「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

2010年9月26日 得点修正(6→8) 加筆あり

14歳の時にヨーロッパを一人旅したのをきっかけにイタリアへ美術留学、そのままイタリア人男性と結婚する傍らエッセー漫画などで活躍する女流作家…。

 本作「テルマエ・ロマエ」が漫画ファンの間で話題になった時に上記のような作者ヤマザキマリの略歴を知り、

「うわっ如何にも寒い一行コピーでおなじみのA〇RAあたりで特集されそうな人生だなぁ。」(←偏見)

 と思ったりもしたが、そんな作家が選んだテーマが「風呂」だという点に興味を抱いて単行本を買ってみたところ、「その手があったか、ヘウレーカ!」と浴槽から飛び出して全裸のまま走り回りたくなる着眼点の素晴らしさにまずやられた。
 日本人の風呂好きは世界的にも有名だが、作者が長年過ごし旦那の故郷でもあるイタリアにかつて栄えたローマ帝国も、また風呂をこよなく愛した文明だった。こうして「風呂」をキーワードに日本(故郷)とヨーロッパ(今の棲家)が結ばれたのだ。
 郷土愛は理屈や理論ではなく、感覚的・感情的な部分によってはぐくまれる部分が多いと言われるけど、長年ヨーロッパで過ごした作者がはぐくんだ故郷への思いが、風呂への偏愛という形で爆発しまくっているのが読んでいてほほえましいし、同じく風呂を愛する一日本人として「その通りだッ」と大いに納得もできる。全身で味わう風呂という奴は、場合によっては言葉や食べ物以上に皮膚感覚的に訴えてくるパワーがあり、作者は風呂限定で古代ローマと現代日本を自在に行き来するローマ人ルシウスを通して、なかなか湯船につかる事も叶わない地球の反対側にいる自身の思いを叶えているようにも見える。実際第1話でルシウスが初タイムトリップを遂げた先が、スターウォーズのポスターなどから判断して70年代末~80年代初頭の、作者が渡欧する直前の銭湯だったあたりからもそれがうかがえる。そして風呂にすっかりのぼせあがった作中描かれる「平たい顔族」のジジババ達のあの表情!作者は本気だ。

 また、この漫画で良いと思った部分は、単なる「日本の風呂万歳」的なノスタルジーのみに終わる事無く、ローマ文明の偉大さをも描けている点にある。主人公のルシウスは真面目が服を着て歩いているような堅物なローマの風呂設計士で、毎回はるか未来の日本の風呂にタイムスリップして大いにカルチャーショックを受ける一方で、その風呂技術の一端をどうにかローマに持ち帰ろうとし、そして完全移植とはいかないまでもフルーツ牛乳や露天風呂、シャンプーハットなどをローマの技術で再現してみせる。
 「ローマ文明はギリシア文明と比べて創造性で劣っていた」と言われるが、作中ルシウスが述べている通り他民族の文明を柔軟に吸収、模倣発展させる事で世界規模の文明を築き上げてきた。(似たような事を言われた民族もいましたね)
 ルシウスはそんなローマ市民としての大いなる誇りと自負心を胸に秘め、「平たい顔族」の仕掛ける様々な風呂に裸一貫で立ち向かうのだ。その姿は神々しくさえあり、ローマの精神の最良の部分を体現しているようでさえある。そして…、やはりどこかオカシイ。一種のカルチャーギャップをネタにしたギャグ漫画としても良くできているのだ。特に彼が
「何をするかーっ」
 と叫ぶシーンでは毎回笑いそうになってしまう。本人が真面目な分、余計に。

 日本とイタリアを「風呂」というキーワードで結びつけた本作の着眼点のよさは上に書いてきたようにただの思いつき以上の奥行きがあり、各方面で話題になったのもうなずける。ある意味「ローマ人の物語」で知られる塩野七生に近い快挙かも知れないが、まだそこまで持ち上げるのは早計かも知れない。もともと本作は同人誌用に軽い気持ちで描いた物が連載の流れに乗ってしまったのだという。初期設定がなまじいいだけに毎回面白いが、このまま今後も新鮮な驚きを与え続けられるかどうか、作者の真の実力が試される。


 単行本でしか読んでないため、現在ビーム本誌ではどのような風呂が登場しているかは知らないが、2巻以降に登場する風呂を勝手に予想してみよう。



1.ジャグジー
「この泡を発生させるのに何人の奴隷を使っているのだ?」

2.真冬の露天風呂
「馬鹿な。あえて雪が降る中に屋外で入浴など…」

3.塩サウナ
「何をするかーっ!」

4.ゆず湯
「むぅ、柑橘類をこのように使うとは。食っては吐いて吐いては食うばかりの貴族たちにも見せてやりたい。」

5.ひのき風呂
「総木材製の浴槽だと?まさか平たい顔族とは、絹の道の遥か東方の彼方にあるという、木造文明の帝国だったというのか?」

6.温泉卓球
「この球の材質と製法が分からん。」

7.スーパー銭湯
「夢を見た。後の世の皇帝陛下がこれとよく似た施設をお造りになる予知夢を。」

8.ローマ風呂
「細部に誤りがあるが、われらローマの威光は平たい顔族たちにも及んでいたと見える。初めて奴らに優越感を感じた。」

 2巻も楽しみにしてます、ハイ。



 以下加筆(2010/09/26)



 そんなわけで先日発売した2巻を読んでみたのだが、やはり上記のレビューは早計であった。期待外れ?マンネリ?一発屋?違う。最初のころのような新鮮な驚きこそ無いにせよ、漫画としての面白さはますます増し、作者の実力の確かさを思い知らされた。
 ギャグ演出力は格段の進歩を遂げており、「いい年した大人が全裸であれこれ頭をひねる」という本作特有のシチュエーションの馬鹿馬鹿しさ・大げささを更に増幅させている。絵もこなれてきており、女性キャラなども普通にかわいく見えるようになってきた。
 上で色々あげてみた勝手な予想は結局2巻においては一つも当たらず、定型的な展開にも関わらず予想のはるか斜め上を行く日本とローマの風呂シンクロの数々に圧倒される結果となった。風呂、恐るべし。

 3巻も楽しみにしてます、ハイ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-05-05 21:59:31] [修正:2010-09-26 01:34:10] [このレビューのURL]

 芸人、喜劇役者、そしてギャグ漫画家、世の中には“笑い”を売ることを生業とした特殊な身分の人々が存在するが、いくら売り物が笑いだからといって、売る側がヘラヘラ笑っていられるほど甘い業界ではいずれも無い事もまた事実である。芸人世界の厳しさは広く知られているし、喜劇役者は精神的負担から自殺する者も少なくなかったという。ギャグ漫画家の世界にせよ「マカロニほうれん荘」の鴨川つばめのようにネタを出しつくして“壊れて”しまった漫画家の話なども枚挙に暇が無い。

 「日本の喜劇王」と呼ばれ戦前戦後に活躍した喜劇役者の榎本健一(エノケン)に、そういう“笑いを売る人々”の哀しい宿命を象徴するエピソードがある。舞台や映画では人々を笑わせ続けたエノケンも、私生活では苦難の絶えない日々を送り、自ら笑うことはほとんど無かったという。そんな彼を襲った最大の不幸は愛する息子に結核で先立たれた事だった。この時もエノケンは客の前では悲しいそぶりは見せまいとギャグに励んだが、彼の息子の死を知っている観客は「いいよエノケン…無理はするなよ」とちっとも笑ってくれなかったのだと言う。“笑いを売る人々”の哀しい宿命である。

 前置きは長くなったが、上野顕太郎による『さよならもいわずに』にも、そういう哀しい宿命が全体を通じてむせかえるほど伝わってくる。生半可な作品では無い。描く側も、読む側にとっても。

 「暇人漫画家」と呼ばれ知る人ぞ知る活躍を十数年続けてきたギャグ漫画家の上野顕太郎(ウエケン)は、『帽子男は眠れない』や『ひまあり』、『夜は千の眼を持つ』など一貫してギャグにこだわり続けてきた生粋のギャグ職人であった。爆発的大ヒットとは無縁のため生活も順風満帆ではなかったが、それでも愛する妻と娘に囲まれささやかながらも充実した濃い日々を送ってきた彼のもとに、突然その日はやってくる。元々心身ともに不安を抱えていた奥さんが、ウエケンが仕事部屋を行き来したわずか3時間ばかりの間に、心疾患によって帰らぬ人となったのだ。わずか3時間ばかりの間で…。本作は、最愛の妻と突然の永訣を余儀なくされた一介のギャグ漫画家の哀切きわまる思いと現実が交錯するセルフドキュメント漫画である。

 ウエケンの代表作の一つ『ひまあり』においても、この奥さんは主人公ウエケンにツッコミを入れたり罠にはめたりと名バイプレイヤーとして物語を彩っていた。そういう実績もあってファンにとっては氏の作品世界には欠かせない重要な人物となったわけだが、『ひまあり』の作中の描写や後書きにおいてもどうやら健康状態がすぐれないことは暗に示唆されていた。そんな悪い予感が、最悪の形で表出したのである。
 
 そしてウエケンはギャグ漫画の鬼才であると同時に超一級の漫画読みでもあった。彼の漫画には名作無名作問わず膨大な漫画的記憶が下敷きとなっており、たとえば彼の描いた『ゴルゴ13』と『一休さん』のコラ漫画などその出来の良さからネットで話題になったりもした。そんな膨大な経験値に裏打ちされた多様な演出スキルが、彼のギャグをこれまでは彩ってきたわけでが、本作ではそれらの演出スキルが、全て「妻を喪ったという現実」「それを受け止めきれない哀れな中年男の悲しみ」を一切の容赦なくあぶりだす。視点は上下し、世界は歪み、終いには溶解する。
 
 男は町をさまよい、道行く人々とすれちがいながら、

「何故あなたではなく……」

 と、他の誰でも無く最愛の妻を奪った天の非情を呪う。大袈裟である。傍から見れば「何をそこまで…」と思うほどに大袈裟な演出の数々である。普通の漫画でやれば半ばギャグとして処理されてしまうであろう。実際、ウエケンはこれまでそういう大袈裟演出で様々なギャグを彩ってきたのだから。普通にいけば、ラストで奥さんが棺桶から楳図タッチの表情で復活し「ホホホホホ」と首を激しく回転させながら笑ったりした事だろう。
 しかし、今回ばかりはそうではなかったのだ。これまでギャグとしてしか受け止められなかった演出が、本作では内臓を圧迫するような密度で読者に襲いかかるのだ。


 冒頭紹介した喜劇役者エノケンのエピソードには、更に胸糞悪いおまけがついている。息子の葬式の当日、エノケンの家の周りには多くの野次馬が集まった。いよいよ出棺となった時、ついに悲しみをこらえきれずにエノケンが嗚咽すると、野次馬達は「あのエノケンが泣いてやがらァ」と爆笑したのである。舞台では笑ってくれなかったにも関わらず…。宿命とはいえ、いささか残酷すぎる話ではある。

 不幸中の幸いというべきか、“笑いを売る”という点では共通しているが本人が直接観客の前に姿を現す必要の無いギャグ漫画家であったウエケンは、この残酷な仕打ちからは逃れる事が出来た。そして表現者の宿命であろうか、彼はこの最愛の妻の死という体験を漫画作品として描いてみたいと思うようになり、数年の時間を経て遂に執筆にこぎつけたのである。ギャグと紙一重の悲しみ、表現者の持つ業、それらが圧倒的な筆致で塗り込められたこの物語は、こうして誕生したのだ。こんな作品にも関わらず作者は途中にギャグを挟み、他漫画からのコラージュも怠らない。業である。
 ウエケンはおそらく今後もギャグを描き続ける事だろう。しかし、そこには確実にある種のペーソスもまた刻まれるようにもなるのだろう。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2010-08-30 00:51:54] [修正:2010-08-31 00:06:17] [このレビューのURL]

 漫画界においては、今も昔も最激戦区といえば週刊少年漫画の世界である。漫画の主要な読者層である少年達の移ろいやすい興味をとらえ続けるために漫画家も編集部もしのぎを削り、他誌はおろか同じ雑誌内でも人気投票というの名の激しいサバイバルが週刊単位で繰り広げられるという苛酷な世界。
 中でも発行部数1位を誇る週刊少年ジャンプは、特に「人気投票至上主義」に基づく非情な競争を作家達に強いることで様々な話題作を生み出し続けてきた。いったん人気に火が付き、作品のクオリティを長期にわたって安定させることに成功すれば『ONEPIECE』などのように10年を超える長期連載も出るには出るが、多くの作品が半年、一年弱、もしくは10週程度で終了の憂き目にあうため、とにかく作品の入れ替わりが激しいのが特徴なのである。良い意味でも悪い意味でも、常にニーズに合わせて“変化し続けること”を宿命づけられる人気商売の世界の顕著な例が、週刊少年ジャンプという雑誌の有り様なのだった。

 そんなジャンプにおいて特異な存在なのがみなさんご存じ『こちら葛飾区亀有公園前派出所』である。連載開始は何と1976年。東京の下町葛飾亀有の小さな派出所と舞台に、ガキ大将がそのまま制服着たようなトンデモ警官「両津勘吉」が暴れまわるギャグ漫画。こういう基本設定だけを見ると非情に古臭く、とてもかのジャンプで30年以上人気を博す作品には思えないのだが、『こち亀』が連載を維持し続ける事が出来たのは、下町コメディという基本は残しつつも“変化し続けること”を課し続けた作品姿勢によっている。

 初期のこち亀は人情風味を加えつつも比較的ストレートなバイオレンスギャグだった。『がきデカ』に倣ったのか劇画調の濃い絵柄で主人公の警官が銃を撃ちまくるという作風が当時は過激なギャグとしてウケたようだが、作品は次第に「情報漫画」「教養漫画」としての側面が目立ち始める。作者の秋本治が非情に好奇心旺盛かつ他分野に渡るマニアックな知識の持ち主だったため、作品内でも両津を語り部に、おもちゃやミリタリー、車にゲームといった「男の子の趣味」全般の深いうんちくが次々に開陳され始めた。作品自体が「遊びの戦後史」とも言える存在となったのだ。
 さらに連載の長期化に伴い、絶えず変貌を続ける東京の世相を作品は的確にとらえ続けた。首都の過密化、地価の乱高下、バブルの狂騒、失われた十年、再開発、スカイツリー…、こち亀を通読すればそれだけでここ三十数年の東京の世相史が一目瞭然となるのである。これはやはり特筆するべき事だろう。

 こうしてジャンプ内において特別な地位を得たこち亀は作者の驚異的な筆力も手伝い順調に巻数を重ね続け、96年には連載20周年&単行本100巻という空前の快挙を達成した。しかしここから他のレビュワーのみなさんも指摘されるように作品の迷走&質的低下が見られ始めたのも事実である。ジャンプ編集部も「長期連載」がウリのこち亀だけは人気投票レースにおける治外法権にしている節があり、他の漫画が人気獲得にしのぎをけずるのを尻目にこち亀だけが安全圏でダラダラ連載を続けている…と最近の読者には感じられるようになった部分があるのは否定できないだろう。実際一時期見られたやっつけ感漂うビミョーな新キャラの乱発や展開が容易に読める話の落ち方、女性キャラの極端な巨乳化(まさかオタク受けを狙っていたのか?)などなど目に余る部分がここ10年ほどのこち亀には多く見られるようになってきた。特に両津が警察の独身寮を出て「超神田寿司」と疑似家族的な関係を結んだ近年の展開なども、古参のファンには賛否両論あったことだろう。

 なるほど、長期連載は確かに凄いし情報漫画としても重宝する。しかし、それが漫画作品として、とりわけ週刊少年ジャンプ作品の在り方として適切なのか?という疑問が連載20年を超えたころから芽生え始めたワケだが、作品が落ち着きを取り戻したこともあり、自分でも意外なことに、最近またこち亀を楽しく読めるようになってきたのだ。

 うんちくをウリとした長期連載といえば『美味しんぼ』が代表格だが、あちらは原作者自信も認めるように近年は物語としての質の低下から漫画作品としての必然性を失いつつあるのに対し、こち亀の方は(元々がギャグ漫画である事もあり)依然として漫画としての必然性は保たれている。秋本治は一見ワンパターンに見える連載の中でも絶えず実験的な演出に挑戦し続けており、時々「これは」と息をのむような素晴らしいシーンを目にすることもある。(昨年の深夜ラジオを扱った回は素晴らしかった。)

 このように新しい話題に常に挑戦し続ける一方で、作品の根幹をなすのはあくまでも昭和30年代的な下町人情の世界である部分は変えていないのも良い。昭和30年代というのは実際にその時代を経験したことのない80年代生まれの自分にすら「なんか懐かしい」と思わせる魔力を持った現代日本の原風景であり、こち亀はその豊かな土壌を実に巧みに現代に活かしているのである。かといって「昔は良かった」的な過度なノスタルジーには陥っていない点も注目に値する。両津はメンコやベーゴマの達人である一方で、最新鋭の情報端末やゲーム機をも自在に遊び倒す現代性を持っているのである。

 そして、そんなこち亀が今でもジャンプを開けば毎週必ず(必ず!)会えるというこの奇跡。最近はそれが何よりもありがたく感じるようになってきたのだ。

 東京の街並みと同じように、漫画界は常に変化し続ける。ジャンプの誌面も変わり続ける。こち亀もまた変わる。良くも悪くも変わる。しかし、こち亀が毎週必ず読めるという事実だけは三十数年来変わらない。「派出所」という呼び名も、(一度「交番」に書き換えられた事はあったが)変わらない。
 そういう作品がジャンプにあってもいいじゃないか。次の10年20年も、こち亀と共に見届けていきたいと切に思う。

 あと、久しぶりに戸塚と寺井とダメ太郎あたりをまた見たい。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2010-08-04 23:39:27] [修正:2010-08-05 21:36:07] [このレビューのURL]

※ヘビケラの胴体並みに長いです。

「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし 失われし大地との絆をむすび、ついに人びとを青き清浄の地に導かん」
 
 アニメ映画史上の最高傑作のひとつとされる国民的作品『風の谷のナウシカ』。本作は宮崎駿本人によるその原作漫画である。アニメ公開より2年早い82年にアニメージュ誌上で連載開始されたが、宮崎駿がアニメ作家としての名声を高め本業が多忙になる中たびたびの休載を挟み、アニメ公開から10年後の94年にようやくの完結をみたが、物語当初は共通していた本作の主要なテーマ「自然と人間の調和」を巡る描写は、劇場版とこの原作版では既にここでも多く語られているように相当に異なった様相を呈するに至った。

 劇場版ではナウシカは人々が長年到来を切望してきた神話的な救世主のように描かれており、物語の結末は冒頭掲げた予言が現実のものとなるという、美しく感動的で、しかし安易な予定調和ともとれるものだった。一方こちらの漫画原作版は、結末において“青き衣の予言”はある程度の整合性を持って表現こそされたが、ナウシカがもたらしたものは、約束された調和の未来ではなく、清浄と汚濁がないまぜとなったような果てしない混沌の未来であった。


 では両者が決定的に道を違えた分岐点はいつだろうかと考えると、おそらくナウシカが神聖皇帝ナムリスとの戦いの際に着用していた「青き衣」を破かれ、下着姿(しかもヘソ出し!)という色々な意味で衝撃的な姿をさらし、直後覚醒した巨神兵の”母親”になった瞬間ではないかと思う。
 時期的には丁度91年の中ごろの事だった。当時掲載誌アニメージュのアニメキャラ人気投票では、映画公開数年を経てもなおナウシカは1位の牙城を堅守し続けていたが、前年放送され大人気を博した庵野秀明監督(劇場版で巨神兵の作画を担当)の『不思議の海のナディア』のヘソ出しヒロイン「ナディア」にその人気が猛追されていたため、読者のパロディイラスト投稿コーナーでは「ナディアには負けられない!」とナウシカが困惑しながらヘソ出し姿に挑むイラストなんてものもあった。だが、ことはそんな単純なファンサービスだけの話ではなかったのである。いや、ファンサービスも無論あっただろうが、監督的に。


 ナウシカの着衣は、その世界において生態系の頂点に君臨するあらぶる自然の象徴でもある巨虫「王蟲」の体液で青く染まっていた。この青き衣こそが予言にも謳われた人と自然を結ぶ救世主、ナウシカのいたわりと友愛の象徴だったのだが、それが引き裂かれた時点で、我々はもう劇場版と同じような結末は望むべくもないことに気づくべきだったのかも知れぬ。その年の暮れ、かつて宮崎駿が大いに関心を寄せていたマルクス主義の正統を自認した巨大国家、ソビエト連邦は崩壊した。
 ナウシカは覚醒した旧文明の遺した生体兵器である巨神兵に対して母のように振る舞い、この忌まわしい巨人の母にすらなった。巨神兵は劇場版で描かれたような単なる兵器ではなく、旧文明が行き詰まりの果てに作り出した人格を持つ人造神であった事が発覚するが、“毒の光”を撒き散らすこの腐りかけた巨人をお供にナウシカが破壊神の如く大暴れするクライマックスからは、もはや多くの観客を魅了した女神のようなナウシカ像からは遠く離れたものとなり、それとは別種の凄みが貌をのぞかせ始めていた。

「愚かな奴だ たった一人で 世界を守ろうというのか ナウシカ…」
「腐った土鬼の地も土民共もみんなくれてやる 全部しょってはいずりまわって世界を救ってみせろ!!」

 ナウシカは決して完全な英雄ではない。若さゆえの甘さもあれば激情に駆られて暴走もする。しかしそれでもこの少女の持つ圧倒的な凄みは否定のしようがない。それは彼女が肉体的な強さや美しさは無論の事、小さな体でこの歪みきった世界の不良債権を一手に引き受けようとしてみせた事による部分が大きいのではないか。
 物語終盤、この世界の営みの真実を知ったナウシカは、苦悩し、自らの罪深さにおののきながらも安易な救済を拒否し、救いをエサに生命のコントロールを目論む傲慢な旧文明(≒破産管財人)と決別、巨神兵でもって破壊するという快挙(暴挙?)を成し遂げる。いわば世界の行く末を彼女がほぼ独断で裁定してしまった形である。
 「一介の少年少女の内面世界の有り様に委ねられる世界全体の行末」という構図は、ナウシカ以降、庵野秀明監督によるもう一つの巨神兵譚『新世紀エヴァンゲリオン』などから顕著になったセカイ系的作品群にも通底する意匠だが、改めて見てみると両者は似ているようでやはり違う。ナウシカの選択した結末は、決して一時の感情や自我の在り方のみから導かれたものではなく、ほとんどの人間の知りえぬ世界の深淵を前に血反吐を吐きながら浮かび上がらせたギリギリなのだった。

 つまりは「世界に対する無限責任」をナウシカは背負ったのである。神がかり的な宗教運動家や革命思想家、もしくは真性の狂人、そういうケッタイな人種にしか背負いえない大業をナウシカは背負ってみせたのだ。「破壊と慈悲の混沌」と称されたその覚悟の凄まじさは、ちょっと形容のしようが無い。
 エピローグの記述を見る限りでは人類はその後もしぶとく歴史を重ねたようだが、ナウシカのその後を巡る二つの年代記の記述の違いは、それぞれが彼女の「人性」と「神性」をあらわしているように見える。あくまでも穢れた人間としての矜持と生き様、それをゆるぎなく遂行する神のごとき強さ、完結までに10年超を要した時代の流れの中で作者の思想の変転そのままに混沌の度合いを深め、破綻しかけたこの作品を根性でひきずりあげたのもまたナウシカだったのだ。

「ナウシカ それはわたしとあなただけの秘密です」

 以上のように圧倒された結末だったが、駆け足で消化不良な感は拭えず、ラストで明かされる「青き衣」の秘密を巡る部分がどうしても小骨のように引っかかるため、ここはあえて9点に留める。他にも世界観設定や細部のデザイン、戦闘シーンの拘りやキャラの魅力、食事シーンの扱いなどなど語り残した事は多いが、ひとまずここで締める事とする。 おわり

 

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-07-20 01:14:20] [修正:2010-07-21 23:15:42] [このレビューのURL]

 週刊少年サンデーといえばかつては「漫研部室のサンデー」とも言われたような優等生的な安心感のあるブランドだったが、近年は編集部と作家との間のドロドロした確執の話題が表面化し、雷句誠や藤崎聖人といった同誌の人気作家が他社へ移籍するなどして何とも不穏な空気に包まれている感がある。両氏とも移籍先の講談社では激しくビミョーな感じではあるが…。

 そのような中にあっても、本作『金剛番長』からは、少なくともそういう不穏さは微塵も感じられなかった。作家もノリノリ、編集も輪をかけてノリノリ、互いの悪ノリが異様な相乗効果を生み、この21世紀の現代に学ラン系超人バトル番長漫画をメジャー誌で堂々連載するという究極の酔狂を貫徹、潔く「筋を通して」みせたのだから。
 
 近年の超人バトル漫画は互いの能力や心理的駆け引きなどを重視する傾向が強いが、本作の主人公である金剛晃は「細けぇ気にするな」「知ったことかー」と居並ぶ多彩な強敵たちを次々と拳一本で粉砕していく。敵も番長、味方も番長の学ラン番外地、敗れた敵の多くは主人公の男気に惚れて仲間になり、物語演出は終盤地球規模にまで加速度的にインフレを遂げる。もう今となってはギャグにしかならないようなこれれらの意匠を確信犯的にたたきつけてくるのが本作の流儀である。作者の鈴木央はジャンプから移籍してきた過去もあり、そういう往年のジャンプ的なノリを意図していたのは間違いないだろう。

 編集サイドもそんな作者の本気に最大限こたえる姿勢を示しており、単行本の帯文や巻頭巻末の煽り文句などを見ても

「せっかくだかrた俺はこの金剛番長1巻を買うぜ!」

とか

「タフすぎてそんはない」

とか

「ゲーーーーッ!?」

 とか、もうやりたい放題の傍若無人、わかる奴だけわかればよし!的な酔狂が暑苦しいほどに充満していた。しまいには『キン肉マン』よろしく読者投稿による「僕の考えた番長」コンテストまで開催され、登場キャラとして採用されるなど、とにかく編集サイドの熱意が非常に感じられる作品となったのである。

 ただ、このように書くと本作が悪ノリだけで構成されたような作品に感じられてしまうかもしれないが、実は結構本気で「番長」という存在の魅力を描こうとしていたのも本作の良いところだ。
 物語中盤、「熱くない男は死んでよし!」をモットーとする熱血主義の化身・爆熱番長との戦いが描かれるエピソードがあるが、ここでは同じ熱血系キャラである爆熱番長と金剛番長が対比され、人の弱さも受け入れる金剛番長の度量の広さが示される。よき番長の魅力とは強さや厳しさと共に他者を受け入れる度量も併せ持った存在なのであることを改めて気付かされた格好で、作品の大半を覆う酔狂の陰で輝く真っ当さが、何とも絶妙な読後感を提供してくれた。

 以上のように作品のノリとしては非常に自分の好みにあう作品だったが、しかし期待していたがゆえに残念な部分も多かったのも事実である。皮肉なことにそれらの欠点の多くはこの作品の長所が裏目に出た点が多かったのだ。

 本作の魅力は単純明快で強力無比な金剛番長という主人公による部分が大きかったが、この金剛番長があまりにも強く、どんな危機に陥っても「知ったことかー」「気合いだー」で形勢を逆転させてしまうため、バトルがどうしても単調になってしまうのだ。これは近年の洗練された能力系バトル漫画を読みなれた読者には最初は新鮮にうつっても、次第に飽きられる結果となる。
 また、当初は東京23区の各地区で行われていた番長達のバトルも物語の(意図された)インフレに合わせるかのように規模が拡大化し、しまいには地球を破壊しかねない勢いに膨れ上がった。むろんこれは”そういうノリ”を狙った作劇だが、さすがに酔狂だけであんな人が万単位で死んでもおかしくないような展開はちょっと…と思った。物語のラスボスである日本番長(金剛番長の兄)の悪行の動機にしても、

「母さんが愛したこの世界は母さんを拒絶した。だから俺はこの世界を憎む。」

 といういかにもなセカイ系の典型で、この手の作品とは食い合わせが悪いように思い非常に萎えた。この終盤のせいで、番長漫画の復権を謳った本作が結果的に番長というイメージを風船のように肥大化させ、しまいには逼塞させたのでは?という思いもぬぐいきれない。だが、まぁそんな細けぇ事は気にせず読んで充分おもしろく、奇抜なキャラ設定のおかげでネタ漫画としても一級品の良作には違いない。単行本は全巻買う。それがせめてもの自分なりのスジの通し所だッ!

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-07-03 02:04:35] [修正:2010-07-04 23:01:19] [このレビューのURL]

 小動物的な可愛さを持つ元気な女の子。
 年中だらしない格好をして家でゴロゴロしている「とうちゃん」。
 ひょんな事から主人公の女の子と友達になった女子高生のお姉さん。

 安永航一郎が久しぶりに商業誌に復活という事でこの『青空にとおく酒浸り』の1巻を手にしたとき、メインのキャラ配置に妙な既視感を覚えた。なんか、そこはかとなく世評も高い某癒し系ほのぼの女の子漫画と似ているなぁと。

 2巻を買い、巻末コメントを読んだ。

「貧乏くさい『よ〇ばと!』を描いてみようとゆーことで大ヒットを狙って景気よくスタートした本作ですが(中略)非人道的『じゃ〇ん子チエ』になってしまったのはなんでなんだぜ?」

 数年に及ぶ雌伏のときを経てもなお、安永航一郎はこれっぽっちも変わっていなかったのである。臆面の無いパロディ、無駄なハイテンション、変態の狂い咲きサンダーロード、脚線美の眩しい美少女達、”どうってことのない日常”なんかくそ食らえ、息が詰まるほどの濃さに眩暈を覚え、同時に安堵と歓喜の涙も流しそうになる。けれどもそんな濃い目でハイテンションの安永テイストをどばっと盛り込む一方で、作品の空気感そのものとしてはネタ元である『よつばと!』に代表されるような日常ほのぼの系にも通じる肩の力の抜け具合が感じられるのが凄い。
 変態達の織り成すしょうもない事件の数々が描かれながらもそれらすらが作品世界の持つ「日常」と化しており、その結果本作もまた日常ほのぼの女の子漫画と化してしまったワケである。(ただしスネ毛か汗とかよくわからん汁とかにまみれた…)

 もう50近いおっちゃんが昔と変わらずこんな漫画を描いてくれている事に驚愕し、また心からありがたいと思う。
「わははははははははははははははははははは」
 そんな安永航一郎の高らかな嬌声すら聞こえてきそうな作品である。

ナイスレビュー: 3

[投稿:2010-06-08 23:50:55] [修正:2010-06-10 23:33:06] [このレビューのURL]

7点 幕張

「幕張」の連載が始まった1996年当時、週刊少年ジャンプは混迷の淵にあった。
 ドラゴンボールをはじめとする黄金期の人気作品が次々と連載終了し、部数の低迷に歯止めはかからない。「るろうに剣心」や「封神演義」などの新たな人気作品も出るには出たが、それでも90年代初頭までの黄金時代にはなお遠い。ほどなく発行部数でもライバルの少年マガジンに一時的に抜かれたりもしたが、ともかくそんな混迷期、ジャンプもまた新たなかたちを求めて迷走をしていた。内田有紀の巻頭グラビアを載せたりしたのもこの頃だった。

 しかし、そんな混迷期にこそこれまでにない新たな才能が発掘されちゃったりもするものである。後にもギャグ漫画の歴史に名を残す奇才が誌面をにぎわし始めたのだ。「すごいよ!!マサルさん」のうすた京介が、そして本作「幕張」の木多康昭が。

 上記のように大げさに煽ってみたが、ではこの「幕張」という作品、万人が屈託無く笑えるお勧めギャグ漫画かというとそんな事は断じて無く、非常に人を選ぶ作品である。

・下劣な下ネタに免疫がある。
・90年代中ごろの芸能事情に詳しい。
・悪質なパロディや中傷をギャグのためなら笑って許せる広い度量。
・週刊少年ジャンプ黄金期の愛読者だった。(←最重要!)

 本作を真に楽しみ、グヘヘヘと下卑た笑いを浮かべる為にはこれらの要件を満たした方がより都合が良いのだ。こうも読者層を限定するギャグ漫画、普通に考えると高評価にはならない、はずである。
 おまけにこの「幕張」ときたら、ギャグの過激さが尋常ではない。タレントやジャンプの他作家を作中実名でけなすは、物語上脈絡なくオマージュどころか完全トレースしたような他作品のキャラを押し込むは、まるで青年誌のようなリアルでディフォルメを排した絵柄で、最低にもほどがある下ネタを容赦なくぶっこむは(「奈良づくし」は悪夢だった)、まぁ、本当に、ひどい。
 ストーリー展開も狂っている。高校入学時、「ジャンプにはもうスラムダンクがあるから」という理由でバスケ部への入部を断念した主人公コンビは野球部に入部するが、まじめに部活動に勤しむ事など無く周りの同級生や教師たちと下品で最低な騒動をひとしきり繰り返した後、唐突に世界最強の高校生を決める「世界高校生選手権」に出場する事となり、そこでも変わらず変態的で最低な戦いを繰り広げていく…というストーリーである。最終回は唐突に「この漫画の主人公はガモウヒロシでした」と某新世界の神に喧嘩を売ってそのまま劇終という具合だった。
 部活動を脇目に下品で変態的なギャグを描く、というと同時期にヤングマガジンで人気を博した「行け!稲中卓球部」が思い起こされる。ジャンプ編集部も当初はそういうノリを狙ったのかもしれないが、ふたをあけると全く違っていた。「稲中」の方は絵柄がいかにも漫画っぽく、下品なギャグの中にもどこか思春期の少年少女の葛藤みたいなテーマが描けていたのに対し、「幕張」の方は絵柄はやけにリアルで、にも関わらず真摯な裏テーマとか、そういう滋味は一切無かった。友情も努力も勝利も全ては本作ではむなしかった。

 …以上のようにどうようもなく混沌とした作品だったが、それゆえに本作は当時のジャンプを象徴するメルクマールたりえたのだと今にして思う。過激なギャグを、しかし妙に浮遊感のあるシラけた描線で描いた本作の混沌っぷりは、そのまま冒頭にも書いた当時のジャンプの混迷の表れだったのだ。
 
 原哲夫、宮下あきら、こせきこうじ、北条司、鳥山明、井上雄彦…、かつて木多康昭が深く愛した大作家達が次々と疲弊して一線を退いて行く。次のスタンダードも未だ確立はされない。
 そんな中、ギャグ漫画としての行儀の悪さというある種の治外法権を最大限に発揮する形で「幕張」は当時のジャンプのネガ面での象徴となり、ふがいない同誌の現状に対する嘲笑ともなり、同時に去り行く黄金時代への惜別の弔鐘をかき鳴らしたのだ。本作にやたらとドラゴンボールとスラムダンクのパロディが頻発する事もそれを物語る。こうしてひとしきり毒を吐き散らした後、作者は敬愛する井上雄彦の後を追うように講談社へと移籍を果たし、現在に至っている。

 当時の特殊な状況の生んだ鬼子のような作品には違いないが、「幕張」というほかに類を見ないギャグ漫画の事を忘れることは多分無い。ジャンプの歴史に良くも悪くも刻み付けられた凶悪な爪跡なのだ。

 なお、下ネタ・内輪ネタ・過去作のパロディなどの本作の得意としたギャグのエッセンスの多くは、現在のジャンプ漫画では「銀魂」に受け継がれている気がする。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-05-25 00:23:57] [修正:2010-06-10 23:30:05] [このレビューのURL]

 2010/5/2 更に追記

 思い出とは甘美なものである。例えば、学生時代に部活の帰りなどによく立ち寄った地元のラーメン屋の味が楽しかった日々の思い出と共に過剰に美化されて心に残る、なんて事は多かれ少なかれある程度の年齢に達する人なら覚えがあるはずだ。ところが大人になって経済力が増し、それなりにうまいものも食べて舌が肥えた後にそういう思い出のラーメン屋に行ったりすると、懐かしさに感動する一方で「あれ?俺はこの程度のラーメンに昔は感動してたのか?」と気づきたくもない事実に気づいてしまう。

 ラーメンも現代漫画文化も、共に現在進行形で進化中であり文化としては比較的日が浅い。時代を超えて普遍的な価値のある品もある一方で、一時期は人気を博したが現在の感覚で味わおうとすると安っぽさや古臭さが鼻についてどうにも味わいにくい品も存在する。

 前置きは長くなったが、この「暁!!男塾」は、かつて大人気だったラーメン屋が21世紀のご時世に昔と変わらぬ味を狙って再起を図るも鳴かず飛ばずとなってしまったような作品である。一応「思い出補正」に支えられた昔からのファン層によって商売は成り立ってはいるが、新たな客層の開拓には結びついてはいない。そして主な客層である昔からのファンにしてみたところで、本作の味わいは決していいとは言いがたいのが現状である。

 理由は主に二つある。第1にお客の側の舌が昔より肥えてしまったことと、第2に商品の質そのものが全盛期と比べて劣化したことにより、ノリ的にはかつての名作「魁!!男塾」に似せてはいるがその味わい深さには雲泥の差がついてしまった。

 これは何も昔のファン層が成長して大人になったからとか作者の筆力が衰えたからというだけではなく、作品を取り巻く環境の劇的な変化…ネット社会の発達という要因も深く絡んでいる。

 現在は例えばラーメン屋にしたってネットでちょちょいと検索すればすぐにおいしい人気店を調べられるが、そういう世の中では男塾的なノリを素直に味わう事はかなり難しい。本作は20年来変わることの無いジャンプ黄金パターンという名の化調(化学調味料)に頼っているが、「友情努力勝利」「仲間が死んでお涙頂戴→人気キャラはすぐ復活」「倒した敵は仲間になる」、こういうパターン化された味わいの安っぽさそのものが時を経て露呈してしまったのだ。現在ではこういう化調だのみのラーメンはネット上での評価は総じて低いのである。

 かつての「魁!!男塾」ではそういう化調の安っぽさを補って余りある魔法の秘伝ソース「民明書房」があった。作中登場する様々な武術や奥義や武具、無論すべて実在しない大嘘だが、もっともらしくい引用されるこの民明書房刊の架空書籍群の放つ怪しげな香りは当時の子供たちを大いに魅了し、その語り口の本物っぽさもあって信じる者も少なくなかった。それはかつての少年向雑誌の持っていた怪しい大らかさであった。
 現在は、もう図書館を調べまわったりせずとも一発ググりさえすれば、民明書房が大嘘であることなど小学生でも気が付くことができる。昔のようにもっともらしい嘘をついても無駄だと割り切ってしまったからだろうか、本作「暁!!男塾」においてはこれらのネタの劣化は著しい。安易な駄洒落に頼った必殺技のネーミングも不愉快なら、何かにつけてすぐに「気」とか「念」とかそういう超能力に頼ってばかりなバトル描写も安っぽさに拍車をかけている。前作の末期にも見られた事だが、今ほど酷くは無かった。
 こうして秘伝のソースは秘伝では無くなり、魔法は解け、後には化調の配分を誤った安い味わいのスープが残ってしまった。恒常的に塩分や油分に囲まれるラーメン屋の店主の中には味覚が早々に衰える人も少なくないというが、作者の宮下あきらもそれと似たような状態に陥りつつあるのではと勘ぐってしまう。

 ただ、上述のように作品を取り巻く雰囲気は思い出だけではカバーしきれないほど劣化しているものの、商品として、漫画としては破綻してはいない。スープがまずくなった一方で麺は濃い見た目と裏腹に相変わらずの喉ごしの良さで、スルスルとストレスを感じることなく実にスムーズに味わうことができる。繰り返されるお約束も慣れてくると次第に快感に変わり、「来週どんな展開が待っているんだろう?」と余計な気をもむことも無く時間つぶしにはもってこい。漫喫で一気読みするにはうってつけの作品とも言える。

 聞くところによると宮下あきらはネームを描いたりせずに一気に原稿用紙に直筆で昔から漫画を描いてきたらしい。以前も民明書房の社長(え?)との対談の中で、小利口な作品の多くなった少年漫画界の現状に疑問をさし挟んだりもしていた。いずれにせよ「HUNTERxHUNTER」的なノリとは対極に位置するような作家姿勢だが、決して思い出のみに拠るわけではなく、真面目にそういう漫画のあり方も必要なのではないかと最近は思いつつある。
 原材料や製法に拘り、一杯千数百円、場合によっては数千円するようなラーメンが世間をにぎわすのを尻目に、全盛期と比べて味は落ちつつもそれでも早くて安くてそこそこうまいラーメンを作り続ける地元の店にも似た愛着を感じつつ、なんやかんやで今でもずっと読み続けている。


2010/04/09 以下追記

 色々とイヤミったらしい事を書いてしまったけれど、こういう作品に無邪気に酔いしれる事ができず、ネタとしてしか消化できなくなってしまった現状に寂しさを感じてもいる。誰かに頼まれたわけでも無くこういう事を書いている素人レビュアーが言える事でも無いかもしれないが。

2010/05/02 更に追記

 上記のような感想を書いた直後、本当に最終回を迎えてしまった。バトルに次ぐバトル、昨日の敵は今日の強敵(とも)、明らかに死んだ奴も設定リセットで何食わぬ顔して参観席に駆けつける男塾の卒業式。最後の最後まで男塾イズムを貫き通した潔い結末だった。今作が前作より優れていた部分は結末が打ち切りっぽくなく比較的きっちり描かれた事だろう。宮下先生、本当にお疲れ様でした。押忍、Gods and death!!

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-04-06 21:49:15] [修正:2010-06-10 23:26:09] [このレビューのURL]

 「落ち物」と呼ばれるジャンルの漫画がある。さえない男主人公のもとに空から美少女が落ちてきて、彼女をめぐって平凡だった男の日常は上を下への大騒動、ラブ&コメディの日々が始まる…という類の奴である。古くは「うる星やつら」、少し前なら「ああっ女神さまっ」などがこのジャンルの代表作であり、美少女ギャルゲーや深夜アニメの作品群にも似たようなものは枚挙に暇がないはずである。

 そして本作「ハルジオン・ランチ」は、ネオ時代劇「無限の住人」で知られる鬼才の沙村広明 (←アラフォー)が本気を見せた落ち物ギャグ漫画の最先端である。内容は一言で表すと、カオス。とても系統立てて説明するのが困難な内容だが、同作者の「おひっこし」にはまった人ならまず外さない面白さがある。

 部下に金を持ち逃げされ事業に失敗し、川で食料の魚を釣らねばならぬほど困窮していたホームレスのアラフォー中年男「化野(あだしの)」。日がな一日釣り糸垂らす彼の元に、「お腹へった」と突然現れた地球外の美少女「ヒヨス」。主人公がホームレス中年という以外は取り立てて新鮮味の無い落ち物の王道的導入部である。

 これまでの落ち物ヒロイン達も空を飛べたり電撃を撃てたり、と特殊能力を持っている場合がほとんどだったが、本作のヒロインであるヒヨスの能力は、何と生魚だろうとリヤカーだろうと家電だろうと人間だろうと何でも一口サイズに縮小して食べることができるというとんでもないものだった。それどころか一度食べたものを「うっええええエエエエ」と吐き出しす事により、食べたものが生物無生物を問わず融合して出てくるという更にとんでもないコンボが…。そう、ヒヨスは「無敵看板娘」の鬼丸美輝、「銀魂」の神楽らに続く正統派の”嘔吐ヒロイン”だったのだ。そして従来の嘔吐ヒロイン達がその食い意地に相応しく男勝りな元気さを売りにしていたのに対し、ヒヨスはいわゆる”綾波系”的な無表情&常識の欠如が特徴なのが新鮮である。

 このハタ迷惑極まりない能力(”ちから”と読んでください)を持った美少女と彼女の保護者に選ばれてしまった中年男性を軸に、理系で兄萌えのジャンキー少女、気の毒な犬(詳細は後述)、金を持ち逃げしたメガネ男子等等の奇妙でダメな奴らを巻き込んで物語はあさってどころか明々後日の方向に全力で転落していく。
 一応はすべてを失った中年男性の再生物語みたいな大筋もあるんだろうが、とにかく設定のカオスさと物語に脈絡なく大量投入されたマニアックな小ネタの数々(無料回収車「貧乏姉妹海物語」「ATARI社のレア基盤」には呼吸困難になるほど笑った)が、そんな本筋?をボヤカすほどに隙間なく詰め込まれている為にますますその全容をつかむのが困難である。何しろ第1巻のラストで登場人物の一部が「北の某国」の潜水艦に拉致られるのだから。いや、ギャグ漫画だから全然OKだが。

 とにかく非常にカオスな作品だが、作者の絵のうまさもあって不快感は感じない。それどころか、ヒヨスの吐き戻しによって誕生する様々なクリーチャーのデザインなど、立体化したらそのまま現代アートとして通用しそうなくらい秀逸である(←訳が分からないとも言う)。単行本表紙の裏カバーでもネタにされているように、その有機物と無機物の融合した奇怪なデザインは前衛芸術家成田亨によるバルタン星人やゼットンなどの初期ウルトラ怪獣や、クローネンバーグの映画(←「ザ・フライ」」とか)に登場する「柔らかな機械」を髣髴とさせ、美大出身の作者の才能の無駄使いっぷりが見ていて痛快である。
 極めつけはレギュラーキャラとなった気の毒な犬「アスキー犬」で、これはハスキー犬とうまい棒とデコケータイがヒヨスの体内で融合した結果誕生、前足がうまい棒、顔がアスキーアートで構成されたというとんでもないデザインで、コイツを見る為だけにも本作を読む価値があると自分は信じる。

 以上、色々書いてきたがとにかく本作に関しては「まずは読んでみてくれ」としかいいようがないほど混沌としている。思うに、何故そうなったかというと、それは本作が沙村弘明による”ゲロ漫画”だからなのであろう。
 落ち物美少女、人間ドラマ(?)、SF、オタネタ、現代アート、様々な食材を沙村弘明は一旦咀嚼した上で、「うっええええエエエエ」と原稿用紙という名のキャンパスにぶちまけた結果誕生したのが本作なのだ。色よし形よし香りよしの三方良しを実現した素晴らしいゲロ漫画である。
 しかし、いくら味が良くてもゲロはゲロなので、毒気も強いし吐いたゲロを一目見ただけで元となった食材を当てられるような食通(というよりオタク)でないとイマイチ面白くないかもしれない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-03-28 19:26:07] [修正:2010-06-10 23:25:18] [このレビューのURL]

 あれはもう10年前になるか、当時青雲の志に胸躍らせていたピカピカの大学一年生の自分は、友人の部屋で無造作に転がっていたアフタヌーンシーズン増刊を拾い読み、本作に出合ってしまった。「無限の住人」は存在は知っていたが読んだことは無かった。(今も無い。)
 そこで描かれる奇妙な青春群像とマニアックなギャグに惹かれるものを感じて「蟲師」や「ラブやん」や「もっけ」と併せて大いに楽しみ、単行本も購入。そうこうしているうちに夢のように大学時代は過去のものとなった。

 今、手元に「おひっこし」の単行本は無い。卒業時に実家に帰った際、他の荷物とまとめて押入れにしまいこんでしまった。それから更に数年、しかし今でもあの鮮烈な印象は脳の片隅になお残る。

 以下、記憶を頼りに印象的だったシーンやセリフを拾えるだけ拾ってみる事とする。細かいところは間違っていると思うけど御容赦。


第1話

「俺は赤木さんが好きだ!」
「おお、自分探しの旅じゃぁ」 「ケッ反吐が出る」
「ウェルカムトゥーザヘール!」
「銀ビス少女隊」
「♪バナナセーキ バナナセーキ」

第2話 ←ここから読み始めた

「ローマは一日にして成らずんば虎児を得ず」
「ベヘモト (中略) 斉天大聖 (中略) マドモアゼルフロムヘル」
「やっぱ行楽地のお昼はカツカレーだよねー」
「くらえっデスマサカー!!」
「今いるここはどこ?魔界?」(背景;ジェダステージ)
「マンマ!僕も一緒に行くよォッ!」 「ああっ、ピザ野郎が逃げた!」
「ジャッジメントギャルズ」

第3話

「ですめたるは不滅です」(巻頭アオリ文句)
「伊太利亜人のお墨付き」
「ペスカトーレ! ユダめェェェェェ!」
「ブタに食わせとけ!」
「今時デスメタルに硬派性を感じるってのは、本棚の目立つ場所に「地獄の辞典」を並べるのと同じくらい格好悪い事だと思うんすよ。」
「何故ベノム?現世とは没交渉の一枚」
「あたしこの車、晴海の催事場え見たことある…」
「あたしは小学館のコロタン文庫で」

第4話

「世界のどこかにあるという回転しない寿司屋へ!」(BGM;ガンダーラ)
「所持金700ペリカ」
「実は私ずっと夜尿症が治らなくて」 「うわーダサー」
「赤木さん、私怖い!」 「マグマグ人?」
「好きなドラマーはブライアン・ダウニー 好きな呪文はザラキ 嫌いなものはお前のような女です」
「木戸草介は後に述懐す」
「早くレポート仕上げねーと」
「バローネ、このイタ公!」

最終話

「誰が言い訳しろつったよ?」
「みなさんありがとう 土佐の黒潮に揉まれて巨乳になって帰ってきます」
「うわーーん赤木さーーん」
「♪あなたーの胸で泣かせて欲しいー」
「これで飯でも食てやー」(←ウルヴァリン) 「えっ1万円も?」
「……がんばんな…」
「ぶわっはっはっはっは」
「♪君の名を呼ぶときは…」
「危険って何がですカー!?」
「その後、それなりに幸せになったという」


 …不思議だ。当時確かにいろいろ思うところもあったしそれなりに感動もしたはずなのに、思い出されるのはどうでもいいシーンやデティールばかりである。というか上のセリフだけ見たらどんな漫画かさっぱりわからん。

 フラフラしているようで生活臭く、何も考えてなさそうでその実ひたむきでもあり、永遠に続くような時も「おひっこし」と共に終わりを告げる。この底が浅いのか深いのか、大事な何かを学べたのかそうでないのかも良く分からんが妙に楽しい読後感は、しかしそれゆえにマニアックなデティールと共に記憶に残ることとなった。いまだ自身の大学生活というものを人生においてどう位置づけるべきか分からぬわが身なればこそ、かもしれないけれど。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-03-24 23:41:47] [修正:2010-03-24 23:41:47] [このレビューのURL]