「臼井健士」さんのページ

10点 徳川家康

横山先生の歴史漫画の中でもなんと最長の全8巻を重ねているのが、徳川260年の世を築き上げた「徳川家康」である。
実は学研などの学習漫画以外で「徳川家康」を主人公に描いている漫画作品は他になく、この作品が一応の決定版といってよい出来であろう。

彼の生涯は常にナンバー2であることとの戦いであった。
幼少時から織田家と今川家との2強国の間に挟まれた小領主・松平広忠の嫡男でありながら、人質として今川家に送られる最中に
家臣の裏切りから敵の織田家に攫われる身となった。その際に後に同盟を結ぶこととなる織田家の嫡男・信長と面識を持つ。
人質交換で駿河の今川家にようやく送り届けられたものの、父・広忠は家臣の裏切りに遭い暗殺された。
母・お大の方とも暮らせず今川家でも屈辱の日々を過ごす。

この幼少期の苦労の日々は西の戦国大名・毛利元就と似通った点が多い。

ようやく今川家の当主・義元が桶狭間で信長に討たれたことで自由の身になり、跡継ぎの氏真が不甲斐ないと見るや、今度はさっさと信長と同盟を結んだことが徳川家の発展の足掛かりとなった。
将軍・足利義昭を奉じて上洛する信長にとって、西の脅威からの防波堤という意味でも家康との同盟は大きな意義があったのだ。
けれど、それは信長と敵対する諸勢力を全て敵に回すことにも繋がった。特に戦国最強と言われた甲斐の武田信玄と領国を接せねばならず、常にその脅威に晒され続け、
信玄上洛の際の三ヶ方原の戦いでは生涯を通じての大敗を喫することになる。
さらに同盟関係といいながらも信長との国力差は次第に歴然とするようになり、駿河・遠江・三河の3ヶ国をようやく支配下に収めるものの
嫡男と正妻を謀反の疑いから切腹・暗殺せねばならなくなる。

一大転機はその信長が「本能寺の変」で天下統一を間近にしながら殺された事。常に信長の前に2番手であらねばならなかった身がようやく
重石を除けて、天下統一への後継者の座を得ることも出来るはずだった。
しかし、時流に乗って天下統一を進める羽柴秀吉に遅れを取り、小牧・長久手の戦いでは互角以上の力を秀吉に見せ付けたものの、巧みな秀吉の外交手段によって徐々に
戦う意義を失っていく。そして、秀吉への臣従。隠忍自重の日々であった。

豊臣政権の重鎮となった家康だが、秀吉は小牧・長久手の戦いで敗北を味あわされて以来、決して家康に心を許してはなかった。
慣れ親しんだ東海の地から後北条氏の旧領である関東八州を恩賞に得て、石高では260万石を超える大大名となったが・・・・、
新領地を治めるのは困難。北には上杉家・伊達家が控え、秀吉の朝鮮出兵も迫っていた。

家康について数多くの書物が「その腹黒さ」を殊更に強調するのは秀吉死後から関が原の戦いを経て大坂の陣へと続く時期についてだろう。
関が原の戦いの勝利から大坂の陣までは実に14年もの年月の隔たりがあり、その間は家康は何をしていたのかは意外と知られていないと思う。
この作品ではその間についても詳細に描いているのだが
・表面上は大坂と江戸で2元政治体制となり、平和の日々のようでありながら諸国には戦で立身出世を願う浪人が溢れていた。
・オランダ・イギリスVSスペイン・ポルトガルという対抗関係が日本の国内でもキリシタンを通して代理戦争の呈を成していた。
・家康側近と将軍・秀忠側近との権力争いによる幕府内部の粛清。
・伊達政宗が家康の六男・松平忠輝を擁し、イスパニアの援助を得て政権を奪取しようと目論んでいた。

・・・・というように内憂外患であったようだ。
特に家康は「大坂城の豊臣秀頼を潰すために数々の無理難題を吹っ掛けた」とされることについても、この作品では大坂方との争いを避けたいと願う
家康の苦肉の策であったとされている。
家康は豊臣家に戦いを起こさせないために、豊臣家の領土を削り、寺の修理を提案して軍資金を枯渇させ、それでも浪人たちが大坂城に希望の灯を見ているとみるや、
秀頼を大坂城から退去させて大和へと国替えさせようとする。
将軍家が武家の棟梁ならば、秀頼は公家の棟梁とすることで両家の存続を思い描いていたらしいのだが・・・・果たして真実はどちらだろう?

性善説に取れば、家康の度々の苦心にも関わらず家康の意思は大坂城の秀頼・淀の方親子には伝わらず、戦いに雪崩れ込み遂には豊臣家は滅亡した。
性悪説に取れば、残り少ない寿命を感じた家康は徳川政権の安泰を願って「国家安康 君臣豊楽」の方広寺の銘に難癖を付けて、豊臣家に戦いを吹っ掛けて
滅亡に追い込んだとも考えられる。
そして、専ら世に広く伝えられているのは後者であろう。

しかし・・・家康は最初にも書いたように「戦国時代の悲惨さ・惨さ」を人一倍味わっていた身でもあったはずだ。
幼い頃から父母と別れ、人質としていつ殺されるかも知れぬ身。同盟者であるはずの信長の圧力の前に嫡男と正妻を殺さねばならなかった日々。
そんな彼が既に徳川幕府に対してさしたる脅威とも言えないほど無力な立場となった秀頼を謀略の末に勝てぬ戦いに引きずり出す必要などあっただろうか?

「徳川家康」=「タヌキ親爺」というイメージは関が原の戦い以後の家康晩年の姿ばかりを強調した実は極端な姿に他ならないと思う。
徳川家康という信長・秀吉に比して地味な戦国最後の勝利者に対する誤解を改めるための一助となるべき書物かもしれない。
ぜひともご一読を。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-07 21:24:13] [修正:2010-12-07 21:24:13]