアするというのだから。
二人ともスラリと長身でジーンズにTシャツ(それも「スジャータ」だの「ジーザス」だのと書かれたネタTシャツ、しかもブッダお手製)を身にまとったイマドキのちょっとダメそうな若者スタイルで毎日毎日観光したり公園で遊んだりブログの更新にいそしんだり、と実に脱力気味で楽しげな毎日を過ごしている。しかしながらもとが聖人のため、ついつい勢いあまったり不可抗力から奇跡を起こしちゃったり、とそんなのどかなドタバタがギャグとなっているのである。

この漫画においてはブッダもイエスも実におおらかな萌えキャラと化している。聖人を萌えキャラにするなんて日本ならではだろう。この漫画の舞台が現代の日本なのも偶然ではない。
日本は「無宗教」といわれて久しいが、同じ無宗教でも欧米のそれと日本のそれは意味合いがかなり違う。
欧米諸国などにおける無宗教という立場は、宗教の徹底的な否定を意味する。たとえば政教分離の考えを徹底しているフランスでは、学校などで宗教的な教育や行事を行うことを完全に禁止している。
ところが日本における無宗教とは、正月にはお寺に初詣をし、お祭りではおみこしを担ぎ、クリスマスにはケーキを食べるという悪く言えばいい加減で、よく言えば大らかなものなのだ。作中でブッダもイエスも上記の行事をすべてこなしている!(イエスはクリスマスが自身の誕生日であることに当初気づいていなかった)
興味深いのはそんな聖人二人も、アパートの大家のおばさんにだけは頭があがらない点だ。大家のおばさんは当然二人が聖人であることに気づいていない日本的な世間・常識を象徴するキャラで、この構図からはいろいろ考えさせられる部分も多い。

作者はおそらく仏教もキリスト教もどちらも熱心に信仰しているわけではないのだろうが、作中のギャグには両宗教の教義や伝説にまつわるネタによるものが多く、この漫画のギャグを理解するうえでは多少の予備知識が要求される。決して対象をおろそかにはせず、むしろ萌え化するほどいつくしむこの漫画のあり方からは、「信じる」or「信じない」の単純な二者択一を超えた何かまで感じられる。

この漫画が日本で生まれ、日本を舞台にしているのは決して偶然ではなかったのだ。そんな奇跡にひとまず感謝しつつ、本作は楽しみたい。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2008-09-13 15:59:25] [修正:2008-09-13 15:59:25] [このレビューのURL]

江戸川乱歩の小説はこれまでも子供向けの「少年探偵団」シリーズから大人向けのエログロ猟奇路線の作品まで、幾度となく映画化や漫画化、ドラマ化などがなされてきた。しかし、それらの乱歩の作品群でも、本作「パノラマ島綺譚」は傑作の呼び声は高かったがなかなか映像化などの為されなかった作品である。(舞台劇になったことはあるらしい)
本作の肝はミステリーなどよりも、主人公が莫大な富に物を言わせて孤島に建造した「理想郷」の景観描写にこそ重点が置かれており、そのスケールの巨大さゆえに半端な予算ではまず映像化は困難なことが理由の一つに挙げられよう。しかしながら、原作小説を読んだ時からこの大パノラマの如き理想郷を、文章から想像するだけでなく一度は実際の”画”として見てみたい、という欲求は常にあった。ハリウッドのティム・バートン監督とかなら映像化できるかも知れないが…。

そんな時に書店で何の予備知識も無しにこの漫画版の「パノラマ島綺譚」を発見した。しかも作画を担ったのは大正昭和風のレトロな猟奇趣味の絵柄で定評のある漫画界きっての猟奇王、丸尾末広というではないか!な、なんたる完璧な組み合わせ。これまでこのタッグの作品が発行されなかったのが不思議なくらいだ。心の中で「キタコレ」と叫んでしまった。

丸尾末広はこちらの期待以上の素晴らしい仕事をしていた。映画や舞台と違い、漫画は紙とペンさえあればどんな巨大なスケールの物語だって表現できる可能性がある。しかし、この「パノラマ島綺譚」の真の主役であるパノラマ島は、物語主人公の歪んだ美意識の結晶としての禍々しい魅力を読者にあたえなければならないため、並の表現力では描写は困難だ。しかし丸尾は原作の表現をいちいち忠実に再現しつつ、そこにさらにバロックやルネサンスス芸術、近世ヨーロッパのグロッタ趣味などの意匠を盛り込んで見事にパノラマ島を”画”として浮上させた。
これまではそのグロテスクさ、猟奇性が強調されがちだった丸尾末広の描線だが、本作ではそこにさらに谷口ジローの絵柄を思わせる透明な精緻さが加わっており、それがまた原作との相性が抜群だ。乱歩の小説は書いてある内容はとんでもなく変態的でも、文章自体は簡潔明快で読みやすいため、この絵柄もそんな雰囲気をよく表現している。

さらに素晴らしいと思ったのが、作中に埋め込まれた様々な「時代」の刻印だ。大正天皇の崩御を伝える新聞や当時の街並・社会風俗の描写、ツムラの「中将湯」の絵看板、そして「ぼんやりとした不安」を抱いて自殺した同時代の大作家の芥川龍之介のことなど、原作には見受けられなかった当時の時代背景の表現にも力が注がれている。こうした下地作りが、物語後半のパノラマ島の非現実的な幻想世界への飛翔の効果を高めているのである。原作小説が書かれた戦前の当時と違い、我々はこの後に日本が戦争によって一度滅亡の淵に追い込まれることを知っている。そうであればこそ、芥川龍之介の自殺を作品に盛り込んだことにも意味は見えてくるし、このパノラマ島そのものがその後に始まる激動の時代を前にした一時のうたかたの夢であるかのような解釈も可能となる。これは、現代だからこそ可能な事であり、本作をあえて現代にこうして漫画として復活させる意義もまたそこに見えてくる。

こういうオリジナル要素のささやかな導入は人によっては余計に思えるかもしれないが、自分はこれを是としたい。本作は、古典と化した作品を現代によみがえらせる上での一つの理想形とも思える傑作であった。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2008-08-04 22:09:28] [修正:2008-08-04 22:09:28] [このレビューのURL]

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