「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

6点 KAPPEI

 30年前の誕生以来、現在もなお読み継がれ新たなファンも獲得している名作『北斗の拳』。この漫画の魅力の一つに、主人公ケンシロウの強さとストイックさを兼ね備えたヒーローとしての完成度の高さがあった事は言うまでもない。そこには確かに男性主人公の一つの理想形が描かれていたが、読者の多くはある時期からケンシロウに対して一つの疑問を抱くこととなる。

「結局ケンシロウは恋人ユリアと男女の契を交わしたんだろうか?」

 二人の間に子供はいなかったし、死の病に侵され衰弱したユリアの体をケンシロウが激しく求めるとも思えない。また、ケンシロウのあのストイックな性格からしてユリアの没後も他の女性とヨロしくやるような雰囲気は薄い。もしかして、ケンシロウって……。
ケンシロウや梶原一騎作品の主人公達のようなストイックヒーロー型から、近年のラノベなどによくでてくる鈍感純情優柔不断型まで、漫画における男性主人公にはしばしば童貞性が重要な要素となる事がある。「007」のジェームズ・ボンド及びそれらの影響下にあるゴルゴ13のような多くの美女と浮名を流す精力絶倫系主人公が男性(主に大人)の願望の投影として人気を博す一方で、ストイックで純情な愛を重視する童貞力系主人公もやはり男性(主に少年)の心の琴線に触れるのだ。ただし、それらが格好良く見えるのは世紀末の荒野やスポーツのリング上だからこそであり、もしこの平和な現代日本の日常に放り込まれようものなら。


前置きは長くなったが、今回紹介する『KAPPEI』は、そんな世紀末救世主となりそこねたヒーロー候補生が現代東京のキャンパスライフに乱入して生まれて初めての恋煩いに身悶えするという、かなり痛々しいシチュエーションギャグで笑わせてくれる作品である。作者は『デトロイト・メタル・シティ』で有名な若杉公徳。思えばDMCも童貞力にあふれた痛々しさが存分に描かれた作品だった。

 1999年、世界は結局核の炎に包まれる事無く無事世紀末は乗り越えられた。2012年人類滅亡説なんてものもあるにはあるがそれもどうやらかなり怪しい。来る終末の危機に備え殺人拳「無戒殺風拳」を世俗を捨てた絶海の孤島で磨き続けてきた男たちはこうして役目を失い、その一員であった主人公の勝平は一人虚しく東京へと出現する。別に「み…水……」と飢えてもいなければ、無法を尽くす悪のモヒカン兵士もいない現代の東京へ。
「ヒーローはいるが悪のいないアクション映画の主人公は 何をするべきと思うか?」
 そんな空虚を抱える勝平の心の隙間を埋めたのは偶然暴漢から救った大学生の男に誘われた花見会場で出会った一人の女性だった。女性という存在を知らず人並みの青春を送ったことのない勝平に芽生えた、得体のしれない感情の正体とは?


 正直に言って『北斗の拳』のパロディをはじめプロットなど既視感のある設定ばかりであり、また作者の味といえばそれまでだが北斗パロディをやるには画力が足らなさすぎる感があるが、やはり作者の才能のゆえだろうか随所随所にかなり破壊力の高いギャグが仕込まれており、コメディ漫画として充分面白い出来に仕上がっている。特に勝平が友人となった大学生の部屋で発見した『ふたりエッチ』を夜中にこそこそ盗み読みするシーンなどシチュエーションギャグとして身悶えするような出来栄えだったし、大学の飲みサークルのあのグダグダした雰囲気、生まれて初めての合コンでの立ち居振る舞いがわからぬゆえの暴走、気になる女子が見知らぬ男と一緒に居た時のあの感情…、これらの描写の数々に痛々しい笑いと、同時に(多くの男性にとって)身につまされる何かが感じられる。無戒殺風拳伝承者同士での死闘が描かれることもあるがそれにしたって会話が「お前の好きな女はブスだ」「ブスじゃない」とか小学生レベルの言い争いだったりするのもなんとも可笑しい。

 前述の平和な世界のヒーローの在り方についての勝平の問いかけに対し彼の想い人の山瀬ハルは「ギャグになっちゃうよ」とあっけらかんと答え、そしてこうも続ける。

「だから次は自分が幸せになる番じゃない。」

 ケンシロウは生涯を戦いの荒野に捧げた。梶原一騎作品の主人公達の多くは寂しく舞台を去っていった。果たして勝平は平和なこの時代にヒーローとして活躍できるのか、そして、山瀬ハルと結ばれる事はできるのだろうか?非常に先の気になる作品である。

 1巻後半にはなにか北斗のシンみたいなライバルが登場した。この調子で今後も重度のシスコンをこじらせたレイもどき、不細工な己の顔を憎む余りイケメンに憎悪を向けるジャギもどき、自分が好きすぎてホモに走ったユダもどき、失恋の悲しさから「愛などいらぬ」なサウザーもどき、そして勝平とヒロインを奪い合う一方でちゃっかり童貞も捨ててるラオウもどきなどが次々と登場すればよい気がせんこともないある…アルナイ……。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2012-04-29 22:10:12] [修正:2012-04-29 22:10:59] [このレビューのURL]

 誰でも授業中に”内職”をした経験はあるだろう。ノートの欄外に落書きしたり、歴史教科書の偉人に額に「肉」とか描いたり、机に絵を彫ったり、隣席と手紙を交換しあったり、教科書で隠しながら早弁したり、と、内容や程度にばらつきはあるがこれらの内職が学園モノの作品などで作劇や演出の一環として描かれることは多々あった。

 そこにきてこの『となりの関くん』だが、本作は何とそんな授業中の内職をピンポイントでテーマに据えた作品である。非常に地味なテーマに関わらず内容は予想の斜め上を行く奇想天外さや、甘美な背徳感に不思議な清々しささえ加わって独自の境地に達している感すらある。

 ストーリーの背景設定・人物設定ともに本当に必要最小限のミニマムなもので、机と机の中間点を起点に半径2m以内くらいで収まる小さな世界のささやかな秘め事が描かれる。
 となりの席の関くんは、今日も授業そっちのけで内職に励み、そんな彼を横から見守る(自称)真面目少女の横井さんは、関くんの一人遊びに気が散って勉強のペースも狂いまくり。だけれど迷惑に思いつつも関くんの繰り出すあまりに奇妙で独特な内職がどうしても気になってしまい、小声でコミュニケーションを試みたり心中で盛大にツッコミを入れたり、遂には実力行使で彼の遊びに介入したりしてしまい、結局授業どころではなくなってしまう横井さん。

 基本無口でほとんどしゃべらずひたすら謎の内職に情熱を傾け続ける変人の関くんに対し、授業中故に心中でツッコミを入れるしかない横井さんという二人の関係性以外にキャラが描かれる事はあまりなく、作品の設定上舞台もほぼ授業中に限定される。(一応教室だけでなくグラウンドや理科室などのバリエーションは多少ある)
 だが物語はそんな二人の奇妙な関係のみで成り立っているわけでは無く、二人の周囲には「授業中の教室」という空間が厳然と存在する。そこでは厳しい先生や空気を読まないクラスメイトが周りを囲んでおり、物語に不思議な緊張感と穏やかな背徳感を与えていて面白い。

 あと、やはり面白いのが関くんの繰り出す奇天烈な内職の数々だろう。彼のかばんや机はさながら四次元ポケットであり、毎回読者の予想の斜め上を行く超展開が待っている。単行本第一話の消しゴムを使ったピタゴラ装置もかなりのものだったが、それ以降も将棋とか囲碁とかチェスとか一見ありふれた素材を用いながら誰にも真似できない独自の一人遊びワールドを展開し、読者は横井さんと一緒になって盛大に突っ込む。心中で突っ込むだけではあきたらず、横井さんは実力行使で内職に介入したり時には共同戦線を張ったり出し抜かれたり、と言葉を介さない謎なコミュニケーションが関くんとの間に形成され始める。

 本作はそう考えると一種のガールミーツボーイものでもあるかも知れない。年頃の少年少女にとって隣席の異性はそれこそエイリアンのような存在だが、この関くんのエイリアンっぷりはただごとではない。と言っても蟻酸を吐いたり人の胸を食い破って出現したりするのではなく、とびきり偏屈で何を考えてるのか分からないが、どこか憎めない子供っぽさを残した我が道を行く意地っ張りな、そんなエイリアンである。

 作品の設定が設定ゆえにあまり長続きするタイプの作品ではないかも知れないが、作画内容ともに安定しているので、今後も楽しんで読んでいきたい。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-05-15 23:18:09] [修正:2011-05-23 23:34:50] [このレビューのURL]

10点 水域

 前作『蟲師』で和風ファンタジーの新たな地平を切り開き、鮮烈な印象を与えてくれた漆原友紀が趣向を変えて挑んだ作品がこの『水域』だ。『蟲師』との違いは舞台が現代日本である点、主人公が異能の力を持たない普通の少女である点、1話完結式の奇談集では無く、連続性のあるストーリーの単行本2巻分の中編である点など様々にあるが、独特の茫洋とした淡い描線や空気感、歴史的な古層を感じさせる豊穣な物語性、日本の原風景としての「山里」への愛着、自然への畏敬の念などの根本的な部分での作者のこだわりは共通していたため、前作と変わらず大いに味わい深く読むことができた。
 本作が作品単体としても素晴らしい傑作である事は疑いなかったが、いかんせん前作『蟲師』の比類ない奇想に圧倒された身としては多少の物足りなさを感じた事も事実で、10点では無く9点くらいが妥当であろうと思っていた。ところが、非常に不幸な出来事ではあったが忘れもしない3月11日のあの日を経て、これまでは実感の希薄だった「もどるべき故郷の喪失」という本作で描かれた主題が決して絵空事でない事を否応なしに思い知らされ、考えを改めた。
 本作は、今だからこそ多くの人々に読まれるべき作品であり、またこれからも読み継がれていくべきであると強く信じる。

 物語のフォーマットとしては、読者の郷愁を誘う祖父母の村を舞台にした都会っ子少女のひと夏の冒険を描く「ぼくのなつやすみ」のようなものであり、そこにちょこっとファンタジー要素をちりばめたりして最終的には「家族の絆」をテーマとした作品という事が出来る。何だか非常にありふれたジュブナイルものに思えてくるかも知れないがそこはさすがの漆原友紀、優れたストーリーテリングと味わい深いにも程がある描写でそんな凡庸さなど微塵も感じさせない。
 異常気象で猛暑日が続きダムの渇水すら囁かれるそんな夏休みのある一日、水泳部に所属する女子中学生の主人公千波はランニングの最中に熱中症で昏倒する。
 目覚めると周囲の景色は全く様相を変えていた。止まない雨、人影のない山里、記憶の水脈の彼方に繋がる、遠い郷愁を呼び起こす山村で彼女の出会う少年と老人。聞けば他の村人達はみなどこかに行ってしまったと言うのだが。
 渇水にむせ現世と夢の向こうにある雨止まぬ山里。この水面で隔てられたような彼岸と此岸を往還しながら、物語は時間軸すら自在に前後させつつ、とあるに山里に抱かれて育ち結ばれ、そして山里を捨てたとある家族の3世代に渡る別離と再会の物語を紡ぎだす。更にそこに村の開村伝説である「龍神さま」をめぐる伝説や村人達の様々な人間模様などが重層的に描写され、中盤に明らかとなる夢のなかの山里をめぐる真相。千波が往還した山里こそ、彼女の祖父母と母親が生まれ育ち、そして都市の利便のための水源となるべくダムの湖底へと沈んでいった今は無きふるさとなのだった。異常渇水によってダムが干上がり、湖底に沈んだかつての山里の姿が再び白日のものとなった時……。多くの記憶と想いの水脈が繋がりそして去っていく美しくも儚い結末。

 人工美の象徴としてのダム湖、その水域に散じて集まる人々の想い、天と地をつなぎ人と自然をつなぐ雨水の化身としての龍神。日本は水に恵まれた国であり、それゆえに水をめぐる特異な自然観を発達させてきた国でもあるが、本作ではダムという現代的な切り口から、水をめぐる幻想譚として非常に豊かな読み応えのある作品に仕上がった。それだけでなく、「ダムに沈んだ村」という(やや使い古された題材ではあるが)故郷喪失の遣る瀬無さも加わる事で、単なるファンタジーの域を超え現代的なテーマも合わせ持つ広く多くの読者に読まれるべき作品になっている。

 程度の違いはあれど、近現代の日本の歩みは古くからの地域共同体を破壊する事で進展してきたし、その流れを止める事はおそらく出来ないだろう。本作のラストも3世代の家族の再会を描くハッピーエンドでありながら、故郷の喪失という現実からは逃れられないほろ苦さに満ちている。そしてあの忘れ難い3月11日以降、震災と原発事故により本作で描かれたような故郷喪失の悲しみは広く多くの人々の間で共有される事となってしまった。建物やインフラなどの物理的損壊だけでなく、地域に根ざして生きる人々の営みとそれらを育んできた自然そのものがかつてない規模で破壊されてしまった。

 まことに不幸な事ではあったけれど、だからこそ、今だからこそ本作は多くの人々に読まれ読み継がれるべきなのだと改めて強く思う。失うことと忘却する事は、決して同じではない。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-04-28 01:52:12] [修正:2011-05-15 18:14:29] [このレビューのURL]

 歴史にifは禁物だが、それでも我々は「もし◯◯があの時生きていれば…」とか「もし??が△△時代に存在したら…」式の妄想シミュレーションが好きである。また、「虎とライオンが戦ったらどっちが強い?」という類の現実にはありえないドリームマッチを妄想するのもやはり大好きだ。侍vs西洋騎士、レシプロ戦闘機vs飛龍、名将スキピオとハンニバルの共闘…。
 そういう(主として男性の)興味や妄想を満たすために架空戦記小説やゲームの類があるわけだが、そんなボンクラ男子的妄想エンジンをフルバーストさせながら我らが夢工房(ドリームファクトリー、略してドリフ)の平野耕太が精緻なカスタム基板を組み上げコインいっこいれた結果起動したとンでもない物語世界、それがこの『ドリフターズ』だ!

 物語の基本はいわゆる異世界召喚モノである。関ヶ原で徳川勢と戦い壮絶な討ち死にをしたとされる荒武者の島津豊久を筆頭に、織田信長やらハンニバルやらジャンヌダルクやらと史実において非業の最期や謎の失踪を遂げた古今東西の英雄豪傑が、何者かの意思によってエルフとかモンスターの存在するファンタジー世界に召喚されて大暴れするというのが基本的な骨子だ。
 この手の作品自体はこれまでも多くあった。ファンタジー世界に平凡だった少年な少女が召喚されて大活躍するのもある種の定番ではあったが、本作にはそれら既存作品と比較してもひっじょーにアクの強い個性が感じられる。

 理由の第一は主人公をはじめ登場する英雄豪傑達のほとんどがマトモではない事である。主人公の島津豊久は人情に篤い好漢だが、その本性は乱世と血煙を無上に好み大将首を奪る事に血道をあげる戦闘狂だ。織田信長をはじめ他のキャラもだいたい似たり寄ったりであり、そこかしこから「諸君戦争が好きだ好きだ好きだー」という心の声が念仏のように聞こえてきそうなほどである。そういう迷惑極まる連中に蹂躙されまくるファンタジー世界の皆様にはご愁傷さまという他無い。

 理由の第二は、世界設定からして非常にゲーム的な意匠が徹底されている点だ。作者はコアなゲーマーとして有名なので、そのあたりの雰囲気は狙ったものだったのだろう。舞台となるファンタジー世界はまさしく箱庭のトップビューマップであり、召喚されてきた豪傑達は戦国無双な戦闘ユニットなのだ。単行本1巻の時点ではまだ詳しい設定は明らかにされていないが、彼らを異世界に送り込んだ神の如き上位存在が物語には2名存在し、物語の舞台となる世界はそんな二人による殺戮のチェスゲーム盤である事が示唆される。
 片方の人物(司書風の眼鏡男性)が送り込んだ島津豊久などの戦闘ユニット達が「漂流物(ドリフターズ)」と呼ばれるのに対し、「EASY」と呼ばれる対立陣営の少女が送り込んだ土方歳三やジャンヌダルクらの戦闘ユニット達は「廃棄物(エンズ)」と呼ばれる。いずれはこのドリフターズvsエンズの激しいストラテジーアクションが展開される事になるのだろうが、これら設定で注目すべきはドリフターズが現実世界の面影をとどめている一方で、エンズの側は現世で受けた仕打ちへの憎悪からかすっかり人外の力を操る狂気の怪物と成り果てている点だ。まさしく「EASY」の名に相応しく能力を違法コードでチート改造されたゲームバランスの破壊者達であり、そんな連中にドリフの一行がどう立ち向かっていくのか、興味は尽きない。ともあれかくも物騒なゲームの舞台にされてしまったファンタジー世界の皆様には、やはりご愁傷さまである。

 理由の第三、こう言ってしまえば身も蓋もないが、作者がヒラコーだからである。こんないかれた戦闘狂どもがハタ迷惑な騒動を起こしまくる妄想全開不謹慎漫画をそれでも面白いと感じさせてしまう筆力。まるで軍用ショベルで後頭部をベチベチ叩かれながら「あ゛あっ?゛、面白いって言えやゴラ」と強要されるような不埒な面白さ。野卑さと格調高さが不思議に同居した力強い平野節の魅力。理由の一とニも、結局はここに行き着くのだ。なにはともあれご愁(以下略

 ドリフト走行を続ける先の読めない展開が続く本作だが、1巻を読む限りでは今後がどういう展開であれ大いに楽しみである。豪傑ユニットを駆使した「大戦略」「コマンドアンドコンカー」「信長の野望」的な本格ストラテジー路線、異世界を舞台とした「幻想水滸伝」的なヒロイックファンタジー路線、とりあえず英雄豪傑最強決定戦な「ワールドヒーローズ」路線(サイボーグのドイツ軍人とかも是非出して欲しい)、どう転んでも楽しそうだ。しかし一癖も二癖もあるドリフターズ達が、神の如きゲームマスター達の意に従ってゲームの駒に甘んじるとも思えないので、いずれはそんな傲慢な世界設定そのものを「おれたちはモノじゃない」と気合と根性と悪ノリで破壊するような壮絶なバグを引き起こすことも期待している。

 その際に使用される武器がチェーンソーであれば尚良かである。これもサガか……。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-03-10 23:31:27] [修正:2011-03-20 19:45:45] [このレビューのURL]

8点 タイヤ

 『伝染るんです』のヒット以来、いわゆる“不条理ギャグ漫画”の鬼才として広く注目されるようになった吉田戦車だが、しかし“不条理”のみで吉田戦車を評価する事は早計であり、またこの不条理ギャグというジャンルが何やら80年代末に何の前触れも無しに唐突に現れた突然変異種であるように捉えることも、無論正しくない。本作『タイヤ』は、吉田戦車のとびきり奇妙で可笑しく、そして背後に湛えたほのかな哀しみも感じ取れる短編集だ。ギャグの要素がほとんど存在しない話も少なからず収録されており、ギャグ漫画というよりは奇妙な寓話集のような趣がある。

 本作は家族を扱った作品が多いのが特徴だが、その読後感はいずれも一抹の哀しみが残る作品ばかりである。自動人形の木人を父親・友人代わりとし、誰にも頼らず生きようとする木人職人の少年の孤独な戦いと別れ、そして再会の物語『木人の店』、針仕事に励む母親(表情が描かれない)とそれを見守る少年の間に横たわる不穏な断層を描いた『肩守り』、崩壊寸前の家族に“団欒”を取り戻すためにカレーライスを作ろうとする少年の材料探しの奇妙な冒険『カレー』、小津安二郎の映画を思わせるホームドラマを何故か不定形の不気味な人工生物が演じる近未来SF家族ドラマ『小春日和』、そして東欧のアニメ映画のような素朴なタッチと構図で、川岸でイルカと会話をしながら日々の生活に倦んだ少女と、「ひょっとこ」になって帰ってきた兄とのやりきれない断絶を描ききった好編『川辺の家族』など、どれも奇妙で不条理な独特の雰囲気に満ちているが、その“不条理”は決して“何でもあり”とイコールではない。それら不条理の意匠をまとって描かれるものは生まれいづる悩み、別離の哀しみであり、不条理は万能のツールとしてそれらをハッピーな方向に好転させたりはしない。むしろ、この奇妙な雰囲気はそのまま我々が日々の孤独の中で湾曲させた近親者や世の中に対するねじくれた愛憎の投影そのものなのではないか、とさえ感じてしまう。

 更に、世間に背を向けて一人でモヤモヤを抱え続けていた若き日の作者の半自伝的な一作『ぶどう』にいたっては、ギャグはおろか遂に不条理ですらなくなる。世に鬱屈を抱えた少年のささやかな横紙破りとその無残な顛末を描いたわずか2ページあまりのこの小編は、ギャグも不条理的要素もいずれも希薄だが、この何とも言えないモヤモヤが後に“不条理”として開花していくであろう原風景的なものを感じさせる。思うに吉田戦車の不条理とは、テリー・ギリアムの往年の映画(『未来世紀ブラジル』とか)に通じる部分があるのかも知れない。

 このようにレビューすると、「悲惨で深刻な話ばっかりなのか」と敬遠されるかも知れないが、無論そんな事はない。『ヤクザでゴー』や『オフィスユー子』など、いつもの吉田戦車が堪能できる好ギャグ短編も完備しているし、犬を訓練して蝶を捕まえるという架空の奇習を描いた『ちょうちょうをとる』など、後の作品『ぷりぷり県』などで冴え渡る「ウソの風習」をバカバカしく活写してみせる名人芸もこの頃から既に健在だ。また、吉田作品の大きな魅力である素敵な造語センスの妙を味わえる機会も非常に多い。タイトルに『タイヤ』と付けるセンスといい、コーヒー牛乳を甘くさせるための儀式「ほめミルク」とか、東南アジアの生息する危険生物「ボルネオ電気蝶」とか、日本語の組み合わせによる奇妙な味わいを活かしきれるこのセンスは相変わらず見事。吉田戦車はカエル好きとしても有名だが、天変地異により地表の大半が水没し、人類が水生生物と融合して種を存続させた未来を舞台に、かえる族の王子の成長を描いた『かえる年代記』など、哀しみの中にも希望を感じ取れるファンタジー中編などもあり、作品のバラエティは広い。

 不条理も一日にしては成らず。様々な鬱屈や哀惜、広範なサブカルチャーの沃野を苗床にして吉田戦車は独自の世界を描き開いていったのだ。最近、新装版として再販もされているので、興味のある方も無い方もぜひご一読の程を。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-02-26 01:33:05] [修正:2011-02-26 23:56:12] [このレビューのURL]

 ウエケンこと上野顕太郎はギャグ漫画家である。彼をギャグ漫画家たらしめた幾多の先達達は世界に誇る漫画文化の黄金伝説である。ウエケンは、人類の笑いのために今日もギャグを妄想するのだ、ヒマだからな!

『怪異!夜は千の眼を持つ』


 ……しょうもないネタはともかく、『夜は千の眼を持つ』は生粋のギャグ職人ウエケンによる文字通り千変万化のギャグオムニバス集だ。一貫性のあるストーリーや主人公などは無く、作品内の短編である『キャプテントラウマ』シリーズや『サチコと友人』シリーズなどを除き、レギュラーキャラもほとんど存在しない。それどころかそもそも「漫画」としての体すら意図的に放棄した回はあるは他作品のコラージュのみで構成された回はあるは、と毎回読者の予想の斜め上をスイッチバックしながら登るような超展開が頻発する。
 しかしこのようにとりとがもないように見えつつも作品を貫く一貫性は確保されている。ギャグへの絶対的な信仰が。

 ギャグ漫画というジャンルは創作も定義も非常に難しい。言葉遊び、一発ギャグ、不条理、パロディ、メタフィクション、これまで様々な方向性のギャグ漫画が現れては人々を笑わせ、そして作家達を疲弊させていった。
 『夜千』の魅力は、そんなギャグ漫画、いや、ギャグに限らず様々な漫画の歴史的堆積を、ギャグ職人であると同時に無類の漫画好きでもあるウエケンが咀嚼した上でギャグの万華鏡として我々に広く開陳してくれる事だ。本作には本当に色々な種類の笑いが存在する。
 毎回毎回手を変え品を変え様々なアプローチから繰り広げられるギャグまたギャグ。キャラの個性や定型的演出に頼れないため、そのコストパフォーマンスは恐ろしく悪い。その分ネタの純度の高い回の破壊力は強烈極まりなく、(1ページで)『レ・ミゼラブル』全ストーリーを描ききったり、大昔の絵物語や貸本漫画のフォーマットを無駄に忠実に再現したり、とその非効率にもほどがあるこだわりの数々には感動を禁じ得ない。
 特に意味深だった回は、水木しげるや石原豪人のタッチをこれまた忠実に再現して昔の妖怪図鑑のパロディをやった回だが、紹介しているのは妖怪ではなく、赤塚不二夫を筆頭とする過去から現在に至る様々なギャグ漫画家達の肖像だった。作家、それもギャグ作家とはどこか妖怪じみた存在であるという認識の表れだろうか。

 欠点としては、毎回バラエティに富んでいるのはいいのだがクオリティにバラつきがあるように思われる部分だ。笑える回の破壊力は凄いが、どこをどう笑うべきか頭をひねってしまう回も時々ある。
 それと絵柄がややのっぺりしすぎている点も気になる。他作家のタッチを再現した回や超絶作画の回などはともかく、作者の地の部分の絵柄が昔と比べても何か野暮ったくなってしまっているような気がしてならない。これら欠点についてはまぁ読者の好みよりけりだろう。

 つい先日、本作の第3集が登場したが、そこで作者は何と妻との死別という自身の実体験を基に描いた非ギャグの傑作ドキュメント漫画『さよならもいわずに』をまるまるネタにするという恐ろしい快挙に及んでおり、これには心底「ええぇ??!?」と驚愕した。これが、殉笑者の業という奴なんだろうか。
 『夜千』は千変万化のギャグものづくし、ギャグ物産展だ。コストパフォーマンなど度外視して急勾配を軋り登るギャグの三重連蒸気機関車であり、謎の感動をもよおさずにはいられない。一時期ネット上でクオリティの高さで話題になった一休さんと『ゴルゴ13』等のかけ合わせ漫画も本作で楽しめる。一気読みには向いていないので、毎日少しずつ枕元でヒマな時にでも楽しむのが良いと思われる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-01-29 22:52:39] [修正:2011-01-30 02:17:14] [このレビューのURL]

※本作の関連作品「暗黒神話」は未読

 今更自分ごときが言うまでも無いが、本作『孔子暗黒伝』の作者である諸星大二郎は日本漫画界唯一無二の鬼才である。初期のホラーやハードSFを扱った短編群から神話や伝承に材をとった伝奇長編、ナンセンスギャグまでものにする幅広い見識と筆力、そして手塚治虫をして「真似できない」といわしめた独特な作風、後進の多くのクリエイター達にも多大な影響を与えた事も広く知られている。同傾向の作品で高い評価を得ている漫画家では諸星大二郎の盟友である星野之宣がいるが、センスの独特さという点では諸星大二郎の方が唯一無二度は高い。

 諸星大二郎の描く様々なジャンルの一つにに、中華世界の神話や古典を扱った一連の「中国もの」の作品群があるが、77年に連載開始された本作『孔子暗黒伝』はそんな中国ものの最初期に属する作品である。そして若き日の巨匠が選んだ題材は三国志でも水滸伝でもなくなんといきなり「孔子」であった。しかも論語という古典の権威にまったく物怖じすることなく、陰陽五行説などの神秘思想や古代中華文明の神、それどころか同時期のインド神話や仏教、東南アジアの精霊信仰、古代日本神話、果ては物理学やら宇宙科学などの現代科学にSFまでを包括した驚くべき一大伝奇作品に仕上げてしまったのだ。しかも話運び自体は荒唐無稽だがそれらの諸要素が見事に関連しあい、「世界の構造の謎に迫る」という哲学的でSF的な恐ろしく壮大なテーマまで持ち上げられる始末。ストーリー展開に関しては複雑怪奇で要約困難なのでここでは詳しく説明しないが、よくもまぁこんな作品が70年代の少年ジャンプに載ったものだと思う。そして論語や孔子というガチガチに権威づけられて面白みがないと一般的には思われがちな古典に対するアプローチとしても大変興味深い作品となっている。


「学びて時にこれを習う またよろこばしかrたずや」

 だいたい我々が学校の古典の授業で習うような孔子の言葉と言うと、上に掲げたようないかにも説教くさい道徳文句が多いため、論語と言うのも面白くない道徳哲学やら人生訓程度に思われがちだが、本作で描かれる孔子は違う。作者は後書きで「白川静の『孔子伝』に触発された」と語っているが、本作の孔子は我々の住む現代社会から遠く離れた、怪力乱神の跋扈する神話世界の住人である。
 神仙や呪術の世界に通じ、理想実現のためならいかなる労苦も厭わず、自らの理想が天に裏切られては嘆き悲しみ慟哭する、非常に人間的で血の通った人物でもある。無論作者の恣意的解釈と言われればそれまでだが、セリフの端々に論語の文句をさりげなく含ませていたりしてぬかりも無い。その引用も顔回が死んだ際の「天われを滅ぼせり」などの有名なものから「海にイカダを浮かべても…」などさりげなくのマニアックな奴まで多岐にわたっており、伝奇世界を描きながらも作者が孔子を古代中華世界に生きた血の通った思想家として浮かび上がらせようとする態度が感じられる。
 もちろんそれだけに留まらず、作者の奔放な想像力はいかんなく発揮されており、「あやしげな祭祀場で蘇ったゾンビに孔子が羽交い絞めにされたところに、ティラノサウルスが乱入」みたいなどういう思考回路ですか的な悪夢のようなシーンも登場、おそらくこんな作品、論語の本場である中国にも無いだろう。古代神話や神秘思想を現代科学と関連付ける語り口にしても、古代から現代と手段は違えど人々の思い描く世界認識の相似性に着目して処理されており、どうしようもない土着的な怪奇を描きつつもそれがいつしか壮大な一大体系に発展していくという、作者ならではの強烈な知的アクロバットを堪能することが出来るのだ。下手な新興宗教のでっち上げた教義とかよりもよほど魅力的な世界観である。
 古典や神話や科学理論など多ジャンルの要素をうまくつなぎ合わせて一つの物語体系とするという作風は、ファンによる二次創作やパロディ作品などが隆盛を誇る現在だからこそ再評価される部分もあるかも知れない。(ある意味本作は「スーパー古代神話大戦」「とある孔子の論語目録」みたいなものであるが、それだけでは表現できない不気味な凄味がある。)
 
 こうして諸星大二郎は後に自らの十八番となる中国ものの鮮烈な第一作をものにしたワケだが、最初期の作品であり作者自身もまだ若かった(当時まだ20代!)ため、『無面目・太公望伝』など後の中国ものの傑作と比べると欠点が目立つのも事実だ。
何というか、読みにくいのである。これは漫画というメディアにおいては無視できない問題だ。


作者「よし、やる、己はやるぞ。暗黒神話を更に上回る壮大なスケール、少年漫画史上類の無い一大大作を描くのだ!孔子や仏陀を登場させよう。日本神話とSFもアリだ。全てを合一させ、少年達の蒙を啓いてやるのだ、おお!マハー・カーラ!」

編集「私ごときは先生の教えについていくのみでございます!ジェイ ハリ・ハラ!」

 多分こんな感じ(?)で若い作者は情熱に燃え盛り、編集も巻き込んでこういう奇跡のような作品がジャンプに掲載されたんだろうが、その情熱が一部上滑りしている感は否定できない。既に述べたように本作は多方面のジャンルにわたる知識が動員されているが、物語の随所に数多く長々とした解説がナレーションや劇中人物のセリフの形で挿入され、それらがどうも物語展開に水を差すのだ。知識の解説とストーリーの自然な展開がまだうまいこと噛み合っていないのである。幸い作者の優れた咀嚼力と想像力によりイヤミったらしいスノッブ趣味には陥っていないが、後の諸星作品と比べるとまだまだ荒削りさはぬぐえない。

 たとえて言えば、奥深い攻略性でやり応えはあるが、難易度が高くチュートリアルも不親切な初心者殺しの一昔前のゲームみたいな作品である。諸星作品をこれから挑戦してみようという方は、まずは多数の短編作品集などで慣らし運転をした上で挑戦してみるのがいいかも知れない。あと、文庫版よりも大判のジャンプスーパーコミックス版の方が細かい字も読みやすいので良いだろう。お気軽に楽しむにはちと辛いが、まさしく漫画史の軸の時代を彩る重要作品である。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-10-24 20:56:14] [修正:2010-10-26 21:04:01] [このレビューのURL]

2010年9月26日 得点修正(6→8) 加筆あり

14歳の時にヨーロッパを一人旅したのをきっかけにイタリアへ美術留学、そのままイタリア人男性と結婚する傍らエッセー漫画などで活躍する女流作家…。

 本作「テルマエ・ロマエ」が漫画ファンの間で話題になった時に上記のような作者ヤマザキマリの略歴を知り、

「うわっ如何にも寒い一行コピーでおなじみのA〇RAあたりで特集されそうな人生だなぁ。」(←偏見)

 と思ったりもしたが、そんな作家が選んだテーマが「風呂」だという点に興味を抱いて単行本を買ってみたところ、「その手があったか、ヘウレーカ!」と浴槽から飛び出して全裸のまま走り回りたくなる着眼点の素晴らしさにまずやられた。
 日本人の風呂好きは世界的にも有名だが、作者が長年過ごし旦那の故郷でもあるイタリアにかつて栄えたローマ帝国も、また風呂をこよなく愛した文明だった。こうして「風呂」をキーワードに日本(故郷)とヨーロッパ(今の棲家)が結ばれたのだ。
 郷土愛は理屈や理論ではなく、感覚的・感情的な部分によってはぐくまれる部分が多いと言われるけど、長年ヨーロッパで過ごした作者がはぐくんだ故郷への思いが、風呂への偏愛という形で爆発しまくっているのが読んでいてほほえましいし、同じく風呂を愛する一日本人として「その通りだッ」と大いに納得もできる。全身で味わう風呂という奴は、場合によっては言葉や食べ物以上に皮膚感覚的に訴えてくるパワーがあり、作者は風呂限定で古代ローマと現代日本を自在に行き来するローマ人ルシウスを通して、なかなか湯船につかる事も叶わない地球の反対側にいる自身の思いを叶えているようにも見える。実際第1話でルシウスが初タイムトリップを遂げた先が、スターウォーズのポスターなどから判断して70年代末~80年代初頭の、作者が渡欧する直前の銭湯だったあたりからもそれがうかがえる。そして風呂にすっかりのぼせあがった作中描かれる「平たい顔族」のジジババ達のあの表情!作者は本気だ。

 また、この漫画で良いと思った部分は、単なる「日本の風呂万歳」的なノスタルジーのみに終わる事無く、ローマ文明の偉大さをも描けている点にある。主人公のルシウスは真面目が服を着て歩いているような堅物なローマの風呂設計士で、毎回はるか未来の日本の風呂にタイムスリップして大いにカルチャーショックを受ける一方で、その風呂技術の一端をどうにかローマに持ち帰ろうとし、そして完全移植とはいかないまでもフルーツ牛乳や露天風呂、シャンプーハットなどをローマの技術で再現してみせる。
 「ローマ文明はギリシア文明と比べて創造性で劣っていた」と言われるが、作中ルシウスが述べている通り他民族の文明を柔軟に吸収、模倣発展させる事で世界規模の文明を築き上げてきた。(似たような事を言われた民族もいましたね)
 ルシウスはそんなローマ市民としての大いなる誇りと自負心を胸に秘め、「平たい顔族」の仕掛ける様々な風呂に裸一貫で立ち向かうのだ。その姿は神々しくさえあり、ローマの精神の最良の部分を体現しているようでさえある。そして…、やはりどこかオカシイ。一種のカルチャーギャップをネタにしたギャグ漫画としても良くできているのだ。特に彼が
「何をするかーっ」
 と叫ぶシーンでは毎回笑いそうになってしまう。本人が真面目な分、余計に。

 日本とイタリアを「風呂」というキーワードで結びつけた本作の着眼点のよさは上に書いてきたようにただの思いつき以上の奥行きがあり、各方面で話題になったのもうなずける。ある意味「ローマ人の物語」で知られる塩野七生に近い快挙かも知れないが、まだそこまで持ち上げるのは早計かも知れない。もともと本作は同人誌用に軽い気持ちで描いた物が連載の流れに乗ってしまったのだという。初期設定がなまじいいだけに毎回面白いが、このまま今後も新鮮な驚きを与え続けられるかどうか、作者の真の実力が試される。


 単行本でしか読んでないため、現在ビーム本誌ではどのような風呂が登場しているかは知らないが、2巻以降に登場する風呂を勝手に予想してみよう。



1.ジャグジー
「この泡を発生させるのに何人の奴隷を使っているのだ?」

2.真冬の露天風呂
「馬鹿な。あえて雪が降る中に屋外で入浴など…」

3.塩サウナ
「何をするかーっ!」

4.ゆず湯
「むぅ、柑橘類をこのように使うとは。食っては吐いて吐いては食うばかりの貴族たちにも見せてやりたい。」

5.ひのき風呂
「総木材製の浴槽だと?まさか平たい顔族とは、絹の道の遥か東方の彼方にあるという、木造文明の帝国だったというのか?」

6.温泉卓球
「この球の材質と製法が分からん。」

7.スーパー銭湯
「夢を見た。後の世の皇帝陛下がこれとよく似た施設をお造りになる予知夢を。」

8.ローマ風呂
「細部に誤りがあるが、われらローマの威光は平たい顔族たちにも及んでいたと見える。初めて奴らに優越感を感じた。」

 2巻も楽しみにしてます、ハイ。



 以下加筆(2010/09/26)



 そんなわけで先日発売した2巻を読んでみたのだが、やはり上記のレビューは早計であった。期待外れ?マンネリ?一発屋?違う。最初のころのような新鮮な驚きこそ無いにせよ、漫画としての面白さはますます増し、作者の実力の確かさを思い知らされた。
 ギャグ演出力は格段の進歩を遂げており、「いい年した大人が全裸であれこれ頭をひねる」という本作特有のシチュエーションの馬鹿馬鹿しさ・大げささを更に増幅させている。絵もこなれてきており、女性キャラなども普通にかわいく見えるようになってきた。
 上で色々あげてみた勝手な予想は結局2巻においては一つも当たらず、定型的な展開にも関わらず予想のはるか斜め上を行く日本とローマの風呂シンクロの数々に圧倒される結果となった。風呂、恐るべし。

 3巻も楽しみにしてます、ハイ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-05-05 21:59:31] [修正:2010-09-26 01:34:10] [このレビューのURL]

※ヘビケラの胴体並みに長いです。

「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし 失われし大地との絆をむすび、ついに人びとを青き清浄の地に導かん」
 
 アニメ映画史上の最高傑作のひとつとされる国民的作品『風の谷のナウシカ』。本作は宮崎駿本人によるその原作漫画である。アニメ公開より2年早い82年にアニメージュ誌上で連載開始されたが、宮崎駿がアニメ作家としての名声を高め本業が多忙になる中たびたびの休載を挟み、アニメ公開から10年後の94年にようやくの完結をみたが、物語当初は共通していた本作の主要なテーマ「自然と人間の調和」を巡る描写は、劇場版とこの原作版では既にここでも多く語られているように相当に異なった様相を呈するに至った。

 劇場版ではナウシカは人々が長年到来を切望してきた神話的な救世主のように描かれており、物語の結末は冒頭掲げた予言が現実のものとなるという、美しく感動的で、しかし安易な予定調和ともとれるものだった。一方こちらの漫画原作版は、結末において“青き衣の予言”はある程度の整合性を持って表現こそされたが、ナウシカがもたらしたものは、約束された調和の未来ではなく、清浄と汚濁がないまぜとなったような果てしない混沌の未来であった。


 では両者が決定的に道を違えた分岐点はいつだろうかと考えると、おそらくナウシカが神聖皇帝ナムリスとの戦いの際に着用していた「青き衣」を破かれ、下着姿(しかもヘソ出し!)という色々な意味で衝撃的な姿をさらし、直後覚醒した巨神兵の”母親”になった瞬間ではないかと思う。
 時期的には丁度91年の中ごろの事だった。当時掲載誌アニメージュのアニメキャラ人気投票では、映画公開数年を経てもなおナウシカは1位の牙城を堅守し続けていたが、前年放送され大人気を博した庵野秀明監督(劇場版で巨神兵の作画を担当)の『不思議の海のナディア』のヘソ出しヒロイン「ナディア」にその人気が猛追されていたため、読者のパロディイラスト投稿コーナーでは「ナディアには負けられない!」とナウシカが困惑しながらヘソ出し姿に挑むイラストなんてものもあった。だが、ことはそんな単純なファンサービスだけの話ではなかったのである。いや、ファンサービスも無論あっただろうが、監督的に。


 ナウシカの着衣は、その世界において生態系の頂点に君臨するあらぶる自然の象徴でもある巨虫「王蟲」の体液で青く染まっていた。この青き衣こそが予言にも謳われた人と自然を結ぶ救世主、ナウシカのいたわりと友愛の象徴だったのだが、それが引き裂かれた時点で、我々はもう劇場版と同じような結末は望むべくもないことに気づくべきだったのかも知れぬ。その年の暮れ、かつて宮崎駿が大いに関心を寄せていたマルクス主義の正統を自認した巨大国家、ソビエト連邦は崩壊した。
 ナウシカは覚醒した旧文明の遺した生体兵器である巨神兵に対して母のように振る舞い、この忌まわしい巨人の母にすらなった。巨神兵は劇場版で描かれたような単なる兵器ではなく、旧文明が行き詰まりの果てに作り出した人格を持つ人造神であった事が発覚するが、“毒の光”を撒き散らすこの腐りかけた巨人をお供にナウシカが破壊神の如く大暴れするクライマックスからは、もはや多くの観客を魅了した女神のようなナウシカ像からは遠く離れたものとなり、それとは別種の凄みが貌をのぞかせ始めていた。

「愚かな奴だ たった一人で 世界を守ろうというのか ナウシカ…」
「腐った土鬼の地も土民共もみんなくれてやる 全部しょってはいずりまわって世界を救ってみせろ!!」

 ナウシカは決して完全な英雄ではない。若さゆえの甘さもあれば激情に駆られて暴走もする。しかしそれでもこの少女の持つ圧倒的な凄みは否定のしようがない。それは彼女が肉体的な強さや美しさは無論の事、小さな体でこの歪みきった世界の不良債権を一手に引き受けようとしてみせた事による部分が大きいのではないか。
 物語終盤、この世界の営みの真実を知ったナウシカは、苦悩し、自らの罪深さにおののきながらも安易な救済を拒否し、救いをエサに生命のコントロールを目論む傲慢な旧文明(≒破産管財人)と決別、巨神兵でもって破壊するという快挙(暴挙?)を成し遂げる。いわば世界の行く末を彼女がほぼ独断で裁定してしまった形である。
 「一介の少年少女の内面世界の有り様に委ねられる世界全体の行末」という構図は、ナウシカ以降、庵野秀明監督によるもう一つの巨神兵譚『新世紀エヴァンゲリオン』などから顕著になったセカイ系的作品群にも通底する意匠だが、改めて見てみると両者は似ているようでやはり違う。ナウシカの選択した結末は、決して一時の感情や自我の在り方のみから導かれたものではなく、ほとんどの人間の知りえぬ世界の深淵を前に血反吐を吐きながら浮かび上がらせたギリギリなのだった。

 つまりは「世界に対する無限責任」をナウシカは背負ったのである。神がかり的な宗教運動家や革命思想家、もしくは真性の狂人、そういうケッタイな人種にしか背負いえない大業をナウシカは背負ってみせたのだ。「破壊と慈悲の混沌」と称されたその覚悟の凄まじさは、ちょっと形容のしようが無い。
 エピローグの記述を見る限りでは人類はその後もしぶとく歴史を重ねたようだが、ナウシカのその後を巡る二つの年代記の記述の違いは、それぞれが彼女の「人性」と「神性」をあらわしているように見える。あくまでも穢れた人間としての矜持と生き様、それをゆるぎなく遂行する神のごとき強さ、完結までに10年超を要した時代の流れの中で作者の思想の変転そのままに混沌の度合いを深め、破綻しかけたこの作品を根性でひきずりあげたのもまたナウシカだったのだ。

「ナウシカ それはわたしとあなただけの秘密です」

 以上のように圧倒された結末だったが、駆け足で消化不良な感は拭えず、ラストで明かされる「青き衣」の秘密を巡る部分がどうしても小骨のように引っかかるため、ここはあえて9点に留める。他にも世界観設定や細部のデザイン、戦闘シーンの拘りやキャラの魅力、食事シーンの扱いなどなど語り残した事は多いが、ひとまずここで締める事とする。 おわり

 

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-07-20 01:14:20] [修正:2010-07-21 23:15:42] [このレビューのURL]

 2010/5/2 更に追記

 思い出とは甘美なものである。例えば、学生時代に部活の帰りなどによく立ち寄った地元のラーメン屋の味が楽しかった日々の思い出と共に過剰に美化されて心に残る、なんて事は多かれ少なかれある程度の年齢に達する人なら覚えがあるはずだ。ところが大人になって経済力が増し、それなりにうまいものも食べて舌が肥えた後にそういう思い出のラーメン屋に行ったりすると、懐かしさに感動する一方で「あれ?俺はこの程度のラーメンに昔は感動してたのか?」と気づきたくもない事実に気づいてしまう。

 ラーメンも現代漫画文化も、共に現在進行形で進化中であり文化としては比較的日が浅い。時代を超えて普遍的な価値のある品もある一方で、一時期は人気を博したが現在の感覚で味わおうとすると安っぽさや古臭さが鼻についてどうにも味わいにくい品も存在する。

 前置きは長くなったが、この「暁!!男塾」は、かつて大人気だったラーメン屋が21世紀のご時世に昔と変わらぬ味を狙って再起を図るも鳴かず飛ばずとなってしまったような作品である。一応「思い出補正」に支えられた昔からのファン層によって商売は成り立ってはいるが、新たな客層の開拓には結びついてはいない。そして主な客層である昔からのファンにしてみたところで、本作の味わいは決していいとは言いがたいのが現状である。

 理由は主に二つある。第1にお客の側の舌が昔より肥えてしまったことと、第2に商品の質そのものが全盛期と比べて劣化したことにより、ノリ的にはかつての名作「魁!!男塾」に似せてはいるがその味わい深さには雲泥の差がついてしまった。

 これは何も昔のファン層が成長して大人になったからとか作者の筆力が衰えたからというだけではなく、作品を取り巻く環境の劇的な変化…ネット社会の発達という要因も深く絡んでいる。

 現在は例えばラーメン屋にしたってネットでちょちょいと検索すればすぐにおいしい人気店を調べられるが、そういう世の中では男塾的なノリを素直に味わう事はかなり難しい。本作は20年来変わることの無いジャンプ黄金パターンという名の化調(化学調味料)に頼っているが、「友情努力勝利」「仲間が死んでお涙頂戴→人気キャラはすぐ復活」「倒した敵は仲間になる」、こういうパターン化された味わいの安っぽさそのものが時を経て露呈してしまったのだ。現在ではこういう化調だのみのラーメンはネット上での評価は総じて低いのである。

 かつての「魁!!男塾」ではそういう化調の安っぽさを補って余りある魔法の秘伝ソース「民明書房」があった。作中登場する様々な武術や奥義や武具、無論すべて実在しない大嘘だが、もっともらしくい引用されるこの民明書房刊の架空書籍群の放つ怪しげな香りは当時の子供たちを大いに魅了し、その語り口の本物っぽさもあって信じる者も少なくなかった。それはかつての少年向雑誌の持っていた怪しい大らかさであった。
 現在は、もう図書館を調べまわったりせずとも一発ググりさえすれば、民明書房が大嘘であることなど小学生でも気が付くことができる。昔のようにもっともらしい嘘をついても無駄だと割り切ってしまったからだろうか、本作「暁!!男塾」においてはこれらのネタの劣化は著しい。安易な駄洒落に頼った必殺技のネーミングも不愉快なら、何かにつけてすぐに「気」とか「念」とかそういう超能力に頼ってばかりなバトル描写も安っぽさに拍車をかけている。前作の末期にも見られた事だが、今ほど酷くは無かった。
 こうして秘伝のソースは秘伝では無くなり、魔法は解け、後には化調の配分を誤った安い味わいのスープが残ってしまった。恒常的に塩分や油分に囲まれるラーメン屋の店主の中には味覚が早々に衰える人も少なくないというが、作者の宮下あきらもそれと似たような状態に陥りつつあるのではと勘ぐってしまう。

 ただ、上述のように作品を取り巻く雰囲気は思い出だけではカバーしきれないほど劣化しているものの、商品として、漫画としては破綻してはいない。スープがまずくなった一方で麺は濃い見た目と裏腹に相変わらずの喉ごしの良さで、スルスルとストレスを感じることなく実にスムーズに味わうことができる。繰り返されるお約束も慣れてくると次第に快感に変わり、「来週どんな展開が待っているんだろう?」と余計な気をもむことも無く時間つぶしにはもってこい。漫喫で一気読みするにはうってつけの作品とも言える。

 聞くところによると宮下あきらはネームを描いたりせずに一気に原稿用紙に直筆で昔から漫画を描いてきたらしい。以前も民明書房の社長(え?)との対談の中で、小利口な作品の多くなった少年漫画界の現状に疑問をさし挟んだりもしていた。いずれにせよ「HUNTERxHUNTER」的なノリとは対極に位置するような作家姿勢だが、決して思い出のみに拠るわけではなく、真面目にそういう漫画のあり方も必要なのではないかと最近は思いつつある。
 原材料や製法に拘り、一杯千数百円、場合によっては数千円するようなラーメンが世間をにぎわすのを尻目に、全盛期と比べて味は落ちつつもそれでも早くて安くてそこそこうまいラーメンを作り続ける地元の店にも似た愛着を感じつつ、なんやかんやで今でもずっと読み続けている。


2010/04/09 以下追記

 色々とイヤミったらしい事を書いてしまったけれど、こういう作品に無邪気に酔いしれる事ができず、ネタとしてしか消化できなくなってしまった現状に寂しさを感じてもいる。誰かに頼まれたわけでも無くこういう事を書いている素人レビュアーが言える事でも無いかもしれないが。

2010/05/02 更に追記

 上記のような感想を書いた直後、本当に最終回を迎えてしまった。バトルに次ぐバトル、昨日の敵は今日の強敵(とも)、明らかに死んだ奴も設定リセットで何食わぬ顔して参観席に駆けつける男塾の卒業式。最後の最後まで男塾イズムを貫き通した潔い結末だった。今作が前作より優れていた部分は結末が打ち切りっぽくなく比較的きっちり描かれた事だろう。宮下先生、本当にお疲れ様でした。押忍、Gods and death!!

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-04-06 21:49:15] [修正:2010-06-10 23:26:09] [このレビューのURL]