「臼井健士」さんのページ

総レビュー数: 439レビュー(全て表示) 最終投稿: 2010年06月18日

7点 咲-Saki-

数あるテーブル遊戯の中でも「麻雀」は大人向けというイメージで括られてしまい、漫画も「劇画調」のものか「青年誌向け」のものしかないのが現状でした。

理由は何か?・・・・と考えていくと、第一に、
「囲碁や将棋に比してギャンブル性が高く(世間一般でのイメージのうえで)、少年誌で子供向けには連載が成り立たない」という事情があったのだと思います。
ジャンプで囲碁を題材にした「ヒカルの碁」を連載しても苦情は寄せられなかったでしょうが、麻雀を題材にした漫画を連載したらおそらくは苦情が殺到したと思うし。

第二には、ルールの複雑さにあるのではないかな?と思います。
ハッキリ言って、自分も麻雀のルールは全く知りません。
だから、福本先生が連載している「カイジ」という漫画が第三部で麻雀を始めたときはサッパリ分からず投げ出した口です。
カイジ第三部を私と同じ理由で投げ出した方はかなりの数に上るのではないかなと思われます。

上記二点の逆風が吹き荒ぶ中に切り込んできたこの漫画は、
「中学生・高校生が当たり前のように麻雀に親しんでいる世界」という設定を持ち出し、そこに可愛い女の子が「部活動として」麻雀に打ち込むという展開にした点が、既存の作品との大きな違いです。
さらに作品としての大きな魅力のひとつが「絵の可愛らしさ」にあることは否定できない。
自分も最初はこの絵に惹かれて見始めたので、今まで高かった「麻雀漫画における敷居」が一気に低くなったと言えます。
「萌え麻雀漫画」の肩書きも麻雀漫画の敷居を低くするためには許容範囲・・・かなあ?

ルールを知らなくてもある程度は読めますが、やっぱりルールを知っていないとツライ点はどうしようもないのが麻雀漫画の抱える宿命でしょうか。
ただ・・・この漫画の登場で前述したように「間口」は広がりました。
後は「青年誌連載」ではなく「少年誌」連載の漫画が今後登場するようになったら・・・・「麻雀の社会的地位」も大きく上がるような気がします。

まだ、この先十年は掛かりそうですが。

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[投稿:2010-06-18 22:09:28] [修正:2010-06-18 22:09:28] [このレビューのURL]

1巻「あたしは以後あなたを先生と呼びたくもないし、あなたの顔など見たくもない」(ナッキー)
6巻「このまま…時が止まってしまえばいい。胸苦しくなるような自分の鼓動の中に浸っていたい。」(岩崎)
7巻「笑えばいい。いくら笑ったっていい。そんなものとうに覚悟ができている。だからといって俺の意志は曲げられない。」(岩崎)
10巻「みんないなくなっちゃうんだね。」「そうだな。」「百年も過ぎたらわいたちの誰もおらへん。」(ナッキー、岩崎、沖田)
11巻「俺は狭い!男として、人間として、俺は沖田に負けている!」(岩崎)
同巻「俺はもうお前を追わない…俺が俺に自信をつけるまで、俺が俺に資格を持たすまで!!」(岩崎)
13巻「あせるの、やめたんだ。」(岩崎)
同巻(山で朝日を見て)「ああ、ナッキーに教えてやりたい思うた。」(沖田)
15巻「俺は開き直ったんだろうか?」(岩崎)
同巻「どう話してもあたしたちの“あの時"をあらわせない。」(ナッキー)
16巻「じゃあおまえ、(岩崎にナッキーをとられて)ふられたらどうするんだ。」「かましまへん、そいつなら。」(クラブの先輩と沖田)
同巻「沖田…俺たちの愛はどこへ行く?」(岩崎)
20巻「人は生まれたときから確実に死に向かって生きてゆきます。そして一度しか生きられない。」(ナッキー)

学園青春漫画として出色の出来。キョンキョン(小泉今日子)主演で映画化もされたはず。
中学に転校してきたカリスマ美少女「ナッキー」が結成した「悪たれ団」も最初は反発する集団だった。
だが、ナッキーを中心に歯に衣を着せない「本音」で語り合うことによって彼ら彼女らはいつしか互いにかけがえの無い「仲間」となっていく。
とにかく「英雄のような女の子」とその周囲に集う仲間たちによる青春群像、というスタイルが痛快ですらある。単に「痛快」なだけの話なら他にも多くあるだろう。けれど、彼ら・彼女らの青春は等身大であり、仲間の少女が受けたレイプ・そして仲間の死と決して「輝かしい成功」ばかりに彩られているわけではないのだ。

「時代が移り変わっても色あせないもの」というのは必ずあるはずだ。この漫画も連載されていた時代を考えれば「隔世の感」を禁じ得ないシーンや描写はある。けれど、そこに生きて、悩み、苦しんで、ぶつかり合って涙を流した「思い」は時代を経た現代においても不変のものだと思う。

「少女漫画」などという枠に括って読まない理由にしているのだとしたなら、読後にそのことをこれ程に「恥じ入る」漫画も他にあるまい。評価は勿論「最高」以上で。

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[投稿:2010-06-18 22:05:32] [修正:2010-06-18 22:05:32] [このレビューのURL]

羅川先生の出世作。少女漫画だが、恋愛を話の主題に置かないホームドラマなので男性でも読みやすい。
榎木家はお母さんが次男の実をかばって交通事故で亡くなり、長男の拓也とお父さんの3人家族。
小学校高学年の拓也は弟の母親代わりも務めて日々奮闘しなければならなくなる・・・・。
と書くと単なる「お涙頂戴」的な話かと思われがちだが、しかし内容は「日常生活の中に潜む様々な事件」を浮き彫りにし、しかもそれが多岐に渡って決して「子供向き」とは言い切れない。
笑って、ほんわかして、考えされられて、そして最後にはしっかり泣ける・・・そんな漫画。

位置付けでは「少女漫画」に振り分けられてはいますが、実態は「老若男女」で読者を分けない漫画と断言できます。絵としても見やすいです。「少女漫画」っぽすぎないので男性でも入りやすい。

内容も小学生を主人公としながら、日常に潜む様々な事件を浮き彫りにする作者の手管が冴え渡ります。
恋愛要素は薄いですが、拓也と実の両親が出会って恋に落ちる話はその薄い「恋愛要素」を全開にしての感動的なお話に仕上がっています。

設定が似たもので女の子の姉妹が主人公の「くじらの親子」(くりた陸・作)と併せてオススメします。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-06-18 22:01:46] [修正:2010-06-18 22:01:46] [このレビューのURL]

一応は「ギャンブル漫画の最高峰」でしょう。

特に前半の「希望の船」は秀逸な作り。
悪党側であるところの会長や利根川の言っていることのほうが「世の真理」を突き、しごく真っ当だという点が凄い。世の中の大多数の人間はついつい自分に甘くなり、より楽な環境に身を任せがちになることから考えても、彼らの言うことは自分に甘い人間にとっては「耳に痛い」ことだ。
ドン底にあっても相手を落としいれ喰らい、利を得ようとする「人間の浅ましさ」の描写も凄いレヴェルだ。
信頼するほうが愚かなのか、裏切りに出るほうが悪党なのか。

結局のところ人生の「いかなる場面」においても決断は自身でしなければならない!・・・っていう至極「当たり前」のことを再認識させてくれる漫画。
自分で考え、決断し、行動しなければ後に残るは正に「後悔」のみ。
自身の流した涙の海で溺死したくなければ、この作品を読んで目を覚ますべきだろう。

「鉄橋渡り」以降の後半がややパワーダウンしているので「最高」からワンランク落とした評価で。

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[投稿:2010-06-18 21:56:53] [修正:2010-06-18 21:56:53] [このレビューのURL]

現時点ではCLAMP最高傑作と考えています。

主要登場人物は昴流・北都・星史郎の3人だけだが、4巻から6巻までの後半は特に「いじめ・老人・臓器移植」などの社会問題を絡めた話が良かった。ラストは・・・悲惨だが、こんな「終わらせかた」は確かに他の漫画家には出来ないだろうな。
北都ちゃんは魅力的な女の子ですね。「可愛い」でなく「格好いい」女の子は珍しいと思います。
同性の女の子から好かれそう。番外編で外国人の女の子を助ける話が特に印象的。そして、ラストでは双子でも立派に昴流の「お姉さん」であることを示しました・・・・・(涙)
話自体は同じ作者の「X-エックス-」に続きます。

CLAMP作品では出色の出来です。
ちなみに雑草社発行の漫画情報誌「ぱふ」で行われたマンガベストテン「93年度第1位作品」。
主要登場人物わずか3人で「大都会・東京に潜む様々な闇」を浮かび上がらせた。
主人公が「陰陽術」を用いて事件を解決すること以外は非常にリアルな展開。

そう言えば・・北都ちゃんが助けた外国人の女の子・・・・その後はどうなったのでしょうか?
家に遊びに来ていたようですが・・・・北都ちゃんの死すら知らぬままなのかな・・・・。
昴流の「北都」以外の家族とか・・・キャラの背景については作中ではほとんど語られませんでしたので謎の部分はかなりあります。しかし、今後もそれが語られることはなさそうです。
「作中」で辛い事件の最中にも3人の笑顔が見れるシーンもあります。

けれど、それらは全て「過去」の笑顔に過ぎません。「過去」は決して変えられず、3人が笑顔で並ぶことはもう「有り得ない事」なのだから。
もし変えられるものがあるのだとしたら、それは「未来」のみ。
「未来は変えることができる・・・・・」と信じて、お話は「X-エックス-」へ繋がるのでしょうね。

星史郎さん・・そういえばたびたび「賭けの決着は延期・・・・」を口にしているのですが、最終的な期限は「昴流と再会して1年経過した日」であったはず。(「END」で星史郎さん自身が口にしている)

期限到達の遙か前に「延期」・・・ってどういう意味でしょう。
久美子先生を殺(や)った帰りに昴流に「こんな賭けはもう止めてしまおうかと何度も思った」と告白しているように、星史郎自身が自分で決めたことを破ろうとしていた(つまり期限を前倒ししようとしていた?)フシがある。そんな自身のの気持ちと、もう少し「可能性を追いたい」という気持ちの間で彼自身も迷っていたのか?そんな気持ちが「延期」という言葉で現れたのか。

久美子先生は星史郎の正体(力)に最後の最後で気付いたようです。
後に「エックス」で神威でさえも及ばなかった力に太刀打ちなどしようもなかったのは仕方ないにしても、彼女が誰の意向で消されたのかは気にかかるところですね。

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[投稿:2010-06-18 21:55:16] [修正:2010-06-18 21:55:16] [このレビューのURL]

二鳥修一。心は女の子な男の子。男女の推定割合は「女9以上、男1未満」。
高槻よしの。心は男の子な女の子。男女の推定割合は「男7、女3」。
2人の主人公を立てる。

心と体の「性の不一致」。本来ならもっと「重苦しい展開」になりそうな題材。
それを繊細な絵柄で重苦しくなり過ぎないように描く作者の力量に感服。

転校生の二鳥くんのお友達は「女の子」ばっかり。
転校先に限らず転校前の学校でもそうだったらしい。
容姿が可愛らしくて大人しくて、料理やお話を考えたりすることが得意。
同級生の男子に見られるような「幼稚さ」や「乱暴さ」や「下品さ」は欠片もない。
だって二鳥くんの心は「女の子そのもの」。でも男の子の身体を持ってしまった。

前述の理由から男子は苦手。男子の友達もいない。
本来なら男子にも女子にも属せず「ひとりぼっち」になっても苦しんでもおかしくなかった。
が、そこは精神的に同時期の男子に比して優位に立つ周囲の女の子たち。
無意識のうちにも二鳥くんが「男の子の姿をした女の子」であることに気付く子がチラホラ。

姿形に騙されて真実が見えなくなるような「フシ穴」ではない女の子は二鳥くんに性別を超えた友情を感じるようになっていく。
男女逆の立場で、本質的には同じ悩みを抱え込む「高槻よしの」との出会いも大きな意味を持つ。
同じ悩みを抱え、理解し合い、そして立ち向かう「同志」を得たことは両者にとって、他の誰との出会いとも違う安心感をもたらしたはずだ。

小学校高学年からお話は中学生へと移り、二鳥くんもよしのも仲間たちと共に成長する。
思春期前夜の心身が「男」に変わり「女」へと変化していく過程で、2人は「普通の男女がブチ当たらない壁」にぶつかる。

「心が女の子」の二鳥くんが、周囲の女の子たちと「姉妹のような関係」を築いていく日々が語られる。

よしのお姉ちゃん。
さおりお姉ちゃん。
かなこお姉ちゃん。
千鶴お姉ちゃん。
安那お姉ちゃん。

みんな、二鳥くんを傷付けようとする周囲の心ない人たちの
「偏見」
「誤解」
「嘲笑」
「不理解」
から「妹を守るように」身体を張って味方する!

「みんな、カッコいいぞ!」と応援したくなる「疑似姉妹物語」ここに開幕!。

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[投稿:2010-06-18 21:52:37] [修正:2010-06-18 21:52:37] [このレビューのURL]

竜馬漫画の最高峰。原作はあの竜馬命の武田鉄矢だ(笑)

多少フィクションも入ってはいるものの、幕末の歴史を詳細に知りたいという方も読んで損はない。
竜馬の幼馴染「人斬り以蔵」こと岡田以蔵がやたらといい奴に描かれているため、処刑シーンは胸がつまる。
でも、もし船酔いが無かったら以蔵も死なずに済んでた・・・・・って訳でもなかろうに。逆に竜馬や海舟といった素晴らしい人物が傍にいたにもかかわらず、たいして影響も受けることなく、どうして武市の道具として使われてしまったのかが謎。考えることが苦手で「剣の腕だけが」飛び抜けていたため、いいように使われてしまったということなのだろうか。
竜馬にはあった政治的な思想というものが以蔵には皆無だった。立場は異なったが武市も思想は持っていた。信念を貫いたものと貫けなかったものと。結果は同じ「死」であっても意味合いは大きく異なると現代に生きる我々にも伝わるものはある。

ところで「加代さん」って実在の人物?

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-06-18 21:50:03] [修正:2010-06-18 21:50:03] [このレビューのURL]

手塚漫画の中でも出色の出来で、漫画界の「金字塔」と言っても過言ではあるまい。

医師免許を持つ手塚先生が在学中に漫画家として生きていくか、医者として生きていくか迷われていたときに当時の恩師が「医師として人を治療することは他の人間にもできるが、漫画で子供たちの心を癒すのは君にしかできないことだ」と言って背中を押して送り出したという・・・・。素晴らしい。やはり天才が世に出てくるにはそれを理解する人間が周囲にいることが不可欠なんだなと、このエピソードを聞いたとき思ったものだ。その恩師の方は「我々」にとっても大恩人だと言えよう。
手塚先生のその後の活躍は言わずもがなだが、この作品ひとつだけでも十分に上記の目的は果たしていると思う。手塚先生の同期の方々は先生のことを「同期の誇りだ」とおっしゃっていた。こんな素晴らしい作品を生み出された先生だが、私はたとえ医師としての道に進まれたとしても多くの方を治療し、尊敬され、成功されたと確信している。

ナイスレビュー: 0

[投稿:2010-06-18 21:43:57] [修正:2010-06-18 21:43:57] [このレビューのURL]

「広島のある日本のあるこの世界を愛するすべての人へ」(コミックス冒頭より抜粋)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
思うに「原爆」をテーマにした漫画って見掛けませんよね。
「はだしのゲン」以外は。

「戦争」をテーマにした作品は多くあるが、世界唯一の被爆国として「ヒロシマ」「ナガサキ」にテーマにした作品がなく、もっと世に出ていて然るべき・・・と考える一方で、いろいろと制約が多いのだろうか?とも思ったものだ。

で、最近になってようやく見つけた「はだしのゲン」以外でヒロシマをテーマにした作品がこれ。

舞台は広島に原爆が投下されてから十年後からスタートする。
すなわち終戦から10年の年月が経過している昭和30年。
広島は少しずつだが復興が進み、そこに住む人々も表面上は明るさを取り戻しつつあるかに見えた・・・・。

13歳で被爆した皆実は、そのときに父と姉と妹を亡くした。
生き残った母親と、疎開先に難を逃れていた弟と、家族は3人になってしまい、弟は疎開先の叔母夫婦の養子となって離れ離れ。今は会社勤めの傍ら、母と2人暮し。

表面上は何気ない日常生活の中に戻ったようでありながら、「あの記憶」は度々皆実を苦しめる。
被爆直後に苦しむ多くの人々を見捨てて走った瞬間を!
死に切れぬ人々の怨嗟の声を!

銭湯で同世代の女性の身体に残る火傷の跡を見るたびに逃れられない悪夢に囚われ続ける自分がそこにいた。

衝撃的なシーンがあるわけではない。
感動的なドラマではない。
歴史上の偉人伝でもありえない。

映し出されるのは「九死に一生を得た」はずなのに、死の恐怖に怯え続ける多くの命のうちのひとつだ。

憧れの同僚から想いを告白され、ようやく幸せを手にすることが出来ると思った時、「10年前に皆実を連れて行き損なっていた死神の大鎌」は戻ってきて皆実を捕らえた。

広島の街に貼り出される「原水爆禁止世界大会」を知らせるビラが夕凪に虚しく飛ばされる。
人は「失敗によって学ぶ生きもの」「学習する生きもの」だと思う。
けれど、幸せを前にして逝くことを強いられた女性を目の前に「人は戦争をもって、原爆を持って学んだのだ」と、口にできようか?

皆実が血の海の中に命を沈めても、夕凪は吹き終わっても話は終わらず・・・・・・・。
「悲しみは止め処ないのだ」。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-06-18 21:40:53] [修正:2010-06-18 21:40:53] [このレビューのURL]