「臼井健士」さんのページ

総レビュー数: 439レビュー(全て表示) 最終投稿: 2010年06月18日

「オクターヴ」。米米CLUBのアルバムのタイトルのようなポップな雰囲気ではない。
アイドルを目指して田舎から上京した少女。幼い頃に思い描いていた「スポットライトを浴びる自身」は売れない現実の前に脆くも砕け散っていった。

失意のまま田舎に帰り、高校に入学したものの下手にアイドルしてしまっていた自分を周囲の同級生たちは好奇の視線でしか見ず、
そして彼女もそんな周囲の視線に耐えられるほどの図太さも持ち合わせていなかった。
逃げるように田舎から都会へと舞い戻り、かつての所属していた芸能事務所でマネージャーとしての再出発を図る自身。
けれど、かつては自分が立つはずだったスポットライトの世界は「自分自身の惨めさ」を強調させるだけの結果になる。

将来の自分に何の希望も見出せない、誰からも自分は必要とされない。
そんな寂しさに全てを見失いかける中で出会った自分と似た境遇の年上の女性。
彼女は女性を愛する人であり、成行きから肉体関係を結んでしまう。
まだ男性すら知らない処女の自分を優しく包み込んでくれたことがこんなにも自分を安心させてくれるなんて。

「女同士の恋愛」。所謂「百合」のジャンルでも珍しい「学生」ではない「社会人」が主人公の作品。
これが学生が主人公なら、ある意味「その年頃特有の熱病的な感情」とでも言うべきもので片付けられもしよう。
だが、この話では彼女たちは「学び舎」という社会の風雨から守られた空間を得ないため、社会という現実の矛盾に晒されてしまう。

それは大人になれば誰しもが味わうであろう「理想とする自身と現実の自身との差(ギャップ)」が埋められないという苦しみである。
本来なら「女性同士の恋愛」に対してもっと抵抗感や嫌悪感があっていいはず。
だが、この作品での主人公は現実の重さに押しつぶされそうになっているが故に、いとも簡単に手にした自身の居場所を抱え込んでしまうのである。
それが「女性同士の恋愛」という本来ならばもっと背徳感の伴うものであったとしても。

「女性同士の恋愛」が学生の間だけで、もしも終わらなかったとしたら、その後の2人はどうしていくのか?
この作品は言わばその「ある種の夢のような綺麗な世界を打ち破る、同性愛の悲惨な現実」を見せてくれているような気もする。
「茨の道。花は少なく、棘多し。」
つまりはそんな作品と考えていただきたいです。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-07-24 22:27:36] [修正:2011-07-23 15:37:55] [このレビューのURL]

10点 石の花

第二次大戦中の旧ユーゴスラビアを舞台に、祖国をナチスドイツに侵攻されたひとりの少年が解放軍に身を投じて戦う姿をナチスによる強制収容所の虐待と合わせて描いていく・・・・。

とにかくナチス関連の漫画では手塚治虫の「アドルフに告ぐ」と並ぶ傑作だと思う。
画の上手さといい資料を元にした歴史的事実の詳細さも特筆。村で平和に暮らしていた少年がいかにして非日常的な戦いに巻き込まれていったのか?、巻き込まれねばならなかったのか?現代日本で日常的生活を送る我々に警鐘を鳴らしているようにも感じる。

「ナチスドイツの蛮行」を強制収容所を舞台にして描いている数少ない作品です。

手塚先生の「アドルフに告ぐ」は強制収容所の様子についてはほぼ触れていませんでしたから。
それを知る意味でも、一読の価値のある作品と思われます。
それにしてもナチス将校の外道ぶりは・・・正に「人の皮を被ったケダモノの如し」です。

現在ではそれぞれが独立したことで「完全消滅」してしまった旧ユーゴスラビアの複雑な立場。
これじゃ・・争いが起こるのもやむなし・・・と納得させるものがあります。

「人が人として扱われないこと」がいかに悲しいことであるのか。いかに悲惨なことであるのか。
そしてこの漫画はこれがつい半世紀ほど前にあった事実なのだと読者に突き付ける。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-06-07 12:36:45] [修正:2011-06-07 12:36:45] [このレビューのURL]

「闇金」。法律で定められた利率以上の法外な金利での融資貸付を生業とする金融業者である。
いつの世にもどんな場所にも「金遣いにだらしない人間」という奴はいるのである。

丑嶋社長が営む「カウカウファイナンス」には今日もあちこちから借金をしまくり、
もうこれ以上の借金が出来なくなった不良債務者たちが集まる。
社会の底辺に位置する彼等に丑嶋社長は金を貸す。

利息は「10日で5割」という法外なもの。それでも連中は金を借りていく。
他に貸してくれるところがないからである。

金の使い道はそれぞれ。大抵がギャンブルの借金返済だったり、ギャンブルの軍資金だったりする。
そしてそれらは大抵はアブク銭となり、彼等の借金は増え、やがて非情なまでの追い込みが入る。

彼等の共通点は「現実を見ずに自分たちの都合のいい想像の世界に逃避している」ということ。
ギャンブル狂いの主婦も、見栄っ張りなOLも、ニートの男も、自分に都合の悪い現実は直視しようとしない。
それが坂を転げ落ちる原因である。
丑嶋はそんなクズ連中から情け容赦なく金を奪っていく。「身から出た錆」。連中に対する同情は不要。
なぜなら連中は「借金することがクセ」になってしまっているから。
「馬鹿は死んでも直らない」というが、正にその通りである。

これはまだ馬鹿でない人間を転落させないための「現代の転ばぬ先の杖」とも言うべき書物。
「心に痛みを感じて読めたなら」まだ人間だ!

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-04-17 21:10:50] [修正:2011-04-17 21:10:50] [このレビューのURL]

冴えないように見えながらも犯人検挙率ナンバーワンの刑事と暴力団の若頭の男。
実はこの2人は幼馴染。自らの恩師を殺害した事件を隠蔽した警察組織の男に裁きの鉄槌を下すため、
協力して犯人を追っていた・・・・・。
そう・・奴等は復讐に燃える「二匹の龍」(ウロボロス)だったのだ・・・・。

最近では珍しい刑事ものの漫画です。昔はよくあったと思う題材ですが、最近は流行らないのか
パッタリと見掛けなくなりましたね。
絵は綺麗で確かに見やすいです。ですが、「謎解き」を主題にしているわけではなく、
理不尽な犯罪を起こすものたちに裁きを下す内容の為、有無を言わずに「撃ち殺す」率高し!

そのため、コミックスがすぐに読み終えてしまえます。
内容があまり感じられず、復讐しても「爽快感」もない。
掲載誌の作品中では読めるほうではあるんでしょうが・・・イマイチ。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2011-01-08 18:52:37] [修正:2011-01-08 18:52:37] [このレビューのURL]

名作であることに間違いはないと思います。画力も極めて高い。
東西冷戦下の影響を受けた世界観。
日米の協力で造られた最新鋭の原子力潜水艦が日本人乗員と共に出航する。
が、艦長「海江田四郎」以下、下士官に至るまでが反乱を起こして原子力潜水艦「シーバッド」を乗っ取り、「大和」を名乗って独立宣言を世界に放つ!

一隻の原子力潜水艦が核の傘下の世界情勢さえ左右するようになる。
やがて世界は大国主導から「世界政府」成立へ向けて大きく舵を取ることになるのだ・・・・。

全編を通して、海中での潜水艦「大和」のバトルと、政治部分の駆け引きが互いに影響を与える展開が秀逸だと思います。

そしてその渦中にあるのは名艦長「海江田四郎」。
潜水艦「大和」の性能が世界最高!とは言っても、操縦するのは人間であり、大和の性能を活かすも殺すも彼等乗組員次第なのは言うまでもない。

だからこそ際立つ「海江田艦長の凄み」。
好きなセリフは士官学校時代のライバルの潜水艦「たつなみ」艦長の深町と共に米国艦隊の攻撃を受けたとき、たつなみの巻きぞいでやられると叫ぶ部下に
「大丈夫だ。深町は(敵の攻撃を)かわす。」
と諭したシーン。

ライバルの実力は自分が誰よりも知っている!と断言したわけです。
ライバルの力を知っているからこその信頼です。

2人の関係がこのシーンだけで分ります。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-20 23:34:45] [修正:2010-12-20 23:34:45] [このレビューのURL]

日本史の漫画として「最上作品」と思います。
全30巻にも及んだ「風雲児たち」を途中で投げ出すこともなく、ようやく当初の予定通りの「幕末編」に仕切り直して突入しました。

基本的にこのシリーズは「ジョジョの奇妙な冒険」シリーズのように時代が変わる度に主人公も次々と代替わりするのですが、最終的な中心人物は「坂本龍馬」になると当初から決まっていたようです。

確かに昨今の龍馬ブームを置いても、シリーズの花道を飾るに相応しいと思います。

これほどの作品、もっと売り上げがあっていいと思いますね。
知名度の絶対的な不足・・・・・・・。
コアなファンでないと気付けない作品にこそ「いい作品」があるということなんでしょうか。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-11 18:47:45] [修正:2010-12-11 18:47:45] [このレビューのURL]

10点 徳川家康

横山先生の歴史漫画の中でもなんと最長の全8巻を重ねているのが、徳川260年の世を築き上げた「徳川家康」である。
実は学研などの学習漫画以外で「徳川家康」を主人公に描いている漫画作品は他になく、この作品が一応の決定版といってよい出来であろう。

彼の生涯は常にナンバー2であることとの戦いであった。
幼少時から織田家と今川家との2強国の間に挟まれた小領主・松平広忠の嫡男でありながら、人質として今川家に送られる最中に
家臣の裏切りから敵の織田家に攫われる身となった。その際に後に同盟を結ぶこととなる織田家の嫡男・信長と面識を持つ。
人質交換で駿河の今川家にようやく送り届けられたものの、父・広忠は家臣の裏切りに遭い暗殺された。
母・お大の方とも暮らせず今川家でも屈辱の日々を過ごす。

この幼少期の苦労の日々は西の戦国大名・毛利元就と似通った点が多い。

ようやく今川家の当主・義元が桶狭間で信長に討たれたことで自由の身になり、跡継ぎの氏真が不甲斐ないと見るや、今度はさっさと信長と同盟を結んだことが徳川家の発展の足掛かりとなった。
将軍・足利義昭を奉じて上洛する信長にとって、西の脅威からの防波堤という意味でも家康との同盟は大きな意義があったのだ。
けれど、それは信長と敵対する諸勢力を全て敵に回すことにも繋がった。特に戦国最強と言われた甲斐の武田信玄と領国を接せねばならず、常にその脅威に晒され続け、
信玄上洛の際の三ヶ方原の戦いでは生涯を通じての大敗を喫することになる。
さらに同盟関係といいながらも信長との国力差は次第に歴然とするようになり、駿河・遠江・三河の3ヶ国をようやく支配下に収めるものの
嫡男と正妻を謀反の疑いから切腹・暗殺せねばならなくなる。

一大転機はその信長が「本能寺の変」で天下統一を間近にしながら殺された事。常に信長の前に2番手であらねばならなかった身がようやく
重石を除けて、天下統一への後継者の座を得ることも出来るはずだった。
しかし、時流に乗って天下統一を進める羽柴秀吉に遅れを取り、小牧・長久手の戦いでは互角以上の力を秀吉に見せ付けたものの、巧みな秀吉の外交手段によって徐々に
戦う意義を失っていく。そして、秀吉への臣従。隠忍自重の日々であった。

豊臣政権の重鎮となった家康だが、秀吉は小牧・長久手の戦いで敗北を味あわされて以来、決して家康に心を許してはなかった。
慣れ親しんだ東海の地から後北条氏の旧領である関東八州を恩賞に得て、石高では260万石を超える大大名となったが・・・・、
新領地を治めるのは困難。北には上杉家・伊達家が控え、秀吉の朝鮮出兵も迫っていた。

家康について数多くの書物が「その腹黒さ」を殊更に強調するのは秀吉死後から関が原の戦いを経て大坂の陣へと続く時期についてだろう。
関が原の戦いの勝利から大坂の陣までは実に14年もの年月の隔たりがあり、その間は家康は何をしていたのかは意外と知られていないと思う。
この作品ではその間についても詳細に描いているのだが
・表面上は大坂と江戸で2元政治体制となり、平和の日々のようでありながら諸国には戦で立身出世を願う浪人が溢れていた。
・オランダ・イギリスVSスペイン・ポルトガルという対抗関係が日本の国内でもキリシタンを通して代理戦争の呈を成していた。
・家康側近と将軍・秀忠側近との権力争いによる幕府内部の粛清。
・伊達政宗が家康の六男・松平忠輝を擁し、イスパニアの援助を得て政権を奪取しようと目論んでいた。

・・・・というように内憂外患であったようだ。
特に家康は「大坂城の豊臣秀頼を潰すために数々の無理難題を吹っ掛けた」とされることについても、この作品では大坂方との争いを避けたいと願う
家康の苦肉の策であったとされている。
家康は豊臣家に戦いを起こさせないために、豊臣家の領土を削り、寺の修理を提案して軍資金を枯渇させ、それでも浪人たちが大坂城に希望の灯を見ているとみるや、
秀頼を大坂城から退去させて大和へと国替えさせようとする。
将軍家が武家の棟梁ならば、秀頼は公家の棟梁とすることで両家の存続を思い描いていたらしいのだが・・・・果たして真実はどちらだろう?

性善説に取れば、家康の度々の苦心にも関わらず家康の意思は大坂城の秀頼・淀の方親子には伝わらず、戦いに雪崩れ込み遂には豊臣家は滅亡した。
性悪説に取れば、残り少ない寿命を感じた家康は徳川政権の安泰を願って「国家安康 君臣豊楽」の方広寺の銘に難癖を付けて、豊臣家に戦いを吹っ掛けて
滅亡に追い込んだとも考えられる。
そして、専ら世に広く伝えられているのは後者であろう。

しかし・・・家康は最初にも書いたように「戦国時代の悲惨さ・惨さ」を人一倍味わっていた身でもあったはずだ。
幼い頃から父母と別れ、人質としていつ殺されるかも知れぬ身。同盟者であるはずの信長の圧力の前に嫡男と正妻を殺さねばならなかった日々。
そんな彼が既に徳川幕府に対してさしたる脅威とも言えないほど無力な立場となった秀頼を謀略の末に勝てぬ戦いに引きずり出す必要などあっただろうか?

「徳川家康」=「タヌキ親爺」というイメージは関が原の戦い以後の家康晩年の姿ばかりを強調した実は極端な姿に他ならないと思う。
徳川家康という信長・秀吉に比して地味な戦国最後の勝利者に対する誤解を改めるための一助となるべき書物かもしれない。
ぜひともご一読を。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-07 21:24:13] [修正:2010-12-07 21:24:13] [このレビューのURL]

武田勝頼を描いた漫画はおそらく現在に至るまで「この作品」だけだと記憶している。

ハッキリ言って「戦国の英雄のひとり」である父・信玄よりも、悲劇的な滅亡を迎えた勝頼のほうがその生涯に心惹かれるものがあります。
おそらく多くの方が疑問に感じているのは、なぜ「戦国最強軍団」を父・信玄から引き継いでおきながら、信玄の死後僅か10年で滅亡してしまったのか?ということでしょう。父・信玄の偉大さが際立つほどに「この息子の滅亡」は違和感を持って現代に生きる我々に伝わってきます。

「滅亡」という結果から勝頼は「家臣の言うことを聞かず、たびたび出兵を繰り返しては国力を低下させ、ついには自滅の道を歩んだ愚将・・・・」というような評価が現代において定着してしまっています。
けれど、勝頼は決して駿河の今川義元の後継者「今川氏真」のような暗愚な人物では無かった。父・信玄ですら落とせなかった徳川の支城を陥落させるなどし、織田信長も常にその動向には注意を払っていたし、暗愚な人物ではいくら「信玄の遺産」ともいうべき強力な家臣団があっても10年に渡って国を維持することなど出来ない。

凋落の大きな転機になった「長篠の戦」ですが、どうも諸説あってハッキリしない部分があります。
と、言うのも定説では勝頼が「老臣たち」の無理な戦いは避けて引くように、という忠告を無視して鉄砲隊に次々と突撃をかけたための大敗・・・・ということになっていますが、実は(突撃は)信玄以来の老臣たち(馬場信春・内藤昌豊・山県昌影ら)も「賛成して」の納得ずくのものだったという説があり、この説だと信玄以来の百戦錬磨の老臣たちさえも戦いには勝てると思っていたということになります。とするなら、勝頼1人に大敗の責任を押し付けるような定説は誤りということで、百戦錬磨の老臣たちの上を行く信長が凄かったと言うべきでしょう。

ともあれ、武田は前述の「長篠の戦」以降は急速に力を失っていくことになり、もはや国力からも人材からも単独では織田家に対抗することは困難になっていった。現代の視点からの結果論だと言えばそれまでですが、この後の勝頼は外交上で大きなミスを犯すことになります。
当時の織田家に対抗する上で織田家にとって不利な点は何か?・・・と考えていくと、信長は常に東と西とに敵を抱えた「両面作戦」を強いられるという点です。つまり総兵力では10万以上の織田軍も武田だけにその10万の兵力を注ぎ込むことは不可能だった。しかも信長の味方は実質・徳川家康だけです。その他は全て敵と言っても過言ではない。そこで武田としては中国の毛利家・四国の長宗我部家・そして背後の北条氏と北の上杉氏、さらにここに石山本願寺を加えた五勢力と連携して東西から挟撃することでまだまだ十分に信長打倒を成し遂げることが出来たはずだ。
しかし・・・・勝頼の判断は不可解。まず父・信玄の死後、宿敵・織田信長が最も警戒し恐れていたことは確実な越後の「上杉謙信」と何故か同盟を結んでいない(←理由不明)。信玄の死後の反織田信長連合の盟主はどう考えても謙信しかいないのに、勝頼が謙信を頼った形跡は見当たらない・・・。そうこうしているうちに上杉謙信も深酒が過ぎたためか、柴田勝家率いる織田軍を蹴散らしたのにあっけなく世を去ってしまう。信長にとっては限りなく幸運で、勝頼にとっては不運である。
問題は実子のいなかった上杉謙信の後継者を巡って、謙信の甥「景勝」と北条氏康の息子で当主・氏政の弟に当たる「景虎」との間で戦いが始まったことだ。北条と同盟関係にある武田としては当然のように氏政の弟に当たる「景虎」に味方し、景虎勝利の暁には武田・上杉・北条による「甲・越・相三国同盟」が成立することを期待したはずだ。そうなれば、背後を気にすることなく織田と対陣することが出来、捲土重来の最後のチャンスだったことだろう。

だが・・・・現実には勝頼は景勝からの「黄金の贈り物」に目を奪われて兵を引いてしまう。景虎は景勝に攻められて自害し、弟を見殺しにされて怒った北条家との同盟も破棄、両国は敵対関係になる。「越・甲同盟」は成った・・・。しかし、本来なら「三国同盟」になるはずだったことを考えれば「目先の黄金に目が眩んで自滅の一手を打った」と言って間違いあるまい。この同盟を結んだ景勝は織田家の甲斐侵攻の際は、一向宗の門徒と交戦中で勝頼に援軍を派遣出来ず・・・・・で全く同盟として機能しないまま終わり、結果として景勝だけが得をしたという勝頼にとって無意味なものに。

最後は10万の兵を以って、織田・徳川・北条の3家から同時攻撃を掛けられて滅亡していく勝頼。
哀れなのは、5万は一応居た最後の武田軍が離散に次ぐ離散で新築の「新府城」を焼いて北へと落ち延びたときにはなんと数十名に激減していた(!)という信じられないような事実。まるで櫛の歯が欠けていくように昨日まで勝頼の身辺で支えてくれていた家臣たちから見放されていく様は、日本史上を見渡してみても他に類を見ない。
父・信玄の従姉弟で娘婿でもあった「穴山梅雪」は徳川家康の甲斐侵攻の道案内役を務め、同じく信玄の娘を娶っていて勝頼の義弟に当たる「木曽義昌」は新府城建築の過酷な労役から勝頼を怨み織田家に寝返って滅亡の引きがねを引くことになるなど、本来なら最後まで仕えるべき身内であるはずの親族衆が、いの1番に裏切りに走っているのが大きな特徴だ。信玄の末の弟で「影武者役」でもあった信廉も戦わずして勝頼を見捨てて織田に降伏。

最後の最後まで付き従ったのが「小山田信茂」と「真田昌幸」(真田幸村の父)なんですが、勝頼は譜代ではない真田よりも小山田を信用したほうがいいという家臣の忠告を聞いて真田と別れて小山田の居城・岩殿城へ入ろうとするも小山田の裏切りに遭い、とうとう進退窮まって自害することになります。
で、このことから「悪者」としての評価が定着した「小山田信茂」なんですが、実は彼はもともと武田家の家臣ではなく「郡内一国の主」で武田とは単に「同盟関係」にあっただけという説があります。
とするなら彼の行動は自国を守るための領主としての当然の行為であって「裏切り」でも「謀反」でも無いということになります。また、彼が勝頼一行に鉄砲を撃ちかけたとされていることも、資料としてはどこにも確認は出来ないそうです。名門・武田家の最後を美化するために「悪者にされてしまった」可能性は大だと思います。
それと勝頼と別れた真田昌幸ですが・・・・こっちもヤバそうです。と、言うのも昌幸は勝頼が自害した翌日付で北条家からの「仕官承諾書」を受け取っているのです(!)。つまり、昌幸も前々から「裏切り」のための行動を取っていたということの何よりの証拠になります。勝頼側近が心配した「譜代ではない真田をあまり信用されては・・・・」の心配もおそらくは当たったことでしょう。

どちらにしてももう勝頼にとっては「八方塞がり」だったわけで、旧暦の真冬の山中で寂しく死んでいく勝頼一行を父・信玄がどのような気持ちで見ていたのかが非常に気に掛かるところです。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-07 21:16:34] [修正:2010-12-07 21:16:34] [このレビューのURL]

ガンダムでまともに観たのはファーストだけなんですけれど、なんだかんだと言っても後々のロボットアニメに与えた影響は絶大。

その漫画版の中で「正統」なのがこれでしょう。
もっと早く描くべきだったとは思うのですが。
アニメを基本的にはベースとしながらも漫画版だけの独自シーンが多数追加されており、ファンならずとも見逃せませんね。

ストーリー的にはファーストは「シャアの復讐劇」に尽きると思う。
父「ダイクン」を政敵・ザビ家に殺され迫害されたカリスマの忘れ形見。
従順という名の仮面に隠された素顔はザビ一族の謀殺を目論む策士・・・・・・。
しかも決して「己の策に溺れぬ慎重さと狡猾さとを併せ持つ。」

戦場を駆け抜ける「赤い彗星」にある者は畏怖し、ある者は憧れにも似た念を抱き、またある者は彼の神話を形成するための生け贄となった。

亡き母の面影を持つ女性・ララァと出会いながらも、奇しくも彼と同じ感情をララァに寄せるライヴァル・アムロとの戦いの末に彼女はシャアを庇って戦場に散った。

ライヴァル・アムロとの決着も妹・セイラの仲裁により付ける事は叶わず、最早シャアに残されたのはザビ家の血統を絶つことだけだった。

戦艦・ザンジバルと共に敗戦が濃厚な要塞を脱出しようとする「ザビ家の死に損ない」に世話になったことの敬礼と共に引導を渡す。

「ガルマ、姉上と一緒に天国で仲良く暮らすといい!」

かつて自分が謀殺した「死の直前まで自分を信じ切っていたお坊ちゃん」に対するせめてもの彼なりの「侘び」のつもりだったのか?

アムロ以上に作品を牽引したのは「敵にしても味方にしてもその心を窺い知る事が出来ない赤い彗星の孤独」にあったのだ。

カリスマは死なず。後の世にても騒乱の引き鉄となる。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-05 10:08:36] [修正:2010-12-05 10:09:25] [このレビューのURL]

この作品がジャンプの後のほうのページにありながらもコミックスで通算して15巻も続いたのは、ひとえに作者の「基本的にはハッピーエンドで物語を終わらせる」という姿勢にあると思う。

確かに読み通してみて気付くのは、最後は「善人が幸せになる」という結末が基本であるということ。
一例を挙げると、男の子が飛び込んだボールを捜して古びた洋館に迷い込むのだが、そこで糸に捕らえられた女の子と出会う。女の子を助けようとする少年だが、謎の女が現れて2人を捕らえようとする。

必死の思いで館を脱出した少年はわれにかえる。館は何処にもなく、少女も女も煙のように消え去っていた。
あれは夢だったのか・・・と思った少年が見付けたのは蜘蛛の巣に引っ掛かってもがいている蝶。
少年が蝶を助けてあげると、蝶は感謝するかのように少年の周りを飛び回って去っていく。
あの館での出来事は囚われた蝶が助かりたい一心で見せた幻だったのだ・・・というラストシーン。

上記の話に作者が自ら「実はラストシーンはもうひとつ考えたものがあった」と明かしている。
それは「少年が館で女に捕らえられ、現実では少年を探しに来た仲間が蜘蛛の巣で蜘蛛に喰われている少年を発見する・・・・・」というものだったらしい。
けれど、そのラストシーンは採用されなかった。作者は続けて書いている。
「そんな(悲惨な)ラストに何の意味があるだろう?」
「自分は読者にそんな思い(後味の悪い気持ち)を抱かせたくはなかった」と。

・・・・この姿勢は作品を通してほぼ貫かれていくのだが、「成功」の要因もそこにあったんだろう。
たまにミザリィの不思議グッズを悪党が手に入れて、悪用したりするのだけれど、最終的にはいずれも例外なく「上手く使いこなすことができず、悲惨な末路を迎える」。
バッドエンドの話もあるのだが、悪い目に遭うのは「悪党のみ」で「善人は悲惨な目に遭うことは基本的になし」。
怒らせると怖い案内人の「ミザリィ」も、悪人には強烈なお仕置きを食らわせても、善人を陥れたりは決してしていない。
このハッピーエンドと、たまに挿入されるバッドエンドの話の比率が「7対3」もしくは「8対2」くらいの印象で、「匙加減」が絶妙だった。

大体の読者は物語は「ハッピーエンド」のほうが好印象を抱く傾向にあるというデータも出ている。
「バッドエンド」のほうが印象は強烈なものとなって心に刻み込まれるものらしい。
ただ、バッドエンドだと読後感は当然良くはならないので、ある程度の批判や悪評も覚悟せねばならないだろう。

漫画に限らず映画でもゲームでもドラマでも制作する側は「この事実」を良く認識して制作をすると、好評を得られる作品を作りやすいのではないかと思う。
この作品は上記を実践して、「実際に成功を収めたモデルケース」と自分は考えています。

ナイスレビュー: 1

[投稿:2010-12-04 18:53:45] [修正:2010-12-04 18:53:45] [このレビューのURL]