「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

 誰でも授業中に”内職”をした経験はあるだろう。ノートの欄外に落書きしたり、歴史教科書の偉人に額に「肉」とか描いたり、机に絵を彫ったり、隣席と手紙を交換しあったり、教科書で隠しながら早弁したり、と、内容や程度にばらつきはあるがこれらの内職が学園モノの作品などで作劇や演出の一環として描かれることは多々あった。

 そこにきてこの『となりの関くん』だが、本作は何とそんな授業中の内職をピンポイントでテーマに据えた作品である。非常に地味なテーマに関わらず内容は予想の斜め上を行く奇想天外さや、甘美な背徳感に不思議な清々しささえ加わって独自の境地に達している感すらある。

 ストーリーの背景設定・人物設定ともに本当に必要最小限のミニマムなもので、机と机の中間点を起点に半径2m以内くらいで収まる小さな世界のささやかな秘め事が描かれる。
 となりの席の関くんは、今日も授業そっちのけで内職に励み、そんな彼を横から見守る(自称)真面目少女の横井さんは、関くんの一人遊びに気が散って勉強のペースも狂いまくり。だけれど迷惑に思いつつも関くんの繰り出すあまりに奇妙で独特な内職がどうしても気になってしまい、小声でコミュニケーションを試みたり心中で盛大にツッコミを入れたり、遂には実力行使で彼の遊びに介入したりしてしまい、結局授業どころではなくなってしまう横井さん。

 基本無口でほとんどしゃべらずひたすら謎の内職に情熱を傾け続ける変人の関くんに対し、授業中故に心中でツッコミを入れるしかない横井さんという二人の関係性以外にキャラが描かれる事はあまりなく、作品の設定上舞台もほぼ授業中に限定される。(一応教室だけでなくグラウンドや理科室などのバリエーションは多少ある)
 だが物語はそんな二人の奇妙な関係のみで成り立っているわけでは無く、二人の周囲には「授業中の教室」という空間が厳然と存在する。そこでは厳しい先生や空気を読まないクラスメイトが周りを囲んでおり、物語に不思議な緊張感と穏やかな背徳感を与えていて面白い。

 あと、やはり面白いのが関くんの繰り出す奇天烈な内職の数々だろう。彼のかばんや机はさながら四次元ポケットであり、毎回読者の予想の斜め上を行く超展開が待っている。単行本第一話の消しゴムを使ったピタゴラ装置もかなりのものだったが、それ以降も将棋とか囲碁とかチェスとか一見ありふれた素材を用いながら誰にも真似できない独自の一人遊びワールドを展開し、読者は横井さんと一緒になって盛大に突っ込む。心中で突っ込むだけではあきたらず、横井さんは実力行使で内職に介入したり時には共同戦線を張ったり出し抜かれたり、と言葉を介さない謎なコミュニケーションが関くんとの間に形成され始める。

 本作はそう考えると一種のガールミーツボーイものでもあるかも知れない。年頃の少年少女にとって隣席の異性はそれこそエイリアンのような存在だが、この関くんのエイリアンっぷりはただごとではない。と言っても蟻酸を吐いたり人の胸を食い破って出現したりするのではなく、とびきり偏屈で何を考えてるのか分からないが、どこか憎めない子供っぽさを残した我が道を行く意地っ張りな、そんなエイリアンである。

 作品の設定が設定ゆえにあまり長続きするタイプの作品ではないかも知れないが、作画内容ともに安定しているので、今後も楽しんで読んでいきたい。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-05-15 23:18:09] [修正:2011-05-23 23:34:50] [このレビューのURL]

10点 水域

 前作『蟲師』で和風ファンタジーの新たな地平を切り開き、鮮烈な印象を与えてくれた漆原友紀が趣向を変えて挑んだ作品がこの『水域』だ。『蟲師』との違いは舞台が現代日本である点、主人公が異能の力を持たない普通の少女である点、1話完結式の奇談集では無く、連続性のあるストーリーの単行本2巻分の中編である点など様々にあるが、独特の茫洋とした淡い描線や空気感、歴史的な古層を感じさせる豊穣な物語性、日本の原風景としての「山里」への愛着、自然への畏敬の念などの根本的な部分での作者のこだわりは共通していたため、前作と変わらず大いに味わい深く読むことができた。
 本作が作品単体としても素晴らしい傑作である事は疑いなかったが、いかんせん前作『蟲師』の比類ない奇想に圧倒された身としては多少の物足りなさを感じた事も事実で、10点では無く9点くらいが妥当であろうと思っていた。ところが、非常に不幸な出来事ではあったが忘れもしない3月11日のあの日を経て、これまでは実感の希薄だった「もどるべき故郷の喪失」という本作で描かれた主題が決して絵空事でない事を否応なしに思い知らされ、考えを改めた。
 本作は、今だからこそ多くの人々に読まれるべき作品であり、またこれからも読み継がれていくべきであると強く信じる。

 物語のフォーマットとしては、読者の郷愁を誘う祖父母の村を舞台にした都会っ子少女のひと夏の冒険を描く「ぼくのなつやすみ」のようなものであり、そこにちょこっとファンタジー要素をちりばめたりして最終的には「家族の絆」をテーマとした作品という事が出来る。何だか非常にありふれたジュブナイルものに思えてくるかも知れないがそこはさすがの漆原友紀、優れたストーリーテリングと味わい深いにも程がある描写でそんな凡庸さなど微塵も感じさせない。
 異常気象で猛暑日が続きダムの渇水すら囁かれるそんな夏休みのある一日、水泳部に所属する女子中学生の主人公千波はランニングの最中に熱中症で昏倒する。
 目覚めると周囲の景色は全く様相を変えていた。止まない雨、人影のない山里、記憶の水脈の彼方に繋がる、遠い郷愁を呼び起こす山村で彼女の出会う少年と老人。聞けば他の村人達はみなどこかに行ってしまったと言うのだが。
 渇水にむせ現世と夢の向こうにある雨止まぬ山里。この水面で隔てられたような彼岸と此岸を往還しながら、物語は時間軸すら自在に前後させつつ、とあるに山里に抱かれて育ち結ばれ、そして山里を捨てたとある家族の3世代に渡る別離と再会の物語を紡ぎだす。更にそこに村の開村伝説である「龍神さま」をめぐる伝説や村人達の様々な人間模様などが重層的に描写され、中盤に明らかとなる夢のなかの山里をめぐる真相。千波が往還した山里こそ、彼女の祖父母と母親が生まれ育ち、そして都市の利便のための水源となるべくダムの湖底へと沈んでいった今は無きふるさとなのだった。異常渇水によってダムが干上がり、湖底に沈んだかつての山里の姿が再び白日のものとなった時……。多くの記憶と想いの水脈が繋がりそして去っていく美しくも儚い結末。

 人工美の象徴としてのダム湖、その水域に散じて集まる人々の想い、天と地をつなぎ人と自然をつなぐ雨水の化身としての龍神。日本は水に恵まれた国であり、それゆえに水をめぐる特異な自然観を発達させてきた国でもあるが、本作ではダムという現代的な切り口から、水をめぐる幻想譚として非常に豊かな読み応えのある作品に仕上がった。それだけでなく、「ダムに沈んだ村」という(やや使い古された題材ではあるが)故郷喪失の遣る瀬無さも加わる事で、単なるファンタジーの域を超え現代的なテーマも合わせ持つ広く多くの読者に読まれるべき作品になっている。

 程度の違いはあれど、近現代の日本の歩みは古くからの地域共同体を破壊する事で進展してきたし、その流れを止める事はおそらく出来ないだろう。本作のラストも3世代の家族の再会を描くハッピーエンドでありながら、故郷の喪失という現実からは逃れられないほろ苦さに満ちている。そしてあの忘れ難い3月11日以降、震災と原発事故により本作で描かれたような故郷喪失の悲しみは広く多くの人々の間で共有される事となってしまった。建物やインフラなどの物理的損壊だけでなく、地域に根ざして生きる人々の営みとそれらを育んできた自然そのものがかつてない規模で破壊されてしまった。

 まことに不幸な事ではあったけれど、だからこそ、今だからこそ本作は多くの人々に読まれ読み継がれるべきなのだと改めて強く思う。失うことと忘却する事は、決して同じではない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-04-28 01:52:12] [修正:2011-05-15 18:14:29] [このレビューのURL]

 歴史にifは禁物だが、それでも我々は「もし◯◯があの時生きていれば…」とか「もし??が△△時代に存在したら…」式の妄想シミュレーションが好きである。また、「虎とライオンが戦ったらどっちが強い?」という類の現実にはありえないドリームマッチを妄想するのもやはり大好きだ。侍vs西洋騎士、レシプロ戦闘機vs飛龍、名将スキピオとハンニバルの共闘…。
 そういう(主として男性の)興味や妄想を満たすために架空戦記小説やゲームの類があるわけだが、そんなボンクラ男子的妄想エンジンをフルバーストさせながら我らが夢工房(ドリームファクトリー、略してドリフ)の平野耕太が精緻なカスタム基板を組み上げコインいっこいれた結果起動したとンでもない物語世界、それがこの『ドリフターズ』だ!

 物語の基本はいわゆる異世界召喚モノである。関ヶ原で徳川勢と戦い壮絶な討ち死にをしたとされる荒武者の島津豊久を筆頭に、織田信長やらハンニバルやらジャンヌダルクやらと史実において非業の最期や謎の失踪を遂げた古今東西の英雄豪傑が、何者かの意思によってエルフとかモンスターの存在するファンタジー世界に召喚されて大暴れするというのが基本的な骨子だ。
 この手の作品自体はこれまでも多くあった。ファンタジー世界に平凡だった少年な少女が召喚されて大活躍するのもある種の定番ではあったが、本作にはそれら既存作品と比較してもひっじょーにアクの強い個性が感じられる。

 理由の第一は主人公をはじめ登場する英雄豪傑達のほとんどがマトモではない事である。主人公の島津豊久は人情に篤い好漢だが、その本性は乱世と血煙を無上に好み大将首を奪る事に血道をあげる戦闘狂だ。織田信長をはじめ他のキャラもだいたい似たり寄ったりであり、そこかしこから「諸君戦争が好きだ好きだ好きだー」という心の声が念仏のように聞こえてきそうなほどである。そういう迷惑極まる連中に蹂躙されまくるファンタジー世界の皆様にはご愁傷さまという他無い。

 理由の第二は、世界設定からして非常にゲーム的な意匠が徹底されている点だ。作者はコアなゲーマーとして有名なので、そのあたりの雰囲気は狙ったものだったのだろう。舞台となるファンタジー世界はまさしく箱庭のトップビューマップであり、召喚されてきた豪傑達は戦国無双な戦闘ユニットなのだ。単行本1巻の時点ではまだ詳しい設定は明らかにされていないが、彼らを異世界に送り込んだ神の如き上位存在が物語には2名存在し、物語の舞台となる世界はそんな二人による殺戮のチェスゲーム盤である事が示唆される。
 片方の人物(司書風の眼鏡男性)が送り込んだ島津豊久などの戦闘ユニット達が「漂流物(ドリフターズ)」と呼ばれるのに対し、「EASY」と呼ばれる対立陣営の少女が送り込んだ土方歳三やジャンヌダルクらの戦闘ユニット達は「廃棄物(エンズ)」と呼ばれる。いずれはこのドリフターズvsエンズの激しいストラテジーアクションが展開される事になるのだろうが、これら設定で注目すべきはドリフターズが現実世界の面影をとどめている一方で、エンズの側は現世で受けた仕打ちへの憎悪からかすっかり人外の力を操る狂気の怪物と成り果てている点だ。まさしく「EASY」の名に相応しく能力を違法コードでチート改造されたゲームバランスの破壊者達であり、そんな連中にドリフの一行がどう立ち向かっていくのか、興味は尽きない。ともあれかくも物騒なゲームの舞台にされてしまったファンタジー世界の皆様には、やはりご愁傷さまである。

 理由の第三、こう言ってしまえば身も蓋もないが、作者がヒラコーだからである。こんないかれた戦闘狂どもがハタ迷惑な騒動を起こしまくる妄想全開不謹慎漫画をそれでも面白いと感じさせてしまう筆力。まるで軍用ショベルで後頭部をベチベチ叩かれながら「あ゛あっ?゛、面白いって言えやゴラ」と強要されるような不埒な面白さ。野卑さと格調高さが不思議に同居した力強い平野節の魅力。理由の一とニも、結局はここに行き着くのだ。なにはともあれご愁(以下略

 ドリフト走行を続ける先の読めない展開が続く本作だが、1巻を読む限りでは今後がどういう展開であれ大いに楽しみである。豪傑ユニットを駆使した「大戦略」「コマンドアンドコンカー」「信長の野望」的な本格ストラテジー路線、異世界を舞台とした「幻想水滸伝」的なヒロイックファンタジー路線、とりあえず英雄豪傑最強決定戦な「ワールドヒーローズ」路線(サイボーグのドイツ軍人とかも是非出して欲しい)、どう転んでも楽しそうだ。しかし一癖も二癖もあるドリフターズ達が、神の如きゲームマスター達の意に従ってゲームの駒に甘んじるとも思えないので、いずれはそんな傲慢な世界設定そのものを「おれたちはモノじゃない」と気合と根性と悪ノリで破壊するような壮絶なバグを引き起こすことも期待している。

 その際に使用される武器がチェーンソーであれば尚良かである。これもサガか……。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-03-10 23:31:27] [修正:2011-03-20 19:45:45] [このレビューのURL]

8点 タイヤ

 『伝染るんです』のヒット以来、いわゆる“不条理ギャグ漫画”の鬼才として広く注目されるようになった吉田戦車だが、しかし“不条理”のみで吉田戦車を評価する事は早計であり、またこの不条理ギャグというジャンルが何やら80年代末に何の前触れも無しに唐突に現れた突然変異種であるように捉えることも、無論正しくない。本作『タイヤ』は、吉田戦車のとびきり奇妙で可笑しく、そして背後に湛えたほのかな哀しみも感じ取れる短編集だ。ギャグの要素がほとんど存在しない話も少なからず収録されており、ギャグ漫画というよりは奇妙な寓話集のような趣がある。

 本作は家族を扱った作品が多いのが特徴だが、その読後感はいずれも一抹の哀しみが残る作品ばかりである。自動人形の木人を父親・友人代わりとし、誰にも頼らず生きようとする木人職人の少年の孤独な戦いと別れ、そして再会の物語『木人の店』、針仕事に励む母親(表情が描かれない)とそれを見守る少年の間に横たわる不穏な断層を描いた『肩守り』、崩壊寸前の家族に“団欒”を取り戻すためにカレーライスを作ろうとする少年の材料探しの奇妙な冒険『カレー』、小津安二郎の映画を思わせるホームドラマを何故か不定形の不気味な人工生物が演じる近未来SF家族ドラマ『小春日和』、そして東欧のアニメ映画のような素朴なタッチと構図で、川岸でイルカと会話をしながら日々の生活に倦んだ少女と、「ひょっとこ」になって帰ってきた兄とのやりきれない断絶を描ききった好編『川辺の家族』など、どれも奇妙で不条理な独特の雰囲気に満ちているが、その“不条理”は決して“何でもあり”とイコールではない。それら不条理の意匠をまとって描かれるものは生まれいづる悩み、別離の哀しみであり、不条理は万能のツールとしてそれらをハッピーな方向に好転させたりはしない。むしろ、この奇妙な雰囲気はそのまま我々が日々の孤独の中で湾曲させた近親者や世の中に対するねじくれた愛憎の投影そのものなのではないか、とさえ感じてしまう。

 更に、世間に背を向けて一人でモヤモヤを抱え続けていた若き日の作者の半自伝的な一作『ぶどう』にいたっては、ギャグはおろか遂に不条理ですらなくなる。世に鬱屈を抱えた少年のささやかな横紙破りとその無残な顛末を描いたわずか2ページあまりのこの小編は、ギャグも不条理的要素もいずれも希薄だが、この何とも言えないモヤモヤが後に“不条理”として開花していくであろう原風景的なものを感じさせる。思うに吉田戦車の不条理とは、テリー・ギリアムの往年の映画(『未来世紀ブラジル』とか)に通じる部分があるのかも知れない。

 このようにレビューすると、「悲惨で深刻な話ばっかりなのか」と敬遠されるかも知れないが、無論そんな事はない。『ヤクザでゴー』や『オフィスユー子』など、いつもの吉田戦車が堪能できる好ギャグ短編も完備しているし、犬を訓練して蝶を捕まえるという架空の奇習を描いた『ちょうちょうをとる』など、後の作品『ぷりぷり県』などで冴え渡る「ウソの風習」をバカバカしく活写してみせる名人芸もこの頃から既に健在だ。また、吉田作品の大きな魅力である素敵な造語センスの妙を味わえる機会も非常に多い。タイトルに『タイヤ』と付けるセンスといい、コーヒー牛乳を甘くさせるための儀式「ほめミルク」とか、東南アジアの生息する危険生物「ボルネオ電気蝶」とか、日本語の組み合わせによる奇妙な味わいを活かしきれるこのセンスは相変わらず見事。吉田戦車はカエル好きとしても有名だが、天変地異により地表の大半が水没し、人類が水生生物と融合して種を存続させた未来を舞台に、かえる族の王子の成長を描いた『かえる年代記』など、哀しみの中にも希望を感じ取れるファンタジー中編などもあり、作品のバラエティは広い。

 不条理も一日にしては成らず。様々な鬱屈や哀惜、広範なサブカルチャーの沃野を苗床にして吉田戦車は独自の世界を描き開いていったのだ。最近、新装版として再販もされているので、興味のある方も無い方もぜひご一読の程を。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-02-26 01:33:05] [修正:2011-02-26 23:56:12] [このレビューのURL]

 ウエケンこと上野顕太郎はギャグ漫画家である。彼をギャグ漫画家たらしめた幾多の先達達は世界に誇る漫画文化の黄金伝説である。ウエケンは、人類の笑いのために今日もギャグを妄想するのだ、ヒマだからな!

『怪異!夜は千の眼を持つ』


 ……しょうもないネタはともかく、『夜は千の眼を持つ』は生粋のギャグ職人ウエケンによる文字通り千変万化のギャグオムニバス集だ。一貫性のあるストーリーや主人公などは無く、作品内の短編である『キャプテントラウマ』シリーズや『サチコと友人』シリーズなどを除き、レギュラーキャラもほとんど存在しない。それどころかそもそも「漫画」としての体すら意図的に放棄した回はあるは他作品のコラージュのみで構成された回はあるは、と毎回読者の予想の斜め上をスイッチバックしながら登るような超展開が頻発する。
 しかしこのようにとりとがもないように見えつつも作品を貫く一貫性は確保されている。ギャグへの絶対的な信仰が。

 ギャグ漫画というジャンルは創作も定義も非常に難しい。言葉遊び、一発ギャグ、不条理、パロディ、メタフィクション、これまで様々な方向性のギャグ漫画が現れては人々を笑わせ、そして作家達を疲弊させていった。
 『夜千』の魅力は、そんなギャグ漫画、いや、ギャグに限らず様々な漫画の歴史的堆積を、ギャグ職人であると同時に無類の漫画好きでもあるウエケンが咀嚼した上でギャグの万華鏡として我々に広く開陳してくれる事だ。本作には本当に色々な種類の笑いが存在する。
 毎回毎回手を変え品を変え様々なアプローチから繰り広げられるギャグまたギャグ。キャラの個性や定型的演出に頼れないため、そのコストパフォーマンスは恐ろしく悪い。その分ネタの純度の高い回の破壊力は強烈極まりなく、(1ページで)『レ・ミゼラブル』全ストーリーを描ききったり、大昔の絵物語や貸本漫画のフォーマットを無駄に忠実に再現したり、とその非効率にもほどがあるこだわりの数々には感動を禁じ得ない。
 特に意味深だった回は、水木しげるや石原豪人のタッチをこれまた忠実に再現して昔の妖怪図鑑のパロディをやった回だが、紹介しているのは妖怪ではなく、赤塚不二夫を筆頭とする過去から現在に至る様々なギャグ漫画家達の肖像だった。作家、それもギャグ作家とはどこか妖怪じみた存在であるという認識の表れだろうか。

 欠点としては、毎回バラエティに富んでいるのはいいのだがクオリティにバラつきがあるように思われる部分だ。笑える回の破壊力は凄いが、どこをどう笑うべきか頭をひねってしまう回も時々ある。
 それと絵柄がややのっぺりしすぎている点も気になる。他作家のタッチを再現した回や超絶作画の回などはともかく、作者の地の部分の絵柄が昔と比べても何か野暮ったくなってしまっているような気がしてならない。これら欠点についてはまぁ読者の好みよりけりだろう。

 つい先日、本作の第3集が登場したが、そこで作者は何と妻との死別という自身の実体験を基に描いた非ギャグの傑作ドキュメント漫画『さよならもいわずに』をまるまるネタにするという恐ろしい快挙に及んでおり、これには心底「ええぇ??!?」と驚愕した。これが、殉笑者の業という奴なんだろうか。
 『夜千』は千変万化のギャグものづくし、ギャグ物産展だ。コストパフォーマンなど度外視して急勾配を軋り登るギャグの三重連蒸気機関車であり、謎の感動をもよおさずにはいられない。一時期ネット上でクオリティの高さで話題になった一休さんと『ゴルゴ13』等のかけ合わせ漫画も本作で楽しめる。一気読みには向いていないので、毎日少しずつ枕元でヒマな時にでも楽しむのが良いと思われる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-01-29 22:52:39] [修正:2011-01-30 02:17:14] [このレビューのURL]

 鉄道ファン(以下「テツ」と呼称)という存在はそう新しいものでは無く以前から人知れず一種独特な濃い世界を形成してきたが、ここ数年で急速に世間的な認知度が高まってきている。市場が彼らを相手に商売するオイしさに気づいたのか、テツをターゲットとした催し物やツアーなどが多く開催されるようになり、その裾野はますます広がりをみせている。

 漫画の世界においても『鉄子の旅』や『鉄娘な三姉妹』などテツを題材とした漫画が多く世に出るようになったが、ここにきてある種真打とも呼べる作品が堂々の漫画化を果たした。大正から昭和にかけて活躍した文豪であり、無類の鉄道旅行好きでもあった内田百間(ひゃっけん)の代表作にして紀行文学史上の傑作でもある『阿房列車』(あほうれっしゃ)が一條裕子によって漫画化されたのである。

 内田百間こそは日本のテツ達のグランド・ファーザーのような存在であり、
「なんにも用事はないけれど、汽車に乗って大阪に行ってこようと思う。」
 この有名な出だしに始まり延々ひたすら浮世離れした鉄道旅行珍道中を描きつくした本作はテツ文学の偉大なる古典であった。用も無いのに汽車に乗り、どうせ乗るならと借金こさえてまでも1等車にこだわる。紀行文学とはいうものの地方の情緒だとか名所名物の類の描写は一部の例外を除いて一切描かず、ただただ鉄道旅行の道中記及び鉄道に対する百間先生の思い出話や美意識を主軸に描写がなされた特異な内容で、また名文家の誉れ高い百間のテムポの良い文体と相まって今でも根強い人気を誇る作品である。読みやすいがクセも強く、漫画化など考えもしなかった作品であっただけに、何気なく書店でこの漫画版の単行本を見かけたときの衝撃たるやかなりのモノだった。

 で、肝心の漫画版だが、いざ読んでみた所「そう来たか」とハタと膝を打ちたくなった。成程、これは紛れもなく『阿房列車』の世界だ。何しろ、他の原作付き漫画と比べても原作文章の引用割合が凄まじく高いのである。漫画作品としてキチンと成立してはいるので誤解の無いように願いたいが、文章と画の主従関係が他の漫画と比べても明らかに文章の方が上、という考えようによっては奇妙な事態となっているのである。
 そんな事を書くと「え?文字が多いの?なんか読みにくそうだな」とか「そもそもそこまでして漫画化する必要があったのか」と思われるかもしれないが、意外やこれが不思議と読みやすい。一見単調に見える絵柄とコマ割だがその実かなり計算されて描かれており、文章(大半が百間先生のモノローグ)のテンポをうまく活かすように画面が構成されている。絵柄は新聞の4コマ漫画や一コマ風刺漫画のような素朴で簡略化されたもので独特の俳味があり、それがまた原作の持ち味を活かす結果となっている。
 上の方で「文章のほうが画よりも重きが置かれている」と書いたが、時折大ゴマを活かして精密な描きこみがなされたシーンなどが挿入され、画>文章となる一瞬も鮮やかに表現されており、単なる原作トレースにも終わってはいない。なによりコマ運びに作者のユウモアが感じられ、論理的なんだかただの偏屈なんだかよく分からない困ったちゃんな百間先生のモノローグと行動にに作者からのささやかなツッコミとも取れる大ゴマ強調など、見ていて思わずニヤリと笑いたくなってしまう。カギ括弧や改行などの文章運びのテクニックが、ここではコマ運びという形で表現され、原作の文体をうまく漫画という文体に置換せしめたという意味で、見事な漫画化と言える。これには冥途の先生も苦笑しておられる事だろう。

 『阿房列車』の漫画化という事で個人的には大変魅力的な作品だが、いかんせん扱っている題材が題材なだけに、テツでもなくましてや原作のファンでも無い多数層に受け入れられるか?と問われるとやや苦しい。しかし逆に鉄道旅行や内田百間に興味のある人には実に良い導入編となるだろう。漫画喫茶などで根を詰めて一気読みするよりも地方の在来線特急のボックスシートなどでサンドウィッチをかじり麦酒をあおりながら読むほうが似合う作品でもある。「用もないのに旅に出る」のはなかなか叶わないけれど、テツにも、またそうで無い人にも、帰省の汽車旅行のお供などにお薦めな一冊でもある。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2010-12-28 23:25:48] [修正:2011-01-05 22:38:36] [このレビューのURL]

 数年前、本作『重機人間ユンボル』の第1話を週刊少年ジャンプ誌上で読んだ時のあの高揚感は今でも鮮烈に憶えている。元々作者である武井宏之のファンという訳ではなく、『仏ゾーン』も『シャーマンキング』も真面目に読んだことはあまり無かったが、『ユンボル』には新鮮さと懐かしさが入り交じり、なおかつ現代的な洒落っ気を加えてさらに一捻りさせたような独特な面白さがあったのだ。
 昔は少年誌で多く見られたが現在はあまりお目にかかれないジャンルに、ロボットやサイボーグなどメカの魅力を前面に出すSFアクションがある。テレビアニメの世界にしても昔は多かった子供向けのロボットアニメも現在はめっきり減ってしまった。そういうご時世だからこそ、メカの魅力を再発掘しようとした本作の登場は非常に新鮮だったし、ショベルカーやクレーン車などの「はたらくじどうしゃ」が大好きだった幼少期の懐かしさも相まって、それこそ子供のように胸が高鳴った。

 『重機人間ユンボル』というタイトルにもある通り、本作の世界観やデザインのコンセプトは「土木工事」と「重機」のイメージで統一されている。一般的なメカアクション漫画との最大の違いはそこだろう。大災害により崩壊しつくされた世界で、それでも再建を願う人々により“世界の工事”(再建)が進められる大工事時代を舞台に、ショベルカーやドリルなど重機の力を身にまとった改造人間ユンボル(語源は無論ユンボ)達の戦いを描いたSFファンタジーアクション超大作!
 …なんか「微妙にカッコ悪い」と思う人もいるだろう。ごく自然な反応である。土木工事というと“臭い”“汚い”“きつい”のいわゆる3K職業の象徴だし、近年のエコ熱の高まりから、山を崩したり森を切り開いたりといった土木工事は環境破壊の象徴のように捉えられることが(漫画世界においても)多かった。
 では本作においてはというと、土木工事とは世界の再建を担う聖戦であり、人と自然を結びつける象徴として再定義される。まさに災厄に立ち向かう人の意思の強さの表れそのものとなったのだ。今にも中島みゆきの「地上の星」が聴こえてきそうな超解釈である。
 土木工事に付いて回る泥臭くて野暮ったいイメージも一種のギャグとしてネーミングに活用され、上述の「ユンボル」をはじめ、「ドヴォーク(土木)国」「首都ツメシオ(詰所)」、「ゲンバー(現場)大王」、人類復興の鍵を握る無限エネルギーを秘めた「ユデン(油田)の薗」などなど、ギャグっぽいが逆に感心するようなネーミング・設定が続出して土木工事というモチーフをネタ的にもストーリー的にもうまく処理することに成功したのだ。ああ、格好悪いことはなんと格好いいのだろう。
 極めつけはユンボル達の操る戦闘術「工法(クンポー)」だ。まるで動物の動きを模した中国拳法の形意拳のように、「ショベルのかまえ」「ブレードのかまえ」「シールドのかまえ」と現実の重機をイメージした戦闘術。ここにきてメカと土木工事は、格闘技やファンタジーとさえ融合を見せた。子供の頃、工事現場で働く重機達を飽きずに眺め続けた時に感じたあのプリミティブなかっこよさが、あまりにも意外な形で復活したため、もう本作には本当にメロメロになった。メカデザインの充実っぷりや戦闘シーンの派手な演出からも作者の気合は存分に感じられ、応援せずにはいられなかったのである。

 だ、が、結果的には無念の10週打ち切りでOWATTE SHIMATTA……

 いや、思い当たるフシは色々とあるのだ。戦闘シーンの演出が大振りすぎて何が起こってるのかよく伝わらないとか、いくらショタキャラが人気だからって、主人公を大人の心を持った5歳児にしたのはやり過ぎだろうとか、ネーミングをはじめセンスがぶっ飛びすぎて大方の読者を置いてけぼりにしたのではとか、近頃の少年少女には「はたらくじどうしゃ」の魅力が昔ほどは感じられなくなってるのかも知れんとか。徐々に掲載位置が後退していく様をハラハラ見守りながら、色々と不穏な思いが交錯したりしたのだ。なんかすごい勢いで設定解説が始まった連載後半に悪い予感は更に高まり、そして遂に現場主義のラスボスのゲンバー大王が主人公一行の前に登場→粉砕!俺達の戦いはここからだぁ、蜜柑!もうペンペン草も生えないほどの見事な打ち切りっぷり。

 決して悪い作品ではなかった。ジャンプ編集部にもう少し長期的な展望があればあるいは、という気持ちは今もある。だが、紙面に貢献した人気作家といえども人気投票結果が芳しくなければ即打ち切りというスタンスを徹底したまでの事だろう。それについてはもう何も言うまい。
 その後、10週打ち切りにしては妙に分厚い単行本が出版された。巻頭の作者コメント、空きページで語られるコラム、そして巻末に半ばヤケクソのように掲載された異様に気合の入った設定資料集、涙なくして読めぬあとがき、単行本全体から立ち上る力走感とも怨念ともつかない妙な迫力に気圧され、気がついたら2冊買ってしまった。

 設計計画は堅牢でも、クライアントの圧力から予期せぬ工期短縮を強いられた未完成施工品ゆえに高い点数とはならないが、決して結果的な完成度のみからは推し量れない週刊連載漫画というリアルテイム性の強いジャンルゆえの様々な重みが、今でも忘れがたく残っている。最近ウルトラジャンプ誌上において続編が始まったと聞いた。ぜひ今度こそは長期的な工事計画に基づいてやり遂げて欲しい。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-11-29 00:23:59] [修正:2010-11-29 00:30:34] [このレビューのURL]

「女子高生とか好きだからー!!」 (あずまきよひこ『あずまんが大王』より)

 いつからだろうか、読者が「別に萌え漫画で男キャラ必要ないやん」と認識しだしたのは。異性と絡んだお色気サービスやハーレム展開、ラブコメの添え物でなくともかわいい女の子キャラは漫画においてはそれだけで正義であり、スポーツ、格闘技、麻雀、ロックバンド、それらをただこなすだけでもそれなりの華やかさを飾ることが出来るという方法論の有効性は今や疑うべくもない。
 いや、何もそういう特殊な活動を描かずとも良いのだ。かわいい女の子のどうってことのない日常を描くだけでも(程度の良し悪しはあれ)そこそこの人気は得ることはできる。

 近年こうして女の子日常系漫画が一種のジャンルとして確立され、同時に男性キャラの楽園追放が進行しつつあるわけだが、本作『男子高校生の日常』は、何を血迷ったのかそういう主に女の子漫画で磨かれてきた日常系的な方法論を、男子高校生の世界に逆移植するという神をも恐れる所業の産物である。何という暴挙だろう。腐女子は別にして、誰が好きこのんで可愛げのない男子高校生どもの冴えない日常など敢えて漫画で見ようと思うのか?これではまるで進化の袋小路に陥ったアメリカのリアリティ番組である。

「ムッチムチの男子高校生!!なんだか楽しいようなそれでいて決して楽しくない響きですね」
「先生もそう思う」 (柴田亜美『かなぶん甲子園』より)

 だが、その結果は予想以上に味わい深いものであった。本作は華のない男子校を舞台に、特に部活や恋愛に勤しむわけでもなく、それでも人並みに異性に興味はありバカを磨く時間と妄想力にだけは事欠かない男子高校生達のどうしようもない日常を、それこそどうしようもなさげに描いている。絵はラフでお世辞にも上手くは無い。ストーリー展開やオチのつけ方もかなり投げやりで完成度のバラつきは激しい。さすがに男キャラだけでは華がなさすぎるため同年代の女性キャラも度々登場するが、男子に輪をかけてバカで粗暴でサル山のサルのように描かれているため、恋愛フラグはことごとくへし折られる。とにかくドラマチックな大きな物語への発展を作品の持つどうしようもない重力が必死で拒否しているようでもある。また、リアルな男子高校生の日常と謳いつつも、決してリアルに描かれているわけでもない。(女の子日常ものとそこは同じである)

 けれども、この落ち着きのなさに満ちつつも決して大事に至らない空気感がなんとも言えず懐かしく、楽しい。夕陽の河川敷で恥ずかしいセリフを呟いてたそがれてみたり、道端の棒切れからドラクエ的な大冒険を妄想して悦に入ったり、友人とラジオDJごっこをして収集がつかなくなったり、と本作で描かれる男子高校生達のまぬけな行動の数々にはどこかしら共感できるところがあり、かわいさなど微塵も無いにも関わらず、何故か萌えてしまう。別に萌え漫画は必ずしも女の子キャラでなければならぬいわれは無かったのである。
 そういう痛々しいギャグだけではなく、2巻の通学バスの女子高生のホクロ毛をめぐるエピソードのように、ギャグを越えた清々しい一瞬、バカさの背後に見え隠れするほのかな矜持や優しさを捉えたエピソードもたまに挿入されて良いアクセントになっている。また、本作で一番かわいい女性キャラ(と思う)「タダクニの妹」が、あえて表情を伏せて描くことで超然とした存在感を放っていたりと、男子高校生達のまぬけっぷり以外にも注目すべき演出が散見される。

「日本男児の生き様は 色無し恋無し情け有り」 (宮下あきら『魁!!男塾』より)

 こうして一見無謀に見えるトリッキーな題材を独特の空気感で描いて見せた本作は、作品の格こそそう大きなものではないが一つのエポックメーキングかも知れない。かつて同じ男子高校生であった者としてこのコンセプトは大いに支持したい。いや、同種の作品が量産されるのもそれはそれで困る気はするけど。


「感動したぜ 大概の女はこれでゲットできると思う!」

フッ

「うち男子校じゃねーかよ」 (山内泰延『男子高校生の日常』より)


ナイスレビュー: 6

[投稿:2010-11-07 23:53:18] [修正:2010-11-10 23:07:28] [このレビューのURL]

※本作の関連作品「暗黒神話」は未読

 今更自分ごときが言うまでも無いが、本作『孔子暗黒伝』の作者である諸星大二郎は日本漫画界唯一無二の鬼才である。初期のホラーやハードSFを扱った短編群から神話や伝承に材をとった伝奇長編、ナンセンスギャグまでものにする幅広い見識と筆力、そして手塚治虫をして「真似できない」といわしめた独特な作風、後進の多くのクリエイター達にも多大な影響を与えた事も広く知られている。同傾向の作品で高い評価を得ている漫画家では諸星大二郎の盟友である星野之宣がいるが、センスの独特さという点では諸星大二郎の方が唯一無二度は高い。

 諸星大二郎の描く様々なジャンルの一つにに、中華世界の神話や古典を扱った一連の「中国もの」の作品群があるが、77年に連載開始された本作『孔子暗黒伝』はそんな中国ものの最初期に属する作品である。そして若き日の巨匠が選んだ題材は三国志でも水滸伝でもなくなんといきなり「孔子」であった。しかも論語という古典の権威にまったく物怖じすることなく、陰陽五行説などの神秘思想や古代中華文明の神、それどころか同時期のインド神話や仏教、東南アジアの精霊信仰、古代日本神話、果ては物理学やら宇宙科学などの現代科学にSFまでを包括した驚くべき一大伝奇作品に仕上げてしまったのだ。しかも話運び自体は荒唐無稽だがそれらの諸要素が見事に関連しあい、「世界の構造の謎に迫る」という哲学的でSF的な恐ろしく壮大なテーマまで持ち上げられる始末。ストーリー展開に関しては複雑怪奇で要約困難なのでここでは詳しく説明しないが、よくもまぁこんな作品が70年代の少年ジャンプに載ったものだと思う。そして論語や孔子というガチガチに権威づけられて面白みがないと一般的には思われがちな古典に対するアプローチとしても大変興味深い作品となっている。


「学びて時にこれを習う またよろこばしかrたずや」

 だいたい我々が学校の古典の授業で習うような孔子の言葉と言うと、上に掲げたようないかにも説教くさい道徳文句が多いため、論語と言うのも面白くない道徳哲学やら人生訓程度に思われがちだが、本作で描かれる孔子は違う。作者は後書きで「白川静の『孔子伝』に触発された」と語っているが、本作の孔子は我々の住む現代社会から遠く離れた、怪力乱神の跋扈する神話世界の住人である。
 神仙や呪術の世界に通じ、理想実現のためならいかなる労苦も厭わず、自らの理想が天に裏切られては嘆き悲しみ慟哭する、非常に人間的で血の通った人物でもある。無論作者の恣意的解釈と言われればそれまでだが、セリフの端々に論語の文句をさりげなく含ませていたりしてぬかりも無い。その引用も顔回が死んだ際の「天われを滅ぼせり」などの有名なものから「海にイカダを浮かべても…」などさりげなくのマニアックな奴まで多岐にわたっており、伝奇世界を描きながらも作者が孔子を古代中華世界に生きた血の通った思想家として浮かび上がらせようとする態度が感じられる。
 もちろんそれだけに留まらず、作者の奔放な想像力はいかんなく発揮されており、「あやしげな祭祀場で蘇ったゾンビに孔子が羽交い絞めにされたところに、ティラノサウルスが乱入」みたいなどういう思考回路ですか的な悪夢のようなシーンも登場、おそらくこんな作品、論語の本場である中国にも無いだろう。古代神話や神秘思想を現代科学と関連付ける語り口にしても、古代から現代と手段は違えど人々の思い描く世界認識の相似性に着目して処理されており、どうしようもない土着的な怪奇を描きつつもそれがいつしか壮大な一大体系に発展していくという、作者ならではの強烈な知的アクロバットを堪能することが出来るのだ。下手な新興宗教のでっち上げた教義とかよりもよほど魅力的な世界観である。
 古典や神話や科学理論など多ジャンルの要素をうまくつなぎ合わせて一つの物語体系とするという作風は、ファンによる二次創作やパロディ作品などが隆盛を誇る現在だからこそ再評価される部分もあるかも知れない。(ある意味本作は「スーパー古代神話大戦」「とある孔子の論語目録」みたいなものであるが、それだけでは表現できない不気味な凄味がある。)
 
 こうして諸星大二郎は後に自らの十八番となる中国ものの鮮烈な第一作をものにしたワケだが、最初期の作品であり作者自身もまだ若かった(当時まだ20代!)ため、『無面目・太公望伝』など後の中国ものの傑作と比べると欠点が目立つのも事実だ。
何というか、読みにくいのである。これは漫画というメディアにおいては無視できない問題だ。


作者「よし、やる、己はやるぞ。暗黒神話を更に上回る壮大なスケール、少年漫画史上類の無い一大大作を描くのだ!孔子や仏陀を登場させよう。日本神話とSFもアリだ。全てを合一させ、少年達の蒙を啓いてやるのだ、おお!マハー・カーラ!」

編集「私ごときは先生の教えについていくのみでございます!ジェイ ハリ・ハラ!」

 多分こんな感じ(?)で若い作者は情熱に燃え盛り、編集も巻き込んでこういう奇跡のような作品がジャンプに掲載されたんだろうが、その情熱が一部上滑りしている感は否定できない。既に述べたように本作は多方面のジャンルにわたる知識が動員されているが、物語の随所に数多く長々とした解説がナレーションや劇中人物のセリフの形で挿入され、それらがどうも物語展開に水を差すのだ。知識の解説とストーリーの自然な展開がまだうまいこと噛み合っていないのである。幸い作者の優れた咀嚼力と想像力によりイヤミったらしいスノッブ趣味には陥っていないが、後の諸星作品と比べるとまだまだ荒削りさはぬぐえない。

 たとえて言えば、奥深い攻略性でやり応えはあるが、難易度が高くチュートリアルも不親切な初心者殺しの一昔前のゲームみたいな作品である。諸星作品をこれから挑戦してみようという方は、まずは多数の短編作品集などで慣らし運転をした上で挑戦してみるのがいいかも知れない。あと、文庫版よりも大判のジャンプスーパーコミックス版の方が細かい字も読みやすいので良いだろう。お気軽に楽しむにはちと辛いが、まさしく漫画史の軸の時代を彩る重要作品である。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-10-24 20:56:14] [修正:2010-10-26 21:04:01] [このレビューのURL]

10点 蟲師

 一般的な生物の体系から遠く離れた原初の生命群「蟲」、人や自然にそれらが及ぼす超自然的で奇怪な現象の数々。本作『蟲師』は、江戸と明治のあわいに位置する架空の時代の日本・近代のちょっと前の日本を舞台に、それら蟲の及ぼす怪異から人々を守り逃がす事を生業とする「蟲師」ギンコを主人公とする奇談集である。

 非情に大雑把に物語の基本を説明するとこのようになるのだが、実際にはとにかくどう分類するべきか悩ましい作品でもある。土俗的な日本風の世界観で超自然的な怪異を描くという意味では『ゲゲゲの鬼太郎』や諸星大二郎の『妖怪ハンター』シリーズのようでもあるし、主人公のプロフェッショナルっぷりと深い思索性は『ブラックジャック』的だ。時々見られる人情噺やユーモアや説話性などは『まんが日本昔話』のようなお伽噺を彷彿とさせ、一転してしばしば登場するダークな話にはサイコホラーやミステリの趣すら漂う。その独特の画風と世界観から、とりあえずそういう雰囲気を押し出した“雰囲気マンガ”という評もある。

 古来より東洋の人々が獣や鳥とも植物ともつかぬ下等な、しかし多様な生物相を「蟲」として捉えてきた事と同じように、本作もまた多様な読まれ方のできる作品である。上にあげたどのジャンルにも分類可能であり、そしてそれら全てを包括してなお捉えきれない豊饒な何かでもあるのだ。椀一杯の海水・一塊の土に宿る無数の生命のように。

 正直に言って最初の数話の段階では、作者はこの魅力的なモチーフを持てあましていたように感じた。絵や設定は魅力的で物語も独特だったが、そういう特異な雰囲気を醸し出す事ばかりに専心している感は否めず、いまいち物語に深く没入しきれないでいた。そのままいけば、まぁちょっと独特な個性のあるただの雰囲気マンガで終わったかもしれない。

 しかし2巻収録の名篇「やまねむる」を誌上で読み、静かな静かな感動を味わったのをきっかけに、回を追うごとに本作に引き込まれていき、そしてその後確信した。本作は確かにファンタジーだが、その背景には歴史的・土俗的・原風景的なしっかりとした土台がある事を。実に様々なものの“あわい”に出現した稀なる名作であることを。

 白とも黒ともつかない微妙なあわいの上に本作は奇跡のように鎮座している。そこからにじみ出てくるのは比類のない豊饒な世界の息吹だ。そしてこの白と黒の間の灰色の世界のあり様は、かつて我々のご先祖が抱いていた自然観にも通じるものがあり、歴史的な記憶のにおいさえ漂わす。キャラクターデザインなどは泥臭さを払拭してこぎれいではあるが、作中登場する有名無名の人々の生きざまや様々な蟲のもたらす怪異には古い伝統や風習(美しいものばかりではない)や伝承に着想を得たものが多く、単純な善悪論などでは捉えきれぬものも多い。ただ得体の知れない余韻のみを残す話もある。

 作画表現にしても淡い色彩やペンによる点描を駆使した淡泊ながらも濃密な作画がそういう雰囲気を見事に表現。特に山霧・海霧によって天地の境界すら曖昧になったような海や山里の描写は強烈な印象を与える。作品のテーマ表現的にも、現実の自然描写としても見事と言う他無い。

 何より圧巻なのが種々の蟲の描写だ。本作の根幹をなす存在である蟲は、生命の最も原初的な場所に位置するものと捉えられ、それらが引き起こす怪現象はまさしく幽霊や妖怪や精霊によるもののように描かれる。
 …ここまでなら普通の妖怪モノの一変異種だが、本作の凄いところはそんな蟲の描写を、顕微鏡で観察される原生生物や菌類のような姿で表現している点だ。ここには単なるファンタジーに留まらない近代的な視点も導入されている。
 第1話でギンコは生物を動物や植物など5つに大別し、それらを五本指になぞらえて蟲とは何かを説明する。一般的な生物が五本の指なら、蟲とはそれらが一つにたばさって更に腕をさかのぼった先の心臓の部分にある存在というたとえだが、この語り口一つにしても、ファンタジーの文脈だけでなく博物学者ダーウィンの進化系統樹や五界説などの生物分類学的な見地から解釈しても面白いものになっている。こういうところにも蟲師のユニークさは現れている。

 そして、そんな本作の立ち位置をもっとも雄弁に物語るのが主人公である漂泊の蟲師「ギンコ」のキャラクターデザインだ。少年時代に経験した蟲との遭遇による怪異の影響で右目を失い、残った左目は緑に、髪は真っ白に染まったこの異様な人物は、どこか鬼太郎やブラックジャックを思わせる風貌をしている。そして「江戸と明治の間の架空の時代」という設定のため、周りのキャラ(大半は貧しい農民や漁民)がそろって和装の中、ほぼギンコだけが洋装なのである。この世界においては、ギンコは(どちらかと言えば)我々読者の住む近代的世界に近い立ち位置におり、他とは一線を画した屹立した存在として表現されるが、同時にそれは物語内において他の人々とは遂に全てを分かち合うことのできない孤独な異端者である事の表れでもある。洋服を着た彼自身もまた人々からすれば怪異なのだが、そんな彼が主人公であるからこそ、我々は既に遠い世界となってしまった郷愁の彼方の古の世界と邂逅できる。ギンコは蟲(≒自然)と人のあわいを取り持つ存在であり作品と読者のあわいに立つ存在でもある。
 作者いわく、ギンコには放浪の民族学者「宮本常一」や博物学者「南方熊楠」などの実在の人物が投影されているそうだが、共に民俗学や博物学(生物学)といった近代的な学問を用いつつも、日本の土俗的な世界へ深く分け入って行った人物として知られている。そういう周縁部分にも、本作の持つ豊饒な読後感の一端が垣間見える。

 自然と人間、生と死、有機と無機、人情と世間、一般と個別、土着と普遍、海と大地、大地と空、海と空、いにしえと近代、人為と天為、現実と奇想、生きることの美しさと、そして残酷さ。
 …これら相反する諸要素の数々は、本作では不思議なバランスの上に混交を遂げる。“調和”というほど大袈裟では無く、“混沌”というほど荒削りでも無い。ただただ奇跡のようなあわいの美しさ。こういう作品を漫画として読む事が出来る事は、本当にありがたいというしかない。漫画もまた、絵と文字のあわいに生まれた蟲だからなのだろう。

ナイスレビュー: 5

[投稿:2010-09-30 23:01:34] [修正:2010-10-11 20:20:07] [このレビューのURL]