「とろっち」さんのページ

総レビュー数: 300レビュー(全て表示) 最終投稿: 2009年10月09日

この作品はまさにタイトル通り、一人の女子大生が神戸で暮らしている生活そのものです。
大学でのこと、友達と買い物に行ったこと、家族とのやり取り、ふらっと街を散歩したこと。
誰もが経験するような日常の出来事を、誇張するでもなく、劇的に描くでもなく、
ありのままに描いています。

スピード感もなく、娯楽性にも乏しいこの作品。勢いで読めないので、
共感できない場合は拷問に近いかもしれません。
自分も2巻までは「読んで失敗したかな」などと思っていました。
その分、共感できれば自分の心の奥底までどんどん染み込み、溶け込んでいきます。

トーンも定規も使わない画風は、飾らず、素朴で、柔らかくて、どこか純粋で。
主人公である辰木桂のキャラクターをそのまま表現しているかのようです。
登場人物の存在感など、キャラが立っているとかのレベルを超え、作中で生きていると感じられるほど。

震災から3年後に開始したこの作品。
特に作品前半では、街並みにも人々の心にもその爪痕が色濃く残っています。
そんな神戸を舞台に、大学の授業、民族問題、友達との恋愛話、障害者、サークル活動、家族とのこと、
すべてごちゃ混ぜにして、桂の(部分的に林浩の)視点を通して等身大で描かれています。
生と死から目を背けず、良いことも悪いことも含めた現実に真っ向から向き合って。
等身大だからこそ、ありのままだからこそ、楽しいことも、辛いことも、こんなにも心に響いてきます。

居心地の良さ、ほんのり温かい雰囲気、ほのぼのとした日常。
押し付けがましくなく、控えめながら、神戸の魅力を存分に感じさせてくれます。
読んでいる人まで「神戸在住」な気分にさせてくれます。

震災から15年。今日、神戸の街に思いを馳せて。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-01-17 17:20:39] [修正:2010-01-17 17:20:39] [このレビューのURL]

8点 石の花

第二次大戦時のユーゴスラビアを描いた作品です。
日本人にはあまり馴染みのない国かもしれません。サッカーぐらい。
世界史の教科書にも「ナチスドイツに対し、チトー率いるパルチザンがゲリラ戦で抵抗した」
程度の記載しかないですが、このほんの数行の裏に隠れているのは、こんなに凄惨な物語。

この作品では、どんどん人が死んでいきます。
生命を軽んじるわけでもなく、特別視するでもなく。
まるでそれが当たり前のように。

やらないとやられるから殺すのではなく、
自分の信念を守るために、生活や家族を守るために、殺す、
それが戦争。

理想と現実との間で苦しむ主人公にスポットを当て、ナチス対パルチザンの単純な善悪二元論では
なく、もっと根本的な人間のあり方、生き様を徹底的に描写しています。

特筆すべきは、驚異的な絵の巧さ。現代風の絵ではないですが。
収容所の描写は圧巻です。

面白いとか面白くないとかをある意味超越している作品かと思います。
点数を付けるのが非常に難しいですが、紛れもない名作ということを考慮して、この点数。
ただ、このサイトの点数基準で8点は「何度も読み返してしまうような名作作品」とのことですが、
あまり何度も読み返したくなるような作品ではありません。念のため。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2009-12-23 14:51:07] [修正:2009-12-23 14:52:05] [このレビューのURL]

昔のことになりますが、大学入試にとても役立ちました。
「あさきゆめみし」などもそうですが、高2のときにクラスで回し読みしたのを思い出します。
ありがとうロベスピエール。

ほぼ史実どおりながら圧倒的な面白さ、構成力。
フランス革命を体感してみてください。

だれでもその名前ぐらいは知っているレジェンドな作品です。
その面白さもいつまでも変わりません。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2009-12-11 01:09:24] [修正:2009-12-11 20:46:32] [このレビューのURL]

暖かくて透明感があって、どこか儚げなこの作品の空気がとても好きです。

とりあえず泣けます。
泣かせてやろうとする意図が垣間見えるのですが、それでも泣けます。
場の見せ方、盛り上げ方は見事と言うしかないです。

ストーリー的には厳しい展開が続きますが、登場人物の芯の強さと、全体を包み込む優しい雰囲気に心打たれます。
作者が愛情を惜しみなく注いで丁寧に描きあげた物語です。

ただ、一つだけ違和感が。別に近未来の話にしなくても良かったのでは。
読み切りからの流れなのかもしれませんが、近未来感が全く伝わってこなかったので…。
「現代劇のSF」という舞台ならば満点だったかも。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2009-11-16 01:10:31] [修正:2009-11-16 01:10:31] [このレビューのURL]

9点 HOTEL

業界もの漫画の先駆け的存在でありながら、未だにこれを超えるような作品は思いつかないです。

「お客様は神様です」や「申し訳ございません」連発などのイメージもありますが決してそんなことはなく、
ホテルマンを聖職者扱いせず、綺麗事だけではない本音の世界が描かれていて非常に興味深いです。
最初っから客を疑ってかかったりとか(まあそれもどうかと思いますが)。

最初の頃はホテルを舞台とした群像劇、途中からは従業員をメインにした業界ものとなっています。
東堂マネージャー、もしくは若手社員の赤川くんも一応の主人公格となっていますが、
二人が出てこないことも多く、それどころかホテルの従業員が話にほとんど絡まないこともあります。
言ってみれば、ホテルに泊まる人、ホテルで働く人、ホテルを一時的に利用するだけの人、
それら全ての人に様々な角度からスポットを当てて見事に描き出した傑作。

人の生死にまつわるような話ではないですし、単にホテルを利用する人とその従業員という構図は
どうしても淡々と落ち着いた内容になってしまいがち。
ただ、100組の宿泊客がいれば100通りの物語があります。 同様に従業員の数だけ物語があります。
宿泊の話はもちろん、ホテルのフロント、クローク、バンケット、照明、営業、設備点検、ドアマン、厨房、
客室係、経理、庭師に至るまで様々な職種の人たちが主役となり、様々な物語を織り成していきます。
確かに派手さはないものの、これほどまでに安定した面白さで多彩な物語を描けるのも巨匠ならでは。

当初は作者が群像劇を意識しすぎたのか、話によって出来不出来の差がかなりあります。
従業員メインの話になってからは、東堂さんの仕事っぷりがほぼ完璧に近いので、同じ社会人として
本当に感心するばかり。 ただその点での面白みには欠けるところがあるかもしれません。
作者もそれよりは、危なっかしいながらもどんどん成長していく赤川くんや、たまに男を見せる
松田さんの方が話作りがしやすかったのかも。
まあ基本的には毎回ハッピーエンドを迎えるために話が上手くいきすぎる感も結構ありますが、
それでも途中からは話にどんどん厚みを増して、手が付けられないほど面白くなってきます。

とりあえず念のため、当たり前ながらこの作品はフィクションです。
あまりのリアリティゆえにまるでこんなホテルが実在するような錯覚に陥ってしまうかもしれません。
業界もの漫画では、その内容の真偽はともかく(素人には判別つかないので)、いかにも本当だと
思わせてくれるような確固たるリアリティを持ったものが個人的には良い作品だと思います。
そういう意味で、やっぱりこの作品を超えるような作品はなかなか出てこないでしょうね。

文庫版表紙での世界の一流ホテルの写真も雰囲気作りに貢献していて素晴らしいです。
一流ホテルでの人間模様と舞台裏を見事に描いた、格調高いながらも庶民的な趣もある傑作。
巨匠の代表作と呼ばれるに相応しい作品です。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-11-22 01:37:16] [修正:2011-11-22 01:42:55] [このレビューのURL]

大人になると知らず知らずのうちに自分の発言や思考、行動を正当化したがる。
まあそれは今までの自分の経験に基づくものでもあり、それはそれでいいと思うのだけど、
その考え方に固執してしまって他の人の意見を排除してしまいがち。

大人とはまた違った角度で物事を見て判断する知世の視点は、
時に斬新で、時にその発想が懐かしく、時に目を背けたくなるようなところをグサッと突いてくる。

知世は手探りで懸命に頑張るお父さんを見て色々なことを感じ取り、教わり、のんびりと成長していく。
「Papa told me」とはよく言ったもので、お父さんは知世にたくさんのことを伝えようとする。
でもそれだけではない。 お父さんはそれ以上に知世の話を真摯に聞く。 一人の人間として。
「所詮は子供の言うことだから」とか「子供は親の言うことを聞いていればいい」なんていう発想は
微塵もない。 子供だって大人と同じように、もしかしたら大人以上に何かを感じ取り、考えているから。
そしてお父さんもまた知世から色々なことを教わり、学んでいる。

世の中には心無い人もいて、でもそういう人たちは自分のことがきっと見えていなくて、
彼らの心無い言動が知世を攻撃する度に、読んでいて何だか申し訳ないなという気持ちで一杯になる。
しかし知世の感受性はそんなものに負けはしない。 いつも強く、逞しく、そして、微笑ましく。
作者の照れ隠しなのか単にこういう芸風なのか、どこかはっきりとせず靄がかかったような空気だけど、
どこまでもテーマはぶれず、優しさと暖かさとが慎ましやかに伝わってくる。
単行本の巻数が一桁の頃なら10点を付けてもいいかもしれない作品。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-11-22 01:32:40] [修正:2011-11-22 01:33:27] [このレビューのURL]

8点 イムリ

あまりにも壮大なスケールのSFファンタジー。

まるで底が見えないほどに重厚な世界観、複雑ながらもしっかりと練り込まれた設定、
少しずつ謎が解き明かされていくと同時にまた新たな謎が浮かび上がる展開。
歴史や慣習はもちろんのこと、社会の支配体制、生態系や食文化に至るまで綿密に作り込まれており、
「作品世界を構築する」という言葉がこれほど当てはまる作品もなかなか無いのでは。

しかしながらこの作品、困った事に、最初に1巻を読んだ時点では何が何だか全くわからないはず。
最初から全体の構成を理解できるような作りには敢えてなっておらず、しかも用語が複雑怪奇で、
さらには作者の独特の絵柄自体が一見さんお断りな感じなので、もうかなり敷居が高くなっています。
用語も、「カーマ」、「イコル」、「イムリ」、「マージ」、「ルーン」、「デュルク」、「デュガロ」……。
全巻に詳細な用語解説や登場人物説明が載っているので、最初のうちは照らし合わせながら
読んでいくことになるでしょう。
おまけにこの作者の作品はその絵柄のために登場人物の顔が似ていてただでさえ区別しづらいのに、
各々の個性が見えにくく(見えないのではなくあくまでも見えにくい)、非常にキャラを覚えにくいです。
1巻すら読み切れずに断念してしまっても全然おかしくありません。

ただ、そこをがんばって乗り越えると、途中からふっと世界観が頭に入ってくるようになってきます。
そうなると不思議なもので、読むたびにどんどん理解できるようになります。
恐らく意図的にそういう構成になっていると思いますが、この辺りが作者の作り手としての凄さ。
もともと作品の全体的なテンポは良いので、慣れれば今度はサクサク読み進めていけます。

支配民族カーマ、奴隷民族イコル、かつてカーマと戦争を繰り広げたルーン星の原住民族イムリ。
同じ「共鳴」という能力を持っていても、全く異なる方向へ進化したカーマとイムリ。
カーマはその力を他者との共鳴、すなわち他者の精神に働きかけ人の心を操る侵犯術として特化させ、
逆にイムリはその力を物質との共鳴、すなわち「星と仲良くする」ために使ってきた。
イムリは物質の力を引き出すことで恐るべき威力を発揮する「イムリの道具」を持ち、
そんなイムリの力を恐れたカーマはイムリを力で押さえつけて支配しようとする。

大まかに言うとこんな物語ですが、「一つの民族が他の民族を征服して支配する」という作品の構造は
主人公の立ち位置とともに最初のうちはカーマ視点で、そのうちにイムリ視点で描かれるようになり、
単純な善悪二元論ではとても量り切れない深さを秘めています。
SFファンタジーなのに確かに泥臭い空気の作品ですが、失われたイムリの術を解き明かしながら
地に落ちたイムリの民が反乱すべく無骨に立ち上がるというストーリーにピッタリな感じ。
とにかく質の高さにかけては申し分のない作品です。 あとはもう好みの問題でしょうね。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-11-16 00:48:20] [修正:2011-11-16 00:53:36] [このレビューのURL]

食べる事が何よりお好きな劉家の若奥様・沈夫人。
退屈に飽かせて今日も奥様はお抱え料理人・李三を相手にお戯れになる。

基本的には一話完結のワンパターン漫画。
空腹もしくは退屈のために不機嫌になった奥様が李三に無理難題を言いつけ、困り果てた李三が
旨い料理を作って奥様を満足させる、というもの。
李三は忠義に厚く、小心者で、困った事があるとこの世の終わりみたいな表情になって嘆き悲しむという
良く言えば純粋、悪く言えば愚鈍な性格。 密かに奥様のファンでもあります。
そしてこの男、困れば困るほど旨い料理を作るという、ある意味本当に困った男。

この奥様は性格が破綻しているかどうかはさて置き、別に根が悪人なわけでも李三が憎いわけでもなく
彼に意地悪を言うのはただ単に自分の食欲(と、ドSな嗜好)を満たしたいだけ。
本気で悩んで窮地に陥っている李三を見るのは楽しくて仕方ないし、そんな状態の李三が作る料理は
さらに旨くなるしで、李三を困らせることは奥様にとって一石二鳥なのです。
もちろんそれだけでは李三がストレスで倒れてしまうので、上手く褒めることも欠かさずに。
単純な李三はそんな企みに全く気付かず、奥様のアメとムチによって天国と地獄を行ったり来たり。
そういうやり取りが非常に巧みに描かれていて楽しめます。

この作品は料理は当然のこと、服や小物、街並み、文化や生活様式に至るまでその描写が凝っていて、
当時の中国の主従関係の雰囲気も伝わってきます。
主である年下の美人奥様に対して横恋慕なんてとんでもなく、ただただ奥様を心からお慕いする李三。
自分に出来ることは美味しい料理を召し上がっていただくことだけ、という気概で努力し続けます。
そんな料理をパクッと食べたときの奥様の笑顔(と李三をいじめているときの笑顔)が何とも素晴らしく、
奥様の苦労、李三の苦労、それぞれが報われる瞬間というのが読者にもわかりやすくて実に良い感じ。

上記のように基本的にはワンパターンなので、まとめ読みにはあまり向いていないかもしれません。
最初は李三に同情しながら読んでいたのですが、なんか話が進むごとに李三の阿呆っぷりにターボが
かかっていくように思えてイラッとして、途中からは奥様目線で読むようになりました。
李三目線と奥様目線、それぞれ違った楽しみ方ができていいですね。
もっとイラッとさせられる玉潔や李大など味がある脇役もいますので、彼らが出てくる話では
奥様が人格者に見えるという錯覚すら味わえます。

この作品が上手く出来ていると思うのは、料理漫画として中華料理のみに的を絞っていること。
例え同じ近世を舞台にしていても、確かに和食や洋食ではこうはいかなかったかもしれないですね。
食材やその調理法の幅広さでは他に類がなく、薬食同源的な発想で、食で体と心を整える中華。
作り手の食べ手に対する意図が作中でも明確に表現され、よくもまあ毎回のテーマごとに
これだけたくさんの料理を紹介できるなと感心してしまいます。
さてその料理ですが、調理工程から完成図の描写に至るまでとても丁寧に描かれていて、
実に興味と食欲をそそります。 とても秀逸な料理漫画。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-11-16 00:44:09] [修正:2011-11-16 00:46:33] [このレビューのURL]

家族と離別して人間不信に陥った少女が、青年と次第に心を通わせ、真実の愛を見つける物語(笑)。
(ほぼ作中原文のまま)

読む前は全く期待してなかったので、個人的にすごく意外。 まさかこんな面白いとは思わなかった。
作者の代表作である「HER」とかはちっとも合わなかった(むしろ途中で挫折した)のですが、
これは一体どうしたもんか。 ずーっとニヤニヤしっぱなしでした。

男に免疫のない女子高生がとある事情で同居することになった31歳イケメンは、全裸だった。
話の内容としては本当にこれだけ。
基本的に全編下ネタのシチュエーションコメディと言えなくもないですが、この作者は
言葉選びのセンスが抜きん出ていて、それがいちいちツボにはまります。
奇想天外奇天烈なボケよりも、類稀なるボキャブラリーを駆使して心の底からほとばしる衝動を
力の限りにぶつけるたえ子ちゃんのツッコミが痛快でテンポ良くてもう素晴らしい。

そんなたえ子ちゃんもどんどん壊れてきて、後半はまさかのラブコメに突入します。
どうしてそこでそうなるかな、っていう展開なのに、これがまた上手い具合にアホすぎて。(褒め言葉)
最後の方は完全にたえ子ちゃんが主導権握ってますからね。 この辺の描き方も面白いです。
ちょっとだけ残念なのは、個人的にもうちょっと長く読んでみたかったこと。
めちゃくちゃなのに力技で大団円に持って行ってるあたり、個人的には終わるのが早すぎたかな、と。

もちろん笑いの好みは人それぞれなので、特にこういうクセのある作品は万人向けとは言い難いですが
少なくともタイトルと表紙の絵ではこの内容はさっぱりわかりませんね。
この作品、女性からよりも男性からの方がウケが良いような気がします。
と言うかそもそも少女漫画なのかこれ。


また、短編「3322」も同時収録されています。 こちらは一遍変わってシリアスな話。
個人的にはこういうのはあまり好みではなかったです。
タイトルの「3322」の意味がパッと分かる(解読できる)のってギリギリ自分らの世代ぐらいまでかも。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-10-21 00:54:56] [修正:2011-10-22 01:32:12] [このレビューのURL]

8点 水域

日照りによる給水制限の中、中学3年生の水泳部の少女がランニング中に熱中症で倒れて意識を失う。
目覚めた時に少女がいたのは、雨が止むことなく降り続く川辺の古びた山村だった。

話の題材としては非常にありふれた感もありますが、現在、過去、夢の中の世界の描写を交差させて
作品の世界観を重厚なものにした上で、親子三代の故郷に対するそれぞれの気持ちの対比を
しっかりと丁寧に描き出していて、非常に読み応えのある作品となっています。
そして作者の大きな特長でもある、自然への畏敬の念を感じさせるような情景、雰囲気の描写。
現代劇でありながらもこれが何とも素晴らしいです。

この作品は、この手のファンタジーにありがちな「夢の世界と現実とがリンクして現実世界に影響する」と
いう設定ではなく(記憶として残る程度)、あくまで過去は過去。
当然ながらダム開発を悪として描いているわけでもなく、登場人物の心にも抵抗運動の終焉とともに
ある意味時代の変遷としての諦観のような思いも生まれつつあり、それはラストでの人工的なダム湖と
古き山村とのそれぞれの美しさを対比させた描写にも象徴されているように感じます。
そして、だからこそ、「今はもう無い場所」である「失ってしまった故郷」に対するやりきれない気持ち。
それは後悔とも失望とも違い、気持ちの整理はできても消化されることなく残り続けていくはずで。

各々の心の奥底には、自分のルーツとして、自分の存在を形成する不確かだけど確固たる拠り所として
あの村があり、孫娘にも不思議な体験を通じて奇しくも受け継がれていきます。
村は水の底奥深くへと沈んでしまっても、人々の想いは忘れられることなく。

水にまつわる話なのにこのレビューでほとんどそのことに触れていなかったので、少しだけ。
海とはまた違う川独特の清涼感、そして森に囲まれた川と山村という原風景が日本独自の郷愁を
想起させ、暗く重い話になりがちなところを実に透明感溢れる優しい作品に演出しています。
また、水信仰の象徴のような龍神伝説をうまく話の根幹に絡ませ、幻想的な雰囲気を醸し出しています。

やっぱり作者の代表作は「蟲師」であり、それに比べてこちらはあまり陽の当たらない作品なのかも
しれないですが、こちらも良い作品です。
暑い時期に読んだ方がより一層作品の雰囲気が伝わってきて良いと思います。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-09-27 01:16:39] [修正:2011-09-27 01:20:55] [このレビューのURL]