「景清」さんのページ

総レビュー数: 62レビュー(全て表示) 最終投稿: 2005年10月17日

 週刊少年サンデーといえばかつては「漫研部室のサンデー」とも言われたような優等生的な安心感のあるブランドだったが、近年は編集部と作家との間のドロドロした確執の話題が表面化し、雷句誠や藤崎聖人といった同誌の人気作家が他社へ移籍するなどして何とも不穏な空気に包まれている感がある。両氏とも移籍先の講談社では激しくビミョーな感じではあるが…。

 そのような中にあっても、本作『金剛番長』からは、少なくともそういう不穏さは微塵も感じられなかった。作家もノリノリ、編集も輪をかけてノリノリ、互いの悪ノリが異様な相乗効果を生み、この21世紀の現代に学ラン系超人バトル番長漫画をメジャー誌で堂々連載するという究極の酔狂を貫徹、潔く「筋を通して」みせたのだから。
 
 近年の超人バトル漫画は互いの能力や心理的駆け引きなどを重視する傾向が強いが、本作の主人公である金剛晃は「細けぇ気にするな」「知ったことかー」と居並ぶ多彩な強敵たちを次々と拳一本で粉砕していく。敵も番長、味方も番長の学ラン番外地、敗れた敵の多くは主人公の男気に惚れて仲間になり、物語演出は終盤地球規模にまで加速度的にインフレを遂げる。もう今となってはギャグにしかならないようなこれれらの意匠を確信犯的にたたきつけてくるのが本作の流儀である。作者の鈴木央はジャンプから移籍してきた過去もあり、そういう往年のジャンプ的なノリを意図していたのは間違いないだろう。

 編集サイドもそんな作者の本気に最大限こたえる姿勢を示しており、単行本の帯文や巻頭巻末の煽り文句などを見ても

「せっかくだかrた俺はこの金剛番長1巻を買うぜ!」

とか

「タフすぎてそんはない」

とか

「ゲーーーーッ!?」

 とか、もうやりたい放題の傍若無人、わかる奴だけわかればよし!的な酔狂が暑苦しいほどに充満していた。しまいには『キン肉マン』よろしく読者投稿による「僕の考えた番長」コンテストまで開催され、登場キャラとして採用されるなど、とにかく編集サイドの熱意が非常に感じられる作品となったのである。

 ただ、このように書くと本作が悪ノリだけで構成されたような作品に感じられてしまうかもしれないが、実は結構本気で「番長」という存在の魅力を描こうとしていたのも本作の良いところだ。
 物語中盤、「熱くない男は死んでよし!」をモットーとする熱血主義の化身・爆熱番長との戦いが描かれるエピソードがあるが、ここでは同じ熱血系キャラである爆熱番長と金剛番長が対比され、人の弱さも受け入れる金剛番長の度量の広さが示される。よき番長の魅力とは強さや厳しさと共に他者を受け入れる度量も併せ持った存在なのであることを改めて気付かされた格好で、作品の大半を覆う酔狂の陰で輝く真っ当さが、何とも絶妙な読後感を提供してくれた。

 以上のように作品のノリとしては非常に自分の好みにあう作品だったが、しかし期待していたがゆえに残念な部分も多かったのも事実である。皮肉なことにそれらの欠点の多くはこの作品の長所が裏目に出た点が多かったのだ。

 本作の魅力は単純明快で強力無比な金剛番長という主人公による部分が大きかったが、この金剛番長があまりにも強く、どんな危機に陥っても「知ったことかー」「気合いだー」で形勢を逆転させてしまうため、バトルがどうしても単調になってしまうのだ。これは近年の洗練された能力系バトル漫画を読みなれた読者には最初は新鮮にうつっても、次第に飽きられる結果となる。
 また、当初は東京23区の各地区で行われていた番長達のバトルも物語の(意図された)インフレに合わせるかのように規模が拡大化し、しまいには地球を破壊しかねない勢いに膨れ上がった。むろんこれは”そういうノリ”を狙った作劇だが、さすがに酔狂だけであんな人が万単位で死んでもおかしくないような展開はちょっと…と思った。物語のラスボスである日本番長(金剛番長の兄)の悪行の動機にしても、

「母さんが愛したこの世界は母さんを拒絶した。だから俺はこの世界を憎む。」

 といういかにもなセカイ系の典型で、この手の作品とは食い合わせが悪いように思い非常に萎えた。この終盤のせいで、番長漫画の復権を謳った本作が結果的に番長というイメージを風船のように肥大化させ、しまいには逼塞させたのでは?という思いもぬぐいきれない。だが、まぁそんな細けぇ事は気にせず読んで充分おもしろく、奇抜なキャラ設定のおかげでネタ漫画としても一級品の良作には違いない。単行本は全巻買う。それがせめてもの自分なりのスジの通し所だッ!

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-07-03 02:04:35] [修正:2010-07-04 23:01:19] [このレビューのURL]

7点 幕張

「幕張」の連載が始まった1996年当時、週刊少年ジャンプは混迷の淵にあった。
 ドラゴンボールをはじめとする黄金期の人気作品が次々と連載終了し、部数の低迷に歯止めはかからない。「るろうに剣心」や「封神演義」などの新たな人気作品も出るには出たが、それでも90年代初頭までの黄金時代にはなお遠い。ほどなく発行部数でもライバルの少年マガジンに一時的に抜かれたりもしたが、ともかくそんな混迷期、ジャンプもまた新たなかたちを求めて迷走をしていた。内田有紀の巻頭グラビアを載せたりしたのもこの頃だった。

 しかし、そんな混迷期にこそこれまでにない新たな才能が発掘されちゃったりもするものである。後にもギャグ漫画の歴史に名を残す奇才が誌面をにぎわし始めたのだ。「すごいよ!!マサルさん」のうすた京介が、そして本作「幕張」の木多康昭が。

 上記のように大げさに煽ってみたが、ではこの「幕張」という作品、万人が屈託無く笑えるお勧めギャグ漫画かというとそんな事は断じて無く、非常に人を選ぶ作品である。

・下劣な下ネタに免疫がある。
・90年代中ごろの芸能事情に詳しい。
・悪質なパロディや中傷をギャグのためなら笑って許せる広い度量。
・週刊少年ジャンプ黄金期の愛読者だった。(←最重要!)

 本作を真に楽しみ、グヘヘヘと下卑た笑いを浮かべる為にはこれらの要件を満たした方がより都合が良いのだ。こうも読者層を限定するギャグ漫画、普通に考えると高評価にはならない、はずである。
 おまけにこの「幕張」ときたら、ギャグの過激さが尋常ではない。タレントやジャンプの他作家を作中実名でけなすは、物語上脈絡なくオマージュどころか完全トレースしたような他作品のキャラを押し込むは、まるで青年誌のようなリアルでディフォルメを排した絵柄で、最低にもほどがある下ネタを容赦なくぶっこむは(「奈良づくし」は悪夢だった)、まぁ、本当に、ひどい。
 ストーリー展開も狂っている。高校入学時、「ジャンプにはもうスラムダンクがあるから」という理由でバスケ部への入部を断念した主人公コンビは野球部に入部するが、まじめに部活動に勤しむ事など無く周りの同級生や教師たちと下品で最低な騒動をひとしきり繰り返した後、唐突に世界最強の高校生を決める「世界高校生選手権」に出場する事となり、そこでも変わらず変態的で最低な戦いを繰り広げていく…というストーリーである。最終回は唐突に「この漫画の主人公はガモウヒロシでした」と某新世界の神に喧嘩を売ってそのまま劇終という具合だった。
 部活動を脇目に下品で変態的なギャグを描く、というと同時期にヤングマガジンで人気を博した「行け!稲中卓球部」が思い起こされる。ジャンプ編集部も当初はそういうノリを狙ったのかもしれないが、ふたをあけると全く違っていた。「稲中」の方は絵柄がいかにも漫画っぽく、下品なギャグの中にもどこか思春期の少年少女の葛藤みたいなテーマが描けていたのに対し、「幕張」の方は絵柄はやけにリアルで、にも関わらず真摯な裏テーマとか、そういう滋味は一切無かった。友情も努力も勝利も全ては本作ではむなしかった。

 …以上のようにどうようもなく混沌とした作品だったが、それゆえに本作は当時のジャンプを象徴するメルクマールたりえたのだと今にして思う。過激なギャグを、しかし妙に浮遊感のあるシラけた描線で描いた本作の混沌っぷりは、そのまま冒頭にも書いた当時のジャンプの混迷の表れだったのだ。
 
 原哲夫、宮下あきら、こせきこうじ、北条司、鳥山明、井上雄彦…、かつて木多康昭が深く愛した大作家達が次々と疲弊して一線を退いて行く。次のスタンダードも未だ確立はされない。
 そんな中、ギャグ漫画としての行儀の悪さというある種の治外法権を最大限に発揮する形で「幕張」は当時のジャンプのネガ面での象徴となり、ふがいない同誌の現状に対する嘲笑ともなり、同時に去り行く黄金時代への惜別の弔鐘をかき鳴らしたのだ。本作にやたらとドラゴンボールとスラムダンクのパロディが頻発する事もそれを物語る。こうしてひとしきり毒を吐き散らした後、作者は敬愛する井上雄彦の後を追うように講談社へと移籍を果たし、現在に至っている。

 当時の特殊な状況の生んだ鬼子のような作品には違いないが、「幕張」というほかに類を見ないギャグ漫画の事を忘れることは多分無い。ジャンプの歴史に良くも悪くも刻み付けられた凶悪な爪跡なのだ。

 なお、下ネタ・内輪ネタ・過去作のパロディなどの本作の得意としたギャグのエッセンスの多くは、現在のジャンプ漫画では「銀魂」に受け継がれている気がする。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-05-25 00:23:57] [修正:2010-06-10 23:30:05] [このレビューのURL]

2度もテレビアニメ化されるなどかなりヒットした学園ラブコメ漫画だが、完成度的にはお世辞にも洗練されているとは言いがたい。作画のクオリティは安定せずギャグは滑ることが多く、重要な話とそうでない話に温度差がありすぎ、物語に大量のフラグをばらまく一方で未回収に終わることもままあり、最終回に至っても人間関係の大半は未整理なままで、おまけにその最終回もマガジン本誌と増刊号とで2種類あるとう始末であった。

作者の小林尽は本作がメジャーデビュー作だったが、同誌の赤松健(ネギま)や久米田康二(絶望先生)らの先輩陣と比べるとどうしてもこなれていない感が漂っており、足かけ6年にわたる長期連載の中でいろいろボロがでてきた部分も多かった。キャラクター人気に頼った駄作とう評価も、あながち間違いではないとは思う。しかし。

それでも自分は本作を推したいのだ。上述のように未成熟な部分も多かったけれど、作画とギャグとドラマ、それらに時折かいま見られたポテンシャルの高さに、普段はどーでもいい日常を送りつつも時々ハッとさせられるような体験もしてきた自分たちの学生時代の記憶を呼び覚ます何かが感じられたからである。
そもそも絵に描いたようにスマートで非の打ち所のないような青春時代を送った奴などそうはいない。たいていの場合、青春とは愚かでこっぱずかしく、それゆえに愛すべき物である。この作品の持つ未成熟さは、換言すればかつては誰もが持ち、そして子供たちがいずれ経験するであろう”青春時代”のあのままならなさ、こっぱずかしさ、それらを包括したある種の美しさや楽しさの追体験だったのではないか。

男女様々な人物が入り乱れ、勘違いや衝突、惚れた腫れたの騒動を繰り返す物語構造は一見古典的だが、そのキャラ配置は主人公を太陽系の中心に据えたようないわゆるハーレム型ではなく、複数のメインキャラが互いに一方通行の分子運動的乱反射を繰り広げるというかなり複雑な物語構造となっており、それら登場人物達もそれぞれ個性的なキャラを持つ一方で安易な属性化には収まりきらない適度なキナ臭さも持っており、そういう部分から湧き出る叙情性が本作の大きな魅力だった。バカバカしい話が多い一方でそういうビルドゥンクロマンス的魅力もたたえていたのである。

特に自分が本作で気に入っていたのは、登場人物の多くが所属する2ーCのクラスが、それこそ連載開始当初は誰も見知った者がいないような状態で始まった(当然だが)のが、連載を経て以前は背景の一モブキャラに過ぎなかったような奴らに次第に人格的肉付けが成されていき、最終的に男女問わずみんな愛すべき見知った友人達のようになっていった点である。それこそクラス替えで初顔あわせた生徒達が一年後にはクラスメイト同士の連帯感で結ばれるかのようなこの作劇には、作者の優れた才能をかいま見ることができたし、こういう部分こそ近年の他のラブコメ作品にはあまり見られなかった本作の大きな魅力がったのだ。
塚本姉妹や播磨や沢近といったメインキャラだけでなく、こういうクラスの雰囲気そのものを好きになれるかどうかが本作を気に入るかどうかの分岐点ともなるだろう。

何度も言うように洗練された作品ではないけれど、それでも学園ラブコメ漫画というジャンルにおいて特異な地位を占める作品となっかことは間違いない。そんな本作を自分は密かに「ラブコメ大菩薩峠」とあだ名して呼んでいる。
ああ、ただ、作中不自然なほど触れられなかった、主人公の塚本姉妹の家庭事情(広い家に高校生の姉妹二人だけで住んでいる)をもうちょっと詳しく描いてくれれば、というのが最後の心残りである。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2010-01-27 00:03:01] [修正:2010-01-27 00:19:52] [このレビューのURL]

江戸川乱歩の小説はこれまでも子供向けの「少年探偵団」シリーズから大人向けのエログロ猟奇路線の作品まで、幾度となく映画化や漫画化、ドラマ化などがなされてきた。しかし、それらの乱歩の作品群でも、本作「パノラマ島綺譚」は傑作の呼び声は高かったがなかなか映像化などの為されなかった作品である。(舞台劇になったことはあるらしい)
本作の肝はミステリーなどよりも、主人公が莫大な富に物を言わせて孤島に建造した「理想郷」の景観描写にこそ重点が置かれており、そのスケールの巨大さゆえに半端な予算ではまず映像化は困難なことが理由の一つに挙げられよう。しかしながら、原作小説を読んだ時からこの大パノラマの如き理想郷を、文章から想像するだけでなく一度は実際の”画”として見てみたい、という欲求は常にあった。ハリウッドのティム・バートン監督とかなら映像化できるかも知れないが…。

そんな時に書店で何の予備知識も無しにこの漫画版の「パノラマ島綺譚」を発見した。しかも作画を担ったのは大正昭和風のレトロな猟奇趣味の絵柄で定評のある漫画界きっての猟奇王、丸尾末広というではないか!な、なんたる完璧な組み合わせ。これまでこのタッグの作品が発行されなかったのが不思議なくらいだ。心の中で「キタコレ」と叫んでしまった。

丸尾末広はこちらの期待以上の素晴らしい仕事をしていた。映画や舞台と違い、漫画は紙とペンさえあればどんな巨大なスケールの物語だって表現できる可能性がある。しかし、この「パノラマ島綺譚」の真の主役であるパノラマ島は、物語主人公の歪んだ美意識の結晶としての禍々しい魅力を読者にあたえなければならないため、並の表現力では描写は困難だ。しかし丸尾は原作の表現をいちいち忠実に再現しつつ、そこにさらにバロックやルネサンスス芸術、近世ヨーロッパのグロッタ趣味などの意匠を盛り込んで見事にパノラマ島を”画”として浮上させた。
これまではそのグロテスクさ、猟奇性が強調されがちだった丸尾末広の描線だが、本作ではそこにさらに谷口ジローの絵柄を思わせる透明な精緻さが加わっており、それがまた原作との相性が抜群だ。乱歩の小説は書いてある内容はとんでもなく変態的でも、文章自体は簡潔明快で読みやすいため、この絵柄もそんな雰囲気をよく表現している。

さらに素晴らしいと思ったのが、作中に埋め込まれた様々な「時代」の刻印だ。大正天皇の崩御を伝える新聞や当時の街並・社会風俗の描写、ツムラの「中将湯」の絵看板、そして「ぼんやりとした不安」を抱いて自殺した同時代の大作家の芥川龍之介のことなど、原作には見受けられなかった当時の時代背景の表現にも力が注がれている。こうした下地作りが、物語後半のパノラマ島の非現実的な幻想世界への飛翔の効果を高めているのである。原作小説が書かれた戦前の当時と違い、我々はこの後に日本が戦争によって一度滅亡の淵に追い込まれることを知っている。そうであればこそ、芥川龍之介の自殺を作品に盛り込んだことにも意味は見えてくるし、このパノラマ島そのものがその後に始まる激動の時代を前にした一時のうたかたの夢であるかのような解釈も可能となる。これは、現代だからこそ可能な事であり、本作をあえて現代にこうして漫画として復活させる意義もまたそこに見えてくる。

こういうオリジナル要素のささやかな導入は人によっては余計に思えるかもしれないが、自分はこれを是としたい。本作は、古典と化した作品を現代によみがえらせる上での一つの理想形とも思える傑作であった。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2008-08-04 22:09:28] [修正:2008-08-04 22:09:28] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

80年代と共に在った漫画。
主人公はアンドロイドで脇役も変人ばかり、世界征服を企むマッドサイエンティストやら美少女幽霊やらも巻き込んで平穏な学園生活は上を下への大騒動……という体裁の、いかにも80年代的な学園ギャグ漫画だが、そういう奇妙な設定のワリには全体を通じて事件らしい事件がほとんど起こっていない事に驚かされる。
まず主人公のアンドロイド「R・田中一郎」が最後までとぼけた役どころに終始してさしたる成長を見せなかったのをはじめ(ロボットだしね)、美少女キャラが多数登場するにも関わらずラブコメ的雰囲気は薄く、キャラはリアルに歳をとり(留年したRを除いてメインのサブキャラ達が連載中になんと卒業!)、その後も何事も無かったかのようにOBとしてひょっこり学園に顔を出したりする。
そもそも主人公一行の所属していた部活が「光画部」、つまり写真サークルなどという影薄い文系サークルであった事が象徴的で、一所懸命な体育会系とは違ったゆる〜いアプローチで様々な行事ごとに介入しては場をかき乱す姿が何とも馬鹿馬鹿しく、かつリアルだった。
作者は70〜80年代のアニメブームの渦中からこの業界に入ったオタク世代の長兄のような人なので、東宝特撮などのマニアックなギャグを(ゆるくさりげなくしかし濃く)封入しており、それがまたこの作品に奇妙な陰影を結果的に与えているように思う。
最終回付近では、Rを作ったご町内の天才科学者成原博士が世界征服の手始めに学校を占拠し、まるで大阪万博のパビリオンのような秘密基地を建造する。博士の危険な野望を阻止すべく春風高校光画部のOB・現役、その他彼らに関わった様々な奴らが力を合わせて戦う最終章は、あくまでギャグであり、かつ緊張感のかけらも無いゆるい雰囲気の中行われたが、それが却って何事も無かったけれども何故か無性に楽しかった狂騒の学生時代の終わりを痛切に感じさせて見事だった。秘密基地の中枢である太陽の塔もどきが崩壊していく様を見るにつけ、高校最後の学園祭が今終わろうとしている時にも似た無常観を感じたものである。
しかしエピローグで、OBとなってしまったメインキャラ達がそんな儚さを吹き飛ばすように現役のハイキングだか撮影旅行だかに同行し、変わらぬ間抜けっぷりを見せ付けて物語は終わる。最後までゆるくドラマティックさに欠けた、しかし確実な時の流れを掬い取って見せたこの漫画らしい最終回だった。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2006-01-14 00:29:17] [修正:2006-01-14 00:29:17] [このレビューのURL]

吉田戦車の歪んだヘタウマな描線が紡ぐ極上の不条理4コマギャグ漫画。
しかし、「不条理だから何をやっても許される」といった甘えはこの漫画には存在しない。かわうそくんと森の仲間達の描写はともかく、話の舞台は日本の日常風景であることが多く、学校や職場、一般家庭といった市井の人々の生活空間が確かにそこに存在し、そこで交わされる会話だけを(話から切り離して)抽出してみるとそんなに不自然な感じは実はあまりしない。

例えば田舎から上京してきた大学生、「斉藤さん」を巡る一連の物語を見てみよう。美人のアパート管理人さん(既婚)に励まされながら勉学に励む小心者な苦学生の斉藤さん。無事に合格した後に、実家の母にへこまされたり浪費が祟って家賃が払えなかったり、ブルーになってギターを弾いたり、調子に乗って体育会系の部活に入ったり失恋したりして最後には無事就職する。
こうして見るとどっかで見たような青春コメディだが、それを不条理たらしめているのは斉藤さんが体つきはリアルなくせに顔だけ締まりの無い田舎者の面構えの、不気味な人面カブトムシであると言う点であり、そして周囲も全くその事を疑問にすら思っていないという点である。そのくせ、彼の送る大学生活には得体の知れぬ冴えないリアリティーが悶々と充満している。

 この「不条理」と「条理」のあわい、バランス感覚が絶妙すぎるのだ。圧倒的にねじくれまがったギャグの論理を、市井の人々の織り成す妙に日常的な生活模様が不気味に補完している話が多い。
 この作品に描かれた日常の風景が完全に過去のものとなる前に読んでおきたい漫画ですね。

ナイスレビュー: 2

[投稿:2005-10-18 20:51:56] [修正:2005-10-18 20:51:56] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 英国人日本研究家として知られるバジル・ホール・チェンバレンは1905年(明治38年)の著書「日本事物誌」の序論にこのように記した。

「古い日本は死んで去ってしまった。そしてその代わりに若い日本の世の中になった。」

 本作「ふしぎの国のバード」の主人公イザベラ・バードが日本最果ての地を目指し旅立ったのが1878年(明治11年)であり、作中にも描かれる様々な今や失われた江戸期の幻影が当時はまだ息づいていたことを考えると、わずか20年足らずで一つの文明が死に絶えたということになる。その間に帝国憲法が発布され、治外法権も撤廃となり、そして多くの人々が血を流した日清日露の大戦争があった。

 主人公の英国人女性紀行作家イザベラ・バードは実在の人物で、本作も彼女の著書「日本奥地紀行」(1880年刊行)が原作となっている。明治期には多くの外国人が鎖国を解いたばかりの「神秘の国ニッポン」を訪れ、風景の美しさや伝統工芸の巧みさ、独特な風俗などを讃える文章を多く残し、それらは近年テレビ番組の一ジャンルと化した感もある日本スゴイ系コンテンツに引用されることも多い。

 英国人女性が日本の文化風俗に多大な関心を寄せる様を描く本作及びその原典も、見方によってはそれら日本スゴイ系コンテンツの一部と読めなくもない。実際に主人公バードは人力車夫や馬子など人々の素朴な親切さを讃え、日光東照宮の絢爛さに驚き、会津道の景色の美しさに魅せられる。
 一方で本作の大きなポイントは、それら賞賛だけでなく文明人が非文明化された地を旅する際につきものの「戸惑い」の部分も余さず描かれている点だ。しかもそれは「英国人から見た日本」という視点からだけでなく、「現代日本人から見た当時の日本」、滅び去ってしまった古い日本への我々現代人からの戸惑いとも重なるのである。

 今や姿を消した街中の様々な行商人、お歯黒を塗った女性、背中に立派な彫り物をし、寿命を削りながら奔り続ける人力車夫(江戸期は飛脚だった)、プライバシー概念のない野次馬趣味、低俗な酒宴の余興、老若男女混浴の露天風呂、不快害虫の巣と化した宿の一室、男根をかたどった村の守り神、庶民の貧困、貧困、貧困……

 日本は貧しかった。そして関所で区切られ他藩は他国であった時代の名残から、バードと同行の通訳・伊藤鶴吉も地方の珍奇な文化習俗に驚愕と嫌悪を示す。
 彼は同じ日本人の文化を「あのような恥知らずな風習」と蔑んだ。当時の日本人の志ある若者の多くは、日本を欧米諸国のような立派な文明国にしなければならないと考えていたため、母国の伝統に対して概して否定的だったという。

 そしてそれらのバード(そして読者)の戸惑いが頂点に達するのは、現時点では二巻終盤で描かれた会津の寒村の夜の一幕だろう。不潔な村で病に苦しむ子供に薬を与えたバードを頼り、彼女の宿に押し寄せる、皮膚も爛れたまるでゾンビのような村人の群れ。
(当時の日本人庶民の“皮膚病”事情については、バードに限らず多くの外国人旅行者も記録しているという)

 日本は、貧しかった。ちょっと我々の想像を超えるくらい貧しかった。そして頑張ってそれなりに豊かになった。その過程で一方、多くのものも捨てた。
 それら捨てさられた文明の記録として、「日本奥地紀行」はまことに価値の高い書物で、それを皮相的な日本スゴイ系コンテンツが溢れる現代にこうして漫画というメディアの力を通じて視覚的に楽しめるというのは大いに意義のあることである。
 バードは一旅行者にすぎないので、どうしても彼女の視線は他人事の旅行者目線にならざるを得ず、そこには無自覚な差別意識も免れない。それでもそういう視点からしか描かれ得ないものは確実にあり、現代の我々が死に去った時代を覗き見る上で最適の視点でもある。そして、彼女の視点は、あくまで優しい。

 作者の丁寧な描写力に支えられた意義ある良作といえる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2016-12-26 16:28:24] [修正:2016-12-27 04:35:16] [このレビューのURL]

[ネタバレあり]

 以前、数年間だけではあった群馬県にほど近い北埼玉の某所に住んでいたことがある。当時はたいして意識することもなかったが、夏はうだるように暑く一転冬は吹雪に沈み、自転車に乗れば常に強烈な向かい風、食卓につけば味噌汁の代わりにすいとんが供され、そして、謎の「焼きまんじゅう」の看板…。今思えば、自分たちは知らず知らずのうちにグンマの洗礼にさらされていたのだ。

 近年、アニメや漫画とのコラボレーションによる町おこしの試みが地方自治体の間で盛んになっている。埼玉県鷲宮町の『らき☆すた』や茨城大洗町の『ガールズアンドパンツァー』のような華々しい成功例もあれば、千葉県鴨川市の『輪廻のラグランジュ』や岡山県倉敷市の『めくりめくる』のように大して話題にもならずに忘れ去られる事例も多い。(群馬県も地味に『日常』や『魔法少女まどか・マギカ』の舞台になっていたりもした。)
 勿論、作品を通じて特色ある地方文化の魅力が発信され、地域活性化につながるならばそれに越したことはない。
 が、以前『めくりめくる』をやや批判的にレビューした時から気になっていたのだが、これらの地方自治体と漫画・アニメ作品が公式のコラボを行う際に感じるあの歯が浮くような違和感。地域の文化的厚みや歴史性を軽視し、垢抜けた美少女やイケメンを絵になるような風景にねじ込み、機械的に土地の名物をささっと紹介すればそれでよしとするあの安易さ。生活と切り離された絵面。観光誘致が目的の一つである以上致し方ない部分はあるにせよ、これら地域コラボ作品がその地域にほんとうの意味で根ざした作品となる事は稀である。

 そういう経緯もあり、この『お前はまだグンマを知らない』にはかなり期待していた。
 まず表紙がいい。通常この類の作品のキービジュアルは地方の絵になる風景(いわゆる聖地)を背景に美少女などを配置するパターンが多いのだが、本作の場合は、恐怖と驚愕に顔を引きつらせる男子高校生…!
 本編の方も表紙のイメージを裏切ることはなく、チバ県からグンマ県に引っ越してきた平凡な男子高校生が、面白おかしく(過激でバイオレンスに)誇張されたグンマ文化の洗礼にさらされ始終顔をひきつらせまくる内容となっている。

曰くグンマ県民以外が焼きまんじゅうを食うとなんやかんやで死に至る。
曰くグンマ県民は戦車砲がぶっ放される自衛隊演習地で花見をする。
曰くグンマ県民とトチギ県民は戦争状態にある。
曰くグンマ県民は赤城おろしへの抵抗を通し大腿部が異形へと膨れ上がる etc

 いずれも、実在の群馬県の地域的な特色を問答無用に拡大解釈しネタ化させたものばかりで、そこには一般的な町おこしコラボ作品に目立つ、土地の生活から切り離された”風景”への執着は微塵もなく、かわりにバカさの中にも一端の地域の真実がかいま見える。
(作中のキャラがゃたらヤンキーじみた連中ばかりなのもそういう不都合(?)な真実の一端だったりする。)

 普通だったら、地元がこんな具合にネタ化されたら地元の人達はバカにしやがってと怒ったりもするかもしれないが、どうも群馬県民はそうでもないようだ。
 群馬県はご存知のようにネット上では「秘境グンマー」などとさんざんネタ県としていじられており、それが本作のような作品の成立背景ともなっているワケだが、群馬県民は怒るどころか県公認で藤岡弘を隊長に迎えた「群馬探検隊」を企画するなど、このグンマームーブメントを地域振興に活かそうとしているようである。そもそも作者の井田ヒロトも高崎在住のれっきとした群馬県民で、本作からも一周回った郷土愛が感じられるところもよい。
(同じネット上の県ネタでも「修羅の国 福岡」は色々シャレになっておらず地元も困惑しているようである。)

 地域ネタ作品のコンセプトとしては共感できる所も多い本作だったが、では漫画作品単体としての評価となると、残念ながら個人的には苦しい部分が多かった。
 グンマネタをハイテンションに演出することを心がけるあまり全体的にコマ割や作画が過剰演出に走りがちな反面、セリフ回しが説明口調でテンポは悪く総じて読みやすいとは言い難い。
 誇張されたグンマネタも、水沢うどんを立体機動よろしくぶん回す安直な『進撃の巨人』パロディなど滑っているとしか思えない寒い奴も多く、全体的に勢い任せ、ネタの洗練が足りていない印象を受けることが悔やまれる。

 それでも色々と変な可能性を感じる作品ではあるので、今後の作者の成長次第によっては繭を破っておカイコ様が飛び立つような奇跡が拝める日もくるかもしれない。心にググッと、グンマ県…!

ナイスレビュー: 1

[投稿:2014-09-04 23:49:35] [修正:2014-09-11 22:00:11] [このレビューのURL]

「少女マンガの大革命!」という宣伝文句が示すように、西郷どんのようなゴツい男子が表紙を飾るというあまりにも斬新過ぎる装丁で世の漫画読みの注目を集め、しかもその西郷どんが主人公で王子様役となり美少女と恋に落ちるというこれまた少女マンガとしては革命的過ぎる内容で話題となった作品であるが、いざ読んでみると過度にネタに走ることもない地に足の着いた”少女マンガ”であった。

 王子様役がクールなイケメンではなくゴツくて不器用な西郷どんという設定は確かに少女マンガにおいては斬新だったかもしれないが、しかし読む前に本作の話題を知って当初感じたのは「でもそういう非モテと美少女の恋って、ワリと世間のラブコメ漫画ではよく見かける設定だよなー」というそう言ってしまえばそれまでのものだった。これまで読んできたラブコメ作品の多くは(いずれも非少女マンガ)、”何の変哲もない”(が顔はそこそこイケメンな)男主人公が些細なきっかけで美少女たちに惚れられまくる…みたいな作品が多かったため、ブサメン男子x美少女という本作『俺物語!!』の設定にそういう一般誌ラブコメに近いイメージを勝手に抱いていたのである。

 が、いざ読んでみるとそんな当初のイメージはいとも簡単に覆された。主人公の剛田猛男は決して単なるブサメンではなく、見てくれを超えた凄まじくいい漢だったのである、男も惚れる的な。そして、表紙の買いやすさにも助けられ本作に接したこと、ただラブコメと言っても少女マンガと一般誌ではかなり異なるものだということを改めて思い知った。

 昔から少女マンガにおいて最も好まれる題材が男女の恋愛を描いたラブコメディで、反面昔の少年マンガにおいては恋愛など添え物に過ぎずスポーツ、ギャグ、バトルなどのジャンルこそがメインであった。(一応少女マンガにもそれらはあったが)
 ところが70年代末~80年代初頭にかけて高橋留美子やあだち充、まつもと泉らの活躍により少年マンガにおいても美少女メインのラブコメが人気ジャンルとなっていき、それら美少女への偏愛を萌えなどの形で昇華した作品群が今や一大ジャンルを築くに至ったのは周知の通りである。

 上でも述べた通り、主に男性読者をターゲットとする一般誌のラブコメマンガではできる限り主人公の男を多くの男性読者が自己を投影しやすくするために特徴のない平凡なキャラにする傾向にある。その結果往々にしてとりたてて特徴のない少年が何故か家庭的な幼馴染や才色兼備のお嬢様、氷の瞳のクールビューティーなんかに惚れられまくるみたいなシチュエーションが成立するわけだが、少女マンガにおいてはそうではない。
 少女マンガにおける恋のお相手の男性キャラはあくまでも”王子様”的な要素が必要である。優しさ、強さ、財力、高潔さ、そしてイケメン。男からすれば「都合いいなぁ」と感じるが、男向けラブコメの都合良さを考えれば文句は言えまい。

 さて、本作の主人公の剛田猛男である。まるでゴリラのような逞しい肉体を誇り強さは申し分ない(野生の猪と取っ組み合いができる)、ヒロインを思いやる優しさも備えている。しかし、とにかく女心を解せぬ不器用さは見ていて歯がゆくもあり、家は別に金持ちでもない普通の庶民、そして何より、容姿が…顔がっ………!!


 だが、猛男はその精神の高潔さにおいて紛れもなく王子様であった。それこそが本作をなんやかんやで素敵な少女マンガたらしめている理由である。


 猛男は非常に男らしい漢で同性の男子からの人気は抜群だが、顔が災いして女子との恋は実ったことはなく、好きになった女子はみんな友達のイケメン砂川の事を好きになってしまうというジレンマを抱えていた。しかし、見たところそんな己の境遇をやっかんだり「どうせ俺なんて…」と卑屈な態度をとるそぶりがまるで無いのである。
 たとえば『ああ女神さまっ』の主人公の森里螢一が背の低さにコンプレックスがあり女性にモテないことを当初かなり僻んでいたように、もてない男は大なり小なり「俺がモテないのはどう考えてもお前らリア充が悪い!」というルサンチマンを世間に対して抱くものだが、猛男にはそんなカッコ悪さがまるで無いのだ。好きな女がみんな友達になびいてしまうという現実もそんなものだと割りきっており、それどころか友人の恋が実るよう心の底からの協力を惜しまない。(当のイケメン友人砂川は自分に流れてきた女子からの告白を全て断っているが、その理由がまた泣ける…)
 ところがそんな猛男にも遂に春がきた。電車で痴漢に絡まれていた美少女、凛子ちゃんを助けたことがきっかけで誤解を挟みつつも恋人同士になるわけだが、いざ恋人ができたら猪突猛進、全く照れも卑屈さも無しに堂々と「好きだ!」と心中何度も何度も叫ぶ猛男。なんという潔さだろう。同じ『俺物語』でも『あごなしゲン』ではエラい違いだ。

 そんな猛男のブレない高潔さがよくあらわれているのが2巻の柔道戦のエピソードであろう。彼女が出来たことをライバルに「彼女つくってチャラけてる奴に負けねえかんな!」(何か泣きたくなる…)となじられようとも、全く動じることなく堂々と



「彼女はいいぞ」



 これこそ、一般誌のラブコメ男主人公にはほとんど真似できない猛男の高潔さ、王子の風格なのである。火事の現場から見事に脱出を果たし泣きじゃくる凛子を胸に抱きながらの

二度とおまえを

泣かせはしないと

誓う

 
 …こういうモノローグを照れずに違和感なく挿入できている点でもやはり少女マンガなのである。


 主人公の容姿ゆえに革命的と評されることも多い作品だが、土台はしっかり少女マンガしており、普段この手のジャンルは苦手な人にとっても間口広く受け入れられやすのも大きな魅力だろう。そして、今後似たようなコンセプトの作品が出ればかならず「ああ俺物語みたいなヤツね」と未来永劫評されかねないくらいオンリーワンの作品でもある。

 ちなみに原作者は断じて猛男はブサメンでは無いと主張しており、ヒロインの凛子もどうやらもともと西郷どんのような逞しい漢がタイプだっったらしい…。
 この作品、断じて世のもてない男性に安易なカタルシスを与え救済する作品では無いのである。
 自分はというと、とても猛男のような格好いい漢にはなれそうにはないのが悲しいところである。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2013-04-07 23:17:48] [修正:2013-04-08 20:32:43] [このレビューのURL]

12/6/29 得点修正(7→8) 加筆あり

 週刊少年チャンピオンに連載中の主に10代の少女(時々少年)を主人公にしたオムニバス形式の短篇集で、一部の話を除き各編同士の物語の連続性は基本的に無い。最近のチャンピオンのショート漫画には『侵略!イカ娘』などかなりヒットする作品も出現するなどなかなか目の離せない作品が多かったが、本作も少女少年の短篇集というよくある形式にも関わらず非常に独特の味わいを持ち読者の心をざわざわとざわつかせる作品に仕上がっており、各所で話題になっているのも素直に頷ける。

 作者の阿部共美はチャンピオンに掲載された読切の『破壊症候群』がデビュー作だが、これも人並み外れた怪力を持つ少女が悪を成敗するというありふれたスラップスティックコメディの形態をとりながらも、癖の強いキャラクターデザイン、ハイテンションすぎる会話劇、少女の破壊衝動など随所に覗かせるブラックな変態性などの逸脱っぷりがとても印象的だった。そしてそんな作者の持ち味は本誌本格連載となった本作でも失われること無く…どころかますますパワーアップを果たしていたのである。
 
 少女や少年の揺れる心模様を描いたオムニバスストーリー集といえば得てして恋や友情、親や世間との関係性の葛藤などを描いたものになると相場は決まっているが、とても本作はそんな枠組みでは括りきれない。確かに物語の根底にあるのはそういった普遍的テーマかもしれないが、物語の狂言回しを務めるキャラたちの多くはテンション高すぎるか思い込み激しすぎる人達ばかりで、“等身大”とかそういう言葉とは程遠い思考と行動を突っ走る。
 一例を挙げると第一話の主人公である恥ずかしがり屋を直したい女の子は、矯正手段としてバニーガール姿で「うひょひょひょひょ」と夜道を飛び回ったりする。他にも女性の裸に飽きたらず薄皮一枚下の内蔵を見てみたいと言う男や、人一倍怖がりなくせに同時に人一倍怖いもの見たさでずるずると恐怖の深みにはまっていく少女、「世界は悪に満ちている」と思い込みいい年して定職にもつかず魔法少女のコスプレで町中をパトロール(というか徘徊)する女、など癖の強すぎる人達が現れては消え消えては現れ、その結果全体的には様々に提示される「心模様の万華鏡」とでも呼ぶべき幻惑的な美しさとつかみ所のない危うさが併存する作品になっている。
 尚、そういう極端すぎる人達を扱った作品以外にも、ボーイッシュな少女と気弱な少年の話「夏がはじまる」など比較的普通の人達が主体の話もあるが、共通しているのは決して順風満帆には終わらない心ざわつかせるストーリーテリングだ。結末にどんでん返しのまま投げっぱなしになる話が多く、“余韻”と一言で済ますにはあまりに不穏な空気作りがとてもうまい。

 キャラクターデザインは非常に記号的。他作品と比べても瞳が際立って大きく描かれ肌は透き通るように白く、体はちょっとつまむとそのままぷちっとちぎれてしまいそうなくらい可愛い。しかし記号的であるはずのその描線は昼間っから公園のベンチで弁当を喰うおっさんなど時折残酷なレベルでリアルな瞬間を捉える事があり、透き通るような白は何かの表紙にどす黒い漆黒へと容易に転じ、ぷちっとちぎれそうな柔らかい造形の下には血液と内蔵にまみれたグロテスクさが顔をのぞかせそうになる瞬間も描かれる。そんな見た目の可愛らしさの裏に潜むものを作者は描くことを心得ているのである。(新房昭之監督のアニメ作品に通じるセンスを感じる)

 おかしい話、悲しい話、可愛らしい話、不気味な話、様々なままならぬ人達が七転八倒する万華鏡、総じてその読後感は白黒つかないまさに「灰色」。そしてその灰色を拡大してみると、そこには交互に明滅する無数の際立つ白と黒が……。

 現在の連載を追う限り二巻以降もそのクオリティは保証(というかむしろ向上中)なので今後も期待が持てる一作である。作者の感性は非常に独特なものがあるが果たしてこういう際立った感性が今後も時と共に維持されていくかどうかは現時点ではわからないので、“今”しか描かれ得ない作品である危険性も否定出来ない。ぜひリアルタイムで追いかけたい作品だ。

------------以下加筆-----------------------------------------

やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい
やばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばいやばい

絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない
絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない
絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対普通じゃない絶対読むべしぜった

ナイスレビュー: 1

[投稿:2012-04-01 00:43:49] [修正:2012-06-29 01:00:32] [このレビューのURL]