「臼井健士」さんのページ

武田勝頼を描いた漫画はおそらく現在に至るまで「この作品」だけだと記憶している。

ハッキリ言って「戦国の英雄のひとり」である父・信玄よりも、悲劇的な滅亡を迎えた勝頼のほうがその生涯に心惹かれるものがあります。
おそらく多くの方が疑問に感じているのは、なぜ「戦国最強軍団」を父・信玄から引き継いでおきながら、信玄の死後僅か10年で滅亡してしまったのか?ということでしょう。父・信玄の偉大さが際立つほどに「この息子の滅亡」は違和感を持って現代に生きる我々に伝わってきます。

「滅亡」という結果から勝頼は「家臣の言うことを聞かず、たびたび出兵を繰り返しては国力を低下させ、ついには自滅の道を歩んだ愚将・・・・」というような評価が現代において定着してしまっています。
けれど、勝頼は決して駿河の今川義元の後継者「今川氏真」のような暗愚な人物では無かった。父・信玄ですら落とせなかった徳川の支城を陥落させるなどし、織田信長も常にその動向には注意を払っていたし、暗愚な人物ではいくら「信玄の遺産」ともいうべき強力な家臣団があっても10年に渡って国を維持することなど出来ない。

凋落の大きな転機になった「長篠の戦」ですが、どうも諸説あってハッキリしない部分があります。
と、言うのも定説では勝頼が「老臣たち」の無理な戦いは避けて引くように、という忠告を無視して鉄砲隊に次々と突撃をかけたための大敗・・・・ということになっていますが、実は(突撃は)信玄以来の老臣たち(馬場信春・内藤昌豊・山県昌影ら)も「賛成して」の納得ずくのものだったという説があり、この説だと信玄以来の百戦錬磨の老臣たちさえも戦いには勝てると思っていたということになります。とするなら、勝頼1人に大敗の責任を押し付けるような定説は誤りということで、百戦錬磨の老臣たちの上を行く信長が凄かったと言うべきでしょう。

ともあれ、武田は前述の「長篠の戦」以降は急速に力を失っていくことになり、もはや国力からも人材からも単独では織田家に対抗することは困難になっていった。現代の視点からの結果論だと言えばそれまでですが、この後の勝頼は外交上で大きなミスを犯すことになります。
当時の織田家に対抗する上で織田家にとって不利な点は何か?・・・と考えていくと、信長は常に東と西とに敵を抱えた「両面作戦」を強いられるという点です。つまり総兵力では10万以上の織田軍も武田だけにその10万の兵力を注ぎ込むことは不可能だった。しかも信長の味方は実質・徳川家康だけです。その他は全て敵と言っても過言ではない。そこで武田としては中国の毛利家・四国の長宗我部家・そして背後の北条氏と北の上杉氏、さらにここに石山本願寺を加えた五勢力と連携して東西から挟撃することでまだまだ十分に信長打倒を成し遂げることが出来たはずだ。
しかし・・・・勝頼の判断は不可解。まず父・信玄の死後、宿敵・織田信長が最も警戒し恐れていたことは確実な越後の「上杉謙信」と何故か同盟を結んでいない(←理由不明)。信玄の死後の反織田信長連合の盟主はどう考えても謙信しかいないのに、勝頼が謙信を頼った形跡は見当たらない・・・。そうこうしているうちに上杉謙信も深酒が過ぎたためか、柴田勝家率いる織田軍を蹴散らしたのにあっけなく世を去ってしまう。信長にとっては限りなく幸運で、勝頼にとっては不運である。
問題は実子のいなかった上杉謙信の後継者を巡って、謙信の甥「景勝」と北条氏康の息子で当主・氏政の弟に当たる「景虎」との間で戦いが始まったことだ。北条と同盟関係にある武田としては当然のように氏政の弟に当たる「景虎」に味方し、景虎勝利の暁には武田・上杉・北条による「甲・越・相三国同盟」が成立することを期待したはずだ。そうなれば、背後を気にすることなく織田と対陣することが出来、捲土重来の最後のチャンスだったことだろう。

だが・・・・現実には勝頼は景勝からの「黄金の贈り物」に目を奪われて兵を引いてしまう。景虎は景勝に攻められて自害し、弟を見殺しにされて怒った北条家との同盟も破棄、両国は敵対関係になる。「越・甲同盟」は成った・・・。しかし、本来なら「三国同盟」になるはずだったことを考えれば「目先の黄金に目が眩んで自滅の一手を打った」と言って間違いあるまい。この同盟を結んだ景勝は織田家の甲斐侵攻の際は、一向宗の門徒と交戦中で勝頼に援軍を派遣出来ず・・・・・で全く同盟として機能しないまま終わり、結果として景勝だけが得をしたという勝頼にとって無意味なものに。

最後は10万の兵を以って、織田・徳川・北条の3家から同時攻撃を掛けられて滅亡していく勝頼。
哀れなのは、5万は一応居た最後の武田軍が離散に次ぐ離散で新築の「新府城」を焼いて北へと落ち延びたときにはなんと数十名に激減していた(!)という信じられないような事実。まるで櫛の歯が欠けていくように昨日まで勝頼の身辺で支えてくれていた家臣たちから見放されていく様は、日本史上を見渡してみても他に類を見ない。
父・信玄の従姉弟で娘婿でもあった「穴山梅雪」は徳川家康の甲斐侵攻の道案内役を務め、同じく信玄の娘を娶っていて勝頼の義弟に当たる「木曽義昌」は新府城建築の過酷な労役から勝頼を怨み織田家に寝返って滅亡の引きがねを引くことになるなど、本来なら最後まで仕えるべき身内であるはずの親族衆が、いの1番に裏切りに走っているのが大きな特徴だ。信玄の末の弟で「影武者役」でもあった信廉も戦わずして勝頼を見捨てて織田に降伏。

最後の最後まで付き従ったのが「小山田信茂」と「真田昌幸」(真田幸村の父)なんですが、勝頼は譜代ではない真田よりも小山田を信用したほうがいいという家臣の忠告を聞いて真田と別れて小山田の居城・岩殿城へ入ろうとするも小山田の裏切りに遭い、とうとう進退窮まって自害することになります。
で、このことから「悪者」としての評価が定着した「小山田信茂」なんですが、実は彼はもともと武田家の家臣ではなく「郡内一国の主」で武田とは単に「同盟関係」にあっただけという説があります。
とするなら彼の行動は自国を守るための領主としての当然の行為であって「裏切り」でも「謀反」でも無いということになります。また、彼が勝頼一行に鉄砲を撃ちかけたとされていることも、資料としてはどこにも確認は出来ないそうです。名門・武田家の最後を美化するために「悪者にされてしまった」可能性は大だと思います。
それと勝頼と別れた真田昌幸ですが・・・・こっちもヤバそうです。と、言うのも昌幸は勝頼が自害した翌日付で北条家からの「仕官承諾書」を受け取っているのです(!)。つまり、昌幸も前々から「裏切り」のための行動を取っていたということの何よりの証拠になります。勝頼側近が心配した「譜代ではない真田をあまり信用されては・・・・」の心配もおそらくは当たったことでしょう。

どちらにしてももう勝頼にとっては「八方塞がり」だったわけで、旧暦の真冬の山中で寂しく死んでいく勝頼一行を父・信玄がどのような気持ちで見ていたのかが非常に気に掛かるところです。

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[投稿:2010-12-07 21:16:34] [修正:2010-12-07 21:16:34]