「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

[ネタバレあり]

 英国人日本研究家として知られるバジル・ホール・チェンバレンは1905年(明治38年)の著書「日本事物誌」の序論にこのように記した。

「古い日本は死んで去ってしまった。そしてその代わりに若い日本の世の中になった。」

 本作「ふしぎの国のバード」の主人公イザベラ・バードが日本最果ての地を目指し旅立ったのが1878年(明治11年)であり、作中にも描かれる様々な今や失われた江戸期の幻影が当時はまだ息づいていたことを考えると、わずか20年足らずで一つの文明が死に絶えたということになる。その間に帝国憲法が発布され、治外法権も撤廃となり、そして多くの人々が血を流した日清日露の大戦争があった。

 主人公の英国人女性紀行作家イザベラ・バードは実在の人物で、本作も彼女の著書「日本奥地紀行」(1880年刊行)が原作となっている。明治期には多くの外国人が鎖国を解いたばかりの「神秘の国ニッポン」を訪れ、風景の美しさや伝統工芸の巧みさ、独特な風俗などを讃える文章を多く残し、それらは近年テレビ番組の一ジャンルと化した感もある日本スゴイ系コンテンツに引用されることも多い。

 英国人女性が日本の文化風俗に多大な関心を寄せる様を描く本作及びその原典も、見方によってはそれら日本スゴイ系コンテンツの一部と読めなくもない。実際に主人公バードは人力車夫や馬子など人々の素朴な親切さを讃え、日光東照宮の絢爛さに驚き、会津道の景色の美しさに魅せられる。
 一方で本作の大きなポイントは、それら賞賛だけでなく文明人が非文明化された地を旅する際につきものの「戸惑い」の部分も余さず描かれている点だ。しかもそれは「英国人から見た日本」という視点からだけでなく、「現代日本人から見た当時の日本」、滅び去ってしまった古い日本への我々現代人からの戸惑いとも重なるのである。

 今や姿を消した街中の様々な行商人、お歯黒を塗った女性、背中に立派な彫り物をし、寿命を削りながら奔り続ける人力車夫(江戸期は飛脚だった)、プライバシー概念のない野次馬趣味、低俗な酒宴の余興、老若男女混浴の露天風呂、不快害虫の巣と化した宿の一室、男根をかたどった村の守り神、庶民の貧困、貧困、貧困……

 日本は貧しかった。そして関所で区切られ他藩は他国であった時代の名残から、バードと同行の通訳・伊藤鶴吉も地方の珍奇な文化習俗に驚愕と嫌悪を示す。
 彼は同じ日本人の文化を「あのような恥知らずな風習」と蔑んだ。当時の日本人の志ある若者の多くは、日本を欧米諸国のような立派な文明国にしなければならないと考えていたため、母国の伝統に対して概して否定的だったという。

 そしてそれらのバード(そして読者)の戸惑いが頂点に達するのは、現時点では二巻終盤で描かれた会津の寒村の夜の一幕だろう。不潔な村で病に苦しむ子供に薬を与えたバードを頼り、彼女の宿に押し寄せる、皮膚も爛れたまるでゾンビのような村人の群れ。
(当時の日本人庶民の“皮膚病”事情については、バードに限らず多くの外国人旅行者も記録しているという)

 日本は、貧しかった。ちょっと我々の想像を超えるくらい貧しかった。そして頑張ってそれなりに豊かになった。その過程で一方、多くのものも捨てた。
 それら捨てさられた文明の記録として、「日本奥地紀行」はまことに価値の高い書物で、それを皮相的な日本スゴイ系コンテンツが溢れる現代にこうして漫画というメディアの力を通じて視覚的に楽しめるというのは大いに意義のあることである。
 バードは一旅行者にすぎないので、どうしても彼女の視線は他人事の旅行者目線にならざるを得ず、そこには無自覚な差別意識も免れない。それでもそういう視点からしか描かれ得ないものは確実にあり、現代の我々が死に去った時代を覗き見る上で最適の視点でもある。そして、彼女の視点は、あくまで優しい。

 作者の丁寧な描写力に支えられた意義ある良作といえる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2016-12-26 16:28:24] [修正:2016-12-27 04:35:16] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 この2015年を回顧すると、漫画業界にとっての重大トピックといえば、やはり水木しげるの訃報であった。享年93歳。
 故人もつい先日までマクドナルドに通うほど壮健であった為、もう100まで生きてもだれも驚かないと思っていたところの突然のこの訃報。戦後漫画の地平を切り開いた巨星がまた一人、十万億土の彼方に旅立ってしまった。

 水木作品は、扱うテーマが怪奇に幻想、戦記、歴史や人物伝と、やや通好みに偏った面があり、テレビアニメなどでマイルドな味付けがなされた鬼太郎や悪魔くんに親しんだ人は多くとも、原作となった漫画作品が(手塚治虫や藤子不二男らと比べると)現在においてはそれほど広く読まれているとは言い難い。
 一方で近年では、悲惨な戦場を体験した戦争の語り部としてマスコミなどでもよく取り上げられ、朝ドラの「ゲゲゲの女房」のヒットなどから水木本人の波乱万丈の人生ドラマにも注目が高まり、そのユニークな人間的魅力も広く知られるようになっていき、気がつけばまさに国民的作家となっていた。

 今回紹介する『ゲゲゲの家計簿』は、「ゲゲゲの女房」ヒット以降の水木しげるブームを受けるような形で11年から12年(89歳から90歳!)にビッグコミックで連載された、人気作家となる以前の不遇時代の水木しげるを描いた自伝漫画である。タイトルに家計簿とあるように、偶然発見された当時の家計簿の収支報告が頻繁に引用され、貸本漫画家として水木が貧乏暮しに喘いでいた頃の回想記となっている。

 内容的には他の作品でも既に描かれ世に知られたエピソード(腐りかけのバナナの話など)も多いため年季の入った水木ファンには新鮮味に欠ける部分も少なくないと思われるが、筋運びに無理もなくテンポよく読めるので(自分も含めて)水木作品初心者にもかなり読みやすい。また、ブレイク以前の紙芝居作家?貸本漫画家時代の話がメインを占めるため、“妖怪”以外の水木の仕事ぶりを知る上でも興味深いエピソードは少なくない。(少女マンガも描いていた事は本作で初めて知った。)
 ガロ編集長の長井勝一や水木作品の定番モブキャラとなった“メガネ出っ歯のサラリーマン”のモデルの桜井昌一の登場する後半には、いよいよ漫画が表現として新たなステージに突入していかんとしていた時代の空気や高揚感が感じられるのも良い。トキワ荘系の戦後漫画史とは違う、一般に日の目を見ることの少なかった漫画界の裏面、貸本漫画の世界から見たもう一つの『まんが道』である。

 水木しげるは手塚治虫らとは違い、漫画家そのものへのあこがれが先立っていたというよりも、生活の為に漫画家となったという側面が強い。
 昭和26年、東京では手塚が『鉄腕アトム』などで華々しく活躍をしていた頃、水木は神戸でアパート経営の傍ら、画力を活かし紙芝居作家として生計を立てていた。しかしアパート経営はじきに行き詰まり、紙芝居の方も新興の娯楽メディアである漫画、そしてテレビに圧され、業界も終焉を迎えつつある。
 紙芝居の終焉を看取った水木は上京し、貸本漫画家として食うや食わずの毎日を送る事となる。『墓場鬼太郎』や『河童の三平』などは一部の子供には面白がられるも、不気味さの為に大ヒットには至らない。戦記物、武芸物、ギャグ、果ては少女漫画にまで手を出し糊口をしのぐ水木。
 原稿料の遅滞は日常茶飯事で、貸本漫画業界そのものも大手出版社による週刊漫画誌の攻勢に圧され、紙芝居と同じく終焉を迎えようとしている。そんな中、後にゲゲゲの女房と呼ばれる生涯の伴侶(水木いわく「ばかに顔の長い女」)との結婚、女房の妊娠……。

「ぼくは貸本マンガの終焉と「鬼太郎」を重ねて考えていた。」

 物語の9割がたはこんな調子で逆境の日々、常人ならどうにかなってしまうだろう。
 しかし、ならない。水木夫婦は金策に困り絶望的になる事はあれ、それでもどうにか乗り切って行く。決して説教くさい美談のように大上段から描かれているわけではない。それでも不思議と胸を打つ。

「ぼくには悲愴感などなく、生きることへの自信があった。それは“絶対的に生かされる”という楽天的な信念のようなものだった。フンッ!!」

 この水木特有の天衣無縫な楽天性(そして諦観)を、後に評論家の呉智英は「朗らかなニヒリズム」と評した。

 相変わらず多くの読者は得られず生活も苦しいものの、一方で水木作品は好事家の目に留まるようになり、「ガロ」への掲載を通じてインテリや学生らにも読者を増やしつつあった。水木の好んで描く異形や土俗、歴史や幻想といったモチーフが漫画の主要なテーマとなりえることが次第に認知され始めたのだ。

 そして終盤、“金霊”を見た事がきっかけとなったのか講談社から読切の依頼がもたらされ、週刊誌デビュー作『テレビくん』の好評により、遂に日の目を見る事となった水木。プロダクションの設立と共にますます多忙となり、金廻りもよくなった事で、家計簿をつける必要もなくなり物語は後腐れもなしにぷつりと終わる。

 このように水木しげるの初期のキャリアを本作で振り返って興味深いのは、テレビと漫画の普及による紙芝居業界の終焉に立ち会った水木が、今度は漫画とテレビの力で国民的存在となっていったという奇縁だ。
 『テレビくん』はテレビの中に潜り込みCMの商品を好きに持ち帰る事ができるという不思議な力を持った少年の話だった。そして貸本時代にはマニア受けはすれど広く人気を得られなかった鬼太郎や悪魔くんにせよ、その後テレビアニメや特撮ドラマとなることで子供たちに広く受け入れられた。
 思えば水木作品というものは、紙芝居に始まり貸本、週刊誌漫画、絵物語、図鑑…、そしてアニメ、特撮、映画、ゲームと、現代の娯楽分野の多くをカバーしていたのである。
 そして水木の人生そのものも「のんのんばぁとオレ」や「ゲゲゲの女房」などのテレビドラマとなり、普段漫画を読まない層も含む多くの人達の共感を呼び、国民的存在となった。

 あらゆる点において、水木しげるは破格の人物だった。そんな水木の足跡を振り返る上でもかなりお手頃な作品なのでこのたびの訃報を機に水木ワールドに足を踏み入れようと言う方にもお勧めである。フハッ。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2015-12-31 02:36:35] [修正:2015-12-31 03:10:19] [このレビューのURL]

 スポーツや格闘技の世界では、世間では無名に近い新人が“怪物”としての才能を急速に開花させ、実力あるベテラン勢を次々に打ち破って一躍トップランナーに名乗り出るような番狂わせがしばしば発生する。先の大相撲9月場所における新入幕力士の逸ノ城の大関横綱を次々に破った大活躍などまさにそれであった。
 ただ逸ノ城の活躍が話題になったとは言え、相撲そのものの人気は昭和の時代や若貴ブームの頃と比べると確実に下がっており、特に若い世代の支持を広く集めるのはなかなか難しいジャンルである。少年漫画の世界ならばなおのこと。

 過去、ジャンプにおいては、小畑健による『力人伝説』に、つの丸による『ごっちゃんです!!』と、実力のある作家によって相撲漫画が試みられた事があり、いずれも水準以上の内容を持った佳作ではあったが、大きな人気を得るには至らず早々にジャンプシステムの土俵からはじき出されていった。(『大相撲刑事』のように悪い意味で妙に記憶に残る作品もあった。)
 近年では少年チャンピオンで『バチバチ』が好評を博し、続編と合わせて5年もの長期連載となったが、それでも『弱虫ペダル』みたいに世間一般で話題になるほどの大人気を得るには至らず、残念ながら知る人ぞ知る隠れた傑作で終わってしまった。

 その『バチバチ』がきっかけで相撲に興味を持ち、国技館の焼き鳥の旨さを知ることができた人間として、本作『火ノ丸相撲』がよりによって相撲漫画の鬼門とも言うべきジャンプで連載が始まった時は、嬉しさ反面強い不安を覚えたものだ。自分は応援するけど、多分子供たちや女性読者の人気は得られないだろうなぁ…と。

 第1話読了後、そんな不安感はかなり後退していた。なんらかの宿命を抱えた新入生が廃部寸前の相撲部にフラッと現れ、相撲部の苦境を救うべくその秘めたる実力を噛ませ犬のチンピラ相手に存分に披露するという導入の筋書きは、はっきり言って非常にありきたり。しかし、奇をてらわず基本を守り、その表現の地力の並々ならぬ高さを見せつける完成度は、“没個性のありきたり”を“王道的な横綱相撲”へと昇華させるだけの強度が感じられたのである。作者が少年誌初連載の新人である事を忘れさせるほどに。

 まだ連載が始まって日の浅い本作だが、現時点でその存在感は怪物的と言ってよい。相撲漫画が今どき受けるのかという当初の不安をよそに、『ONEPIECE』に代表される横綱級の人気作品が層厚くうごめくジャンプという過酷な土俵で、並み居る強豪作品相手に一歩も退かず堂々たる取り組みを魅せ続けており、男性ファンはもちろん女性ファンもそれなりに獲得している様子である。これには驚く一方で、とてもとても嬉しかった。

 本作が、相撲という一見少年誌読者には不人気なジャンルを扱いながらも人気を獲得できたのにはいくつか理由がある。そしてそれは結果的に相撲の魅力の再発掘にも繋がっていたように思われてならない。

 相撲は、ふんどしを締めたデブが押し合いへし合いとビジュアルの面で損をしている部分があるのは事実だが、シンプルなルール、短時間決着による展開の早さ、力と技と心理戦を併せ持った単純ながら奥深い攻防、と意外にバトル漫画映えする要素に富んでいたのだ。本作は相撲という競技の良さを活かすよう、試合展開は大ゴマを多用する迫力の画力を駆使する一方でモノローグによる心理描写も怠らず、そして無駄にダラダラと取り組みを長引かせない思い切りの良さで、とても高密度でテンポの良い作品となっている。

 この相撲というおもいっきり男臭い世界を舞台に、体格には恵まれずとも不屈の闘志とたゆまぬ努力で己を高め続けた主人公の潮火ノ丸の存在感を軸として、周囲の人間たちが次第に感化されて行くという構図は、これぞ「友情・努力・勝利」のジャンプイズムの高らかな再提示でもあった。そして、体格というハンデを背負った火ノ丸が、それでも勝利を貪欲に求め、横綱という頂を目指そうとするその強烈な反骨の精神。

「相撲の神様?そんなもんワシがぶん投げてやるわ!」
「何を笑っていやがる」

 不人気ジャンルで敢えて勝負に出た点も含め、近年のモードに真っ向から立ち向かうような覚悟ある反骨の姿勢に、一度ジャンプを離れた往年の読者も喝采を贈っているのであろう。

 あと、往年のジャンプらしい男臭さを全面に出す一方で、実は本作はかなり女性ファンの存在も意識した作品になっている気がする。作者の川田は女性人気の高かった藤巻忠俊の『黒子のバスケ』にもアシスタントとして関わった過去があるので、女性ファンの存在は無論意識したはずだ。
 鬼神の如き強さと歳相応の少年らしいあどけなさを兼ね備えた火ノ丸もそうだが、ガラの悪いチンピラだったくせに火ノ丸に感化されて以降強烈にデレた佑真(しかも意外と几帳面な性格で料理上手…)とか、あざとい、実にあざとい。
 相撲というのはビジュアル的に損をしている部分も多いが、ほぼ全裸で体格の良い男同士が組んずほぐれつ、という絵面は筋肉フェチの女性には結構くるものがあるかもしれない。
 こういう女性ファンの存在は男性読者から疎ましく思われる事も多いが、黒バス、テニプリは言うに及ばず、スラダン、キャプ翼、古くは『アストロ球団』の昔からジャンプのスポーツ漫画は女性ファンに支えられてきた面があるのは間違いないのだ。
 そんなある種の女性ファンの分身と言えるのが、本作に登場する数少ない女性キャラの一人、相撲雑誌記者、筋肉フェチで(変態)淑女の名塚さんだ。

「カワイイですねぇ~みんな初々しくて。高校生サイコー!タマラン!!」ハァハァ

(キャラの呼び名がユーマとかチヒロとかミツキとかケイとか妙に可愛かったり、関係者に筋肉フェチの女性がいたりとか、某水泳アニメを意識してるんだろうか。)

 本作は女性キャラの数は今のところそう多くはないものの、上述の名塚さんに佑真の妹でゲス系ヒロイン(そしてブラコン)のレイナ、と可愛くはないがどれもいい味が出ている。相撲漫画に女はいらないという意見もあるが、むしろこういう男臭い世界だからこそ女性キャラの存在は大切にしたい。

 『キャプテン翼』がサッカーを、『スラムダンク』がバスケを、『アイシールド21』がアメフトをそれぞれ盛り上げていったように、ジャンプのスポーツ系作品はそれまで大人気とは言いがたかった競技にスポットライトを当てて成功する事がままある。本作がきっかけになって相撲が盛り上がってくれたらそれにまさる喜びはない。この火ノ丸という怪物が今後どれだけジャンプ場所の番付を駆け上がっていくか、大きな期待を持って見守りたい。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2014-10-05 03:10:15] [修正:2014-10-06 22:47:03] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 以前、数年間だけではあった群馬県にほど近い北埼玉の某所に住んでいたことがある。当時はたいして意識することもなかったが、夏はうだるように暑く一転冬は吹雪に沈み、自転車に乗れば常に強烈な向かい風、食卓につけば味噌汁の代わりにすいとんが供され、そして、謎の「焼きまんじゅう」の看板…。今思えば、自分たちは知らず知らずのうちにグンマの洗礼にさらされていたのだ。

 近年、アニメや漫画とのコラボレーションによる町おこしの試みが地方自治体の間で盛んになっている。埼玉県鷲宮町の『らき☆すた』や茨城大洗町の『ガールズアンドパンツァー』のような華々しい成功例もあれば、千葉県鴨川市の『輪廻のラグランジュ』や岡山県倉敷市の『めくりめくる』のように大して話題にもならずに忘れ去られる事例も多い。(群馬県も地味に『日常』や『魔法少女まどか・マギカ』の舞台になっていたりもした。)
 勿論、作品を通じて特色ある地方文化の魅力が発信され、地域活性化につながるならばそれに越したことはない。
 が、以前『めくりめくる』をやや批判的にレビューした時から気になっていたのだが、これらの地方自治体と漫画・アニメ作品が公式のコラボを行う際に感じるあの歯が浮くような違和感。地域の文化的厚みや歴史性を軽視し、垢抜けた美少女やイケメンを絵になるような風景にねじ込み、機械的に土地の名物をささっと紹介すればそれでよしとするあの安易さ。生活と切り離された絵面。観光誘致が目的の一つである以上致し方ない部分はあるにせよ、これら地域コラボ作品がその地域にほんとうの意味で根ざした作品となる事は稀である。

 そういう経緯もあり、この『お前はまだグンマを知らない』にはかなり期待していた。
 まず表紙がいい。通常この類の作品のキービジュアルは地方の絵になる風景(いわゆる聖地)を背景に美少女などを配置するパターンが多いのだが、本作の場合は、恐怖と驚愕に顔を引きつらせる男子高校生…!
 本編の方も表紙のイメージを裏切ることはなく、チバ県からグンマ県に引っ越してきた平凡な男子高校生が、面白おかしく(過激でバイオレンスに)誇張されたグンマ文化の洗礼にさらされ始終顔をひきつらせまくる内容となっている。

曰くグンマ県民以外が焼きまんじゅうを食うとなんやかんやで死に至る。
曰くグンマ県民は戦車砲がぶっ放される自衛隊演習地で花見をする。
曰くグンマ県民とトチギ県民は戦争状態にある。
曰くグンマ県民は赤城おろしへの抵抗を通し大腿部が異形へと膨れ上がる etc

 いずれも、実在の群馬県の地域的な特色を問答無用に拡大解釈しネタ化させたものばかりで、そこには一般的な町おこしコラボ作品に目立つ、土地の生活から切り離された”風景”への執着は微塵もなく、かわりにバカさの中にも一端の地域の真実がかいま見える。
(作中のキャラがゃたらヤンキーじみた連中ばかりなのもそういう不都合(?)な真実の一端だったりする。)

 普通だったら、地元がこんな具合にネタ化されたら地元の人達はバカにしやがってと怒ったりもするかもしれないが、どうも群馬県民はそうでもないようだ。
 群馬県はご存知のようにネット上では「秘境グンマー」などとさんざんネタ県としていじられており、それが本作のような作品の成立背景ともなっているワケだが、群馬県民は怒るどころか県公認で藤岡弘を隊長に迎えた「群馬探検隊」を企画するなど、このグンマームーブメントを地域振興に活かそうとしているようである。そもそも作者の井田ヒロトも高崎在住のれっきとした群馬県民で、本作からも一周回った郷土愛が感じられるところもよい。
(同じネット上の県ネタでも「修羅の国 福岡」は色々シャレになっておらず地元も困惑しているようである。)

 地域ネタ作品のコンセプトとしては共感できる所も多い本作だったが、では漫画作品単体としての評価となると、残念ながら個人的には苦しい部分が多かった。
 グンマネタをハイテンションに演出することを心がけるあまり全体的にコマ割や作画が過剰演出に走りがちな反面、セリフ回しが説明口調でテンポは悪く総じて読みやすいとは言い難い。
 誇張されたグンマネタも、水沢うどんを立体機動よろしくぶん回す安直な『進撃の巨人』パロディなど滑っているとしか思えない寒い奴も多く、全体的に勢い任せ、ネタの洗練が足りていない印象を受けることが悔やまれる。

 それでも色々と変な可能性を感じる作品ではあるので、今後の作者の成長次第によっては繭を破っておカイコ様が飛び立つような奇跡が拝める日もくるかもしれない。心にググッと、グンマ県…!

ナイスレビュー: 1

[投稿:2014-09-04 23:49:35] [修正:2014-09-11 22:00:11] [このレビューのURL]

【2014/8/10 例の騒動を受けて加筆あり】

(※猛烈なネタばれを含みます。作品解説の都合上とは言えいつにも増してゲームネタ多数のため注意ください。)

 冴えない庶民の少年と深窓の令嬢とのほのかな恋というよくある題材を扱ったラブコメ作品だが、特異なのはそんな二人の逢引の場が学校行事や部活動ではなく、ゲームセンター、カプコンの対戦格闘ゲーム「ストリートファイター2」の爆発的ヒットでアーケードシーンが非常な盛り上がりを見せていた90年代初頭の、あの頃のゲームセンター、この設定にまずヤラれた。
 作者は押切蓮介。『でろでろ』などの怪奇色を売りにしたホラーコメディで知られる人だが、自身のゲーム体験をノスタルジックに扱った作品もこれまでにいくつか上梓している。

 バブルの狂騒と湾岸戦争に日本と世界が揺れ動いた1991年、矢口ハルオは勉強もスポーツもからきしダメ、人より秀でているのはゲームの腕前だけという冴えない小学6年生の少年だった。ハルオ少年にとってゲームセンターはそんな己の存在意義そのものの証明する神聖なる場所だったのだが、ある日彼のそんな聖域は、異世界より降り立った一人の異邦人に蹂躙された(と本人は思い込んでいる)。
 異邦人の名は大野晶。ハルオとクラスこそ同じなものの、成績優秀容姿端麗、無口で何を考えているのか分からないお人形のような良家のお嬢様。ハルオなどとは住む世界の違うそんなお嬢様は、しかし常軌を逸した凄腕のゲーマーだった。スト2で最難キャラとされたザンギエフを易易と使いこなし対戦は連戦連勝、ダルシムの弱キックのみでCPU戦をクリアし、横スクロールアクションの傑作「ファイナルファイト」をやらせればコンマ数秒の精妙な操作を要求される“錬金”(アイテム取得時に高得点アイテムを出現させる技)を目押しで行うなど、無言無表情に次々と凄まじい腕前を見せつける晶に対し、当初は「ここはお前なんかくるべき世界じゃねーんだよ」と忌々しさを感じていたハルオだったが、そんな鬱憤は次第に「そもそも良家のお嬢様がどうしてゲーセンなんかに?」という疑問、そしクラスの他の誰も知らない煌めくようなアーケードゲーム体験を共有していくという連帯意識へと変わっていき、そして…。
 

 今も昔もゲームセンターで遊ぶのは楽しいものだが、昔と今で明らかに違うのは、ゲーム産業におけるアーケード業界の占める地位である。家庭用ゲーム機の性能が著しく向上し、また携帯電話を使ったソーシャルゲーム市場が急拡大を遂げる現在、ゲームセンターは昔と比べても安全できらびやかな老若男女(最近は特に老人)の社交場として機能してはいるが、ゲーム全体を揺るがすような革新的作品がアーケード業界から生まれる機会は明らかに減った感がある。
 かつてタイトーの「スペースインベーダー」(1977)、ナムコの「ゼビウス」(1983)、セガの「スペースハリアー」(1985)など様々な革新的作品が薄暗くヤニ臭いゲームセンターから生まれ人々を魅了してきた。ゲーセンのゲームはファミコンなど家庭用ゲーム機のそれと比べてもグラフィック・サウンド・過激さ・そして難易度いずれをも圧倒的に凌駕しており、ファミコンしか知らなかった自分自身初めてゲーセンに行った時それはそれは仰天したものである。特に本作でも多く描かれるスト2の影響力は凄まじく、アーケード・家庭用問わず“対戦格闘”というジャンルは90年代を通じて猛威を奮うこととなった。その他にも(1巻では描かれないが)3Dポリゴンを使用した「バーチャファイター」(1992)など、革新的技術の実験場の役目もアーケード業界は担っていたのだ。

 本作がゲーセンを舞台にしたラブコメとなっているのには、単なるマニア趣味の発露以上のものが感じられる。魑魅魍魎の跋扈するヘルでカオスなあの頃のゲーセンを賑わしていた高揚、狂騒、異質さ、背徳感、そして切なさ。それはいずれも確かにあの日々の初恋の味と重なる部分があるのだ。住む世界の異なる少年少女が、ゲームという共通言語(待ちガイル込み)を通じて心を通わせていく。家庭での躾教育が厳しくゲーム機なんか買ってもらえないお嬢様はゲーセンにそのはけ口を見出し、片や庶民の息子ながらPCエンジン(アーケードゲームの移植作多数)を所持する少年はゲームの腕前は敵わなくとも少女に様々なゲームの世界を指し示す。言葉はいらない、二人だけの一時はこうして紡がれていく。狂気の携帯ゲーム機PCエンジンGTの燃費は単三電池6本でおよそ3時間……。

 79年生まれの作者と自分の年齢が近いせいか、作品の雰囲気には本当に引き込まれる。また、怪奇マンガを多く描いてきた作者らしく二人を87年で時が止まった今は消滅したはずの場末のゲーセンに迷い込ませるというオカルト風味の話も挿入する事で世代的にカバーしにくい80年代中期のアーケードシーンの一端も描くなど、ゲームへの愛が強く感じられるのも良かった。そして何より心震わされたのは、1巻終盤に炸裂する圧倒的な切なさだ。今だからこそ、今であるからこそ、これには心震わされた。

 スト2の大ヒットに始まった90年代のアーケード業界も、次第にゲームの最先端の場からは後退していく。格闘ゲームブームが到来する一方で作品のマンネリ化も始まり、かつては性能的に格下だった家庭用ゲーム機の性能も向上、1998年セガがドリームキャストを発売する頃には家庭用ゲーム機の性能は下手なアーケードゲームのそれを上回るまでとなった。アーケードシーンを牽引してきたゲームメーカーの多くは吸収や合併で社名を変え、倒産したりゲーム業界から撤退したものも少なくない。(巻末のSPECIAL THANKS欄を見ると泣きたくなる…)

 1巻終盤、家庭の事情でアメリカに旅立つ晶をハルオは追う。今から見ると貧相なドット絵で描かれた無数のゲームキャラに背を押されるように勇気を奮い立たせ空港へと奔り、そして相変わらず無口無表情な晶を前にして、

「俺の予想だとこれからどんどんゲーセンは盛り上がってくるぞ。俺達が予想もつかないようなものがどんどん出てくると思うんだ!!」

 
 ………………………………………!
 今や遠い過去となったあの頃の高揚。この切なさは、たしかに初恋のそれそのものだ。

 2巻以降もハルオは90年代のアーケードシーンをバトル&サーキットしていくこととなるのだろう。その結末を、コインいっこと言わず何枚でも積み重ねて見届けていく所存である。作者には安駄婆に代わって心の底から「ありがたや」と言いたい。

 紛うことなきおっさんホイホイであり、若い読者にはあまりお薦めしにくいのが最大の欠点と言えば欠点だが、そんなことすらどうでもよくなるほど個人的に愛すべき作品となる予感に溢れている。きっと少年だったハルオは今でも日本のどこかのゲーセンでスパ4やダライアスバーストなんかを一人(二人?)で遊び狂っていることだろう。


【2014/8/10 以下加筆】

 既にwebニュース上などでかなり大々的に報じられているのでご存じの方も多いと思われるが、現在本作は存続の危機に立たされている。
 90年代のアーケードゲームシーンを題材とした本作には当然ながらカプコンのスト?をはじめ様々な実在のゲーム作品が描かれ、単行本巻末のSPECIAL THANKS欄を見るに当然ゲーム各社の許諾を得ての上だと思われていたのだが、なんと「餓狼伝説」や「サムライスピリッツ」「キングオブファイターズ」などの作品権を持つSNKプレイモア社の了解は得られていなかったらしく、著作権侵害の疑いにより発行元のスクウェア・エニックスが刑事告訴を受けるというとんでもない事態に至ってしまった。
 連載はどうにか継続の方向で調整中のようだが、事がスクエニ本社の家宅捜索にまで及ぶという状況下、既刊の単行本は自主回収が決定しており、作品の存在そのものが危ぶまれる状況になってしまった。決定していたアニメ化ももはや絶望的であろう。

 作者の押切蓮介が著作権交渉にどれほど関与していたかは知らないが、今回一番責められるべきはスクエニサイドであることは間違いない。通常は民事で争われることも多い著作権ビジネスに関わるトラブルが刑事告訴にまで及んだという事態そのものに本作の制作側のいい加減さ、SNKプレイモア側の怒り爆発っぷりが表れており、我々としては今後の展開をおとなしく見守り、スクエニ側が相応の制裁を受けることを甘受するより他はない。

 ところで、今回の騒動で一番ワリを食ったのは誰だろうか。

(著作権交渉を編集サイドに任せていたとすれば)ハシゴを降ろされた作者も被害者だろうし、そもそも自社が権利を持つキャラクター達を勝手に使われたSNKプレイモアも当然被害者である。そんな事情など知ったことではなく、素直に作品を楽しんでいた多くのファンも勿論そうだ。
 しかしそれ以上に自分が不憫に思うのは、矢口ハルオや大野晶など作中のキャラクター達の今後だ。

 漫画を愛する人ならだれでも実感できると思うが、漫画のキャラクターたちはみなそれぞれ作品内において確かに生きている。時に単なるフィクションを超えた存在感を放つことがある。90年代のアーケードシーンという自分にとっても身近な舞台背景を持つ本作においては、そんなキャラクター達の存在感は更にひとしおであった。

 ハルオや晶達だけじゃない。本作に登場する無数の往年のゲームキャラクター達。

 リックも、ダムドも、ラスプーチンも、ベガも、サブゼロも、ビックバイパーも、カラテカも、ビシャモンも、フォボスも、平安京エイリアンも、安駄婆も、そして何よりガイルとザンギエフが…。みな本作のもとでキャラクターとして確かな生命の輝きを放っていた。それは今回著作権侵害でスクエニを告訴したSNKプレイモアのキャラ達…不知火幻庵やユリ・サカザキらも例外ではなかったのだ。

 自分が何よりやりきれなく思うのが、作中のキャラ達の有り様とは全く違う次元の問題により、彼らの存在が全うできなくなることだ。
 厳然としたビジネスの世界の問題である以上、「善意のオマージュだから固いこと言わずに大目に見ろ」などとSNK側に要求するなど虫がよすぎる事は百も承知。だが、本作のやり方も間違いなくゲームやキャラクターの文化を守り受け継ぐという趣旨に沿うものではあった。そして、90年代のアーケードシーンを舞台とする以上、当時カプコンと人気を二分したSNKの存在を無視することもまた不可能だった。

 だからこそ必要な手続きを疎かにした制作サイドの不手際には唖然とさせられるし、今後本作の存立がどのような顛末を辿ろうと我々はそれを受け入れるしかないが、それでもコンマ1%の願いを込めて言いたい。

 ハルオよ、晶よ、小春よ、そしてあまたのゲームキャラ達よ、生きていてくれ!
 

 どんなカタチでも良い、何年かかろうと良い、コンティニューしてくれ!


ナイスレビュー: 5

[投稿:2012-02-26 23:04:51] [修正:2014-08-10 20:16:31] [このレビューのURL]

8点 聲の形

[ネタバレあり]

友情、愛情、信頼、敬意。“絆”という言葉にはこれらの美しいイメージが付与されている。人と人のつながりこそが世の中を動かす以上、それらの絆が美しければそれに越したことはないし、実際にあの震災において未曾有の大災害を前に被災者の方々が見せた絆のあり方は、恐るべき悲劇の中においても確かな希望を感じさせるものがあった。以来メディアなどでを通して絆という言葉は盛んに耳にするようになった。
だが、人と人の関係の有り様は複雑なものであり、絆もまた決して美しいだけのものではない。憎悪、不信、蔑視。そんな醜い感情に基づくいじめや差別…。それらもまた絆というものの一つの形には違いない。

身体障害者やいじめなどのデリケートな話題を扱い、その描写の生々しさで読み切り掲載時から話題になった本作『聲の形』は、そんな絆というもののあり方について考えさせてくれる作品である。
退屈な日常を持て余していた悪ガキ石田将也のもとに、ある日とびっきりの非日常がやってきた。転校生の西宮硝子、見た目はごく普通の可愛らしい女の子だが、先天性の聴覚障害により耳が殆ど聞こえず言葉の発音もままならないため、もっぱら筆談と手話で周囲との意思疎通をはかろうとする少女。
「変な奴!!」
最初こそ障害者差別は良くないとか手話をみんなで覚えようとか言っていた周囲も、意思疎通の煩わしさから次第に彼女を内心疎ましくおぼえ始め、そして遂に将也がリーダーとなって硝子へのいじめが始まった。次第にエスカレートするいじめ、先生は見て見ぬふり、同調するクラスメイト達。しかし将也の度が過ぎた行動が原因でいじめの事実が外部に露見し問題化しそうになった途端、今度は先生も含めた周囲が示し合わせたように将也一人に責任を押し付け、因果応報とは言え更に過酷ないじめの標的となってしまった将也。かつての友人たちが掌を返す中、硝子は……?

読切版では短いページ数にこれら生々しく濃厚なドラマが盛り込まれ、終盤では小学生時代の凄絶な痛みを経て高校生となった将也と硝子が再会し、かつてひどく傷つけ合った二人がそれでも和解の端緒を探るように向き合う所で物語は閉幕、これはこれで未来へのほのかな希望を予感させる美しい幕引きだった。

そして大いに話題となった読切版の反響を受けて始まった連載版では、上述の読切版のプロットは単行本1巻でほぼ終了し、2巻の冒頭では再会した将也と硝子は手話を通じて和解する。胸糞悪いいじめ描写が延々続くのを見せられるのも嫌だったが、それにしても展開が早くないかと自分は当初思っていた。
少年時代のいじめをめぐるトラウマがきっかけでひどい人間不信に陥り自殺まで考えていた将也が、硝子と和解することで人間不信からも次第に脱却、周囲との関係性も取り戻し、硝子との絆も深めるリア充ライフを今後延々見せられる……、それはそれで悪い気はしないが、しかし、なんか違わないか?そう思っていたのである。えぇ、まぁ確かに3巻終盤の強烈なニヤニヤ展開とかを見せつけられるとすごく幸せな気分になったりはしたのだけれど。
したのだけれど、やはりそう甘くは無かった。基本静かな雰囲気の中においてもジェットコースターのように物語が上げて落としてまた上げ更に落とし…と展開の起伏の激しい本作は、和解後も決して読者を飽きさせない(≒安心させない)つくりになっていたのだ。
確かに将也と硝子は友人となり、両家の家族間のわだかまりもそれなりに解消され始めた。しかし、かつてのいじめは将也と硝子だけでなく周囲のクラスメイトも巻き込んだ広範なものだった。いくら将也と硝子が二人だけでわかりあおうと、いじめという周囲の共犯の記憶が解消された事にはならない。
過去は二人を拘束しつづける。かつてのクラスメイト達との再会という目に見える形で過去の痛みが将也とそして硝子を襲う。いじめという共通体験を通じて紡がれた絆、容易にはほどけない、かくも胃が痛くなるほどに煩わしい絆。

本作が出色なのは、そんな人間関係の美しさや煩わしさを、漫画というメディアの力を大いに活かすよう執拗なまでに視覚的に訴える形で表現している点である。だからこそ読者の多くは感情を大いに揺さぶられ、将也と一緒に胃が痛くなりもするのだ。
たとえば将也が人間不信に陥った事を表現するために将也の視界に入る人間の多くは顔に大きくバツ印が付けられる。いかにも記号的な漫画表現だが、将也と友人になったクラスメイトからバツが消えたり、バツ印の間から表情を覗かせるかつてのいじめ仲間とか、単なる記号表現を超えた面白い演出の妙にもなっている。
他の漫画と比べても人物の表情描写にねっとりとした生々しさがあり、上述のバツ印演出も相まって非常に“目の離せない”作品に仕上がっているのだ。
ヒロイン西宮硝子はそんな本作の魅力をまさしく体現している。聴覚障害持ちのため、感情表現にせよ意思疎通にせよセリフにはほとんど頼れない彼女の示す様々な表情、所作、視線、そして手話。(障害者設定を安易に記号表現的に使用して良いのかという是非論はあるにせよ)硝子の存在がこの作品を視覚メディアたる漫画としての魅力に大いに貢献していることは疑いない。
タイトルが「こえのかたち」であり、「こえ」という言葉に、声ではなくわざわざ旧字体の聲を使用しているのも、視覚に訴える効果を狙ってのことだろう。(“聲”という字には“耳”と“手”の意が含まれている。)

硝子と和解するも紆余曲折を経て再び硝子以外との周囲の絆を自ら閉ざそうとする将也。夏の日、そんな辛い現実から逃れるように共に二人は夜空に上がった打ち上げ花火に見入る。一方その頃、絶交した友人達や、かつてのいじめの共犯者たちもまた同じ夜空の下、同じ花火を見ていた…。

時に騙し合い時に傷つけ合い、絆とはかくも煩わしい有り様を見せる。それでも、共に生きていかざるを得ぬ以上、いつまでも見ぬふりをして済ませることはできない周囲との関係。果たして彼らの想いの聲は、今後どのような形を結ぶことになるか。今非常に先が気になる作品だ。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2014-07-06 03:05:06] [修正:2014-07-13 00:10:35] [このレビューのURL]

「少女マンガの大革命!」という宣伝文句が示すように、西郷どんのようなゴツい男子が表紙を飾るというあまりにも斬新過ぎる装丁で世の漫画読みの注目を集め、しかもその西郷どんが主人公で王子様役となり美少女と恋に落ちるというこれまた少女マンガとしては革命的過ぎる内容で話題となった作品であるが、いざ読んでみると過度にネタに走ることもない地に足の着いた”少女マンガ”であった。

 王子様役がクールなイケメンではなくゴツくて不器用な西郷どんという設定は確かに少女マンガにおいては斬新だったかもしれないが、しかし読む前に本作の話題を知って当初感じたのは「でもそういう非モテと美少女の恋って、ワリと世間のラブコメ漫画ではよく見かける設定だよなー」というそう言ってしまえばそれまでのものだった。これまで読んできたラブコメ作品の多くは(いずれも非少女マンガ)、”何の変哲もない”(が顔はそこそこイケメンな)男主人公が些細なきっかけで美少女たちに惚れられまくる…みたいな作品が多かったため、ブサメン男子x美少女という本作『俺物語!!』の設定にそういう一般誌ラブコメに近いイメージを勝手に抱いていたのである。

 が、いざ読んでみるとそんな当初のイメージはいとも簡単に覆された。主人公の剛田猛男は決して単なるブサメンではなく、見てくれを超えた凄まじくいい漢だったのである、男も惚れる的な。そして、表紙の買いやすさにも助けられ本作に接したこと、ただラブコメと言っても少女マンガと一般誌ではかなり異なるものだということを改めて思い知った。

 昔から少女マンガにおいて最も好まれる題材が男女の恋愛を描いたラブコメディで、反面昔の少年マンガにおいては恋愛など添え物に過ぎずスポーツ、ギャグ、バトルなどのジャンルこそがメインであった。(一応少女マンガにもそれらはあったが)
 ところが70年代末~80年代初頭にかけて高橋留美子やあだち充、まつもと泉らの活躍により少年マンガにおいても美少女メインのラブコメが人気ジャンルとなっていき、それら美少女への偏愛を萌えなどの形で昇華した作品群が今や一大ジャンルを築くに至ったのは周知の通りである。

 上でも述べた通り、主に男性読者をターゲットとする一般誌のラブコメマンガではできる限り主人公の男を多くの男性読者が自己を投影しやすくするために特徴のない平凡なキャラにする傾向にある。その結果往々にしてとりたてて特徴のない少年が何故か家庭的な幼馴染や才色兼備のお嬢様、氷の瞳のクールビューティーなんかに惚れられまくるみたいなシチュエーションが成立するわけだが、少女マンガにおいてはそうではない。
 少女マンガにおける恋のお相手の男性キャラはあくまでも”王子様”的な要素が必要である。優しさ、強さ、財力、高潔さ、そしてイケメン。男からすれば「都合いいなぁ」と感じるが、男向けラブコメの都合良さを考えれば文句は言えまい。

 さて、本作の主人公の剛田猛男である。まるでゴリラのような逞しい肉体を誇り強さは申し分ない(野生の猪と取っ組み合いができる)、ヒロインを思いやる優しさも備えている。しかし、とにかく女心を解せぬ不器用さは見ていて歯がゆくもあり、家は別に金持ちでもない普通の庶民、そして何より、容姿が…顔がっ………!!


 だが、猛男はその精神の高潔さにおいて紛れもなく王子様であった。それこそが本作をなんやかんやで素敵な少女マンガたらしめている理由である。


 猛男は非常に男らしい漢で同性の男子からの人気は抜群だが、顔が災いして女子との恋は実ったことはなく、好きになった女子はみんな友達のイケメン砂川の事を好きになってしまうというジレンマを抱えていた。しかし、見たところそんな己の境遇をやっかんだり「どうせ俺なんて…」と卑屈な態度をとるそぶりがまるで無いのである。
 たとえば『ああ女神さまっ』の主人公の森里螢一が背の低さにコンプレックスがあり女性にモテないことを当初かなり僻んでいたように、もてない男は大なり小なり「俺がモテないのはどう考えてもお前らリア充が悪い!」というルサンチマンを世間に対して抱くものだが、猛男にはそんなカッコ悪さがまるで無いのだ。好きな女がみんな友達になびいてしまうという現実もそんなものだと割りきっており、それどころか友人の恋が実るよう心の底からの協力を惜しまない。(当のイケメン友人砂川は自分に流れてきた女子からの告白を全て断っているが、その理由がまた泣ける…)
 ところがそんな猛男にも遂に春がきた。電車で痴漢に絡まれていた美少女、凛子ちゃんを助けたことがきっかけで誤解を挟みつつも恋人同士になるわけだが、いざ恋人ができたら猪突猛進、全く照れも卑屈さも無しに堂々と「好きだ!」と心中何度も何度も叫ぶ猛男。なんという潔さだろう。同じ『俺物語』でも『あごなしゲン』ではエラい違いだ。

 そんな猛男のブレない高潔さがよくあらわれているのが2巻の柔道戦のエピソードであろう。彼女が出来たことをライバルに「彼女つくってチャラけてる奴に負けねえかんな!」(何か泣きたくなる…)となじられようとも、全く動じることなく堂々と



「彼女はいいぞ」



 これこそ、一般誌のラブコメ男主人公にはほとんど真似できない猛男の高潔さ、王子の風格なのである。火事の現場から見事に脱出を果たし泣きじゃくる凛子を胸に抱きながらの

二度とおまえを

泣かせはしないと

誓う

 
 …こういうモノローグを照れずに違和感なく挿入できている点でもやはり少女マンガなのである。


 主人公の容姿ゆえに革命的と評されることも多い作品だが、土台はしっかり少女マンガしており、普段この手のジャンルは苦手な人にとっても間口広く受け入れられやすのも大きな魅力だろう。そして、今後似たようなコンセプトの作品が出ればかならず「ああ俺物語みたいなヤツね」と未来永劫評されかねないくらいオンリーワンの作品でもある。

 ちなみに原作者は断じて猛男はブサメンでは無いと主張しており、ヒロインの凛子もどうやらもともと西郷どんのような逞しい漢がタイプだっったらしい…。
 この作品、断じて世のもてない男性に安易なカタルシスを与え救済する作品では無いのである。
 自分はというと、とても猛男のような格好いい漢にはなれそうにはないのが悲しいところである。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2013-04-07 23:17:48] [修正:2013-04-08 20:32:43] [このレビューのURL]

 今年2012年に連載の始まった作品としては最大級の話題作であり、先日11月に発売された単行本第1巻はマッハ20の速度で160万部売れたという。作者はジャンプ史に残る異様な傑作『魔人探偵脳噛ネウロ』で多くの読者に忘れがたい印象を残した松井優征。前作『ネウロ』が万人受けはしなかったことを考えると今作『暗殺教室』の大ヒットはファンとして素直に喜ばしくもあるが意外でもあった。今回はこの『暗殺教室』の魅力に迫ってみたいと思う。

 何の前触れもなしに夜空に浮かぶ月が七割がた蒸発し三日月型になってしまうという異常事態と前後し、名門中学校の落ちこぼれ学級に突如現れたタコのような外観の奇妙な触手超生物。

「はじめまして。私が月を爆(や)った犯人です。来年には地球も爆る予定です。君達の担任になったのでどうぞよろしく。」

 ツカミは完璧、第1話早々読者の度肝を抜いた超展開である。こうして1年後に地球を滅ぼすと予告する超生物教師“殺(ころ)せんせー”(殺せない先生)と地球のため己の命のためそして政府からの成功報酬100億円のために先生暗殺の使命を与えられた落ちこぼれ学級3年E組の生徒たちとの奇妙な学園生活を描くというのがおおまかなストーリーの骨子だ。

 ジャンプ作品としても一般的な少年漫画の典型からも大きく逸脱した世界観だが、こういう「年端もいかぬ少年少女に世界の運命を背負わせて戦わせる」「学園などの限定空間を舞台に銃刀などで武装した若者がゲーム感覚で殺しあう」というモチーフはゼロ年代前後から現在を見渡し多くのマンガやアニメ、小説等で描かれてきた、今となっては割とありふれたものでもあった。(実際、殺せんせーのあのニヤニヤと世界のすべてを舐めくさったような不敵な笑顔を見ると『ぼくらの』のコエムシや『魔法少女まどか・マギカ』のQBなどを連想した読者も多かったことだろう。)
 『暗殺教室』が面白いのは、地球の破滅を担保とした1年限りの暗殺学生生活という物騒極まる設定にも関わらず、物語の雰囲気がとてもコミカルで万人が楽しめる学園コメディになっている点だろう。従来の教師マンガの教師は『GTO』の鬼塚のような不良であったり、『鈴木先生』のようにマジメだがどこか頭のネジが吹っ飛んでいたりと癖の強い教師が多かったが、それら変人教師の中でも群を抜いた奇怪さを誇る我らが殺せんせーは、困ったことにとてつもなく優秀な良い教師だった。授業内容は生徒個々の学力に合わせた的確さでユーモアのセンスもあり、そして何より生徒達から自身に向けられる殺意すら正面から受け止める度量の広さを併せ持つのだから。生徒たちも生徒たちで、落ちこぼれの烙印を押された少年少女たちが先生暗殺(成功報酬100億円)という目標に向かい、仲間たち(及び暗殺対象である殺せんせー)と切磋琢磨し合いながら実に活き活きと学業と暗殺を両立させていく様が無駄にハートウォーミングに描かれ、読者に混乱と感動のないまぜになった実に独特な読後感を与えている。このギャップはおそらく作者が狙ったものだろう。

 『ネウロ』でならした作者の持ち味である時事ネタを織り交ぜたブラックユーモアな小ネタも健在で、地球を破壊する優秀教師vs地球を守る落ちこぼれ学生というある意味究極のブラックジョークな物語設定とも合わせ他の漫画では代替の効かない味わいにあふれている。そこに前述の無駄なハートウォーミングさも加わってますます無二の魅力を高めているのだ。前作からの画力の向上、更に磨きのかかったコマ割り・ページ構成を駆使した的確な演出もあり、細かいことを抜きにして単純に漫画としてレベルの高い面白さを現時点で毎回安定させており、作者の“進化”をファンとして嬉しく思う限りである。主役の殺せんせーもジャンプにおいては異端とも言えるとんでもない色物キャラだが、どこか藤子不二雄など往年の名作漫画に多く登場した人外キャラを彷彿とさせるのも良い。

 ところで、どうして本作はあえて「未成年が暗殺に挑む」などという物騒なテーマをあえて少年漫画で描こうとしているのだろうか。きっとそこには第1巻の巻頭の挨拶にもあるように、「命の価値」に対する作者なりの問いかけがあるからだと思われる。

 中学高校でいじめ事件が起こる。被害者の生徒は自殺する。加害者は家裁に送られ公から姿を消す。教育委員会は口をつぐむ。校長は緊急の全校集会で「命の大切さ」とやらを説く。見飽きた光景である。世の良識は「人の命は地球より重い」と言うが、それならば一体毎日何個の地球がこの世から消滅しているのかというのか。
 実際の所、人命など紙のように軽い。命は代替が効く。しかしそれでも個々の人生それぞれは如何に凡庸であろうと代替の効くものではない。ましてや、それら個々の営みすべてを内包した地球そのものの運命など…。

 命の軽さと命の重さ、こうした命の価値を教えるため、(批判も多いが)豚などを飼育して1年後に生徒で屠殺して食べさせるなどの「命の授業」の試みもあると聞くが、殺せんせーと生徒たちが繰り広げる地球の命運をかけたこの『暗殺教室』は、体を張った究極の「命の授業」となる予感がする。暗殺とは本作においては理系文系から保健体育に美術まで全てを動員する総合学習の意味を持つのだ。
殺せんせーが何故先生を演じるのか、何故1年後に地球を破壊するのか、そもそも殺せんせーとは何者なのか、それらの謎は今後少しずつ明かされていくことになるのだろうが、その「命の授業」の成り行きを自分もまた一生徒として見守って行きたい気持ちで一杯だ。

 前作『ネウロ』が見事な物語構成で綺麗に完結したこともあり作者のストーリーテリングの手腕を疑うものではないが、今後に向けて不安な点も無いではない。
 一つに殺せんせーがあまりにいい教師過ぎる点である。生徒たちは早くも殺せんせーの魅力(実際すごくいいキャラだが)に感化されつつあり、このままでは「もう地球の運命なんかどうでもいいから先生と楽しく過ごすんだ」みたいな雰囲気になりかねない。今後も第1話や第13話で見せつけたように殺せんせーの不気味な怪物性を強調し「やっぱりこいつは殺さなければ」と生徒にも読者にも納得させるような描写は定期的に入れられねばならないだろう。
 また、皮肉な話だが本作が予想外に人気が出て看板マンガとなりつつあるため、前作のような中堅どころゆえ可能だった冒険がしにくくなる危険性も否定できない。そこはぜひジャンプ編集部の裁量を信じたいところだ。

 話題性も抜群なためこれから本作を楽しもうという皆さんには、ぜひ単行本だけでなくジャンプ本誌で読むこともおすすめしたい。

「日本よ これが触手だ!」

「一本飲ん毒?」

「おいでやす 京都ニュルルン滞在記」→「不良たちにぃ出会ったぁ」(下條アトム風に)

 こんな素敵なアオリ文句が楽しめるのは本誌だけ!!

ナイスレビュー: 2

[投稿:2012-12-30 22:04:39] [修正:2012-12-31 17:43:15] [このレビューのURL]

 松井優征先生復活記念。

「推理ファンでない人のほとんどは、犯人をカンで当てようとするそうです。………僕もそうします。(中略)……実はこれ………推理ものの皮をかぶった、単純娯楽漫画です。」

 これは本作『魔人探偵脳噛ネウロ』の記念すべき単行本第1巻に作者の松井優征が掲げた巻頭の辞である。実際、ネウロ第1話を立ち寄ったうどん屋に置いてあったジャンプでたまたま読んだ時の自分の第一印象も「これはミステリとしては色々反則すぎやしないか。」と決して芳しくはなかった。
 ミステリの醍醐味は、複雑に絡まった謎を少ない手がかりから鮮やかに解いていく知的興奮であり、犯人の動機や心情に迫る人間ドラマであるはずなのだが、このネウロときたら!何者かに父を惨殺され悲しみにくれる(食欲以外は)ごく普通の女子高生、桂木弥子の眼前にと突如出現した魔界生物、脳噛ネウロ。 「謎」を主食とし、より美味な謎を求めて地上へと出現したこの怪物は、人間界での活動のため弥子を隠れ蓑に実に傍若無人に“謎”を次々と解いていくのだが、その謎解きの方法が「魔界777ツ能力(どうぐ)」と総称される種々のチートな特殊能力に頼った実に強引なものでそこにはサスペンスとしての魅力はほぼ無かった。犯人にしても動機が色々おかしいイっちゃった連中ばっかりで人間ドラマとしての奥行きも感じられず、評価としてはせいぜい上等なネタ漫画、まぁジャンプで探偵モノやりゃこうなるわなぁ程度と高をくくっていた、くくっていたのである。

 それでも作品から溢れんばかりに発散される奇抜さ、毒気がどうにも心地よかったので気になって読み続けた所、徐々にネウロはその本質をあらわにし始めた。奇抜なネタ漫画としての体裁を最後まで貫き続ける一方で、実にジャンプ栄えする真ッ当な人間賛歌の物語へと作品が進化していった。思えば初期のあの異様さも毒気もブラックなギャグも、全てブラフ、周到なトリックだったんだろうか。
 
 この作品の探偵物としての大きな魅力と特徴は、魔人であるネウロと人間の少女桂木弥子との関係性である。昔からホームズとワトソン、明智小五郎と小林少年のように探偵が助手とコンビを組むことは珍しくはないが、ネウロと弥子の関係はとても探偵と助手という表現では括りきれない。(世間的には弥子が美少女探偵でネウロが助手ということになっている。)
 二人の関係はネウロ>弥子の圧倒的にサディスティックな主従関係であり、哀れ凡人少女の弥子は“謎”をおびき寄せる生き餌としてネウロにさんざんにこき使われる。ネウロは基本的に謎さえ解ければ(食えれば)後はどうでもよく、犯人の心情や動機にも一切興味を示さない。人間はあくまで自分に食料を提供するだけの釣り堀に過ぎず、弥子は謎を釣る餌に過ぎなかった。
 そんな二人の関係性に次第に変化が生じ始める。人間界の事情は思いの外複雑で、ネウロはやがて人間を知らぬことには解けぬ謎もあることを理解し始める。下僕の弥子はネウロのような明晰な頭脳も超能力も持たないが、人の心情を理解し、思いを致すというネウロには決して真似の出来ない事ができるのだ。こうして主人と下僕であった二人の関係性にドラマチックな変化が生じ、少女の成長や人間存在への関心といったテーマを描き得る振り幅が生まれ、思った以上にドラマに奥行きが与えられ始めた。相変わらずぶっ飛んだ犯人達の犯行動機にも、現代社会への作者なりの皮肉や風刺がうまく表現されるようになり、単なるネタを超えた味わいも付与され始めた。
 思えば謎解きを第一目的とし後は眼中に無く性格も悪いネウロは典型的な江戸川乱歩の明智小五郎型の探偵と言えるが、地に足の着いた行動で事件の因果、犯人の心情に迫り、理解する桂木弥子は横溝正史の金田一耕助型の探偵と言える。明智と金田一、いずれも日本ミステリ史上の二大巨頭だが、本作はタイプの異なる二人の名探偵があたかも共闘しているかのような魅力があるのだ。

 二人の関係性でもうひとつ興味深いのが、ネウロは魔人だが性別的にはオスであり人間体ではかなりイケメンなので普通なら弥子とくっつくのが常道だが、物語終盤では揺るぎない信頼関係で結ばれた二人の絆が、結局恋愛感情だったかどうかは最後までうまくはぐらかされた点だ。恐らく作者はそういう共依存的なベタベタした関係ではなく、成長や敬意に基づいた純粋な信頼関係を描きたかったのだろう。これは人間賛歌という作品のテーマとも相性がよく、また弥子を中心とした乙女ゲー的逆ハーレム(本作はタイプの異なる様々なイケメンが弥子に協力する)の妄想をかきたてる余地を残しており、やはりうまい。強烈にサディスティックでグロテスクな描写が多い割に女性ファンが多かったのも頷ける。

 先程からしきりに“人間賛歌”という言葉を挙げているが、このテーマ自体は漫画の世界では珍しくないありふれたもので、ジャンプに於いては本作にも多大な影響を与えたとおぼしき『ジョジョの奇妙な冒険』が人間賛歌を堂々とテーマとして掲げている。ジョジョには遠く及ばずとも、とりあえず愛とか友情とか正義とか信頼とかをキャラに語らせれば凡百の作品でもそれなりに様になる魔法のテーマ、それが人間賛歌だ。
 ネウロで興味深かったのが、その人間賛歌の料理の仕方だ。物語後半、作中のラスボスとなる“絶対悪”シックス率いる「新たなる血族」との死闘の中で顕になるのだが、ネウロにおける人間賛歌とは決して愛や正義といった聞こえの良い言葉だけでなく、ずるさや醜さといった人間の愚かさ・悪徳すら併呑したものだった。人は良心のみにて生くるにあらず、時には悪意も必要なのだという人間観、これは「痴愚神礼讃」以来の人文主義の流れを汲んだ骨太なもので、聞こえの良い上っ面をなぞっただけの言葉よりもはるかにしっくりくる。そもそも悪意がなければ謎は生まれず、謎がなければ世の中は面白くはならないのだから。
 ネウロがその描写のエキセントリックさとは裏腹に、不思議と読後感が爽やかだったのもそんな人間観に由来するのだろう。ネウロは、察しの良い読者なら途中から気づいていたが、決して犯人をサディスティックに虐めることはあっても自ら断罪し殺すことはなかった。犯人の多くは警察に引き渡され、神ならぬ人によって裁かれる。そこには倫理的な判断を下すのは最終的には人間でなければならぬという価値観があった。
 ネウロが作中唯一自ら完膚なきまでに殺した敵は、その強すぎる悪意ゆえに人ならざる存在と成り果て、人間のあらゆる可能性を潰す敵となった絶対悪シックスのみだった。このシックスはとにかく悪のためなら目的も手段も問わず悪をなすというある意味ミステリの構造そのものを破壊し、少年漫画史にも後世まで名を残すに違いないとんでもない大悪党で、もう殺す以外に解決の仕様がなかったのでこれには皆納得だろう。

 作中語られる“進化”に関する認識が少々単純すぎるとか、謎解きが謎解きになってないとかそもそも後半ミステリほとんどやってないとかゴシカァンとかアラは探そうと思えばいくらでも探せる作品でもあるが、構成の妙、演出の的確さ、テーマ設定や随所に見られる毒の効いた社会批評などの優れた現代性、そして何より“商品として責任を持って終わらせる”という使命をこれ以上ないほどに見事に果たしたジャンプ史上稀有な美しい仕上がり、どれをとってもお美事、お美事にござりまするという他無い。ネタ漫画としても、王道少年漫画としても一級品である。最近作者は新作『暗殺教室』で無事にジャンプに返り咲いたので、これを機会に未読の方もぜひご一読の程を。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2012-07-16 23:32:53] [修正:2012-07-17 01:01:03] [このレビューのURL]

12/6/29 得点修正(7→8) 加筆あり

 週刊少年チャンピオンに連載中の主に10代の少女(時々少年)を主人公にしたオムニバス形式の短篇集で、一部の話を除き各編同士の物語の連続性は基本的に無い。最近のチャンピオンのショート漫画には『侵略!イカ娘』などかなりヒットする作品も出現するなどなかなか目の離せない作品が多かったが、本作も少女少年の短篇集というよくある形式にも関わらず非常に独特の味わいを持ち読者の心をざわざわとざわつかせる作品に仕上がっており、各所で話題になっているのも素直に頷ける。

 作者の阿部共美はチャンピオンに掲載された読切の『破壊症候群』がデビュー作だが、これも人並み外れた怪力を持つ少女が悪を成敗するというありふれたスラップスティックコメディの形態をとりながらも、癖の強いキャラクターデザイン、ハイテンションすぎる会話劇、少女の破壊衝動など随所に覗かせるブラックな変態性などの逸脱っぷりがとても印象的だった。そしてそんな作者の持ち味は本誌本格連載となった本作でも失われること無く…どころかますますパワーアップを果たしていたのである。
 
 少女や少年の揺れる心模様を描いたオムニバスストーリー集といえば得てして恋や友情、親や世間との関係性の葛藤などを描いたものになると相場は決まっているが、とても本作はそんな枠組みでは括りきれない。確かに物語の根底にあるのはそういった普遍的テーマかもしれないが、物語の狂言回しを務めるキャラたちの多くはテンション高すぎるか思い込み激しすぎる人達ばかりで、“等身大”とかそういう言葉とは程遠い思考と行動を突っ走る。
 一例を挙げると第一話の主人公である恥ずかしがり屋を直したい女の子は、矯正手段としてバニーガール姿で「うひょひょひょひょ」と夜道を飛び回ったりする。他にも女性の裸に飽きたらず薄皮一枚下の内蔵を見てみたいと言う男や、人一倍怖がりなくせに同時に人一倍怖いもの見たさでずるずると恐怖の深みにはまっていく少女、「世界は悪に満ちている」と思い込みいい年して定職にもつかず魔法少女のコスプレで町中をパトロール(というか徘徊)する女、など癖の強すぎる人達が現れては消え消えては現れ、その結果全体的には様々に提示される「心模様の万華鏡」とでも呼ぶべき幻惑的な美しさとつかみ所のない危うさが併存する作品になっている。
 尚、そういう極端すぎる人達を扱った作品以外にも、ボーイッシュな少女と気弱な少年の話「夏がはじまる」など比較的普通の人達が主体の話もあるが、共通しているのは決して順風満帆には終わらない心ざわつかせるストーリーテリングだ。結末にどんでん返しのまま投げっぱなしになる話が多く、“余韻”と一言で済ますにはあまりに不穏な空気作りがとてもうまい。

 キャラクターデザインは非常に記号的。他作品と比べても瞳が際立って大きく描かれ肌は透き通るように白く、体はちょっとつまむとそのままぷちっとちぎれてしまいそうなくらい可愛い。しかし記号的であるはずのその描線は昼間っから公園のベンチで弁当を喰うおっさんなど時折残酷なレベルでリアルな瞬間を捉える事があり、透き通るような白は何かの表紙にどす黒い漆黒へと容易に転じ、ぷちっとちぎれそうな柔らかい造形の下には血液と内蔵にまみれたグロテスクさが顔をのぞかせそうになる瞬間も描かれる。そんな見た目の可愛らしさの裏に潜むものを作者は描くことを心得ているのである。(新房昭之監督のアニメ作品に通じるセンスを感じる)

 おかしい話、悲しい話、可愛らしい話、不気味な話、様々なままならぬ人達が七転八倒する万華鏡、総じてその読後感は白黒つかないまさに「灰色」。そしてその灰色を拡大してみると、そこには交互に明滅する無数の際立つ白と黒が……。

 現在の連載を追う限り二巻以降もそのクオリティは保証(というかむしろ向上中)なので今後も期待が持てる一作である。作者の感性は非常に独特なものがあるが果たしてこういう際立った感性が今後も時と共に維持されていくかどうかは現時点ではわからないので、“今”しか描かれ得ない作品である危険性も否定出来ない。ぜひリアルタイムで追いかけたい作品だ。

------------以下加筆-----------------------------------------

やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい

絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない
絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない
絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対読むべしぜった

ナイスレビュー: 1

[投稿:2012-04-01 00:43:49] [修正:2012-06-29 01:00:32] [このレビューのURL]

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